純文学

2019年03月27日

社会学者・古市憲寿が著した芥川賞候補作『平成くん、さようなら』を読みました。


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もっと過激な設定にはできなかったのか
平成が始まった日に生まれ、平成(ひとなり)と名付けられた男と、同じ日に生まれた愛(あい)という女の物語。

天皇の生前退位による改元が目前に迫っているという現実をそのまま踏襲しながら、安楽死が合法化されている社会という架空の設定。

この設定自体については別に何とも思いませんが、安楽死が合法化されているという設定が「平成くんが安楽死を選ぶ」という行動のために都合よく作られている感が強いのが難点かと。

どうせ架空の設定をするなら、天皇の生前退位もうっちゃってしまえばいいんじゃないかと思いました。

天皇自身が安楽死するとか。もちろん今上天皇ではなく、昭和天皇が。生前退位は法律で認められておらず、政府も反対し、かなわなかった。だから昭和天皇は自ら死ぬことで平成を迎え入れた。それが原因で安楽死が合法化されたとか。

「昭和天皇」という名前を出したらいろいろ厄介だろうから、架空の天皇の安楽死にしてもよかったのでは? いや、架空の天皇にしたらそのほうが厄介ごとが増えてしまうのか。いずれにしろ、架空の設定を盛り込むなら、その設定に至るまでの道程を示してほしかった。これでは作者の思想がそのまま現実化しただけというか、作者(と平成くん)にとって都合のいい設定にしかなっていないとしか言いようがありません。背景について考えぬいた痕がない。


なぜ「一人称」なのか
やはり去年、二人称小説を書いたからか、小説における「人称」の問題につい敏感になってしまうんですが、この小説は愛という女の一人称小説なのですね。愛の視点から平成くんと彼女のウロウロが描かれます。

この手法を採用したために、人物や社会の彫りが浅い結果になったのではないでしょうか。

まず、平成くんの一人称はありえないですよね。彼はとても特異な人間なので、そういう人の一人称にしたら平成くんの内実には迫れない。

かといって、愛の一人称でも足りないと思うんですよ。なぜなら、愛は安楽死が合法化された架空の平成末期を実際に生きているから、社会に対する客観的な視点をもてない。


三人称で書かれるべきだった
だから、この物語は三人称で書かれるべきだったと思います。それなら、まず社会背景に対する著者の批評眼が試されるから書くのが難しい。難しいほうが面白くなる。もしかしたら、作者はそれに気づいて「逃げた」んじゃないですかね? 平成くんはもちろん、彼に対して「死なないで」と思ったり、「平成くんらしい」と思ったり、愛の揺れ動く気持ちを批判的に描けたと思うんですがね。批判的というのは創造的ということ。

この小説は、愛から見た平成くんへの批判的な目はあっても、作者から見た愛への批判的な目がない。これは致命的だと思いました。


不思議な読書体験
でも、この『平成くん、さようなら』には捨てがたい味があります。というのも、全体に漂う虚無感というか醒めた感じ。冷徹と言っては言いすぎだし、白けた感じとも違う。真剣だけれどそこまでではなく、ニヒリズムだけれどポジティブで未来志向の精神もある。

これは、もしかしたら、著者が小説家ではないからかもしれません。もし小説家なら、まず三人称で書くことを厭わなかったでしょうが、そうでないがゆえに、上記のような捨てがたい味も出ているように思います。

不思議な読書体験でした。







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2018年10月05日

とんでもない小説を読みました。最新刊『地球星人』が絶賛されている村田沙耶香さんの芥川賞受賞作『コンビニ人間』。
コンビニのマニュアルを「宗教」と捉えるところが斬新。そして、現代社会もまた大昔と同じ「魔女狩り」の舞台なのだ、というテーマに感動しました。


斬新きわまりない人物設定
何よりこの『コンビニ人間』で描かれる主人公・古倉恵子という人物の設定が素晴らしい。
幼少期からちょっと変わっていて、変わっていることを自覚するあまりほとんど口を利かないという戦法に出る。口を利けば誰よりも母親や妹など自分を慈しんでくれる家族が悲しむから。つまり、変人が変人であることを隠そうとしてよけい変人になってしまったんですね。家族はカウンセリングを勧めるもうまく行かず、主人公が大学に進学して独り暮らしを始めたと同時にコンビニでバイトを始めると、その普通さに喜んでくれた。

コンビニの完全マニュアル化された仕事の仕方が主人公には心地いい。だって自分で考えて行動すると変人性が露わになるから。コンビニでマニュアル人間になっておけば誰も悲しまずにすむ。


そうは問屋が卸さない!
とはいえ、18歳の大学生がコンビニでアルバイトなら「普通」だけれど、現在の主人公はアルバイト歴18年の36歳。恋愛経験なし、就職経験なしの「変人」。普通であろうとしたら変人になってしまったという可笑しみが逆に哀しい。

朝礼で店長とともに「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」と唱和するのが「まるで宗教みたいだ」と評されても主人公は「そうですよ」とあっさり認める。主人公にとってコンビニとは「世界」そのものであり、世界を維持するためには「宗教」が必要だ、と言わんばかり。


白羽の主張「現代は縄文時代と同じ」
その「まるで宗教みたいだ」と斜に構える新人店員は白羽(シラハ)という名前の若い男で、この男は何と婚活が目的で入店してきたという。
主人公と同じく30歳で就職経験なし、恋愛経験なし、ということで周りから奇異の目で見られている。しかも女なら就職経験なしでもまだ恰好がつくが、男ではもうどうしようもないと。就職か結婚をしていないと「何で何で」と問い詰められ、「そんなことではダメだ」と裁かれる。いわゆる「普通」の人たちは普通でない人を裁きたくてしょうがないというのが白羽という男の主張。
縄文時代云々というのも「いつからこの世の中はこうなってしまったのか」を研究するため歴史書を読みあさった結果、縄文時代からだという結論に行き着いたと。男は狩りに出て、女は子供を産んで家を守る。そこからはみ出たものは「ムラ」から排除されるのだと。

その主張には一も二もなく大賛成なのだれど、主人公と同じ境涯のくせして「普通」の人と同じ論理で主人公を難詰するというのが面白い。結局、彼もまた「普通」に囚われた人間なのですね。

で、まったく「普通」じゃない我らが主人公は、「じゃあ私と婚姻届を出すというのはどうでしょう」と提案する。何だかんだいっても級友たちは結婚もせず就職もしない主人公を上から目線で憐れんでいるし、よく働いてくれると店長からの評価も上々だけれど「なぜ36歳でコンビニバイト?」という訊かれるのにもうんざりしてきた。白羽と書類上のみ婚姻関係を結んでひとつ屋根の下で暮らすなら、そのような雑音も消えてくれるだろう、と利害が一致。


周囲の激変が笑える
主人公が妹に「男が家にいる」と言っただけで妹は「よかった。本当によかった」と喜び、級友たちもめちゃくちゃ盛り上がって「やっとこの女も普通になった」と盛り上がりすぎるほど盛り上がり、コンビニでも「あの白羽と同棲!?」と店長もバイト仲間もやたら盛り上がる。その様がやたら笑えました。仕事そっちのけでゴシップを伝え合うのに奔走するので、商品の補充もままならず、コンビニという生き物の「声」を聴くことのできる主人公は、自分が同棲しているという嘘によって悲鳴を上げるコンビニが哀れでならない。


コンビニは「神」、主人公は「預言者」
何だかんだでコンビニを辞めて「普通」の会社に就職することになった主人公は面接を受けに行く。早く着きすぎたので近くのコンビニでトイレを拝借しようと入ると、悲鳴が聞こえる。もちろんコンビニの。新商品がちゃんと陳列されてない。清掃ができてない。などの「声」を聴く。主人公はそれを「天啓」と表現する。

コンビニで働くことは「宗教」だというのは嘘じゃなかった。主人公はコンビニという「神」の声を聴いてそれを客のために実行する「預言者」だったのですね。なるほど!


現代はいまだに「魔女狩り」の時代
主人公はコンビニ教の敬虔な信者であり、それはとても奇特なので「普通」のムラから排除される存在。しかし、その「普通」というのもまた宗教なんですよね。男は狩りに出て女は家を守るというのもそう。「ジェンダー」と呼ばれる宗教です。

大学を出たら就職して、30代には結婚もして子どもを産んで……というのもまた「宗教」。コンビニのマニュアルと同じく決まりきったマニュアル通りに生きているだけ。ただ、そのマニュアル=宗教を崇拝しているのが圧倒的多数派だから「正統」であり、主人公は「異端」とされる。それだけの話。

だから、政治の世界でも「宗教戦争」はいまだにあるけれども、そんな大きなことでなくとも、日常の些細なところで「宗教戦争」は起こっているのだ、というのが著者の主張なのでしょう。

いや、「宗教戦争」ならまだいいほうで、実際には「異端審問」が行われている。現代はいまだに「魔女狩り」の時代なのだ。

という、大きくてシリアスなテーマを「喜劇」として提示したこの『コンビニ人間』はとてつもない大傑作だと思います。


関連記事
『地球星人』(一人称の万華鏡)
『となりの脳世界』(いつか、どこかで)

コンビニ人間 (文春文庫)
村田 沙耶香
文藝春秋
2018-09-04




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2015年09月14日

『悪意の手記』『最後の命』に続く中村文則さんの三部作最終作『悪と仮面のルール』を読みました。



出だしを読むとぐいぐい引き込まれて、終盤近くまでかなり一気に読んだんですが、結果的に、うーん、これもちょっとどうなんだろう、という小説でした。

「邪」の家系に生まれた主人公がその血ゆえに苦しみ、父を殺し、顔を変えて幼馴染の女を探し、JLという名のテロ組織を作って…という内容なんですが、まず「邪の家系」とか冒頭で父に言われる「おまえに地獄を見せてやる」の「地獄」とかの言葉が、ことごとく観念的で具体性がないのが致命傷ではないかと。

フィクションは観念の産物にすぎないと言ってしまえばそれまでですが、しかし、あまりにひとつひとつの言葉が硬く、腹にストンと落ちてこないんですよね。

湾岸戦争やイラク戦争の裏で何があったか、という説明がものすごく長台詞で述べられていますが、「説明するな、描写せよ」といった筒井康隆さんがこの小説を読んだら一笑に付すんじゃないでしょうか。

筒井さんは小説で説明なんかまったくしないですもんね。登場人物の性格や来歴、物語の背景など、すべて展開とともにわかるようになっています。

中村さんの『掏摸』や『銃』だって説明的だとか表現が生硬だとかの感想は少しもなかったんですけど、この三部作はすべて読み終わって徒労感だけが残りました。

何か「頭」だけで書いてる感じがするんですよね。具体がない。

それと、自分で解説を書くのはよくないと思うのですが、いかがでしょうか?





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