いまちょいとした話題になっている池谷裕二先生の旧著『単純な脳、複雑な私』(講談社ブルーバックス)を読みました。


高校生に向けた講義録なのでものすごく読みやすいうえにめちゃくちゃ面白かったです。目から鱗の最新(?)情報が満載でしたが、なかでも私が惹かれた話題は「生物とは何か」というテーマでした。
生物の定義とは何か。
いつか死ぬもの。という答えもありえますが、それは、じゃあ死って何? という問いを生み出し、死を説明しようと「生きてないもの」と答えると、「いつか死ぬもの」という最初の答えが「いつか生きてないものになるもの」となってしまって、答えの中に問いが含まれるトートロジーに陥ってしまう。
他にも聞き手である生徒さんの答えがトートロジーに陥っているケースが多く、著者の池谷先生は「生命とは何かを定義しようとするとえてしてトートロジーに陥るのだ」と諭します。
で、例えば、ここに人間そっくりのアンドロイド(アトム君)がいたとして、人間の太郎君はアトム君を人間だと思い込んだまま急な交通事故で死んでしまうとする。太郎君が死んだあとでアトム君が人間ではなくアンドロイドだったことが判明したと仮定すると、太郎君にとってアトム君は人間だったのか、それともアンドロイドだったのか、という恐ろしく深淵な問いが発せられます。
著者の見解は、やはり太郎君にとっては人間だったんだろう、と。というか、結局、その人の主観でしかないのだというのが「生物の定義」らしいのです。その人が「自動ドアは生きている」と思えばその人にとっては自動ドアは生物だし、アイボが生物だと思えば生物、ただのロボットと思えばロボットにすぎない。
1982年製作の大傑作SF映画『ブレードランナー』のクライマックスで、レプリカント(アンドロイド)役のルトガー・ハウアーの死に様を見つめながら主役のハリソン・フォードの次のようなナレーションがかぶさります。(このナレーションのない最終盤やファイナルカット版を私は認めません!)
「彼は自分のことを知りたがった。どこから来て、どこへ行くのか。何年生きられるのか。人間も同じなのだ」
自分は人間だと思っているあなたも、この私も、もしかしたらアンドロイドなのかもしれません。神が造ったアンドロイド。業田良家さんの『機械仕掛けの愛』の感想にも書きましたけど、人間の「心」と、機械の「機能」は同じなのです。ただ人間が自分の機能を「心」と思っているだけです。人間がというか、池谷先生の論旨に従えば「人間の脳が」。
違う! 私は人間だ。と思っても証明する手立てがありません。ロボットはプログラムされてるだけだ、俺はそんなことされてない! と言ってみても、やはりあなたも私も神にプログラムされてその通りに生きてるだけかもしれないのです。私たちにできるのは「自分は人間だと信じる」ことだけです。自分は自分の自由意思で生きていると思い込むことだけです。
実家で飼っているワンコはどうも自分のことを人間だと思っている節がありますが、あのワンコにとって自分は人間なのでしょう。私たちがいくら「おまえは犬だ」と言ってみても、本人(?)が自分を人間だと信じていることを止めることはできません。
それと同じで、私たちが世間の人たちから「おまえはアンドロイドだ」と言われても、自分は人間だと信じられるならその人は永遠に人間でしょうし、アンドロイドなのかな、と思ってしまえばその瞬間にアンドロイドになってしまう。
幸せ、というのもそれと同じなのではないでしょうか。
他人から見て幸せそうかどうかは関係ないのです、おそらく。
自分で自分を幸せな奴と思えるかどうか。自己満足でいいんじゃないですかね。
何だか脳科学とか生命論とはぜんぜん別の感想に行き着いてしまいました。(汗)

高校生に向けた講義録なのでものすごく読みやすいうえにめちゃくちゃ面白かったです。目から鱗の最新(?)情報が満載でしたが、なかでも私が惹かれた話題は「生物とは何か」というテーマでした。
生物の定義とは何か。
いつか死ぬもの。という答えもありえますが、それは、じゃあ死って何? という問いを生み出し、死を説明しようと「生きてないもの」と答えると、「いつか死ぬもの」という最初の答えが「いつか生きてないものになるもの」となってしまって、答えの中に問いが含まれるトートロジーに陥ってしまう。
他にも聞き手である生徒さんの答えがトートロジーに陥っているケースが多く、著者の池谷先生は「生命とは何かを定義しようとするとえてしてトートロジーに陥るのだ」と諭します。
で、例えば、ここに人間そっくりのアンドロイド(アトム君)がいたとして、人間の太郎君はアトム君を人間だと思い込んだまま急な交通事故で死んでしまうとする。太郎君が死んだあとでアトム君が人間ではなくアンドロイドだったことが判明したと仮定すると、太郎君にとってアトム君は人間だったのか、それともアンドロイドだったのか、という恐ろしく深淵な問いが発せられます。
著者の見解は、やはり太郎君にとっては人間だったんだろう、と。というか、結局、その人の主観でしかないのだというのが「生物の定義」らしいのです。その人が「自動ドアは生きている」と思えばその人にとっては自動ドアは生物だし、アイボが生物だと思えば生物、ただのロボットと思えばロボットにすぎない。
1982年製作の大傑作SF映画『ブレードランナー』のクライマックスで、レプリカント(アンドロイド)役のルトガー・ハウアーの死に様を見つめながら主役のハリソン・フォードの次のようなナレーションがかぶさります。(このナレーションのない最終盤やファイナルカット版を私は認めません!)
「彼は自分のことを知りたがった。どこから来て、どこへ行くのか。何年生きられるのか。人間も同じなのだ」
自分は人間だと思っているあなたも、この私も、もしかしたらアンドロイドなのかもしれません。神が造ったアンドロイド。業田良家さんの『機械仕掛けの愛』の感想にも書きましたけど、人間の「心」と、機械の「機能」は同じなのです。ただ人間が自分の機能を「心」と思っているだけです。人間がというか、池谷先生の論旨に従えば「人間の脳が」。
違う! 私は人間だ。と思っても証明する手立てがありません。ロボットはプログラムされてるだけだ、俺はそんなことされてない! と言ってみても、やはりあなたも私も神にプログラムされてその通りに生きてるだけかもしれないのです。私たちにできるのは「自分は人間だと信じる」ことだけです。自分は自分の自由意思で生きていると思い込むことだけです。
実家で飼っているワンコはどうも自分のことを人間だと思っている節がありますが、あのワンコにとって自分は人間なのでしょう。私たちがいくら「おまえは犬だ」と言ってみても、本人(?)が自分を人間だと信じていることを止めることはできません。
それと同じで、私たちが世間の人たちから「おまえはアンドロイドだ」と言われても、自分は人間だと信じられるならその人は永遠に人間でしょうし、アンドロイドなのかな、と思ってしまえばその瞬間にアンドロイドになってしまう。
幸せ、というのもそれと同じなのではないでしょうか。
他人から見て幸せそうかどうかは関係ないのです、おそらく。
自分で自分を幸せな奴と思えるかどうか。自己満足でいいんじゃないですかね。
何だか脳科学とか生命論とはぜんぜん別の感想に行き着いてしまいました。(汗)

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