神話

2020年04月26日

関西では先週から始まった『初めて恋をした日に読む話』の再放送。今日は第4話、第5話でした。

前回、第3話までの感想は↓こちら↓
感想①神話的世界観がすべてを救う


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檀ふみと鶴見慎吾が出てこない
さて、前回の記事では、深田恭子がヒーロー(問題を解決する者)でもあり、同時にアンチヒーロー(問題を誘発する者)でもある構造がこのドラマの要諦だみたいなことを書きました。

が、この構造をもっと深めるとか、この構造を礎に大きな展開を目指すとか、そういう凡百な手を作者である吉澤智子さんは取りません。これはすごいことです。

何しろ、この作品を神話として見た場合、最も大事なのは深田恭子から青春を奪った檀ふみですよね。そして、いま深田恭子が横浜流星を東大に合格させることで新たな檀ふみになってしまうかもしれない。そんな危うさを秘めたところが面白かったのですが、今回、その檀ふみはほとんど出てきません。横浜流星にとっての敵役である父親の鶴見辰吾も出てきません。

横浜流星の鶴見辰吾を見返してやりたいという気持ちが物語を駆動していたはずなのに、これはどういうことでしょう?


「塾講師」というコード
私の恩師である脚本家の村井さだゆきさんは、記号学をシナリオ作法にもちこんだ稀有な方で、「コード」という考え方で人物を造形し、人物関係を構築していくという手法を教えられました。

アニメ『赤毛のアン』の第1話で、アンが駅で待っているとおじいさんが迎えに来る。でも男の子だと思っているからアンが目に入らない。アンのほうは迎えが来ないから不安になる。そのとき確か駅長に相談するんですよね。すると駅長は「わしゃ知らんよ」というすげない態度で引っ込んでしまう。

「こういう描写が初心者にはできない」

と村井さんは厳しくおっしゃいました。

初心者はとかく脇役をすべて主人公にとって都合のいい人物に描きがち。駅長には駅長というコードがあって、つまり駅長としての職務をまっとうしなくてはいけない。一人の見知らぬ女の子の世話など職務を遂行するうえで邪魔でしかない。だから駅長がアンを手助けしてやるという描写をするのは間違い。すげない態度をとるのが正しい作法だと。

さて、今回の『はじ恋』では、

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こんなことになったり、


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こんなことにもなりましたが、深田恭子はまったく相手の気持ちに気づかない。

それを、

「現代文に解答者の主観的な感想などいらない。作者の意図だけを汲むのが大事」

と教えながら、相手の気持ちをまったく汲めていない主人公の可笑しみと哀しみが描出されるところが非常にドラマティックですが、私はそこよりも、深田恭子の「塾講師」としてのコードの描出を徹底したところに注目しました。


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こんなことになっても「塾講師だから生徒と変な関係になってはいけない」と相手の気持ちを汲むことをおそらく無意識に封じ込め、自分の「青春を取り戻したい」という強い欲求さえ封じ込めてしまう。

挙げ句の果てには、横浜流星が「勉強して大人になったら、先生みたいな大人になりたい」と言われると、さすがに気づくのかと思ったら「塾講師になりたいの?」

爆笑。4話5話は徹底して深田恭子を塾講師というコードの奴隷として戯画化することに腐心していたのが素晴らしい。

3話までで強固な世界観を築いておきながら、次はあえてそこを外して主人公の天然ボケぶりを徹底して描く。こういうのはなかなかできないことです。2時間の映画ではなく連続10話のテレビドラマだからこそできる芸当でしょうか。


「青春」とは何か
4話では塾の強化合宿が描かれましたが、最初に横浜流星を見下す嫌味な連中が出てきました。深田恭子先生は彼らにこんなことを言います。

「一生懸命勉強して、頑張って、頑張って、それで人を見下す人間になってしまったらいったい何のために勉強してきたのってなっちゃう」

深田恭子は「負け犬」という設定だけれど、それでも東大を受験できるほどの秀才ではあったわけで、彼らのようになってもおかしくない素地はあったはず。でもそうはなっていない。教え子の喜びを自分のことのように喜び、彼の悲しみを自分のことのように悲しむことができる。

偏差値で争う場合、自分の偏差値を上げるのもひとつの手ですが、他人の偏差値を下げても同じように自分の成績は上がる。でも、おそらく彼女は友人の偏差値が上がっても一緒に喜ぶような高校生だったんでしょうね。

横浜流星はだから「あんたみたいな大人になりたい」と言ったんでしょうが、ここで大きな問題が出てきました。

深田恭子は横浜流星の学力を上げて東大合格を勝ち取ることが最終目標です。が、その達成のために彼の青春を奪って母親・檀ふみと同じになってしまう可能性を秘めていた。

でも、いまや彼女は学力向上をもたらしただけでなく、人として成長させることにも成功した。横浜流星には彼女が考えるようなきらびやかな青春はない。でも、ある人との出逢いによってそれまでとは違うまっとうな人間になれたなら、なれる可能性を勝ち取れたなら、きらびやかな青春なんかなくてもいいんじゃないかという気もする。

いや、そういうまっとうな人との出逢いこそが「青春」なんじゃないか。

このドラマはそういうことを言おうとしているのか、どうか。


本当の「ヒーロー」?
3話までが神話的世界観の構築。4話5話で主人公を縛るコードの描出。ということは、後半は、逆に横浜流星が深田恭子のコードを解いてやるという転回になるのか。ならば深田恭子がヒーローなのではなく、横浜流星が本当のヒーローなのか。

おそらく来週の6話がミッドポイント。楽しみです。









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2020年04月20日

昨年の1月~3月クールに放送された深田恭子主演『初めて恋をした日に読む話』が再放送されたので見てみました。まずは昨日放送された1話から3話。

深田恭子は好きだけれど、作品にハズレが多い印象が強く、去年は乗り気になれずに最初から見ずじまいでしたが、コロナのおかげというべきか再放送されたのでせっかくだから見てみようと思った次第。


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致命的な欠陥
で、やっぱり深田恭子はハズレが多いと思いました。

だって、恋多き女と誉れ高き彼女が30代でまだ恋愛経験がない役とか説得力なさすぎでしょ?

それに、2話からは横浜流星に個別指導で授業するシーンがありましたが、1話では皆無でしたから、生瀬勝久塾長が「あなたの授業には熱くたぎるものがない」みたいなことを言う場面でも、見ているこちらは深田恭子の授業風景を見たことがないのでどう思っていいのかわからない。

塾講師の話なのに授業シーンがないのは致命的ではないかしらん。2話3話では授業シーンがあるとはいえ、少しも「これなら東大に合格できるかも」というような代物ではなく、中村倫也の学校での授業には面白味があったとはいえ、それまで授業の面白さが皆無だったからという相対的な理由によるものでしかありませんでした。

なぁんてことを思いながら、結局3話まで一気見しました。そして来週の4話5話も録画予約しました。

致命的な瑕疵があると思いながら最後まで見ると思えたのは、ひとえに神話的世界観が物語を根底から支えているからでしょう。


はじこいの「神話」
神話とはつまるところ、このブログで再三再四言ってきていますが、英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーのことです。

そして英雄とは何か。端的にいえば「問題を解決する者」のこと。もちろんのこと、横浜流星を東大に入れるべく奮闘する深田恭子がそれにあたります。

じゃあ『はじこい』における問題とは何か。


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やはりそれは、深田恭子が「きらめくような青春を檀ふみ演じる母親から奪われた」ということでしょう。

そうです。このドラマは「喪失プロット」で成り立っています。(喪失プロットが何かについてはこちらの記事を参照してください⇒「過剰プロットと喪失プロット①ハイ・コンセプトとは何か

喪失プロットとはいっても、深田恭子が自分自身の失われた青春を取り戻すのではありません。

確かに、深田恭子は幼馴染の永山絢斗や同級生の中村倫也から好かれている。横浜流星もはっきり「あいつのことが好きだ」という。遅れてやってきたモテキ到来ですが、失われた年月はもう取り戻せません。

彼女の主要アクション(問題を解決に導く行動)は、あくまでも横浜流星の「親父を見返してやりたい」という気持ちを成就させてやろうとすることです。

ここがこの『はじこい』の勘所ですね。

深田恭子が横浜流星の「東大に入って親父を見返す」という夢を成就させてやれば、彼の青春を失わせることになる。

檀ふみが深田恭子の青春を奪ったように、今度は深田恭子が横浜流星の青春を奪ってしまうことになる。


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つまり、ヒーローの主要アクションが同時に誘引アクション(問題を引き起こす行動)と完全に一致しているのです。

ヒーローがヒーローたらんとすればするほどアンチヒーローへと堕落していく可能性が高まる。

ヒーロー=アンチヒーロー

これこそドラマ作りの要諦である「葛藤」というやつですね。

この構造に気づいたとき、私は「最後まで見る!」と固く誓ったのでした。

まだ3話なのでとりあえずここまで。来週が楽しみです。


続きの記事
②本当の「青春」とは何か







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2020年04月11日

久しぶりに再見しました。ラリー・コーエン&クリス・モーガン脚本、デビッド・R・エリス監督による『セルラー』。

主人公ジェシカ・マーティンは平和な生活を営む教師で、良き妻であり一児の良き母。
そんな彼女の家に暴漢が侵入し、誘拐され、どこかわからない一室に閉じ込められます。備え付けの電話も壊されますが、必死に回路をつないで…


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ある若い男、ライアンにつながるのですね。彼は巨乳女とやることしか考えてないチャラ男なんですが、このライアンがジェシカが本当に誘拐されて監禁されていることを知り、彼女を助けるために奔走します。

そして、警官ボブの助けもあって、首領である汚職警官イーサンを殺して一件落着というのが物語のあらまし。何の変哲もないサスペンス・アクションのストーリーですが、これを「神話」として読み解いていくといろいろ面白い発見がありました。


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この映画では、「二人のヒーロー」がいます。もちろん、若造ライアンと警官ボブです。二人は「ヒーロー」などとは縁もゆかりもない生活を送っています。ライアンは女のことしか頭になく、ボブは職務そっちのけで副業で奥さんとスパを経営することしか頭にありません。どちらも「汚職警官ライアンをやっつける」ことなど映画が始まるまで少しも考えていません。

ここがまずミソですね。ヒーローとしての心の準備ができていない。それどころかそんなのどうでもいいと思っている。そんな二人が会ったこともない人間のために命を懸けてヒーローになっていく物語です。

この二人の英雄が悪を懲らしめるためにもっている「武器」は何でしょうか。

まず、ライアンにとってのそれはジェシカと通じる携帯電話です。これが最後に活躍することは見ずともわかるわけですが、問題はボブの武器である「拳銃」です。拳銃は、悪役イーサンももっています。
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しかも二人とも同じ警察官。もとは二人とも正義を下すために拳銃をもったのでした。それがいまやイーサンは悪事のために使っており、ボブはただ腰にぶら下げているだけ。しかし、このボブの拳銃が最終的にすべてを解決します。

主人公ジェシカを恐怖のどん底に陥れたのも拳銃なら、彼女の危機を救うのも拳銃です。しかし、その拳銃が別々の人間のものであるところが少し弱いところでしょうか。

『ロード・オブ・ザ・リング』では、暗黒面に堕ちた者の武器も指輪なら、正義を下す者の武器も同じ指輪でした。ひとつの指輪がどちらの手に入るかでこの世界の命運がかかっていました。『ロード・オブ・ザ・リング』の神話的世界はまことに強固なものだったと言えるでしょう。

しかしながら、この『セルラー』でも似たようなことが言えます。ジェシカを襲うのも警官なら救うのも警官だからです。最初は正義に燃えて警察官を志したはずなのに、暗黒面に堕ちてしまったイーサンと、ぎりぎり正義感を忘れていなかったボブとの対照。『セルラー』もまた『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ神話的世界を形作っています。

この頃はまだそれほどメジャーな俳優ではなかったとはいえ、この2年前に『トランスポーター』シリーズでヒーロー役をやっているジェイソン・ステイサムを悪役に配したのは、ヒーローであるボブとは対照的に暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーロー(元ヒーロー)として、すでにヒーロー役をやっていたステイサムが必要だったのでしょう。

だから、この映画の最も神話的なところは、過ぎし日には同じ正義感に燃える若者だったボブとイーサンの警察官の関係です。そしてその二人が「脇役でしかない」ところがこの映画のユニークなところです。

この映画の主人公はジェシカです。そしてジェシカが最初に助けを求めるライアンが準主役です。しかしながら、この映画の神話的世界に的を絞ると、彼らはただの脇役にすぎません。ライアンは「英雄ボブと悪の化身イーサンの神話」における援助役にすぎません。ジェシカにいたってはただの被害者です。

この映画では、被害者の「視点」から物語を紡いでいるわけですね。被害者ジェシカから援助役ライアンの登場、そして英雄ボブの登場と神話世界の外から中へ話を進めているのがうまい構成だと思います。

この文章の最初のほうで「ボブがライアンを助ける」みたいなことを書きましたが、神話的世界から見ればまったく逆なのですね。ボブがヒーローとして屹立するための援助をライアンがするわけです(だから「二人のヒーローがいる」と書いたのも実は間違いです。ヒーローはボブただ一人)。映画のプロットとそこに隠された神話の構成は完全に「さかさま」なのです。ヒーローとはまったく違う視点から物語を紡いでいるわけだから当たり前といえば当たり前ですが、とても面白いと思います。

ボブを主人公にしても物語は成り立ちます。しかし、それではあまりに教条的な映画になったことでしょう。

いきなり暴漢に襲われる、被害者が会ったこともない男に電話で助けを求める、その男がさらに助けを求めたやる気のない警官が登場し、暴漢たちが実は彼と同じ警官であることが判明し…

という感じで、小気味いいサスペンス・アクションの物語進行とともに神話的世界観が少しずつあらわになっていき、「真の英雄」が誰かは最後にわかる。

比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルが見たら大喜びするだろうと思われる「さかさま神話」の傑作だと思います。


セルラー(字幕版)
キム・ベイシンガー
2015-03-1









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