2021年04月03日

『男たちの旅路』第4シリーズの第2作「影の領域」を久しぶりに見ましたが、思い知らされたのは、ある高名な脚本家が言った「善と善の対立がドラマを深くする」ということでした。


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水谷豊と入れ替わりで若者代表として入社した清水健太郎と岸本加世子の兄妹が本格的に登場するこの物語で問題になるのは、梅宮辰夫士長が汚い仕事に手を貸していた、ということです。それをめぐって我らが司令補・鶴田浩二が梅宮士長と対立するんですが、これが「善と悪」ではなく「善と善」の対立になっているんですね。

確かに梅宮辰夫がやっていたことは悪いこと。あろうことか警備会社が盗みに手を貸していたというんですから。でも彼は金を受け取っていない。あくまでも会社のためにやったと。汚い仕事だからといって断れば大口の契約を失う。ただでさえ傾きかかっている会社にとっては大きな痛手。梅宮士長はあくまでも「愛社精神」から手を汚すわけです。決して私腹を肥やすためではない。ここが大事。

そして、スコッチの輸入販売をしている会社の営業マン、加藤健一の言う「相手があくどいことをやってるんだからこっちもあくどい手で対抗せねば」という言葉にも一分の理がある。

彼らは生活のためにやっている。生きるためにはこの程度のことは仕方がない。

梅宮士長が言うように、「戦争の頃はみんなそうだった。配給だけでは生きていけない。だからみんな闇をやった。だからって日本人全員が犯罪者なのか」と。『県警対組織暴力』で菅原文太刑事が言いますね。「あの頃は下は赤ん坊から上は天皇陛下までみんな闇米喰うとってんぞ」と。言われる相手は奇しくも梅宮辰夫でした。

彼らには彼らなりの言い分がある。それが「善」ということです。「善人」という意味ではありません。その人なりの言い分があることを高名な脚本家は「善」と表現し、逆に言い分のない言動を「悪」と表現しました。

「善と悪の対立にしてはいけない。善と善の対立がドラマを深くするんだ」

対立するどちらの言い分にも理がある。そこを掘り下げていけばドラマは深まるのになぜおまえはそうしないのかとえらく叱咤されたものです。

むろん、このシリーズのことですから、当然最後は我らが司令補・鶴田浩二が梅宮辰夫のやっていることは見逃せない、「こういうことをうやむやにしてはいけない」と正論を振りかざしますが、それでも最後は梅宮辰夫に自分を殴らせる。

「建て前ばかり言う奴は腹が立つからな」と自嘲気味に笑う鶴田浩二の脳裏にあったのは、やはりこの男でしょう。


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前回の「流氷」で水谷豊に「俺はあんたらの世代には責任があると思うね。もっと戦争はきれいごとばかりじゃなかったって言うべきだよ」みたいなことを言いますが、「影の領域」は見事なアンサーになっています。

戦争の頃はみんな闇をやっていた。闇をやらなければ食っていけなった。

それはそうでしょう。でも、戦争を理由に悪事に手を染めることを許しては、同じ特攻隊で死んだ戦友たちに申し訳が立たない。何より「あんたらの世代には責任があると思うね」と言った水谷豊に対しての回答を示さねばならない。もう二度と逢うことはないだろう友人(「友人」といって差し支えないでしょう)に対して、「おまえが言ったやり残したことはこれだ」と示さねばならなかった。

鶴田浩二としては池辺良社長の言うことももっともだと思う部分もあったはずです。彼だって愛車精神の塊ですから、梅宮士長の言動にうなずけるところもあったはずです。「闇をやらなければ食っていけなかった」という言葉に一番共感できるのは戦中派の池辺社長と鶴田浩二のはずなのです。

でも、鶴田浩二は、清水健太郎と岸本加世子兄妹に対して、その向こうにいる水谷豊に対して、「人生なんてそんなもんだと高をくくっちゃいけない」と言わずにはおれなかった。ここで俺が建て前を振りかざさずしていったい誰がこの子たちに建て前を教えてやるのか、と。

「学校で本音なんか教えちゃいけません。学校は建て前を教えるところです」とは解剖学者の養老孟司先生の言葉ですが、鶴田浩二も見事に若者たちに建て前を教えてやることができた。

しかしその代わり梅宮辰夫には殴らせてやった。あいつの言い分もわかる。でも、うやむやにしてはいけないという葛藤。そこにはもしかすると「もう二度と悪事を正当化できる戦争などしてはいけない、という願いもこめられていたのかもしれません。

まさに「善と善」の深すぎるほど深い対立です。こういうのを名人芸というのです。

私はこういう技を会得することが叶わなかった。悔しさを噛みしめて筆を擱きます。


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2021年03月28日

『怪奇大作戦』考察の第2弾は第7話の「青い血の女」。

製作当時(1968年)すでに「独居老人」とか「現代の姥捨て山」とかそういうのが問題になっていたんですね。50年以上前にすでに核家族化が始まっていたことは知識としてしか知らなかったので驚きました。


物語のあらまし
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SRIの三沢(勝呂誉)の旧友の周りで殺人事件が起こり、どうもその旧友の父親(浜村純)が関与しているらしいことがわかる。浜村純は愛情をたっぷり注いで手塩にかけて育てた息子がいまでは自分をないがしろにし、妻と二人で仲睦まじく暮らしていることを理由に息子を憎んでいる。

三沢も襲われるが、犯人が逃げたと思われるガラス窓はほんの小さな子どもくらいしか通れないほどの穴が開いているだけ。どうやら実行犯は浜村純の人形らしいのだが、人形が自分で人殺しなどするはずがない。

操っているのは浜村純かと思ったら、実は彼が現在愛情を注いでいる女。

しかし、その女の正体も……


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人形だった!

浜村純の殺意を察知して人形仲間に殺人をやらせていたというすごいオチ。しかし、彼女もまた屋上から身を投げて自殺する。「自分もいつかはお爺さんを捨てて出ていく。だから……」と言って。


愛情とその裏返しの憎しみ
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つまり、すべては浜村純の「過剰な愛情」が原因だったというわけです。

いくら愛情を注いでもいつかは子どもは親のもとから巣立つ。それを親は祝福せねばならないのに、自分を捨てたと逆恨みする。おそらく、あの息子はそんな父親がうっとうしかったのでしょう。私も同じ境涯だからよくわかります。

ずっと以前、毎日新聞の万能川柳の年間大賞に、

「深いのは どっちだろうか 愛と憎」

というのが選ばれました。浜村純も愛情が深すぎて息子を憎んでいる。殺したいほど。もう愛しているのか憎んでいるのかどっちなのかわからない。いや、どっちもなんでしょう。

そして、息子と同じ思いをあの「青い血の女」も感じていたのでしょう。過剰な愛情が疎ましい。でも浜村純のことは好きである。だから彼を捨て、自分への殺意を抱く前に自分のほうが死んでしまえばいい。

人形が考えるにはあまりに切なすぎる思いですが、わかる気がする。


神と悪魔の関係に似る
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キリスト教の世界観では、悪魔は神が作ったそうです。そうしないと都合が悪いですよね。神がこの世のすべてを創造したことになっているのだから。

でも、善なる神がなぜ悪魔を作ったのか、という疑問が湧きます。

そのために考え出されたのが「堕天使」という概念です。

神の怒りを買った天使が地獄に落とされ、悪魔となってよみがえった、と。


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子どものために注いでいた愛情が憎しみに変わるのと似ていますよね。いや、キリスト教の理屈っぽい考え方より、親の過剰な愛情が子どもを苦しめ親を捨てさせる。捨てられた親は子どもを憎む。

という愛情が憎しみに反転するこのドラマを見るほうが「善が悪を生むのだ」というこの世の真理に容易に到達できると思うのは私だけではありますまい。

そして、架空の存在である人形は親を思えばこそ自死した。しかし現代の姥捨てではそのような美談はありません。悪魔も自殺したりしません。神を殺そうと狙っている。あんな親なんか死んでしまえばいいと願う子どものように。

「あれ(青い血の女)は何だったんだ?」という感想がネット上にはあるようですが、あれは現代の姥捨てにおける美談はファンタジーでしかありえない、という作者たちの諦観の象徴だと思います。


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