クリント・イーストウッド『ガントレット』を再見しました。


『ガントレット』(1977、アメリカ)
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脚本:マイケル・バトラー&デニス・シュリアック
監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド、ソンドラ・ロック、パット・ヒングル、ウィリアム・プリンス


痛快な場面の多いこの映画は「アクション映画」と括られがちですが、本当にそうでしょうか。いや、間違いなくアクション映画なんですけどね。

この映画を語るときに多くの人がクライマックスの「やりすぎ感」を前面に出してきます。

汚職に手を染めている市警長官が証人の女を殺してしまおうと、飲んだくれの無能な刑事を護送役に任命するという物語そのものが「ウソみたい」なんですが、それ以上に、クライマックスでは鉄板で固めたバスに乗った二人が市庁舎へ向けて玉砕覚悟で特攻し、長官の命を受けた警官隊が無数の銃弾を浴びせる。

人々はそこがおかしいという。なぜタイヤを撃って止めないのか、と。いや、タイヤは撃たれてるんですよ~~~。


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ほらね。

でも、それならなぜ市庁舎のすぐ近くまで行ってからパンクするのか、ご都合主義じゃないか、という声が聞こえてきそうです。それに、長官が撃たれるときに誰も止めないのはおかしいという人もいるでしょう。

そうです。

蓮實重彦や彼に影響を受けた多くの人々がこの映画のご都合主義を指摘し、しかもそれを讃美するんですね。「ご都合主義こそが映画を面白くする」みたいな。

そこまでいかなくとも、「この映画はよくわからない。疑問がたくさんあるのにとても面白い。いったいなぜなんだ」とか。

私も同じことを思いますが、どうも人々は「ご都合主義なのに面白いのはどうして?」「こんな変な傑作を撮ってしまうイーストウッドはやはり天才だ」というだけで事足れりと思っているようで、私はそこが我慢ならないのです。


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何よりも『ガントレット』はこの二人の「ラブストーリー」のはずです。そして、二人ともが真人間として自分の魂を再生させる人間ドラマでもあります。

この『ガントレット』が、一人の男がひょんなきっかけから一人の女と出会い、いがみ合いながらも次第に打ち解けて本気の愛で結ばれるまでを描いた典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール映画」だという言説を私はいままで一度も読んだことがありません。

負け犬の汚名を返上しようと最後の意地を見せる男と、彼への一途な愛を貫こうとする女の愛情物語でなくていったい何なのか。「作りが変なのに面白いのはなぜか」というところで思考停止している感想ばかりなのはなぜなのか。

モーテルで女が、母親に電話をかけて間接的に男にプロポーズする非常に印象的な場面に言及する言説を私は寡聞にして知りません。

ある脚本家が、

「世界中の脚本家が『愛してる』と言わずに愛を伝えるセリフを年がら年中探している」

といっていましたが、あの場面はまさにそういう場面でした。

もう一度言いますが、『ガントレット』はアクション映画である前に「ラブストーリー」です。


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この画像は、序盤で女が男の拳銃を奪おうとウソのキスをするところですが、この二人は劇中でただの一度も本気のキスをしません。クライマックスの特攻直前に「まだあたしと寝たことないくせに」「楽しみにしてるよ」という会話もあります。

肉体の愛を交わさない純愛物語。

バス内で、結婚したらどんな家に住もうか、子どもは何人ほしい、庭はどうしよう、部屋のインテリアは…という会話をする場面で女は突如口ごもります。

死ぬかもしれないからです。実際、男の唯一の味方だった同僚刑事は殺されました。自分たちもいままさに死へ向かって突進している。死ぬ前に描く「未来予想図」は見ているこちらのほうが哀しくなってしまうほど哀しい。

泣きそうになった女に男は微笑んで手を差し出します。女は強く握り返し、頬をすり寄せる。


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この場面ほどエロティックで艶めかしく、そして何より美しいラブシーンを私は知りません。切なすぎるほど切なくて、同時に心温まる名シーンです。

男はこの時点で負け犬の汚名を返上できたと私は思います。涙を見せる女に微笑みだけで安心させてあげられるのは「男の中の男」といっていいでしょう。

以上のようなことをまるで「なかったこと」にしてしまうような表層批評家たちの言説にははらわたが煮えくり返ります。

あなたたちは本当に『ガントレット』を見たのかと声を大にして言いたい。


ガントレット(字幕版)
パット・ヒングル
2013-06-01


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