映画史上最大の傑作と誉れ高い『市民ケーン』。つまらない、どこが名作なのかわからない、という声も若い映画ファンの間では囁かれているようですが、やはりこれはとんでもない傑作です。(以下ネタバレあります)
『市民ケーン』をどう解釈するか

しかしながらこの記事では作品の評価ではなく「解釈」がテーマです。
『市民ケーン』は主人公がいまわの際につぶやく「ROSE BUD=薔薇のつぼみ」なる言葉の意味をめぐる物語ですが、私の解釈はご多分に漏れずというか、かなりありきたりなものです
主人公は幼い頃に年5万ドルのお金と引き換えに大金持ちの養子に出されます。決して金目当てではなく、父親が主人公に暴力ばかり振るうため、それを見かねて母親が里子に出そうとしている。つまり母親は主人公を守ろうとしていた。
しかし当の主人公はまだ子どもですからそんな複雑なことはわかりません。父親の暴力から守ってくれるはずの母親から結果的に捨てられたと思ってしまう。そのために主人公はそれ以降、母親の無償の愛を知らずに成長します。
先日感想を書いた『ルーム』では、母親から無条件の愛を受けた息子が、無意識的にでしょうが母親に愛を返す結末が感動的でした。
「無償の愛」「無条件の愛」と書きましたけど、これは「二重形容」ですね。「愛」という言葉には「無償の」「無条件の」という形容が含まれているのですから。
主人公ケーンは、何も見返りを期待しない本当の「愛」をほとんど知らずに育った、だから、反乱を起こすジョゼフ・コットンに言われますね。「君は『愛してやる、だから愛し返せ』と言っているだけだ。そんなのは自己愛にすぎない」と。
愛人のスーザンをいくら愛しても愛し返してもらえない。だからよけい見返りを期待した愛し方をしてしまい、彼女どころか富と名声以外のものはすべて失ってしまう。
町山智浩さんの解釈

ケーンは我が身を振り返って、自分がこんな不幸な人間になったのは母親に捨てられたのが原因だと思ったのでしょう。だからあのとき橇に書かれていた「薔薇のつぼみ」という言葉をつぶやいて死ぬ。というのが私の解釈です。何度見てもこの解釈をしてしまうから、私にとって『市民ケーン』とは「そのような映画」なのです。
ところが、その解釈は間違っているという人が現れました。『トラウマ映画館』『狼たちは天使の匂い』などその著書を何冊も愛読させてもらっている町山智浩さんです。
町山さんは「薔薇のつぼみとは愛人の性器のことだ」と言います。へぇー、と驚きました。何でも13世紀に書かれた擬人化小説のはしりである『薔薇物語』という本には薔薇のつぼみ、それもまだ固いつぼみのことが女性器のこととして書かれているらしいんですね。(ケーンが出会ったときのスーザンは処女だったということでしょうか)
「多くの人が橇に書かれてる言葉だから『母ちゃん恋しい』という映画だと思ってますが、それは違います。本当はスーザンのアソコのことなんです」とのこと。
それはそれでひとつの解釈でしょう。いや、ひとつの解釈どころか、おそらくオーソン・ウェルズと脚本家ハーマン・マンキーウィッツが意図したのはまさしくそれに違いないという気さえします。少なくともそう解釈したほうが数倍面白い。
しかし、ここで大きな問題が二つあります。
ひとつ目は、映画にかぎらず「作品」と呼ばれるものの解釈はその作品の中だけでなされるべきだ、というものです。
私は不勉強のため『薔薇物語』なんて小説は題名すら知らなかったので読んでいません。読んでるかどうかはともかく、他の作品を参照しないと成り立たない解釈というのは、一種の衒学趣味だと思うのです。
確かに、作者たちが「母親への思いと見せかけて、実は…」と意図したことは充分考えられます。当時はまだまだ検閲が厳しかったですから女性器を意味するなんてはっきりと言えなかったでしょうし。
しかしです。ここからが二つ目ですが、「作者の意図通りに見なきゃいけない」などというルールは存在しません。仮にウェルズが「薔薇のつぼみとはスーザンのアソコのことだよ」とはっきり語ったとしても、です。
正しい解釈など存在しない
ちょっと前に三谷幸喜の『王様のレストラン』の感想を綴りましたが、それについて珍妙なコメントがつきました。私の解釈が作者である三谷幸喜の意図とずれてるから見る目がないんですって。何で作者の意図通りに見なきゃいけないのかさっぱり理解できません。作者の意図=正解だとでも思っているのでしょうか。
作品を鑑賞するというのは正解を知るためじゃないでしょう? 人生に正解がないのと同じで、作品にだって正解などありません。ただ自分はこう見た、自分ならこう生きる、というその人なりの思いしかない。
作者の意図=正解と思っている人たちは、正解を知ることで思考停止してしまってるんじゃないでしょうか。
おそらく、町山さんだって自分の解釈を聴衆に強いるつもりで言ったんじゃないと思います。「これもひとつの解釈ですよ」という程度だったんじゃないかと想像しますが、問題は、町山さんの言ってることだけが唯一正しくて、あとは間違っているという人たちですね。
確かに、町山さんの解釈を聞いて私も蒙を啓かれましたが、それでも、いま実際に『市民ケーン』を虚心坦懐に見直したところ、やっぱり以前と同じ、「薔薇のつぼみは生き別れになった母への思いを意味する」という解釈に帰着せざるをえませんでした。
解釈は観客の数だけ存在するのだから、私の解釈も、町山さんの解釈も、そのどちらでもないぜんぜん別の解釈も、すべて否定できるものではありません。
とりあえず、『薔薇物語』を読んでみようと思います。
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オーソン・ウェルズ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2016-01-29

コメント
コメント一覧 (19)
公に見解を発している以上、
一定の言論の倫理に則って論じるべきだということです。
自分の解釈を他人に押しつけるのはとても下品なことだと思います。
それが作品の内部からも読み取れることであれば、
隠されたミーニングも受け止めて読み込むべきだと感じます。
で、「信者」とは本文にでてくるような町山ファンや三谷ファンのことで、
> 町山さんはオタク知識はあるけど、それ込みでなんの価値もない
> 三谷幸喜ファンは頭が悪くて
と書くわたしは「信者」ではないと認めていただけますか?わたしはあなたに否定的だけど、「信者」にも否定的です
わたしがあなたに否定的なのは「映画~その作品の中だけでなされるべきだ」といいつつ常識的な考えを持ち込んでいるところです。常識を持ち込むべきところと、そうでないところがごっちゃになっている。
??? 確かに「信者」とは書いてませんが、どこの箇所を言っているのかは日本語が読めるなら誰でもわかります。そんなこともわからない人の言葉を真剣に考えていたのかと暗澹たる気持ちになりました。
ちなみに、コメント欄には「信者」という言葉がありますよ。もしかして読んでないんでしょうか? もしそうなら信じられません。私がコメントするなら必ず読みます。だって自分が言おうとしていることをすでに他の人が言ってるかもしれないじゃないですか。
わかることもわからないこともあります。新聞王がバラのつぼみと言って死んだ、というのはわかります。なぜそんなことを言ったのかはわかりません。
> 人物の理解の「人物」は登場人物のことですよね? 薔薇のつぼみという言葉は登場人物の言葉なのだから、その解釈というのは人物の理解でいいんじゃないんですか?
この質問はちょっと意味がわからないので、無視したわけではないのですが後回しにしました。いまもわからないままです
> はい。だから本文中で「否定できない」と明言しています。それについてはどうなんでしょうか?
これは確認です
> 映画外の事実を利用しているのは町山さんのほうではないですか?
町山さんもそうですが、あなたもそうです。母親のことは常識的な考えですが、それは*断じて*映画の外部にあるものです
> 通りすがりさんは、私が本文中で揶揄している「信者」なんですか?
本文に信者という言葉がでてこないので、外しているかもしれませんが、町山さんはオタク知識はあるけど、それ込みでなんの価値もない
作者の意図はたとえば、最後のソリですね。このソリを観客によく見てほしいというのが作者の意図です。作者は新聞王の気持ちをよくわかっていて、演出した、というのは迷信です
三谷幸喜ファンは頭が悪くてどこかで逆に覚えたのでしょう
ところで、作者の意図は観客を騙します。非常に注意深い観客以外を、常識的でつまらない方向へ誘導します
このことを知っているのは1万人に一人とか、もっと少ない
はい。だから本文中で「否定できない」と明言しています。それについてはどうなんでしょうか?
>あなたは町山説を議論するときに映画外の事実を利用していますが
映画外の事実を利用しているのは町山さんのほうではないですか?
通りすがりさんは、私が本文中で揶揄している「信者」なんですか?
今回も前回の返信でも末尾に「?」とあるのは質問です。すべてに回答をお願いします。
あなたは町山説を議論するときに映画外の事実を利用していますが、それについては自覚的には思えません。
正しさと妥当さを区別しましょう。
人物の理解の「人物」は登場人物のことですよね? 薔薇のつぼみという言葉は登場人物の言葉なのだから、その解釈というのは人物の理解でいいんじゃないんですか?
あなたは町山説を「作者の理解」だと正しく認識しているのに、唯一正しい解釈の存在を知らないので、「人物の理解」と正当性をめぐった椅子取りゲームをしています。
あとrosebudはlose butのダジャレです。
1妨害工作を受ける元となるとある女性の女陰の意味と
2映画中バラのつぼみという言葉から連想される若き女性との思いで云々と詮索して結局分からずじまいで
最後のシーンでソリに書かれていた文字
(そりの名前なのかな?)で
幼年時代に戻りたいと思う(何も母親の愛情云々だけでは無いと思う)ケーンの追憶
その両方の意味があるんではないかとおもいまする
映画の中で明示されているのは当然2のことで
あれこれの経緯からして暗示しているのは1ということ
それと私は評論家の仕事が云々みたいなことは一言も言っていません。
ちゃんと本文を読んでからコメントしてくださいね。
よかったらどうぞ
http://oui17.jugem.jp/?eid=2535
もちろん、だから他人の批評や解釈を読む必要がない、などというつもりは毛頭ありません。私だって不特定多数の人に向けてこうやって自分の意見を発表する以上、勉強は必要だと思っています。
いまスピノザの『神学・政治論』を読んでいます。1ページごとに新鮮な驚きがあります。こんなふうに聖書を解釈し、神とは何か、信仰とは何か、国家とは何か、そして哲学とは何か、なんて難しいことをこんなにわかりやすく書けるなんて天才としか言いようがありません。
でも、わたしはスピノザが巨人で自分が小さなモグラだとは思いません。
これから神学や哲学、政治学を語るならスピノザを参照しないといけないとは思いますが、できることなら死ぬまでにスピノザ以上の哲学を語りたいものだ、という野望があります。つまり、仮にスピノザが巨人だとしたら、自分自身がそれ以上の巨人になるということです。巨人の肩に乗ろう、乗るべきだなんて少しも思いません。
もちろん、背景知識があったほうがより楽しめるというのはわからないではありません。しかし「必要」でしょうか。もし必要なら、その作品は「不完全」ということになってしまいます。
それから、作家や大家に対する敬意の度合いが過ぎます。もはや「自己卑下」です。
私はちょっと前まで作家を目指していろいろ書いていました。書くために人間や社会を見つめる目を鍛え、鍛えた目でつかんだことを書いていました。
でも、そんな鍛錬など何もしていない飲み屋の親父とかそのへんを歩いている女子高生のほうが鋭い物の見方をしていると感じたことなど山のようにあります。
何だかんだいっても結局夢をあきらめた人間なので、単に鍛錬が足らなかっただけかもしれません。でも私はそうは思いません。
通りすがりさんのご年齢はわかりませんが、それなりに生きてきたのだからそれ相応の見識はおもちでしょう。セザンヌには勝てない、町山智浩には勝てない、そんなのはただの思い込みです。
小さなモグラといえば私もそうです。誰だってそうです。おそらく町山さんだって自分のことをそうおっしゃるでしょう。が、仮に町山さんが巨人だとして、その巨人の肩に乗って作品を見たら、その巨人の目線でしか見られなくなっちゃいますよ。
人は誰でも小さなモグラですが、そのサイズや作品に対するアングルは人それぞれです。通りすがりさんはご自分のサイズやアングルを捨ててませんか? 他人のサイズに合わせていませんか?
その通りですね。今一度読み返すとブレッソンさんのおっしゃる通りのもの言いかと思います。私は「通りすがり」に熟考などせず、上っ面を読み、軽い気持ちでコメントしました。真剣に評論されている方にたいへん失礼でした。非礼をお詫び申し上げます。
”虎の威を借る狐”
その通りですね。狐どころか、映画に関して言えば、小さなモグラのようなものです。にわか映画ファンの一般人の戯言ですのでお許しください。
ただ私の意見はと問われれば、うまく伝わるか分かりませんが少し述べさせていただきます。
映画の解釈は作品それ自体から個人個人が自由に受け取るものであり、正解や間違いなどない、私もそう思います。ただ、作品によっては作者の意図や時代、専門家の解釈などの背景知識があったほうが作品が生きるのではないかと思います。
なんといいますか、極端な例えをしますと、モーツァルトやフランス料理を楽しむにはそれなりの経験や蓄積が必要ですし、どこの時代、どこの国でも人を感動させるということはありません。画家のポール・セザンヌが自然を観る眼と私が自然を観る目を比較すれば、私のそれは赤子のようなものでしょう。鍛錬が違います。
私は映画評論家としての町山さんを尊敬しますし、仮にも映画史最高峰の作品に対して、小さなモグラは巨人の肩に乗って地平を見る必要があるのではないかと思います。
とくに『市民ケーン』は映画史の上においてこそ価値のある作品であることは町山さんも解説のなかでおっしゃっています。
ただ、映画は楽しむものです。評論も作品を生かしてこそです。「私の中の作品」「私の解釈」というのは大事だと思います。例えば、「定説」が個人の中の作品解釈を傷つける場合もあると思いますし、その場合絶対的に価値があるのは個人の解釈の方だと思います。
『ザ・ディレクター』は不勉強ながら未見です。見てみようと思いますが、他の作品を参照しないと成り立たない解釈は不当だとこれも本文で言っているとおりです。
通りすがりさんご自身の見解は何なのでしょうか。
私は本文にこう書きました。
>問題は、町山さんの言ってることだけが唯一正しくて、あとは間違っていると言う人たちですね。(いまはいないかもしれないけど、そのうちそういう人たちが絶対出てきます)
通りすがりさんはまさにそのような人ですよね。
「別に町山さんの言葉を盲信しているわけじゃない。熟考したうえで全面的に納得しているから同じ意見を述べているだけ」とおっしゃるかもしれません。
それなら「自分の言葉」で語るべきです。
「誰それがこう言っている」「定説ではこうなっている」、それではただの「虎の威を借る狐」にすぎません。
町山さんの言っている「女性器」云々については定説ですよ。よろしかったらDVDで『ザ・ディレクター [市民ケーン]の真実 』をご覧ください。
町山さんが独自の解釈と言っているのは『薔薇物語』についてだけです。
また、映画解釈云々については町山さんが2010年にロフトプラスワンで分かりやすく説明されています。ustreamかなにかの録画がネットに転がっていますので、そちらもご参照なさって映画理解をさらに深められることをお勧めします。
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