2009年の『アバター』がきっかけで第二次(第三次?)3D映画ブームになりました。


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以来、ずっと3D映画が公開され続けていますが、私はもともと少しも好きじゃないし、いつかは廃れると思っています。

好きじゃない理由としては、下の画像が如実に語ってくれます。



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アカデミー美術賞を受賞した『アパートの鍵貸します』での、主人公ジャック・レモンが働くオフィスの風景。実際はあんな向こうまでデスクが並んでるわけじゃないのに、そういうふうに見えるようセットがデザインされてるんですよね。(レンズにも何らかの工夫があるのかもしれません)

このカットに顕著なように、映画というのは二次元ですけど、二次元でありながら三次元のように見せる技術で発展してきたメディアなのに、なぜわざわざ特別なメガネをかけてほんとに三次元に見せる必要があるのか、と思うのです。

以上のようなことをある人に言ったら、

「でも、サイレントからトーキーになったり、白黒からカラーになったり、映画は技術発展してきたわけで、そのときにも君みたいに『映画に音があるなんて』とか『映画に色があるなんて』と厭な気がした人はたくさんいただろうけど、それは不可避の発展だった。2Dから3Dへの移行もそれと同じじゃないのか」

と言われたんです。

そのときは、あ、なるほど、自分は浅はかだった、と思ったりもしたんですが、やはり違うと思うようになりました。

だって、サイレントからトーキー、白黒からカラーへの移行というのは、「できるだけ現実世界と同じ世界を描きたい」という「芸術的欲求」から生み出されたものじゃないですか。

でも、2Dから3Dへの移行というのは、テレビジョンの台頭で斜陽になり始めた映画界が復権の糸口にするためのものでしょう? 昔はテレビ、いまはDVDや配信。どちらにしても映画館に来る人の減少が最大の理由で、それに対抗するために、という「資本主義的欲求」が基礎になっています。

そういうのって長続きしないと思うんです。

しかし、現実世界は3次元なのだから3Dはトーキーやカラーと同じ「できるだけ現実世界と同じ世界を描きたい」という芸術的欲求もあるんじゃないの? という考え方もあるでしょう。

しかしながら、それなら肉眼だけで立体に見えないと意味がありません。わざわざ3D眼鏡をかけないと立体に見えないというのは「現実世界の表現」ではない。

それに、人類最古の芸術は洞窟に描いた絵です。彫刻など3次元の芸術が生まれるのはずっと後のこと。どうも人間は目に見える3次元の世界を2次元で表現するのが好きなようです。それが人類の遺伝子に書き込まれたデフォルトなんだと思います。

実際、3D映画ブームってテレビの発明・普及した50年代から60年代だって続かなかったし、ここ数年の流れでも、ひと頃に比べると3D映画の興行収入って減ってきてるらしいですし。みんなあれが「現実世界の表現」とは思ってないんですよ。料金も高いから「結局商売でしょ」と白け始めたのではないか。

最近は3Dテレビなども出始めたため、映画では4Dとかいろいろあるみたいですが、資本主義的欲求が底流している以上、長続きしないと思います。

やっぱり『アパートの鍵貸します』のセットデザインみたいに「芸術的欲求」こそが人の心を打つと思うのです。



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