ここ数年、テレビ番組から劇場公開になることが多い東海テレビ製作のドキュメンタリー。2010年『平成ジレンマ』。

戸塚ヨットスクールといえばある年代以上の人なら誰でも知ってますよね。訓練生に激しい体罰をしたせいで死亡してしまい、30年前ものすごく話題になった学校です。
あのとき私は子どもだったので「こんなところに入れられたらいやだ」ぐらいにしか思ってませんでしたが、長じてから校長が『TVタックル』に出て独自の教育論を話すところなどを見ていると、「あ、この人ってすごくまともなんじゃないか。あのときのマスコミとか有識者と言われる人のほうがおかしかったんじゃないか」と思うようになりました。
この映画の作り手は明らかに校長寄りの立場ですが、できるだけ中立を保とうとしていることが窺われ、好感がもてました。しょせん神ではない人間に「中立」など不可能ですが、それを目指すことはドキュメンタリー作りにおいては大事なことでしょう。でないと一方の主張を押しつけるだけのお説教になってしまいます。
この映画の場合、そういう「作品の作られ方」よりも、やはり校長の言っていることは是か非か、というところですね。
見る人の数だけ主義・主張があるんでしょうが、私もやはり校長寄りの立場です。
昔の映像を見るとかなりひどい体罰が行われていて、あれはいくら何でもひどいと思いましたが、「子どもは何もわかってないんだから体で憶えさせなきゃいかん」という主張に意義はありません。
いまじゃ「体罰は絶対ダメ」というイデオロギーが支配的ですが、体罰そのものがいけないという論調にはまったく同意できません。行きすぎた体罰がダメなんであって、教育的配慮からくる体罰は構わないと思います。私自身、教師から張り倒されたことがありますが、いまはよかったと思ってますよ。体で憶えさせないとこいつはダメになる、という愛情があったから。クラスメイトが体罰を受けても「あれは殴られるほうが悪いね」とみんな言ってたし、PTAも問題にしたりしませんでした。
そういえば、中学時代に好きだった体育教師が10年ぐらい前に自殺したんですが、その先生はたまに体罰をする人でした。でも、行きすぎた体罰をしたことはありません。愛情のある体罰しかしなかった。問題になることはまったくありませんでしたが、世が移り、体罰そのものがダメな時代になって自分の教育哲学の行き詰まりを感じたのか自殺してしまいました。いい先生だったのに。
殺したのは誰だ!!
マスコミやPTAですよ。馬鹿な大人たちですよ。
新聞にはたまに、「○○市の××学校で体罰」と見出しが出ます。その体罰がどういう経緯でなされたものかなんて少しも検証しない。体罰が報告された、それは殴ったほうが悪いに決まってる、記事を書いて吊るし上げよう。
殴るべきでないときに殴ったのなら殴ったほうが悪いに決まってますが、殴られたほうが悪い場合だってある。その可能性をいっさい調べずに暴力を振るったというだけで吊るしあげて曝しものにして終わり。いったいどっちが暴力的なんだか。
この映画のなかで、自傷行為が癖になってる女の子が入校してくるんですが、結局学校の屋上から飛び降りて死んでしまうんですね。
するとマスコミが校長を取り囲んで「責任はないと言い切れるのか」とか「管理体制に問題はなかったのか」と問い詰めます。校長は「あんな突発行為を止めることなど不可能」と言い切ります。そうでしょう。そんなことで責任を問われたら誰も問題のある子どもを受け容れる人がいなくなってしまいます。
校長は「いまは生徒のほうが教師より上になってしまっている」と指摘し、私も常日頃からそう思っているので我が意を得たりという気持ちでした。何しろ生徒に教師の評価をつけさせるというんですから。校長は「教え方じゃない。憶え方だ」と言いますが、その通りだと思います。「教え方が悪い」とかいう生意気な子どもは殴ってでもわからせるべきです。
懲役を食らった校長に対し教育に関して講演してほしいと依頼する人がいて、聴講しに来る人がいるんですから、やはりあの校長の言には一理あると思います。いまだに「この子をお願いします」と全国の親御さんから多くの子どもが連れられてきてますし。すべての言葉が正しいとは思いませんが、根っこは間違ってない。
自殺した女の子について校長は、「ああいう子がなぜ生まれたのか、根っこを見てくださいよ。あの子をああいうふうにしてしまった原因は何なのか、そこを追究してもらいたい」
この言葉を「逃げ」と取る人間が減り、「まっとう」と受け取る人が増えることを切に望みます。


戸塚ヨットスクールといえばある年代以上の人なら誰でも知ってますよね。訓練生に激しい体罰をしたせいで死亡してしまい、30年前ものすごく話題になった学校です。
あのとき私は子どもだったので「こんなところに入れられたらいやだ」ぐらいにしか思ってませんでしたが、長じてから校長が『TVタックル』に出て独自の教育論を話すところなどを見ていると、「あ、この人ってすごくまともなんじゃないか。あのときのマスコミとか有識者と言われる人のほうがおかしかったんじゃないか」と思うようになりました。
この映画の作り手は明らかに校長寄りの立場ですが、できるだけ中立を保とうとしていることが窺われ、好感がもてました。しょせん神ではない人間に「中立」など不可能ですが、それを目指すことはドキュメンタリー作りにおいては大事なことでしょう。でないと一方の主張を押しつけるだけのお説教になってしまいます。
この映画の場合、そういう「作品の作られ方」よりも、やはり校長の言っていることは是か非か、というところですね。
見る人の数だけ主義・主張があるんでしょうが、私もやはり校長寄りの立場です。
昔の映像を見るとかなりひどい体罰が行われていて、あれはいくら何でもひどいと思いましたが、「子どもは何もわかってないんだから体で憶えさせなきゃいかん」という主張に意義はありません。
いまじゃ「体罰は絶対ダメ」というイデオロギーが支配的ですが、体罰そのものがいけないという論調にはまったく同意できません。行きすぎた体罰がダメなんであって、教育的配慮からくる体罰は構わないと思います。私自身、教師から張り倒されたことがありますが、いまはよかったと思ってますよ。体で憶えさせないとこいつはダメになる、という愛情があったから。クラスメイトが体罰を受けても「あれは殴られるほうが悪いね」とみんな言ってたし、PTAも問題にしたりしませんでした。
そういえば、中学時代に好きだった体育教師が10年ぐらい前に自殺したんですが、その先生はたまに体罰をする人でした。でも、行きすぎた体罰をしたことはありません。愛情のある体罰しかしなかった。問題になることはまったくありませんでしたが、世が移り、体罰そのものがダメな時代になって自分の教育哲学の行き詰まりを感じたのか自殺してしまいました。いい先生だったのに。
殺したのは誰だ!!
マスコミやPTAですよ。馬鹿な大人たちですよ。
新聞にはたまに、「○○市の××学校で体罰」と見出しが出ます。その体罰がどういう経緯でなされたものかなんて少しも検証しない。体罰が報告された、それは殴ったほうが悪いに決まってる、記事を書いて吊るし上げよう。
殴るべきでないときに殴ったのなら殴ったほうが悪いに決まってますが、殴られたほうが悪い場合だってある。その可能性をいっさい調べずに暴力を振るったというだけで吊るしあげて曝しものにして終わり。いったいどっちが暴力的なんだか。
この映画のなかで、自傷行為が癖になってる女の子が入校してくるんですが、結局学校の屋上から飛び降りて死んでしまうんですね。
するとマスコミが校長を取り囲んで「責任はないと言い切れるのか」とか「管理体制に問題はなかったのか」と問い詰めます。校長は「あんな突発行為を止めることなど不可能」と言い切ります。そうでしょう。そんなことで責任を問われたら誰も問題のある子どもを受け容れる人がいなくなってしまいます。
校長は「いまは生徒のほうが教師より上になってしまっている」と指摘し、私も常日頃からそう思っているので我が意を得たりという気持ちでした。何しろ生徒に教師の評価をつけさせるというんですから。校長は「教え方じゃない。憶え方だ」と言いますが、その通りだと思います。「教え方が悪い」とかいう生意気な子どもは殴ってでもわからせるべきです。
懲役を食らった校長に対し教育に関して講演してほしいと依頼する人がいて、聴講しに来る人がいるんですから、やはりあの校長の言には一理あると思います。いまだに「この子をお願いします」と全国の親御さんから多くの子どもが連れられてきてますし。すべての言葉が正しいとは思いませんが、根っこは間違ってない。
自殺した女の子について校長は、「ああいう子がなぜ生まれたのか、根っこを見てくださいよ。あの子をああいうふうにしてしまった原因は何なのか、そこを追究してもらいたい」
この言葉を「逃げ」と取る人間が減り、「まっとう」と受け取る人が増えることを切に望みます。

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