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相田みつをが嫌いな理由(無意識なウソとは無縁でありたい)
今日、会社の倉庫に相田みつをの詩が書かれた色紙が飾られているのを見つけました。こんな詩でした。
少しも面白くないですね。なぜこんなものが会社の倉庫の奥に貼ってあるんだろうと疑問でしたが、それはまた別の話。
いまも昔も相田みつをは嫌いですが、どうも理由が変わったような気がするんです。前回の記事では「無意識なウソだからいや」みたいなことを書きました。それが変わったというか、思い違いをしていたというか。ほんとの理由に気づいた気がしまして。
よく「この映画のテーマは何か」なんて議論がありますが。見た人同士でそういう話をするのはいいと思いますが、作者に対してテーマは何かと聞くのは非常に馬鹿げたことだと思っています。
だって作者にだってわかってないから。何とかなく曖昧模糊とした「こんな感じのこと」を言おうとしたのかな、というのはあっても、はっきり言葉になんかできるわけがありません。言葉にできないから映画にするわけで。
それは言葉を手掛かりにした文学だってそうでしょう。言葉を使って言葉では言えないことを言おうとしている。特に俳句なんかそうで、
「夏草や 兵どもが 夢のあと」
という句に芭蕉がこめた想いなど芭蕉自身にすら言葉にできないはずなんです。
テーマはこれこれこういうことである。ともし言えるなら、映画館の前でその言葉を書いた色紙をお客さんに配れば事足りる。
相田みつをがやってることって、まさにそういうことですよね。路上でくだらない言葉を売ってる自称詩人と何ら変わらない。
確かに想いは伝わるでしょう。別に間違ったことを言ってるわけではないし、むしろ正しい。でも、「作品」とは言葉にできないことを何とか他の手段で伝えようと四苦八苦した末に実った果実のことなのだから、これらの言葉は「作品」ではありません。
問題は、独特の筆使いから描かれる独特の字体で書かれているということです。それがゆえに、あたかも「作品」であるかのように感じられてしまう。それが気に入らないのです。
そう、相田みつをは作品を作る「作家」ではなかった。言葉にすがる「凡庸な思想家」でしかなかった、というのが私の主張です。
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