敬愛してやまないウディ・アレン先生の新作『教授のおかしな妄想殺人』見てきました。


『教授のおかしな妄想殺人』(2015、アメリカ)
脚本・監督:ウディ・アレン
出演:エマ・ストーン、ホアキン・フェニックス


前日に予告編を見たんですが、何だか本編の内容とビミョ~~~に違うんですよね。内容というか構成が。

本編では、ホアキン・フェニックス演じる哲学科の教授が自殺願望に囚われているんですが、彼がふとしたきっかけである悪徳判事を知り、そいつを殺すことを思いつく。動機がないから捕まらないし世直しにもなる。ということで実行するんですが、そこから話は二転三転し…という内容。(だから「妄想殺人」でも何でもないんですがね)

予告編でも前半、つまりホアキンが自殺願望に憑りつかれていて…というのはいいんですけど、そこからの展開がちょっとおかしくないですか?




これでは、ホアキンが突然変わって、さてそれにはいったいどんな理由が…? という内容に見えますよね。

確かにエマ・ストーンの視点から見ればそうなんですけど、本編を見ている観客はエマ・ストーンより知っている情報が多いわけですよ。逆にホアキンと観客の情報量が同じ。つまり、なぜホアキンが変わったかを観客は知っている。

だから、この予告編の作り方はおかしいと思うわけです。

が、しかし…

少なくとも本編の内容を捻じ曲げて伝えようという悪意は感じられませんでした。だから別にその是非はどうでもいいのです。

問題は、この間違った予告編の構成で描いたほうが面白くなった気がする、ということです。できあがった映画はウディ先生にしてはあまりにヒネリがありません。エマ・ストーンが知っている情報量と観客が知っている情報量を常に同じにしておく戦術のほうがよかったんじゃないかと。

そうすれば、エマが考える「ホアキン先生、まさか殺人なんて馬鹿なまねは…!?」というのが妄想なのか、それとも現実なのか、つまりホアキンは殺人犯なのか否かで引っ張れるし、そうしたほうが数段面白かった気がします。

何だか予告編を作った人の「こうしたほうが面白かったのに」という悔しさが出ている気がするんですよね。そして私はそれに激しく同意します。ウディ先生、それでよかったの、と。

それにしてもウディ先生は予告編を見て変だと思わなかったんでしょうか。まさか! じゃあもしかして予告編の構成のほうがよかったと後悔しているとか…??? つーか映画ができた以上、そういうことはプロデューサーに任せて自分はどこかでクラリネット演奏してたとか?

予告編からいろんな妄想が飛び出す楽しい映画体験でした。





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