2021年03月26日

ついに最終回を迎えた『おじさまと猫』。以前書いた感想では「ある危惧がある」と書きましたが、杞憂に終わってくれましたね。


前回までの記事
『おじさまと猫』に怒り心頭!(去勢・避妊手術について思うこと)
『おじさまと猫』にボロ泣き!(浜田信也という素晴らしい役者さん)


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ある危惧というのは、草刈正雄が心の傷のためにピアニストとして舞台に立てないということでした。正確には、再び舞台に立てるかどうかが問題になっていることでした。

もしかすると、ふくまるによって心を癒された草刈正雄がピアニストとして復活するエンディングが描かれるのではないか。

それでいいじゃないか。という声が聞こえてきそうですが、私はそれは一番やってはいけないことだと思います。

なぜなら、それはナチスの優生思想と同じだからです。

ふくまるのおかげで立ち直れた。それは美談のようでいて、ふくまるを人間が幸せになるための「手段」としてしか捉えていません。

カントの有名な定言命法に、

「汝の他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

というのがあります。

ふくまるを手段としてのみならず同時に目的として扱わなければ『おじさまと猫』はナチスと同じ汚れた作品に堕してしまいます。

なぜなら、手段として扱えば、それは人間の役に立つペットだけがペットであるということになってしまうからです。何の役にも立たない障害者を片っ端から虐殺していたナチスと何も変わらない。


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確かに、主人公・草刈正雄はピアニストとして復活しました。

でもそれはふくまるではなく周囲の人間のおかげですよね。そりゃふくまるがもたらした縁ではありますが、それでもふくまるが草刈正雄を救ったわけでは少しもありません。

逆に、前回描かれたのは飼い主をとことん心配させる厄介者としてのふくまるでした。


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行方不明になり、みんなで探してやっとのことで見つかったときは死にかけで、何とか復活しましたが、ふくまるは人間の役に立ってないどころか迷惑と心配ばかりかけています。ここが素晴らしい。

前回感想を書いた第9話で、ふくまるが流れ星に「パパさんへの願い」をかけるシーンがありました。あれはないほうがよかったかな、と思います。とことん自分勝手で手のかかる存在として描いてほしかった。だって犬や猫なんて自分のことしか考えていませんよ。うちの犬を見ていればわかります。

だから升毅の言う「ペットは飼い主の荷物を背負ってくれるんだ」というのにも同意できません。そんなのは人間の勝手な幻想です。

大事なのは、この幻想をおそらく草刈正雄はもっていないことです。迷惑ばかりかけて、心配ばかりかけて、とにかく手がかかってしょうがないけど、でもふくまるに出逢えてよかった、とおそらく思っている。

役に立つからいとおしいのではない。何の役にも立たないけどいとおしい。

思えば、ふくまるは「人間の役に立つために生み出された猫」でした。ペットショップで売られている犬や猫はブリーダーを儲けさせるために産まれ、そして売られます。

が、ふくまるは売れ残っていた。役に立たない猫は殺される運命。そこを草刈正雄が拾ったのです。もしかするとあれは草刈正雄だから可能だった邂逅なのかもしれません。

ピアニストとして役立たずになった男と、ブリーダーの儲けに役立たなかった猫だからこその出逢い。


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役になんか立たなくていい。そばにいてくれればいい。

心が洗われる素晴らしい作品をどうもありがとうございました。










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2021年03月23日

『婚前特急』の前田弘二監督最新作『まともじゃないのは君も一緒』がやたら面白かった。

何しろ脚本が『さよなら渓谷』『詐欺の子』の高田亮さんということで期待値が高かったんですが、軽く越えてくれました。

でも、最初の30分、いや、もしかすると1時間くらいはイライラしっぱなしでした。


なぜこんなにも画面が暗いのか
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冒頭の清原果耶が友人たちと無駄話しているシーンにしても、この予備校内のシーンにしても、わざわざ曇天で撮ってたり、ブラインドを下ろしたりしてましたが、これがイライラの原因でした。

だってこんなことをすると否が応でも主役のクロースアップを撮るとこうなってしまいます。


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顔にほとんど光が当たっていません。この画像ではわかりにくいですが、表情が読み取りにくいクロースアップやツーショットが多すぎて辟易しました。

ところが……


物語があまりに面白い!
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素数の謎を考えるのがたまらなく楽しいという、いかにも数学好きな感じの成田凌は、一緒にご飯に行こうと言ってきた女の子を普通なら連れて行かない店に連れていき主役の清原果耶の顰蹙を買うんですが、清原果耶はいわば「普通教」という宗教の信者。そしてその宗旨に疑問をもち始めている。

疑問をもち始めたから成田凌に興味をもち始めたのか、成田に興味をもったから自分の宗教に疑問をもち始めたのか、それはわかりません。

啐啄の機というやつかもしれない。

普通であることにこだわり、世間に合わせることばかりを考え、自分というものがない。そんな清原果耶が憧れる横文字肩書が似合いそうな小泉孝太郎もクリシェばかりを使っている。清原果耶はセミナーで彼が次に何を言うかを簡単に予測できる。

小泉孝太郎は清原果耶を大学生と勘違いして抱こうとしますが、高校生と知って急に萎える。清原果耶という女にげんなりしたのではない。彼女に付いている「情報」が彼を萎えさせた。体で感じるはずのものを頭で考えてしまっている。

だから小泉孝太郎と同じ思考回路だった清原果耶は「何を食べたいか」ではなく「他の人ならどういう店へ行くか」というふうに考えてしまう。

数学にうつつをぬかすなんてダサい。という「情報」なんて本当は彼女にとってはどうでもよく、むしろそんな「情報」を吹き飛ばしてくれそうな成田凌に恋をした。

同じ高校の女子と彼女とつきあう男子に「どういうところが好きなのか」と問うと、「彼女が働いているバーでちょっと手伝ったら、カウンターの中っていつもと違う距離感だし、見える風景も違うし、何かそんなんでお互い魅力的に見えて」みたいな答えが返ってきますが、まさしくそういうものでしょうね。


「情報化社会」の荒波の中で
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解剖学者の養老孟子先生はかつて、

「人間は生きているから絶えず変化するものなのに、俺はこういう人間、私はこういう人、と自分や周りの人間を変化しない『情報』として捉えるようになった。それが『情報化社会』です」

という意味のことを言いました。

バーのカウンターで恋心が芽生えた二人は(その恋心もやはり啐啄の機のようなものだったのでしょうが)相手を変化する人間として見ています。「普通」という「情報」に振り回される清原果耶には最初はそれがまったく理解できない。


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でも成田凌に告白した彼女はもう普通教という邪教の信者でもなければ、俗物・小泉孝太郎に憧れる頭の弱い女の子でもありません。

清原果耶と成田凌が出逢ったこと。それが高度情報化社会における「啐啄の機」でした。

クラスの友だちの言動に疑問をもち始めたときに成田凌と出逢ったのは、これ以上ない最高のタイミング。

かつて蓮實重彦は、

「映画というのはつまるところ人と人が出逢うことだ」

と語っていましたが、まさにその通りの映画でした。


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まともじゃないのは君も一緒 (朝日文庫)
鹿目けい子
朝日新聞出版
2021-02-05







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