山田太一さんの1983年作品『早春スケッチブック』全12話を再見しました。

物語は、母と息子、父と娘がそれぞれ血がつながっている、つまり連れ子がある者同士が再婚した家庭があって、あるとき息子の実の父親が乱入してきて、危ういバランスで成り立っている家庭にさらなる亀裂が入る、というものです。
しかし、ここで物語の内容などどうでもいいのです。
第1話からそうでしたが、最終回などは最初から最後まで涙、涙、涙で、画面がかすんでしまいました。
乱入してくる息子の実の父親というのが山崎努演じるカメラマンなんですが、

これが、まるで自分の醜い肖像画を見せられているようで身につまされるのです。
山崎努は言います。
「いい学校に入って、いい会社に入る、そんなことはくだらないことだ。おまえらは骨の髄までありきたりだ!!!」と。
私もそういうふうに考えていました。毎朝満員電車に揺られて会社へ行き、笑顔を作ってヘイコラするような人間にだけはなりたくない、と。
もっとはっきり言えば、山崎努のように「自分は特別な人間なのだ」と思っていました。さぞかし鼻持ちならない奴だったと思います。
山崎努の昔の女である岩下志麻は言います。
「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」
まさに私のことです。だから身につまされるのです。慚愧の念に堪えんのです。涙があふれてどうしようもないのです。
ただ後悔、後悔、後悔…それだけです。
最終回、死の病に侵された山崎努は子どもたちにこう言います。
「こないだ君たちのお父さんがここへ訪ねてきてね、会社とお得意さんと二回電話をしてったよ。声を使い分けてね。部下には強い口調で、お得意さんには高い声で愛想よく…そうやって君たち二人を育ててきたんだな、と思い知らされたよ」
自分は特別な人間だ、世の中の大半の連中はありきたりでつまらない人間だ、と言っていた山崎努が、そのありきたりの典型のようなどこにでもいるつまらないサラリーマンに敗北したと認めるのです。
私も認めます。いや、自分に認めさせるために再見したのかもしれません。
私は長い間追い続けた夢を断念しました。だからよけい身につまされました。
でも、それでも、まだ私は自分のことを特別な人間と思っていたのでしょう。何者でもないくせに何者であるかのような顔をしている。
そんな自分に「おまえは何者でもないんだ」と言い聞かせるために、この、見るのがつらいとしか言いようのないドラマをわざわざ見たのだと思います。
おそらく脚本の山田太一さんは山崎努と河原崎長一郎のどちらにも肩入れしてないのでしょう。山崎努は敗北したけど、河原崎長一郎のほうだって最後は歩み寄った。どちらも勝者でどちらも敗者。
でも、これまでずっと河原崎長一郎のような人を蔑んでいた私のような者には、このドラマは敗北でしかありません。いや、ほとんど死刑宣告のようなものです。
続きの記事
『早春スケッチブック』で耳が痛くなった件(二つ目)
関連記事
『早春スケッチブック』考察①「サラリーマン的なもの」との葛藤
『早春スケッチブック』考察②「鬼」としての山崎努


物語は、母と息子、父と娘がそれぞれ血がつながっている、つまり連れ子がある者同士が再婚した家庭があって、あるとき息子の実の父親が乱入してきて、危ういバランスで成り立っている家庭にさらなる亀裂が入る、というものです。
しかし、ここで物語の内容などどうでもいいのです。
第1話からそうでしたが、最終回などは最初から最後まで涙、涙、涙で、画面がかすんでしまいました。
乱入してくる息子の実の父親というのが山崎努演じるカメラマンなんですが、

これが、まるで自分の醜い肖像画を見せられているようで身につまされるのです。
山崎努は言います。
「いい学校に入って、いい会社に入る、そんなことはくだらないことだ。おまえらは骨の髄までありきたりだ!!!」と。
私もそういうふうに考えていました。毎朝満員電車に揺られて会社へ行き、笑顔を作ってヘイコラするような人間にだけはなりたくない、と。
もっとはっきり言えば、山崎努のように「自分は特別な人間なのだ」と思っていました。さぞかし鼻持ちならない奴だったと思います。
山崎努の昔の女である岩下志麻は言います。
「お母さん、自分のしていることにうっとりする人、嫌いよ」
まさに私のことです。だから身につまされるのです。慚愧の念に堪えんのです。涙があふれてどうしようもないのです。
ただ後悔、後悔、後悔…それだけです。
最終回、死の病に侵された山崎努は子どもたちにこう言います。
「こないだ君たちのお父さんがここへ訪ねてきてね、会社とお得意さんと二回電話をしてったよ。声を使い分けてね。部下には強い口調で、お得意さんには高い声で愛想よく…そうやって君たち二人を育ててきたんだな、と思い知らされたよ」
自分は特別な人間だ、世の中の大半の連中はありきたりでつまらない人間だ、と言っていた山崎努が、そのありきたりの典型のようなどこにでもいるつまらないサラリーマンに敗北したと認めるのです。
私も認めます。いや、自分に認めさせるために再見したのかもしれません。
私は長い間追い続けた夢を断念しました。だからよけい身につまされました。
でも、それでも、まだ私は自分のことを特別な人間と思っていたのでしょう。何者でもないくせに何者であるかのような顔をしている。
そんな自分に「おまえは何者でもないんだ」と言い聞かせるために、この、見るのがつらいとしか言いようのないドラマをわざわざ見たのだと思います。
おそらく脚本の山田太一さんは山崎努と河原崎長一郎のどちらにも肩入れしてないのでしょう。山崎努は敗北したけど、河原崎長一郎のほうだって最後は歩み寄った。どちらも勝者でどちらも敗者。
でも、これまでずっと河原崎長一郎のような人を蔑んでいた私のような者には、このドラマは敗北でしかありません。いや、ほとんど死刑宣告のようなものです。
続きの記事
『早春スケッチブック』で耳が痛くなった件(二つ目)
関連記事
『早春スケッチブック』考察①「サラリーマン的なもの」との葛藤
『早春スケッチブック』考察②「鬼」としての山崎努


コメント
コメント一覧 (2)
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。