2002年、カート・ウィマー監督作品『リベリオン』を見ました。
カート・ウィマーという名前にはいい印象がないためにいままで食わず嫌いしてたんですが、ネット上でえらくほめてる人たちが多いんで騙されたつもりで見てみようと。ちょうどWOWOWでやってたし。

allcinemaに載っているレビューを読むと、「内容的にはつまらないが、アクションはすごい」という意見が大勢を占めています。
が、私は『華氏451』の焼き直しにすぎない内容にも、編集でごまかしているだけとしか思えないアクションにも特に関心はありません。焼き直しなんて映画はたくさんあるし、編集のマジックで魅力的なアクションシーンに見せかけている映画なんてごまんとありますから。

この『リベリオン』で私が興味を惹かれたのは、「はたして映画は〝感情のない人間”を描くことは可能なのか」ということなんです。

舞台は近未来。第三次世界大戦を経た人類が第四次世界大戦を未然に防ぐため、すべての人間から感情を抜き取ることにした。感情そのものがなければ怒りも憎しみも湧かないから戦争が起きないだろう、と。

感情がないから芸術作品は禁じられます。というか、作品なるものは生み出されていないはずですが、やはり過去の芸術は残っているわけで、感情を消し去る注射をせず、詩集を読み、絵画を楽しむ地下組織があったりするわけです。

主人公はそれらを取り締まる特高警察みたいなもので、「ファーザー」(オーウェル『一九八四年』のビッグブラザーですね)と呼ばれる権力者の命令に従って違反者を容赦なく射殺するのが職務。

そんな彼が、同僚がイエーツの詩集を読んでいたために殺さざるをえなかったり、奥さんが違反者として投獄されていたり、さまざまな要因が絡んだ末に、あるきっかけで注射ができず、慌てて打とうとするも、少し芽生えた感情がそれを拒否し、彼もまた違反者になってしまうわけです。

あとはお決まりの展開というか、違反者を取り締まる組織の人間なのに違反者になってしまった主人公の悪戦苦闘が描かれるわけですが、その過程で、主人公の奥さんが火刑に処され、彼は号泣してしまうんですね。それを相棒に見咎められて逮捕されてしまう。

ですが、何だかんだの末にその相棒自身が逮捕、主人公は釈放されるのです。が、それもまた組織の策謀で、実は相棒が主人公を罠にはめていたことが明らかになります。

ここで大きな問題が見えました。

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(適当な画像が見つからなかったのでこんなのですみません)

その相棒とは画像の右側、上から2番目の黒人です。
彼、笑ってますよね。主人公を罠にはめて喜んでいるんです。

おかしい!

違反者以外は何の感情ももたない人間ばかりのはずなのに、なぜ喜ぶという感情が出てくるのか。激怒するシーンさえあります。

芝居のつけ方を間違っている、と思いました。最初は。

最初は、というのは、ここからが本題なのですが、「感情のない人間を演じることはできるのか」、もっと言えば「映画において感情のない人間を描くことは可能なのか」ということなんです。

最初はこうすればいいと思ったんです。

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主人公がまだ違反者になる前の表情です。見事なまでに無表情。ここから感情を読み取ることは不可能です。
違反者以外の人物にはすべてこういう鉄面皮のような顔をさせればいいんじゃないかと思いました。が、すぐにそれも間違いだと悟りました。

上の画像は静止画像=写真ですから問題ないとしても、映画はさまざまな映像がモンタージュされてできています。


HAL
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2001002

これは『2001年宇宙の旅』で暴走し始めたHAL2000が、人間の唇を読んで、何事か考えているシーンです。

しかし、これはまさに映画のマジックでして、HAL2000というのは物語上は「感情をもち暴走し始めたAI」ですが、上の画像を見れば「ただの赤い光」にすぎないことがわかります。

「HALは唇を読んでいる」、そして「何事か考えている」あるいは「怒っている」あるいは「ふふふ、人間どもめ、俺が唇を読んでいるとは夢にも思っていまい、とほくそ笑んでいる」と感じるのは観客ですよね。そう感じられるように作者がモンタージュしているんですが、逆にいえば、モンタージュによってただの赤い光が何事かを考えているように感じられてしまうということです。

ただの赤い光ですらそうなのだから、無表情の人間に「感情が宿る」のは無理もないことなのです。宿しているのは見ている者のほうなんですが、どうしたって他の映像と組み合わされると「そういうふうに見えてしまう」。

「クレショフ効果」という言葉をご存じの方もいらっしゃるでしょう。無表情の人間が前後の映像に何が来るかでどういう感情を抱いているか、見る者が勝手に感じてしまうのです。

ゆえに、感情のない人間を描く、感情をもつことが禁じられた社会を描く、という企画自体が映画においては禁じ手だったわけです。どうあがいたってできない。

脚本やアクションの演出ではなく、この『リベリオン』では、映画人なら本能的に避けるべき「企画」にこそ問題があった、というのが私の結論です。





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