スコセッシ監督の『沈黙/サイレンス』についての感想続編です。

前回の記事
映画は心の中を映せるか 

さて、続編の今回は「マスターショット」について。

17ce37d1
f157c8a8
 
主人公より先に日本へ布教に行った司祭が棄教したとの知らせを受ける場面。この場面はマスターショットがまったくなかったはずなんです。

もう25年ほど前になりますが、『スコセッシ・オン・スコセッシ』という本が出ました。直近の『グッドフェローズ』までの全作品についてスコセッシにインタビューした聞き書き本の名作です。

この本の中でスコセッシが撮影現場において最も重視しているらしいのがマスターショットなんですね。私は監督をしたことがないのでよく知りませんが、映画監督なら誰でも重視するものなんでしょうか。

それはともかく、スコセッシはこのインタビューで、「この場面はマスターショットから撮る」とか、逆に「この場面はマスターショットなしで行こうと思った」などとマスターショットに異常なまでのこだわりを開陳していました。

マスターショットといえば私の場合、どうしても思い出されるのが深川栄洋監督による大傑作『半分の月がのぼる空』なんですね。



93e4c3bb89293a91fb00cdc7ff117750

この映画には物語上ある秘密が隠されていまして、終盤に明かされて驚愕するんですが、とても大切な情報を隠している、だから視覚的にもマスターショットを撮らないことでその場所全体を観客に見せない。物語の秘密が明かされるとアッと驚くと同時に、その後はマスターショットのある普通のシーンの連続になり、視覚的にも「晴れた」感じになるんですね。

ああいうのを「映像演出」というんだと痛感させられました。

17ce37d1
f157c8a8
 
この切り返しだけで構成された『沈黙/サイレンス』のこのシーンでは、映像演出におけるスコセッシの「意図」がまったくわかりません。ただただ、場所の全体を見せてくれないのでイライラが募っただけでした。

どうも、スコセッシは敬虔なクリスチャンだからか、題材への思いが強すぎて何をどう見せていいのかわからなくなってしまったんじゃないか、というのが私の推測です。

『最後の誘惑』も支離滅裂な映画でしたし。




 
このエントリーをはてなブックマークに追加