今日は美術館で津軽三味線のライブがあるというので高橋竹山の大ファンである私は跳ぶようにして聴きに行きまして、まぁ無料だから大したもんではあるまいと思っていたんですが本当に大したことなくて、口直しにとばかり、ちょうど展示中だったハナヤ勘兵衛という写真家の写真展を見てきました。

これが一番の代表作らしいです。タイトルは『ナンデェ!』といって、今回の展覧会のタイトルも「ハナヤ勘兵衛の時代デェ!」といいます。
でも私はこういうトリッキーな、というか、オプティカル処理をした写真が好きじゃないんですよね。
母が昔から趣味で水彩画を描いてまして、たまに「なぜここをこう描いたのか」と問うと、「だって実際の風景がそうなっていたから」というんですが、いや、それは違うでしょ、と。
実際の風景がどうなっていようと、絵として美しくない/面白くないのはダメなのだから、美しく/面白くなるように変えて描かなきゃいけないと思うんですよ。
写実主義なのはいいんですが、写実主義だけが絵画だみたいな思想はよくないと思います。
写真が発明されたとき、「絵画は早晩滅びるだろう」と言われました。でも滅びなかったのは、写実を超えたもの、つまりフィクションを描けるからだと思うんです。
神話や伝説が生まれたのだって現実を生きるだけでは飽き足らなくなってフィクションを生み出したわけでしょ。いや、言葉をもってしまったからフィクションが作られたのか。フィクションを作ってしまったから現実だけでは飽き足らなくなってしまったのか。
そのへんは偉い学者さんにお任せすることとして、写実にこだわる絵画はよくないということに戻ると、逆に写真は写実主義であってほしいわけです。
オプティカル処理で上の画像のような「フィクションとしての写真」を見ても私は嫌悪感しか感じません。写真を撮ったんじゃなくて捏造している。
今日の展覧会でいえば↓やっぱりこういうのがいいですね。↓


↓こういうのも味があります↓

本当は『芦屋雨情』と題された写真が一番よかったんですけど、どこをどう探しても画像が見つかりませんでした。
あと『無題』という題の、ダンサーの踊りを捉えた写真。アンリ・カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」を思わず思い出してしまう作品でした。決定的瞬間って「究極の写実主義」ですよね。
美術館を出て、裏がすぐ海なのでハナヤ勘兵衛に倣って神戸の海を撮ってみました。

どうでやんしょ? やっぱり才能ないですかね。


これが一番の代表作らしいです。タイトルは『ナンデェ!』といって、今回の展覧会のタイトルも「ハナヤ勘兵衛の時代デェ!」といいます。
でも私はこういうトリッキーな、というか、オプティカル処理をした写真が好きじゃないんですよね。
母が昔から趣味で水彩画を描いてまして、たまに「なぜここをこう描いたのか」と問うと、「だって実際の風景がそうなっていたから」というんですが、いや、それは違うでしょ、と。
実際の風景がどうなっていようと、絵として美しくない/面白くないのはダメなのだから、美しく/面白くなるように変えて描かなきゃいけないと思うんですよ。
写実主義なのはいいんですが、写実主義だけが絵画だみたいな思想はよくないと思います。
写真が発明されたとき、「絵画は早晩滅びるだろう」と言われました。でも滅びなかったのは、写実を超えたもの、つまりフィクションを描けるからだと思うんです。
神話や伝説が生まれたのだって現実を生きるだけでは飽き足らなくなってフィクションを生み出したわけでしょ。いや、言葉をもってしまったからフィクションが作られたのか。フィクションを作ってしまったから現実だけでは飽き足らなくなってしまったのか。
そのへんは偉い学者さんにお任せすることとして、写実にこだわる絵画はよくないということに戻ると、逆に写真は写実主義であってほしいわけです。
オプティカル処理で上の画像のような「フィクションとしての写真」を見ても私は嫌悪感しか感じません。写真を撮ったんじゃなくて捏造している。
今日の展覧会でいえば↓やっぱりこういうのがいいですね。↓


↓こういうのも味があります↓

本当は『芦屋雨情』と題された写真が一番よかったんですけど、どこをどう探しても画像が見つかりませんでした。
あと『無題』という題の、ダンサーの踊りを捉えた写真。アンリ・カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」を思わず思い出してしまう作品でした。決定的瞬間って「究極の写実主義」ですよね。
美術館を出て、裏がすぐ海なのでハナヤ勘兵衛に倣って神戸の海を撮ってみました。

どうでやんしょ? やっぱり才能ないですかね。

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