聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

西部劇

『赤い河』(「契約」をめぐる物語)

久しぶりに見ました。ハワード・ホークスの名作『赤い河』。


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この映画が、「ダークサイドに堕ちた主人公が手下の手助けによりヒーローとして復活する“神話”」であることは誰の目にも明らかなのでそれについては何も付け加えることはありません。

今回の発見は、この映画が「契約」をめぐる物語だったということですね。劇中で「契約」や「契約書」という言葉が頻発するのにいままでまったく気がつきませんでした。


カウボーイという「仕事」
まず、物語はジョン・ウェインが牛追いの部隊を離脱するところから始まります。「そんなことは許さない」というリーダーに対し、「俺はあんたと契約してない。途中から加わっただけだ」と平然と去っていきます。リーダーも契約がない以上何も言えないようでした。

ジョン・ウェインがダークサイドに堕ちるのは、彼の横暴な振る舞いに対する反発が主な原因ですが、眠っている間に逃げたカウボーイを手下を使って連れ戻させると、そのカウボーイも「あんたとは契約してない」と自らの潔白を主張します。ジョン・ウェインはおそらく最初から「契約」ということが大嫌いなんだと思います。契約書の有無で人間の行動が制限されるなんていやだと。でも、その彼も最初「契約がない」ことを盾にとって離脱したんですよね。

この映画はカウボーイを「職業」として捉えています。どうしても現代人は『真夜中のカーボーイ』みたいにカウボーイを「ファッション」として捉えがちですが、あれはれっきとした職業。そういうところをきっちり描いているのが魅力なんですが、文字で書かれた法律や契約書ばかりを重視するアメリカ社会というのは西部開拓時代からのことなんだな、と勉強になりました。
現代社会も仕事といえばまず「契約書」。しかしそれで本当にいいのだろうか、というのがおそらく脚本家ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの思想なのでしょう。


ウォルター・ブレナンの入れ歯
ジョン・ウェインの唯一の理解者たるウォルター・ブレナンが隊員のインディアンとのポーカーで入れ歯を賭けて負けるシーンがあります。もちろん入れ歯は取られてしまい、ジョン・ウェインに泣きごとを言っても「負けたんだからしょうがなかろう」とは言いませんが、そういう態度で少しも助けてくれません。

ギャンブルでは契約書など取りませんが、負けた以上は賭けた物を相手に渡さないといけないという暗黙の了解事項がある。だけど金ならいいが入れ歯という生活に必要な物でもそれが契約だからと言われたのではたまったものじゃない。

そもそもウォルター・ブレナンはジョン・ウェインに「惚れたから」ついてきただけで、おそらく契約書など交わしていないはずです。それはモンゴメリー・クリフトもそうでしょう。彼らはあくまでも「契約」ではなく「信頼」でつながっているのです。


「神」との契約
砂糖泥棒が立てた大きな音のせいで大量の牛が逃げ、そのせいで優秀なカウボーイが死んでしまう。ジョン・ウェインは聖書の一節を読んで埋葬します。そして砂糖泥棒を殺そうとしますがすんでのところでモンゴメリー・クリフトが止めます。
「殺して埋葬してまた聖書を読むつもりだったのか。なぜ神様とグルになるんだ」と他のカウボーイに責められるんですが、このセリフは重要でしょう。

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この映画では半分以上を空が占めるショットが満載なんですが、神が人間たちを見下ろした映画のように感じます。
そういえば、ブルーハーツの名曲に『青空』というのがあります。

「神様へ賄賂を贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて 本気なのかい」

ジョン・ウェインは神へ賄賂など贈っていませんが、神とグルになっているのは明らか。いや、それ以上に、おそらく彼は無意識に自分自身が「神」になろうとしている。

その証拠に、ジョン・ウェインは契約を交わしてない者まで「離脱は許さない」と言い出す。契約してないから離脱する。というのは彼が物語の最初にした行為なのに、それが許せなくなってくる。ダークサイドに堕ちるとはまさにこのことですが、ジョン・ウェインはこの時点で「俺の隊にいる以上は全員俺と契約を交わしているのだ」と思いたいのでしょうね。別の神との契約を絶対に許さない唯一神ヤハウェと相似形を成しています。


眠らせない=眠れない
完全にダークサイドの堕ちたジョン・ウェインに、モンゴメリー・クリフトもウォルター・ブレナンさえもが別れを告げます。
ジョン・ウェインは隊員を眠らせないことで逃げることを防止しようとしましたが、彼を追い出したモンゴメリー・クリフトや他の隊員たちは、今度は「いつジョン・ウェインが追ってくるか」が気になって眠れなくなります。まるでジョン・ウェインが神か悪魔のようです。


「撃ち合い」ではなく「殴り合い」
ジョン・ウェインの後釜に収まったモンゴメリー・クリフトは幾多の苦難を乗り越えてミズーリまで1600頭の牛を無事に運びます。そこで出会った資産家に「すべて言い値で引き取る」と言われ歓喜しますが、そのとき資産家は「契約書を作らねば」と言います。そりゃ契約書がなくてはすべて持ち逃げされるかもしれず、そうなればモンゴメリー・クリフトは手下たちに給料を払えなくなる。だから契約書は絶対に必要なものなんですけど、資産家から契約書を渡されたとき、どうにも暗い顔になっています。ジョン・ウェインから奪った牛だから、というのが通常の解釈でしょうが、私には「契約書」というものがモンゴメリー・クリフトも嫌いだからというふうに思えてしょうがない。



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最終的にこの映画は殴り合いによって解決します。ジョン・ウェインは最初撃ち合いでケリを着けようとするんですよね。拳銃を抜こうとしないモンゴメリー・クリフトに対し「抜かせてやる」と自分の拳銃を抜き、何度も撃つ。

この時代の西部では、相手が抜いたら自分も抜いて撃ち殺してもよかった。『夕陽のガンマン』の冒頭は「どちらが先に抜いたか」をめぐる裁判で、相手が先に抜いたとの証言を得たリー・ヴァン・クリーフは無罪になります。それがこの時代の「法」です。法とは人間同士の契約のことです。

でも、モンゴメリー・クリフトはそのような契約を嫌うがために絶対に抜かない。俺とあんたとはそういう関係じゃなかったはずだ、という涼しい笑みを浮かべるモンゴメリー・クリフトが最高です。その笑顔を見せるためのジャップカットの手法もお見事! そしてジョン・ウェインは拳銃を捨てて殴り合いとなる。殴り合いには法もへったくれもありませんから。

ちょっと前のシーンで、ジョン・ウェインはモンゴメリー・クリフトの許嫁になるであろう女に「俺は息子がほしかった」と言います。息子とはつまり「契約書を必要としない人間」のことでしょう。それが体を張った殴り合いによって(再び)得られる。

だから、正確には「ジョン・ウェインがヒーローとして復活する物語」というよりは「失った息子を再び取り戻す物語」といったところでしょうか。

最後は新しい烙印を二人で決めますが、それについての契約書など存在しないはずです。口約束だけ。それでいいんじゃないの? それだけだとまずくなる社会っておかしいよ! 

最後ほんの数分ですべてが解決するのは、脚本家ボーデン・チェイスと監督ハワード・ホークスの連係プレーによるものだということがようやくわかった次第です。


『明日に向って撃て!』(どこまでも愚かな男たちの悲劇)

久しぶりにアメリカン・ニューシネマの名作『明日に向って撃て!』を見ました。


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この映画、私にとってかなり特別なものでして。

実は、いままで1万本以上の映画を見ているんですが、そのきっけかになったのがこの映画なんです。
17歳の秋でした。それまで映画などほとんど見てなかったのに、ひょんなことからたまたまビデオ(DVDではなくもちろんVHS)を借りて見たのでした。
そして、その面白さにやられてしまい「世の中にこんなに素晴らしいものがあるのか!!」と驚愕、それから今日まで狂ったように映画を見続けてきました。

デビッド・フィンチャーもこの映画の大ファンらしく、いままで200回以上見ているらしいです。他にも周りの友人でこの映画のシンパはたくさんいます。



ラストシーンにおける大きな誤解

しかしながら、この映画に関して大きな誤解をしている人が多く、残念な思いをしているのも事実なのです。(以下、ネタバレあります。ご注意を)

この映画のラストで主人公二人は警官隊が取り巻いているところに飛び出して行き一斉射撃を浴びて死ぬわけですが(あのストップモーションの何と美しいこと!)多くの人が、あの二人が警官隊が取り巻いていることを知っていて自ら撃たれるために飛び出して行った(つまり自殺)と勘違いしている人がとても多いんです。

本当は、二人は警官隊が自分たちを取り巻いていることを知らず、それまで追われ続けた名うての保安官が相手ではないことに気づき、それなら勝てる! と飛び出していくのですよね。あれを自殺と思っている人たちは、この映画がヒロイズムを謳っているとでも思っているのでしょうか。

この映画は「愚か者二人が時代の流れを見誤り、蜂の巣にされて死んでいく悲劇」です。ヒロイズムではありません。どこまでも愚かな男たちへの哀切きわまりない挽歌なのです。


新時代の象徴=自転車

時代の流れといえば、この映画の前半部で自転車を売る男が出てきます。「もう馬に乗って走る時代じゃない。これからは自転車の時代だ。自転車こそ未来なんだ」と。主人公たちはこの自転車を買うのですが、時代が馬から自転車、そして車へと移行していく流れを少しもわかっていない。いつまでも馬にまたがって銀行強盗ができると思っている。

最初のほうでポール・ニューマンが、「俺は世界を見通している」と自慢げに言う場面がありますが、少しも見通してなどいないのです。見通してると思い込んでいる愚か者なのです。
だから、名うての保安官に追われて命からがら逃げ延びたあと新天地ボリビアへ旅立つとき、「なにが未来だ、ボロ自転車が!」と自転車を投げ捨てます。(あの場面の自転車のタイヤがカラカラと淋しく空回りするカットの美しさ)

DVDの音声解説では、撮影のコンラッド・L・ホールが、「彼らを追っているのは『20世紀の文明』なんだ」と言っていました。「未来が過去を凌駕する物語なんだ」と。追手たちがいくら巻いても正確にどこまでも追ってくるのはその象徴だと。うーん、なるほど、それにはまったく気づきませんでした。


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ともかく、そういった「自分たちを取り巻く世界の流れが見えていない」ことを象徴するのがこのラストシーンなんですよね。自分たちを取り巻く警官隊にまったく気づかず出ていけば勝てると思い込んでいるという。

どこまでも愚かな男二人の悲劇。

しかし、ただ単に愚かなだけでは、このラストシーンがあんなに美しく衝撃的でいつまでも胸に残るものにはならなかったでしょう。(私が最初見たときはあまりの美しさにしばらく身動きできませんでした)


愚か者から脱却する千載一遇のチャンス

ラストシークエンスの前に、名うての保安官の姿を垣間見た二人は、このままだとあいつに殺られると銀行強盗をやめ、カタギの仕事に手を染めます。労働者に払う給料を運ぶ親方を護衛する仕事です。それまで銀行の金を奪い取っていた彼らが、今度は守る側になる皮肉。

最初の仕事でいきなり親方が山賊に撃ち殺され金を奪われるんですが、二人は金を山分けしている山賊の前に立ちはだかります。そのときのセリフが素晴らしい。

「俺たちはその金を守るのが仕事なんだ。それは俺たちの金じゃないんだ」

それまで他人の金を奪い取ることしか知らなかった男たちが初めて見せる男気。自分たちの金じゃないからこそ命がけで守るんだという。

それまでも二人はとてもチャーミングで観客はみんな彼らのことが好きだったでしょうが、この場面において彼らはただの「悪いけど愛嬌のある奴」から「本当のヒーロー」へ転身するわけです。しかし、そのまま改心すればよかったものを、またぞろ強盗に走ってしまう。

彼らは自分たちを取り巻く世界の流れにも盲目なら、自分たちの心にも盲目でした。己の心に宿った正義に気づかなかった。

どこまでも愚かな男たちの悲劇。

でも、どこまでも愚かな人間を描いているからこそ、いつまでもこの映画が好きなのかもしれません。




『マンディンゴ』と『ジャンゴ 繋がれざる者』

久しぶりにリチャード・フライシャー監督の『マンディンゴ』を見て興奮しまくってます。



まだ白人が黒人を奴隷として使役することが合法だったアメリカ南部を舞台にしたキワモノ映画ですが、これが実に素晴らしい!

上の画像が象徴的ですが、傲慢な農場主ジェームズ・メイスンがいて、その息子ペリー・キングとその妻スーザン・ジョージ、そして彼らが競売で手に入れたマンディンゴ(格闘用奴隷)のケン・ノートンを軸に物語が展開されるのですが、黒沢清監督が言うところの「映画の原理」と「世界の原理」の覇権闘争がとりわけ面白いのです。


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どういうことかというと、ジェームズ・メイスンやペリー・キングは黒人を奴隷として自分たちの思うがままに酷使し、その根底には蔑視の気持ちがあります。それが当時のアメリカ南部の白人として当然の姿でした。ですが、黒人を蔑視しながらも、何度も死闘を制するケン・ノートンに対してペリー・キングが抱いている感情は、ただの「主人」としてのものだけではありません。「いくら金を積まれてもこいつだけは絶対に売らない」というセリフからも明らかなように、彼はこの黒人に同胞愛のようなものを感じています。

ジェームズ・メイスンですら、ケン・ノートンと別の女奴隷の間に子どもが生まれたとき、「黒い虫にしか見えん」と言いながら、好々爺のような目で赤ん坊を見つめていました。やはり同じ人間として赤ん坊はかわいいのですね。

ケン・ノートンだって主人のペリー・キングを尊敬しているし(あの言葉は嘘ではないでしょう)ケン・ノートンが黒人との格闘を制して主人を儲からせたとき、同じ黒人として彼を非難して処刑された奴隷もいましたが、主人付きの女奴隷などは、勝って帰ってきたと知って喜びを隠せない表情を見せます。同じ黒人でもリアクションが真逆です。

「奴隷制は、白人対黒人の図式であって、白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」というのが「映画の原理」でしょう。

とはいえ、この映画が描いているように、白人だからといって必ずしも黒人を100%蔑視しているわけではないし、黒人だからといって100%白人を敵視しているわけでもありません。それが「世界の原理」です。

結局、妻のスーザン・ジョージに子を産ませた(というか誘惑されたから悪いのは妻のほうですが)ケン・ノートンをペリー・キングが殺し、激怒した他の奴隷がジェームズ・メイスンを射殺してこのキワモノ映画は幕を閉じます。

白人が黒人を殺し、黒人が白人を殺す、という「映画の原理」の勝利によって高らかと凱歌を謳いあげるところがこの映画の爽快さです。世界の原理を尊重しながらも、最終的には映画の原理が勝利せねばならない。それが「映画」なのだという断言は感動的です。

一方で、数年前に同じ黒人奴隷を題材にしたこんな映画がありました。


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クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』。

この映画では、「白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」という映画の原理が最初から最後まで優位です。


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魅力的な悪役を演じるレオナルド・ディカプリオに顕著なように、彼には黒人の赤ん坊を好々爺のように見つめるジェームズ・メイスンのような資質がまったくない人物として造形されています。登場シーンから殺されるシーンまで彼は一貫して黒人を蔑視しています。


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確かに、奴隷頭を演じたサミュエル・L・ジャクソンのように、黒人を差別する黒人というは新鮮でした。スパイク・リー監督の『ゲット・オン・ザ・バス』にも出てきましたよね、この手の奴。

『マンディンゴ』より『ジャンゴ』のほうがすぐれていると思われるのは、この奴隷頭の存在だけでしょう。

しかし、この奴隷頭ですら、肌は黒いけれど白人と同じ暮らしをし、同じように黒人を差別し、同じように主人公の激怒を買って白人たちと一緒に殺されるのですから、結局、彼は「白人」の役割しか担っていません。そして彼も最後まで一切変化しません。黒人なのだから少しくらい主人公に同情的な面を見せてもいいはず。それが「世界の原理」でしょう。しかし徹頭徹尾「映画の原理」に貫かれたこの映画にそんな場面は少しもありません。

主人公ジェイミー・フォックスのメンター的役割をもつクリストフ・ヴァルツは白人ですが、アメリカ人ではなくドイツ人で奴隷制をナンセンスなものと思っているようです。つまり彼は端から黒人側として描かれている。

この映画には、白人側だけど黒人に魅力を感じる人や、黒人側だけど白人を尊敬する人など一人も出てこない。


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ショーペンハウエルの『読書について』という本は決して読書を称揚するような内容ではなく、逆にあまり読んじゃいけないよ、ということが繰り返し語られています。

「本当の思想家とは、書物をたくさん読んだ人ではなく、世界という書物を直接読んだ人のことである」と。

タランティーノはおそらく「映画を見すぎ」なのです。だから『ジャンゴ』のような善が悪を駆逐する痛快な映画を作れはしても、『マンディンゴ』のような深さをもった映画が作れない。

100%の善人、100%の悪人など映画の中にしか存在しませんから。





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