聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

SF

『スターウォーズ』が好きになれない理由(宗教と体内時計)

20160114072005

いま最新作が公開中の『スターウォーズ』シリーズ。

私は少しも好きになれないので最初の三部作しか見てないんですが(実はエピソード1と去年の7も見に行ったんですけど最初から乗れずまったく覚えていません)なぜ好きになれないのかを考えてみました。

これは「SF」じゃないんですよね。

SFとはつまり「sience fiction」。よく「空想科学小説」とかって訳されますけど、この語の要諦は「科学」にあると思います。


8442e09b


最初の三部作の主人公ルーク・スカイウォーカーが生まれ育った星は、ご覧のように太陽が二つあります。

地球にはもちろん太陽がひとつしかありません。なぜジョージ・ルーカスが二つにしたのかは、おそらく、地球とは違う別の惑星であることを示したかったとか、太陽が二つあるほうが画的に面白いだろうとか、単純な理由なのでしょう。それが悪いとは少しも思いません。

が、どんな理由であれ、「太陽が二つある惑星」と設定した以上は、そこに生まれた知的生命体は地球人とは違うということを科学的に探究すべきだと思うんです。





神様

地球では一神教が幅を利かせています。それはおそらく太陽がひとつしかないからでしょう。だから太陽が二つある世界では「二神教」が幅を利かせている可能性が高い。

地球には多神教もありますが、この「多」というのがいくつ以上を指すのか判然としません。しかしながら、数学の世界では、三角形以上はすべて「多角形」です。

であるならば、「一神教」と「多神教」の間にある唯一の宗教が「二神教」になると思われます。

いったい二神教とはどんな宗教なのか、太陽がひとつしかない世界で生きる私たちにはまったくわかりませんが、『スターウォーズ』ではそれを探った形跡がまったくないんですね。

もうひとつ問題があります。「体内時計」です。

太陽が二つあるということは、それだけで生命体にものすごい影響を与えると思われます。

地球人の体内時計は25時間。毎朝日光を浴びるたびにリセットされるので、地球の自転周期24時間に合わせて生きていますが、太陽が二つあると厄介ですよね。朝起きてひとつ目の太陽でリセットされて、さらにまた数時間後にリセット・・・寝ようにも寝られないのでは?

太陽が二つあるというだけで自然界はかなり荒れ果てた感じになると思われます。





BUha3zFCYAAnl9L


ルークの星に衛星が何個あったかは憶えていません。それを示す映像があったかどうかもわかりませんが、仮に衛星が二つあったと仮定すると、これまた厄介です。

地球人は月の影響をかなり受けています。だから、「肝」「腎」「腕」「脚」など、体の部位を表す漢字には「月」が入っている。

海もそうですよね。月の引力によって干潮になったり満潮になったりしますが、月が二つ以上あったら、海は大荒れでしょう。航海なんかできないんじゃないでしょうか。

それ以上に、海の中の生物も落ち着いて棲息することができないような気がします。

ということは。

太陽が二つ、月が二つある惑星では、生命がまともに生きていくことができない。それはつまり、「地球のように水と酸素がふんだんにあっても、太陽がひとつ・月もひとつの惑星でないと生命は生まれない」ということなのかもしれません。

ただ、これはあくまでも、太陽がひとつ月もひとつの惑星に住む私たちだから「そんな星ではまともに生きられない」と思うだけであって、その星に住む宇宙人にとってみればごく普通の生活を営んでいるだけかもしれません。

でも、その「ごく普通の生活」っていったいどんなもの?

わかりません。

というか、それを探求するのが「SF」だと思うんですよ。

『スターウォーズ』では、「わからないなりにこう考えてみた」ということをまったく示してくれません。最初から何も考えていないのです。だから好きになれないのです。



『パーティで女の子に話しかけるには』(自由であること)

how-to-talk-to-girls-at-parties-2

話題のジョン・キャメロン・ミッチェル監督『パーティで女の子に話しかけるには』を見てきました。

見終えて思ったことは、誰の言葉か忘れたけれど、

「未完であること、劇的であること、過激であること、芸術でないこと」

という創作の極意を表した四つの言葉を思い出しました。この『パーティで女の子に話しかけるには』はまさにそのような映画でした。

とにかく斬新だし、ラストシーンのあとも永遠に物語は続いていくようになっているし、何より芸術でない。パンクが芸術であってたまるかという宣言。



how-to-talk-to-girls-at-parties-1


何しろ「エル・ファニングが異星人を演じる」という予備知識しかもたずに見に行ったので、開巻早々、何のバンドか忘れたけれどパンクロックがかかり、さらに主人公の部屋にセックス・ピストルズやダムドのアルバムジャケットが飾ってある時点でもっていかれてしまいました。

しかも、あまり好きではないエル・ファニングが画像のようにシャウトしてしまうのね。



nicolekidman


ニコール・キッドマンという当代随一の美人女優にまでパンクさせてしまうミッチェル監督のすごさ。

物語は、異星人が出てきたり、「摂食するか否かという議論」があったり、肉体の乗っ取りがあったり、いろいろ複雑に入り乱れていますが、簡単に言ってしまえば「愛し合っているが住む世界の違う男女が別離の悲しみを経験したのち、女が産み落とした子どもが男のもとを訪れる」という至って古典的かつシンプルなものです。

古典を斬新にしたのは、やはり「パンクロックを通して悲恋物語を謳い上げる」という発想でしょう。

「パンクって何?」というセリフが何度も出てきますが、私自身イギー・ポップやセックス・ピストルズ、MC5やバズコックス、スティッフ・リトル・フィンガーズなどを好んで聴いているものの、あまりその定義はよく知りません。

主人公は「自由だ」みたいな答えをします。他にもいろいろ答えてましたが忘れました。細かい定義などどうでもよろしい。一番大事な「自由」さえ憶えていれば。

古代ギリシア人は、この世界を構成するのは四つの元素であり、それは「空気」「水」「火」「土」で、それらを総称して「四大」と呼びました。

エル・ファニングの星では「6つのコロニー」というものがあるらしく、「心」か「精神」がまずあって、他は忘れましたが、ただひとつ異質だったのが「声」ですね。声がこの世界を構成する大事な要素である、という発想はまさしく異星人のものです。凡百の地球人にはそのような発想はふつう出てきません。

ただ、そういう斬新な発想を可能にする方法がひとつだけあって、それが「自由になること」です。

映画のテーマと作法が見事にリンクしています。

「未完であること~」の言葉の最後に「自由であること」を付け加えてもいいのかもしれません。



ellefanning


セットや衣装、ライティングの配色も素晴らしくて目で楽しめるのも素晴らしい。

昨日の 『女神の見えざる手』の感想 では書くの忘れましたが、最近のアメリカ映画(アメリカ映画には限らないかもですが)には手持ちカメラがあまりに多い。『女神の見えざる手』もカメラが揺れすぎ。だから落ち着いて見られない。

『パーティで女の子に話しかけるには』でも手持ちカメラはあります。でも、芝居場ではちゃんと三脚にカメラを据えて撮っています。おそらく、スケジュールの関係で「絶対に三脚を使う場面」と「最悪手持ちでいい場面」とに分けたのでしょう。実際、手持ちカメラが使われているのは芝居場ではないシーンばかりでした。

しかし、「声」がこの宇宙の最も重要な要素というのはあまりに斬新な発想です。もしかしたら、「音楽」があるのはこの大宇宙の中で地球だけなのかもしれない。だからエル・ファニングたちは地球に来たんじゃないか。

そんな気にもさせてくれる「本物の音楽映画」でありました。

シンクロ率ゼロ! 『シンクロナイズド・モンスター』

annehatheway

この映画には「逆境」がありませんよね。
宣伝惹句には「職なし、家なし、彼氏なし」とあって、確かにそういうダメダメな設定で始まりますが、すぐに解決していまいますから。

偶然にも旧友の男と出会って、彼の酒場で働くことになり、住む家もある。テレビは男が運び込んでくれるし、着の身着のままのはずなのにパソコンはもっていて無料Wi-Fiもある。(どこまで都合ええねん)

彼氏は最後までできないものの、出会ってすぐにチューしかけてくる男と中盤に一夜を共にしますから、その方面でも不満はなさそう。

つまり、惹句にある逆境はすぐに順境になってしまうんですね。

で、次なる逆境がこちら。





シンクロナイズドモンスター1

ソウルに突如出現した怪獣が何と主人公とシンクロしていることが判明。なぜか彼女が動いたとおりに怪獣も動き、怪獣が攻撃されると彼女の同部位が痛む、と。これが第2の逆境。

多数の人を殺していると罪の意識にさいなまれる主人公。この逆境をどのように順境にするのかと思ったら・・・

何と、何も解決しないんですね。

なぜ彼女が怪獣とシンクロしているのか何の説明もありません。映画なんだから大ボラでいいから何らかの説明をしないと見てるこちらは納得できません。

しかも、彼女と怪獣のシンクロ率100%も最後までそのまんま。




シンクロナイズドモンスター2


実は、「第3の逆境」があったんですよね。

彼氏に捨てられた直後に拾ってくれた旧友の男は、こちらは同じソウルに出現したロボットとシンクロしていて、「やっと主役の座が回ってきた」とやりたい放題する始末。なかなかのナイスガイかと思っていたら、とんでもないバッドガイだったという展開自体は悪くないものの、物語全体からすると、この「第3の逆境を解決するために第2に逆境が利用されている」だけなのです。

しかも、彼女を捨てたはずの彼氏が連れ戻しに来たりとか、いったいこの映画は何をやりたいのか少しも見えてきません。


シンクロナイズドモンスター3


そういえば、冒頭にも肩すかしがありました。

主人公がパソコンをもっているということ自体がよくないと思うのですが(パソコンは彼氏のもので、まとめられた荷物の中にネットに接続できるものが何もないほうがよかったと思います)それはともかく、ネット動画でソウルに怪獣出現を知った彼女がのちのバッドガイに電話をすると、「それって9時間前の話だろ」と言われますよね。

あそこまで主人公に感情移入して見ていたこちらとしては冷や水を浴びせられたように興ざめしました。

やはり、男が拾ってくれたとき、車のラジオで「ソウルで怪獣出現!」のニュースを聞くべきだと思うんです。オーソン・ウェルズの「火星人襲来」を引き合いに出して「これはラジオドラマよ」と笑っていたら、酒場に到着してテレビを見るとほんとに出現していた! えええーーーーーーーーっ!!

というように、主人公や作中人物みんなと一緒に驚きたかったんですがね。

だから、私が言う「シンクロ率ゼロ」というのは、決して彼女と怪獣のシンクロ率のことではなく、私とこの映画とのシンクロ率のことです。

少しも乗れなかった。期待していたのにとっても残念です。

『リベリオン』(映画で「感情のない人間」を描くことは可能なのか)

2002年、カート・ウィマー監督作品『リベリオン』を見ました。
カート・ウィマーという名前にはいい印象がないためにいままで食わず嫌いしてたんですが、ネット上でえらくほめてる人たちが多いんで騙されたつもりで見てみようと。ちょうどWOWOWでやってたし。

allcinemaに載っているレビューを読むと、「内容的にはつまらないが、アクションはすごい」という意見が大勢を占めています。

が、私は『華氏451』の焼き直しにすぎない内容にも、編集でごまかしているだけとしか思えないアクションにも特に関心はありません。

焼き直しなんて映画はたくさんあるし、編集のマジックで魅力的なアクションシーンに見せかけている映画なんてごまんとありますから。

この『リベリオン』で私が興味を惹かれたのは、「はたして映画は〝感情のない人間”を描くことは可能なのか」ということなんです。

舞台は近未来。第三次世界大戦を経た人類が第四次世界大戦を未然に防ぐため、すべての人間から感情を抜き取ることにした。感情そのものがなければ怒りも憎しみも湧かないから戦争が起きないだろう、と。

感情がないから芸術作品は禁じられます。というか、作品なるものは生み出されていないはずですが、やはり過去の芸術は残っているわけで、感情を消し去る注射をせず、詩集を読み、絵画を楽しむ地下組織があったりするわけです。

主人公はそれらを取り締まる特高警察みたいなもので、「ファーザー」(オーウェル『一九八四年』のビッグブラザーですね)と呼ばれる権力者の命令に従って違反者を容赦なく射殺するのが職務。

そんな彼が、同僚がイエーツの詩集を読んでいたために殺さざるをえなかったり、奥さんが違反者として投獄されていたり、さまざまな要因が絡んだ末に、あるきっかけで注射ができず、慌てて打とうとするも、少し芽生えた感情がそれを拒否し、彼もまた違反者になってしまうわけです。

あとはまぁお決まりの展開というか、違反者を取り締まる組織の人間なのに違反者になってしまった主人公の悪戦苦闘が描かれるわけですが、その過程で、主人公の奥さんが火刑に処され、彼は号泣してしまうんですね。それを相棒に見咎められて逮捕されてしまう。

ですが、何だかんだの末にその相棒自身が逮捕、主人公は釈放されるのです。が、それもまた組織の策謀で、実は相棒が主人公を罠にはめていたことが明らかになります。

ここで大きな問題が見えました。

5d52771b
(適当な画像が見つからなかったのでこんなのですみません)

その相棒とは画像の右側、上から2番目の黒人です。
彼、笑ってますよね。主人公を罠にはめて喜んでいるんです。

おかしい!

違反者以外は何の感情ももたない人間ばかりのはずなのに、なぜ喜ぶという感情が出てくるのか。激怒するシーンさえあります。

芝居のつけ方を間違っている、と思いました。最初は。

最初は、というのは、ここからが本題なのですが、「感情のない人間を演じることはできるのか」、もっと言えば「映画において感情のない人間を描くことは可能なのか」ということなんです。

最初はこうすればいいと思ったんです。

051401

主人公がまだ違反者になる前の表情です。見事なまでに無表情。ここから感情を読み取ることは不可能です。
違反者以外の人物にはすべてこういう鉄面皮のような顔をさせればいいんじゃないかと思いました。が、すぐにそれも間違いだと悟りました。

上の画像は静止画像=写真ですから問題ないとしても、映画は様々な動く写真=映像がモンタージュされてできています。




HAL

2001002

200908042243085f3

2001002

これは『2001年宇宙の旅』で暴走し始めたHAL2000が、人間の唇を読んで、何事か考えているシーンです。

しかし、これはまさに映画のマジックでして、HAL2000というのは物語上は「感情をもち暴走し始めたAI(非常に今日的な主題ですが、それはまた別の話)」ですが、上の画像を見れば「ただの赤い光」にすぎないことがわかります。

「HALは唇を読んでいる」、そして「何事か考えている」あるいは「怒っている」あるいは「ふふふ、人間どもめ、俺が唇を読んでいるとは夢にも思っていまい、とほくそ笑んでいる」と感じるのは観客ですよね。そう感じられるように作者がモンタージュしているんですが、逆にいえば、モンタージュによってただの赤い光が何事かを考えているように感じられてしまうということです。

ただの赤い光ですらそうなのだから、無表情の人間に「感情が宿る」のは無理もないことなのです。宿しているのは見ている者のほうなんですが、どうしたって他の映像と組み合わされると「そういうふうに見えてしまう」。

「クレショフ効果」という言葉をご存じの方もいらっしゃるでしょう。無表情の人間が前後の映像に何が来るかでどういう感情を抱いているか、見る者が勝手に感じてしまうのです。

ゆえに、、感情のない人間を描く、感情をもつことが禁じられた社会を描く、という企画自体が映画においては禁じ手だったわけです。どうあがいたってできない。

脚本やアクションの演出ではなく、この『リベリオン』では、映画人なら本能的に避けるべきだった「企画」にこそ問題があった、というのが私の結論です。


『機械仕掛けの愛』(「心」と「機能」はどう違うのか)

『自虐の詩』で知られる業田良家さんの連作短編集『機械仕掛けの愛』(小学館)。いま出ている3巻まで読みました。

51t6wwVf-2L__SX354_BO1,204,203,200_

どれもこれも面白いんですが、厳選して3篇だけご紹介します。

①『罪と罰の匣』
20141205114205

ドストエフスキーを「人間の愚かさを描いた笑える小説」と看破する警察ロボットが主人公なんですが、突然ある日彼が逮捕されてしまう。

容疑は偽札作り。貧しい人たちのために偽札を刷っていたのだと。「お金持ちは困るでしょう。でも貧しい人たちは救われます。法律を犯しましたが、間違ったことをしたとは思わない」と言い放つ彼は、虫ロボットにされてしまう。メモリーだけ腹に差して。彼の上司だった男がドストエフスキーの文庫本を差し入れてやって、「私には愛すべき部下がいた」と涙を流す場面で終わる。


②『ロボット心中』
news_thumb_kikaijikakenoai

ある男が人間の女ではなく、女型ロボットと結婚すると言い出して周囲は猛反対。それを押し切って結婚するも、周りから奇異の目で見られて何もかも嫌になった男は「俺と心中しよう」と妻に言う。が、妻ロボットは「私に愛情はありません。ただ機能があるだけです」と心中を拒否。
絶望する男にニュースが届けられる。妻ロボットが別の男型ロボットと心中したと。やっぱりロボットはロボット同士がいいのかと思いきや、おそらく「偽装心中」だろうと結論される。男型ロボットの持ち主の女性も心中を迫っていたらしい。主人の命を守るため二体のロボットは示し合わせて偽装心中したと思われる。そんなプログラミングはしてないのに、主人の命を守ることという機能をまっとうした結果、命懸けで主人を守るという行為に出たのだと。

「機能」だって何だっていい、これ以上の「愛情」が他にあるか。と男は声に出さずに言う。


③『丘の上の阿呆』
1

極度の監視社会に生きる男の物語。

体制派と反体制派のどちらもが自分たちの仲間を監視し、裏切り、密告、処刑に明け暮れる毎日。
主人公は、阿呆を装って生きている。そのほうがどちらにつかずにいても笑われるだけですむと。そして、殺された人たちを葬り、花を添えることを自らの責務と考えている。「阿呆のほうが人としてやるべきことをやれる。狂った世の中さ」とネコ型監視ロボットに語る。

そんな彼が、「ああいうどっちつかずが一番ムカつく」と突然殺される。ネコ型ロボットはすでにメモリーを書き換えられており、自分の使命が監視であることを知らない。殺された阿呆を見ながら「俺はいま何をしなければならないのか」と考えた末に、花を一輪ずつ摘んできて阿呆の死体を飾ってやるのだった。

「心」とは何ぞや? 人間とロボットの違いは何ぞや。

人間は心があるが、ロボットにはない。本当にそうだろうか?

ロボットの「機能」と人間の「心」ってひょっとして同じではないのか、人間も神が造ったロボットにすぎないのかも…というのがこの連作短編集に通底する思想・哲学ですね。

言葉では言えない何かがこの3冊のマンガには詰まっています。

はたして、ロボットは言葉では言えない何かを理解することはできるのでしょうか。

第3巻の最後『ロゴスの花』という作品では、ある言葉を繰り返し唱えるようプログラムされたロボットが、自分自身が唱える言葉によってプログラムにない行動に出る姿が描かれます。

言葉によって機能が変わる。言葉によって心が変わる。

ならば、言葉では言えない大切なことをロボットが理解できる日も…?

第4巻ではそのあたりを読みたいですが、どんな傑作が待ってるんでしょう。

LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。