神話

2019年08月26日

遅まきながら見てきました。矢口史靖脚本・監督最新作『ダンスウィズミー』。これが実に素晴らしかった!(以下ネタバレあり)

いや、確かにミュージカルとしてはどうかと思います。そもそも三吉彩花はほんとに歌ってるんですかね? 吹き替えじゃなくて? サントラにはアーティスト名に「三吉彩花」とあるので歌っているのかな。でも普通のミュージカルと違って録音と編集がよくないので、歌のシーンになると効果音があったり消えたり統一感がないし、口パクにしか見えないのもどうかと。声も何だか別人のよう。

しかしながら、詳しくは後述しますが、多くのミュージカルファンはこの映画の歌とダンスがダメだからと批判していますが、私は歌とダンスがうまいからこそよくないのだと思うのです。

この『ダンスウィズミー』を「神話」の観点から見つめると、そのようなことが見えてきます。




かつてユング心理学とジョーゼフ・キャンベルの比較神話学を援用したシナリオメソッドを勉強しましたが、この『ダンスウィズミー』は神話的世界観に彩られていて、そこが素晴らしい。

神話とは何か。英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーです。この映画でヒーローとは誰か。主人公・三吉彩花です。しかし最初は「アンチヒーロー」として登場します。ヒーローが暗黒面に堕ちたのがアンチヒーロー。アナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちてダースベイダーになるのと同じですね。


アンチヒーロー三吉彩花
小学校時代は歌と踊りのレッスンに一生懸命だった彼女は学芸会のミュージカルで主役の座を射止める。が、風邪のために舞台上で嘔吐して笑われる。それがトラウマとなって歌いたい・踊りたいという欲求を抑圧し、勉強を頑張って誰もがうらやむ一流企業に就職する。

この「本心を抑圧する」という主人公の特性は、例えば、誰もが憧れる会社の上役・三浦貴大に対する態度にも表れています。同僚たちは三浦へのあこがれを隠さないのに、三吉彩花だけは本心を隠し「何か計算してる感じ」といやそうに言うくせに、自分だけ仕事を頼まれると「ラッキー」と。冒頭の彼女は友人を欺いて自分だけ得することを考える見事なアンチヒーローとしてキャラが立っています。

物語は、三吉彩花がどうやってその抑圧から解放されて本心を解き放つか、その道程となります。


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アンチヒーローがヒーローとして返り咲くためには、「心理」「感情」「身体」のそれぞれの物語において、「正」のアーキタイプの助力を得て「負」のアーキタイプに勝利することが肝要だそうです。

では、三吉彩花にとっての「心理」「感情」「身体」の物語とはどういうものでしょうか。そしてそれぞれのアーキタイプとは?

この映画で一番大事なのは「心理」であるのは誰の目にも明らかですが、それは大事であるからこそ後回しにして……


「感情」と「身体」の物語
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なぜこの二つを一緒にしたかというと、歌って踊って楽しくなるという映画の性質上、感情と身体は同一レベルの問題だからです。

三吉彩花は催眠術の効果によって音楽を聴くと歌って踊らざるをえなくなる。

ここで、先述した、ミュージカルファンの「ミュージカルなのに歌と踊りがぜんぜんダメ」との批判の話になりますが、三吉彩花の歌と踊りがうまいのが問題なのです。

そりゃ往年のミュージカルと比べたら歌も踊りもペケです。でも一般市民のレベルなら普通にうまいじゃないですか。ウディ・アレンの『世界中がアイ・ラヴ・ユー』もこれと同レベルだったと思うけど、あれはヘタウマと褒められたのに。と、それはまた別の話ですな。

歌で感情を表現する。踊りで身体の表現をする。三吉彩花はそれができています。

幼少時は歌と踊りのレッスンを受けていたと電話だったかで母親が言っていましたから、当時はかなりのものだったのでしょう。だから選挙で主役に選ばれた。

でも、あれから完全に踊りを封印していたのだから普通に踊れるほうがおかしいのでは? そりゃ、踊りたくないのに踊ってしまう話なのに、そこでちゃんと踊れなかった映画が成立しないのはわかります。

しかし、最初から「感情」と「身体」の物語が解決されているとなると、話はもう「心理」しかなくなってしまう。後述する「心理」の物語が豊穣だから良しとするか、「感情」と「身体」の物語に何か一味あったほうがもっと面白くなったのにと思うかは人それぞれでしょう。

ただ、少なくとも三吉彩花の歌と踊りがダメだと批判するのは、私は的を射ていないと思います。


「心理」の物語
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さて、いよいよ本丸です。

三吉彩花が歌いたい欲求を抑圧して勝ち組OLを演じていることから解放され、生きたいように生きる決意をするまでの物語、つまり映画全体の物語です。

ここで大事なのは、心理における「正」と「負」のアーキタイプです。

「負」は明らかでしょう。舞台上で嘔吐したのを見て笑った級友たちと、彼女の苦悩を思いやれなかった家族です。そして彼らを見て自らの心に蓋をした三吉彩花自身です。

では「正」は?

これはいろンな人がいて、例えば一番最初は何といっても催眠術で踊らざるをえないきっかけを作る宝田明でしょう。

かつてはほんとに催眠術を掛けられたが、寄る年波のせいかいまじゃサクラなしではやっていけないイカサマ手品師に成り下がっている人物が最大の(ユング心理学でいえば)老賢者(『スターウォーズ』のオビワン・ケノービですね)なのがコメディらしい趣向です。そしてこれは彼自身の自信回復の物語でもあるというところがまたオツ。

しかし一番素晴らしいのは、宝田明は「正」でも「負」でもある、というところです。

催眠術によって心理の解決のきっかけを作る。これが「正」としての宝田明。
もうひとつは、催眠術を解いて彼女が会社に帰る手助けをする「負」としての宝田明。

逆に言うと、ヒーローズ・ジャーニーを生きている三吉彩花は、実は「解決に向かって動いていない」のです。彼女の目標は月曜日までに会社へ帰ることですが、それは本心を抑圧する以前の自分に戻るということ。

宝田明に催眠術にかけられた瞬間に彼女のヒーローズ・ジャーニーは実は終わっているのです。しかし彼女はそれが「解決」ではなく「問題」と誤解しているから、ヒーローに返り咲いたにもかかわらずアンチヒーローに退行しようと必死になっている。この「さかさま神話」「さかさまヒーローズ・ジャーニー」がこの『ダンスウィズミー』の肝でしょう。

主人公を助けるものと主人公を危機に陥れるものが同じ催眠術。ここがこの『ダンス・ウィズ・ミー』の物語の力強さです。『ロード・オブ・ザ・リング』の指輪も、主人公や世界全体にとって助けにもなれば一番危険な代物でもある。こういう物語は強い。

さて、心理の「正」のアーキタイプの続きです。

己の欲求のままに生きるお手本のようなやしろ優(いい女優さんですね)もそうだろうし、かつての恋人と「プリンセス&プリンス」というデュエットを組んでいたのに他の女と結婚する相手の結婚式に乗り込んで好き放題しまくるchayという歌手。みんな三吉彩花のヒーローズ・ジャーニーのいい導き手です。嫌味な役の三浦貴大も「正」のアーキタイプですよ。

え、なぜ? 

だって、三吉彩花が好き勝手に踊っても急に一週間の有休と言い出しても「君ってほんと面白いね」の一言で済ませてしまうからです。彼の鷹揚さがなければ三吉彩花のヒーローズ・ジャーニーは貫徹しなかったでしょう。そりゃ根底には下心があるわけですけど、しかし、下心とは「本心」のことであって本心の解放を謳うこの物語にはとてもふさわしい味付けです。

ただ、ラストで彼女自身が解放され、過去の自分の手を取って一緒に歌い踊るというのは幸福の極致ですが、彼女のトラウマの原因を作った家族と和解しなくていいのかな、とは思いました。姪っ子の貯金をイタダキに行ったりするわけだし、そこで「心理」の解決のきっかけがあってもよかった。


やっぱりこれはミュージカル!
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歌とダンスがうまいからよくないとか、まるでこの映画をミュージカルとして見てはいけないと言っているみたいですが、とんでもない! これは堂々たるミュージカルです。神話とミュージカルの幸福な結婚です。

だって、主人公自身も言うし巷の映画ファンもよく言う「ミュージカルって突然歌い出すから不自然」というアレ。

でも突然歌い出したくなるときってあるじゃないですか。私たちはそういう無意識の欲求を抑圧して生きている。ミュージカルはそういう抑圧を解き放つジャンルだったと思うんですよ。

この映画は、歌い踊る主人公を神話的世界観で肯定する物語を紡ぎあげ、同時にそのことによってミュージカルというジャンルを肯定しているわけです。

だから、なぜミュージカルファンを自認する人たちが非難するのか、私には理解できないのです。


ダンスウィズミー
オリジナル・サウンドトラック 音楽:Gentle Forest Jaz Band/野村卓史
ワーナーミュージック・ジャパン
2019-08-14




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2018年07月31日

花田菜々子さんの『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(その感想は→こちら)で推薦されていたマンガ『ワイルドマウンテン』全8巻を読んだんですが、これがとてつもなく面白かった。

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この表紙にあるかわいい顔した男・菅菅彦は(スガ・スガヒコという名前が素晴らしい)実は地球防衛軍の元隊長でなかなかのやり手軍人だった。が、地球に衝突する可能性の高い隕石を破壊する極秘指令を受けたのにちょっとした手元不如意から撃ち落とし損ね、隕石は中野区に落ちて多数の死傷者を出した。
その隕石の塊が山となって新しい町を形成してワイルドマウンテン町ができ、失意の菅菅彦は軍を辞めて町長として町おこしの役を担う。というのが物語の発端部です。

つまり、菅菅彦は「隕石を撃ち落とし損ねた」というつらい過去をもっており、そこがクライマックスでどう解決されるかが物語の主眼となります。

軍で好き合っていたマリという女の子とワイルドマウンテン町で出会う未亡人との三角関係、さらには親から捨てられたも同然の銀造とその祖父・淵野辺さん、軍の部下などが入り乱れます。そこに「ハガレゴッド」なる宇宙人も登場するからこれはれっきとしたSFなんですね。


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菅菅彦を抱っこしている大きな薄っぺらい壁みたいなのがハガレゴッドで、この人物(?)は誰の心の内も読める超能力をもっています。菅菅彦は宇宙人がいるとなると町おこしには最適だと胸躍らせますが、ハガレゴッドや他の奇々怪々な生き物たちと仲良くなってしまい、さらに銀造も彼ら以外に友達がいない。友情を何よりも重んじる菅彦は彼らの存在を隠します。

だから、隕石を撃ち落とし損ねた過去をめぐるメインプロットと、ハガレゴッドたちの存在を隠している現在をめぐるサブプロットと、二つのドラマが描かれているわけです。
はたして菅菅彦は軍人として失敗した逆境を順境にできるのでしょうか。そこにハガレゴッドのサブプロットがどう絡まってくるのか。

と思っていると……

別の宇宙人が出てきて香港まで行ってかなり複雑な展開を見せながら、菅菅彦がやはり軍人としてやたら優秀である一面を見せてくれます。
なんていうと、菅彦がめちゃかっこいい男のようですが、未亡人がジャズシンガーで、ジャズなんか聴いたことないのにジャズマニアを気取る可笑しさを演じるかと思えば、軍時代の同僚マリちゃんに告白してオーケーをもらうもあまりにせこいことを言い出したためにマリちゃんから膝蹴りを食らうなど痛い面ももち合わせています。主人公にふさわしいキャラクター設定ですね。

さて、ハガレゴッドたちの存在がマスゴミのせいで明るみとなり、そのせいで菅菅彦が隕石撃ち落としに失敗した過去まで明らかになります。メインプロットとサブプロットの危機=クライシスがいっぺんにやってきました。さあ、どうなる!?

と、思っていたら……

あっと驚く結末が待っているんですね。神話的想像力に彩られたメインプロットも解決するうえに、サブプロットも解決する。しかもラスト近くはほとんどのキャラクターが殺されてしまうのにそれすらも解決されてしまう。

しかも菅菅彦の問題が解決するだけではありません。ラストシーンに至っては、別のキャラクターの問題が噴出し、そして一気に解決を見ます。

このマンガは菅菅彦ではなく別のキャラクターのドラマなのでした。え? マジで!? 

いやいや、もしかすると、これはやはり菅菅彦の町長としての物語かもしれないし、同時に別のキャラクターの物語かもしれない。どちらも真なのでしょう。そして両方の物語から浮かび上がる「友情」というテーマ。神話の変奏かと見せかけておいて実は神話以上のものを見せる手腕に拍手。お見事!!!

作中人物が作者の狙いを推量したりするんですが、私は普段ああいうメタフィクション的な仕掛けが好きじゃない。でも、それすらもあの結末は解決してしまうんですね。あれは作者の語りではなく別のキャラクターの語りだったわけですね。ちゃんと整合性が取れてる。ほんと見事としか言いようがない。

『出会い系サイトで実際に70人と~』を読まなければこのマンガを読むことは一生なかったでしょう。著者の花田菜々子さんに厚く御礼申し上げます。もちろん『ワイルドマウンテン』の作者、本秀康さんにも!







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2018年06月04日

WOWOWにてアニメ『心が叫びたがってるんだ。』を鑑賞しました。
いやぁ~、驚きましたね。

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だって、かなり前に書こうとしていた脚本にそっくりだから。まったく同じものを書こうとしながら完遂できなかったんですよ。

この映画は「トラウマで声を失った主人公が、周囲の助けを得て失った声を取り戻すまでを描いた神話」として捉えられているようです。それはまったく間違いではなく、それどころか、それ以外の解釈のほうが間違いでしょうけれど、私が以前書こうとしたのはそういうお話ではなかった。

もう細かいところは忘れてしまいましたが、大筋は「口のきけない女を殺した男がミュージカル映画のスターとして花を咲かすが……」というものでした。

え、それのどこがこの『心が叫びたがってるんだ。』と同じなんだ、という声が聞こえてきそうですが、私が言っているのは物語そのものではなく、構造のほうなのです。それも神話的構造ではなく、映画史としての構造です。

サイレント映画からトーキーへ移行したとき、『ヒズ・ガール・フライデー』のような喋りまくる映画と同時にミュージカルが隆盛となりました。だから「ミュージカルはサイレント映画の死の上に成り立っている」というのは映画史に通暁している者にとっては常識です。

私はその映画史をなぞった物語をやりたかったんですよね。だからミュージカル俳優が聾唖の女を殺して成り上がる」(そこにちょっと『陽のあたる場所』的な味付けをして)という物語を考案したんですけれど、何だかんだでうまく書くことができず、「いつかきっと!」と思っているうちに夢をあきらめる日が来てしまいました。

というわけで、唖の少女がミュージカルの舞台で歌うこの映画が、まさに「サイレント映画の死の上に成り立ったミュージカル」という映画史を見事に映画化していることに嫉妬の念を禁じえないのです。なるほど、こういうふうにすればよかったのかと。私はどうも「殺す」ということに囚われてしまっていました。

ただ、この映画でも「殺す」ということは表現されています。


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主人公は父親の浮気の現場を目撃して、それと知らず母親にそれを言ってしまったために両親は離婚。追い出されることになった父親に「全部お前のせいだ」と呪詛され、それが原因で唖になってしまった。

と、私は思い込んでいたから、真の悪役である父親が最後まで出てこないのはおかしいと思ってたんですよ。父親が成敗されないかぎり主人公にとってのハッピーエンドはありえないんじゃないか。いや、正確に言えば、主人公がミュージカルのスターとして花咲かせる以上、父親が唖(=サイレント)である主人公を解放して(=殺して)やらねばならない、と。

でも、それも私の浅薄さでした。
主人公を唖にしたのは、実は主人公自身だったことがクライマックスで明かされます。自分で自分の声を殺し、玉子の殻に閉じこもっていたんだと。

なるほど、こうすれば父親は出てこなくていいし、最後に主人公が発する言葉が、好きな男への告白でなければならないという展開にもうなずけます。押し殺していた自分の気持ちを開けっぴろげにする、つまり心を開く。自分から閉じこもっていた玉子の殻をぶち破る。うまい。

うまいのはそれだけでなく、その告白で彼女は振られるんですよね。で、別の男から告白されて真のハッピーエンドを迎えると。父親から呪詛されて傷ついた心を癒せるのは、やはり自分が好きと語りかけられることではなく、誰かから好きだ、おまえが必要だと語りかけてもらうことなのだと。

うーん、うますぎる。

ついに書けなかった物語がもう3年も前に劇場公開されていたことを知らなかった不明を恥じます。WOWOWでは去年の実写版も放送してくれるようなので、そちらも見てみようと思います。とにかく激しく嫉妬した初夏の夕暮れでした。






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