先日のアカデミー賞で見事最優秀外国語映画賞に輝いた『サウルの息子』を見てきました。

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「早くも今年のベストワン」という人もいれば、激しい嫌悪感を示す人もいたり、賛否両論みたいで、楽しめるのか途中退出したくなるのかどっちだろうとドキドキした状態で見始めましたが、すんなりと映画の世界に入り込め、最後まで没入して見ることができました。

ただ、この映画には大いなる問題があると思うんですよね。見ているときに感じたのはひとつだけでしたが、見終えてから二つに増えました。

というのも、この映画はずっと主人公サウルに密着して撮影されてるんですね。全編主人公だけを追い続けている。私はそこに何かちょっと奇をてらった感じを受けて「もうちょっと普通に撮っても良かったんじゃないか」みたいなことを友人に言ったところ、その友人は絶賛派で、

「普通、映画は主人公の言動を俯瞰的に見るけど、『サウルの息子』では主人公だけを追うことでその俯瞰的観賞をしにくい状況を生み出し、同時に主人公の体験を観客が追体験できる仕掛けになっている。しかも周りで起こることがアウシュビッツでの地獄絵図なのでまさに強烈な映画体験ができた」

みたいなことを言ってきたんですね。

うん、確かにそれはその通りでしょう。私も最初見ていて、ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』みたいだな、ぐらいに思っていたのが、次々に迫真性の高い出来事が起こるのでサウルの体験を疑似体験することができました。サウルだけを追うことでそれが可能になったことを否定はしません。

しかし、私はその友人にこう反論しました。

「例えば、ヒッチコックが多用した、主人公の主観ショットとその主人公を捉えた客観ショットをカットバックしたほうが観客が主人公に同化しやすくなったんじゃないか」

つまり、「主人公を」撮るんじゃなくて、「主人公が」見たものを撮ったほうがいいんじゃないか、ということです。もちろん、「主人公を」撮ったショットとカットバックさせるわけですけど、主人公の目と観客の目を同一化させたほうがもっとその効果が出たんじゃないか。

ただ、ラストに出てきた少年(あれが一体誰なのかいまだによくわかりません。サウルが息子の幻影を見ているのかと思ったらどうも違うみたいだし)とのカットバックを印象づけるためにそれまでの100分近くをカットバックなしでやってきたのかな、という気もします。

結局、「よくわからん」のです。

私が古典的ハリウッド映画作法の信奉者だからそう思うだけかもしれないし、そうなると「好みの問題」ということになってしまう。でも芸術って結局好みの問題じゃないの、という気もします。

いったいどっちがいいんでしょうか。映画作りとは本当に難しい。

もうひとつの問題は脚本上のものですが、これについてはまた後ほど。

続きの記事
②脚本上の問題について

サウルの息子(字幕版)
ルーリグ・ゲーザ
2016-08-01



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