私は昔なら学校で、いまなら職場でいつも思うのは「何でみんな同じような価値観でしか物事を見ないんだろうか」ということなんですね。

例えば、ちょっと前のベッキー不倫問題とかでも、ある意見が出るとそれに追従する意見ばかりが出て、異論を唱える者がいない。まぁ女性ばかりの職場だからよけいにそういう現象が起こりやすいのかもしれませんが、私が異論を唱えるとしら~っとした空気が流れる。それだけならいいんです。厭なのは、私とある女性が二人だけになったときに「実はあたしも神林さんと同じこと考えてたんです」と言われることなんですよ。

じゃあ、なぜあのとき言わなかったのか!
別に加勢してほしかったという意味じゃありません。そういう意見をもっているなら堂々と言えばいいじゃないですか。なぜ他の女性たちの耳がないところで言うのか。

どうも人間は、というか日本人は平均値の高さを気にするようなんですね。ずっと前から思っていることではあるんですが。

この場ではいまこういう考え方が大勢を占めている、それならいまはそれに乗っとこう、みたいな。とにかく平均値の高いものに合わせよう、逆に平均値の低いものを排除しようという。

しかし、平均値というものは「幻想」にすぎません。

かつてまだ日本の映画人口が1億人ちょっとだったとき、「日本人は1年に平均1回だけ映画館に行く」と言われました。それ自体は正しい。

しかし、「1年に1回だけ映画館に行く人に向けて映画を作れ」という言い方は完璧なる間違いです。

なぜなら、平均値とはあくまでも抽象的な数字だから。

映画館のロビーとかエレベーターで、よく「こないだ見に行った映画サイコーだった」とか「次はあれ見に行きたい」と会話している人たちが大勢います。年に何度も行く人がたくさんいるわけです。

おそらく日本人の映画館での映画鑑賞の実態は「ほとんどの人がまったく映画館に行かず、一部の人たちだけが数十回以上通っている」ということだと思います。

クラスの半数が100点、残りの半数が0点なら平均点は50点ですが、そのクラスで実際に50点取った人間は1人もいない。

同じように、映画館に1回しか通わない人はもしかするとただの1人もいないかもしれないわけです。

「アメリカ人は年に平均10回映画館に行く、だからアメリカ人は日本人の10倍映画館に行っている」という言説は正しい。抽象的な数字同士を比較しているわけだから。

でも、平均値という抽象的な数字から「1年に1回だけ映画館に行く人」という具体的な人間像を想定することは絶対におかしい。

だから平均値に近いように自分を見せるというのは何とも愚かしいことだと思うわけです。

幻想でしかない「平均的な人間」を演じようとみんな必死になっている。私の目には出来の悪い喜劇にしか見えません。

別にいいじゃないすか、あなたはこれが好き、私はこれが嫌いでも。いろんな価値観があるから世の中面白いのだから。



このエントリーをはてなブックマークに追加