『カプリコン・1』(1977、アメリカ・イギリス)
脚本・監督:ピーター・ハイアムズ
出演:エリオット・グールド、ジェームズ・ブローリン、サム・ウォーターストン


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脚本も書き、撮影もこなすことのある(今回はやってませんが)職人監督ピーター・ハイアムズの個性が出た、実にアメリカ映画らしいアメリカ映画です。(以下ネタバレあります)

allcinemaでは「初の有人火星探査船カプリコン1に打ち上げ直前トラブルが発生、3人の飛行士は国家的プロジェクトを失敗に終らせないため、無人のまま打ち上げられたロケットをよそに地上のスタジオで宇宙飛行の芝居を打つ事になる……」とあらすじが紹介されていますが、「3人の飛行士が芝居を打つ」んじゃなくて、国家の命令によって「芝居を打たされる」んですよね。小さいけれど大きな違い。

当然、国家の命令ですから逆らうことなど到底不可能。最初はしぶしぶ芝居を打ちますが、だんだんと反抗心が芽生えてきて脱走します。

ここまでは、陰謀を暴きかけたNASAの職員が消されたり、どうもおかしいと探り出した新聞記者が消されそうになったり、いかにもな陰謀サスペンスの展開なんですね。「陰謀顔」のハル・ホルブルックが黒幕でなければここまで盛り上がらなかったんじゃないかと思えるほど、ハルさんの顔が活きてますね。ここまでは本当に面白いんですよ。

が、後半は国家が差し向けた軍のヘリコプターとのアクションシークエンス満載のB級アクション映画へと変貌します。

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私は、この展開が何度見ても好きになれなかったんですよね。国家の陰謀が根底に流れている映画なのに、陰謀顔ハル・ホルブルックがほとんど出てこないというのは、やはりどう見てもつまらない。というか淋しい。「もっとハルさんを出して!」と思ったのは私だけではないはず。

オーラスがどうなるかは未見の方のために伏せておきますが、何とも陰謀映画には似つかわしくないほど爽やかな幕切れといいますか、すごく笑えるんですよね。あそこで笑えるかどうかでその人の笑いの価値観が測れると思います。笑わない人はたぶんまったく笑えないでしょう。笑えるからいいと言っているのではなく、あくまでも価値観の違いです。

だから、後半のヘリコプターと農薬散布機(テリー・サバラス特別出演!)とのチェイス・シーンは前半の陰謀サスペンスとラストの喜劇的結末を架橋するための「幕間」のような役目を果たしているのかな、と今回初めて思いました。

譬えるなら、ヒッチコックの『サイコ』で、主人公かと思われていたジャネット・リーが有名なシャワーシーンで殺されてアンソニー・パーキンスへと主人公の座が移りますが、その移行において、アンソニー・パーキンスがジャネット・リーの死体を始末する場面が異様に長く描かれます。あの場面を簡単に処理してしまったら「主人公の入れ替わり」という一大発明がスムーズになされなかったと思われます。あれだけの時間をかけてアンソニー・パーキンスだけを映し続けたからこそ観客は主人公ジャネット・リーの死を受け容れ、新主人公アンソニー・パーキンスの到来に何ら不自然を感じなかった。

とするなら、この『カプリコン・1』においての、あの不必要なまでに長いと思われるヘリコプターのシーンも、陰謀サスペンスの結末としてはあまりに爽やかで笑えるラストシーンを観客に受け容れさせるためのものだったんじゃないか。陰謀顔のハルさんをほとんど登場させなかったのもそのためなんじゃないか。

この手の映画で、123分という上映時間はすごく長い。かつてのハリウッドなら95分がせいぜいでしょう。しかし、それを言うなら『サイコ』だって90分で語れる内容です。それが110分になってしまったのは、ひとえに主人公の入れ替わりを納得させるために必要な場面を入念に描いたからでは?(ジャネット・リーが殺される直前のアンソニー・パーキンスとの会話も異様に長かったし)

この『カプリコン・1』も、あのラストシーンを成立させるためにこの長さが必要だったのだと思われます。ヒッチコックはおそらくすべて計算ずくでしょうが、傑作と駄作の落差が激しいピーター・ハイアムズがどこまで自覚的だったかはわかりません。おそらくは偶然の産物……と言ってしまったら怒られますかね。


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