2021年06月13日

映画学校の面接試験で「嫌いな映画は何?」と訊かれて即座に『ニュー・シネマ・パラダイス』と答えた私は、同じ好みのポンポさんが一瞬で大好きになりました。ツイッターでやたら評判のいい『映画大好きポンポさん』。


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まだ小学生みたいな見た目のポンポさんは伝説的映画人の孫娘で、幼い頃からお爺さんの膝の上で映画の素養を身につけたニャリウッドのプロデューサー。でもポンポさんは主人公ではなく、主人公は映画が好きすぎて誰も友だちがいなかったマニアックな映画青年のジーン君。


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彼に15秒の予告編を作らせたらなかなかだったので監督をさせることに決めたポンポさんは、映画は90分以内でないと不満。だから2時間を超える『ニュー・シネマ・パラダイス』が嫌いだとか。私が嫌いな理由は長いからじゃないけど)

編集は映画演出を学ぶうえで非常に重要なので編集の腕を買って監督に起用というのはわからないではないけど、10年休んでいた伝説的名優の復帰作に演技指導経験のない若造を抜擢というのはちょいとリアリティがないような。

とはいえ、編集を重んじるポンポさんの映画らしく、この『映画大好きポンポさん』は超絶的なまでの編集技術でどんどん話を進めていきます。

しかし、あまりに編集に重きを置いてやしませんかね? ジーン君が演技指導するシーンも皆無だし。

編集に打ち込むジーン君は「取り直しが必要」とポンポさんに頭を下げ、ポンポさんは表向き怒ったふりをするけど、監督は傲慢でわがままでないといけないと考えているため実はうれしいとか、撮り直しが押しすぎて0号試写に間に合わず出資者が去っていき、その窮地を旧友のバンカーが救ってくれるとか、話がうまくいきすぎだけど、なぜかご都合主義とは思わず、ノリのいい物語展開に膝を打っていました。

ところが、理解ある頭取のおかげで資金繰りもうまくいき、あとは新たな0号試写の日に間に合わせるだけというときにジーン君が倒れてしまう。でも、自分の映画を完成させるために病院を抜け出して決死の覚悟で完成させるんですが、あのへん何かおかしい。

主演女優ナタリー・ウッドワード(←この名前は笑った)があとどれぐらい切らないといけないのか、と訊くと、3時間は、と答える。映画は90分のポンポさん製作映画なのだから、90+180で270分あるわけですよね。それを90分って3分の1じゃないですか。そんなに切らないといけないというのは、そもそも脚本が長すぎるんですよ。書いたポンポさん自身に問題があると思う。なぜ90分至上主義者がそんなに長い脚本を書いたのか。なぜ誰もその時点で疑問を呈さなかったのか。

それに、ニャカデミー監督賞を晴れて受賞することになるジーン君はスピーチでこの映画で一番自信のあるところはと訊かれて「90分に収めたところです」と答えるんですが、「映画は90分!」とは『見るレッスン』でも蓮實重彦が言ってましたが、それには異論はないものの、あまりに「言いたいこと」が前面に出てしまっていて白けました。

とはいえ、つまらなかったわけではなく、エンドロールを除くとちょうど90分のこの『映画大好きポンポさん』は楽しかったです。

でも一番楽しかったのは物語ではなく、あくまでも編集の巧みさで、次が寒色と暖色のバランスのいい画作りでした。


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ポンポさんの髪の毛と衣裳の配色がとてもよく、それは上着が暖色系、ズボンが寒色系のジーン君も同様。


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こういう何でもない場面でも色のバランスがとてもよかった。

だから、もうちょっと内容にリアリティをこめたり、編集のことばかりでなく演技指導とかカメラワークとかにも触れてほしかった。録音部出身としては、音のデザインに関して一言もなかったのは非常に不満。


映画もまた編集である――ウォルター・マーチとの対話
マイケル・オンダーチェ
みすず書房
2011-06-22






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アンソニー・ホプキンスが大本命チャドウィック・ボウズマンをかわして2回目のアカデミー主演男優賞に輝いた『ファーザー』。


父親が認知症
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私の場合、父親が認知症なので他人事じゃないし、予告編などを見るかぎりではアンソニー・ホプキンスのほうがよっぽど重症らしいので、父親の未来を見せてもらうつもりで見に行きました。


不条理ホラーとして出色の出来映え
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見始めてしばらくしてから驚きました。想像していたのとぜんぜん違ったので。

何しろ、アンソニー・ホプキンスの娘はオリビア・コールマンだったのに、ある場面ではオリビア・ウィリアムスに変わる。彼女の夫として登場した平凡な風采の男は実は夫ではなく、本当はルーファス・シーウェルが夫役。

つまり、アンソニー・ホプキンスは認知症なのでわからなくなっているんですね。オリビア・コールマンが娘でルーファス・シーウェルがその夫と書きましたけど、それも怪しい。逆かもしれない。本当は娘のオリビア・ウィリアムスが介護人に見えたり、老人ホームの職員に見えたりしているのかもしれない。

いずれにしても、認知症の人の不安と恐怖を言葉で説明するのではなく、ちゃんと映像として見せてくれるので「映画」の悦びに満ち溢れていましたね。「これはまったく新しい形のホラーだ!」と感激しながら見てましたから。


『タイタニック』
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しかし、見終わると何だか釈然としません。劇場から出てきて頭に浮かんだのは『タイタニック』でした。

あれは確かに面白い映画ですが、面白がっちゃいけないと思うんですよ。正確にいえば「観客が面白がるように作ってはいけない」。

だって、2000人近くの人が実際に命を落とした未曽有の大惨事を扱ってるんですから。現実の悲劇を架空の悲恋物語の「背景」として利用するなんて倫理的に許されはずがありません。


社会問題に材を取った映画として
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この『ファーザー』も同様かと問われると、許せないとまでは思いません。実際、認知症がどういうものかわからない人が疑似体験できるように作られているので、そういう意味では価値の高い映画だと思います。

でも、やっぱり『タイタニック』と同様、「認知症という社会問題を娯楽として消費している」という後ろめたさから逃れることができません。

娯楽映画だから気軽にこの映画を面白がる人がいる。その人たちの口コミでもっと多くの人が見に来る。実際そういう感じでミニシアター系としてはヒットしているようです。

認知症を娯楽映画の題材として扱うと、気軽に映画を楽しみたいだけの人々を啓蒙できる利点があります。一方で、娯楽として消費して、あー面白い映画を見た! で終わってしまう危険性も高い。社会問題を社会問題として見ず、認知症ってコワイねと他人事として見て簡単に忘れてしまう可能性が高い。


ラストシーンのあとが見たかった
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何だかんだの末に、娘夫婦が遠くへ引っ越してしまい、アンソニー・ホプキンスは老人ホームへ入れられます。それもいつ入れられたのかわからない。気がついたら施設にいて大混乱。自分のみじめな境涯に耐えられなくなり、職員の胸の中で泣き崩れます。

私はこのラストはいかがなものかと思いました。父親が実際に認知症だからなのか、本人が自分の病気に絶望するラストはものすごく中途半端な気がしたんです。

自分の病気に怯え、泣き崩れるシーンは物語の中盤、いわゆるミッドポイントに設定するべきではなかったか。少なくともターニングポイント2に設定して、そこからの第3幕は、自分が認知症と知った主人公が病気にどう立ち向かっていくかを見せてほしかった。

あそこで終わったのでは、それこそ「認知症を娯楽として消費している」ことになってしまうと思うんです。

具体的にどういうシーンを描けばいいのかはまったく思いつきませんが、主人公が病気に立ち向かい、何とか克服していく姿を描いてくれれば満足できたんじゃないか。

同じ泣き崩れるラストでも、立ち向かって克服しようとしたけどダメだった、で泣き崩れるんであればまだしも感動があったように思います。


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