聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

社会派

『タクシー運転手』(「生活」と「政治」の見事なリンク!)

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話題の韓国映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』。

この映画は韓国史上非常に重要な「光州事件」を扱っているのですが、無知な私は見に行く直前にウィキペディアで事件のあらましをほぼ初めて知った次第。事件の名前は知っていたけれども実情なんかまるで知らなかったし、あのドイツ人記者がいなかったら世界に知られることもなかっただろうなんてことはもっと知りませんでした。

まず、タクシー運転手のソン・ガンホ演じる主人公が金目当てのためにドイツ人記者を乗せて光州事件に遭遇する、という設定がすごくいいと思います。あの人、「政治」とかぜんぜん興味なさそうでしょ。


英雄を「神輿」として描く
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トーマス・クレッチマン演じるドイツ人記者は完全な「神輿」として描かれていますね。『仁義なき戦い』で松方弘樹の名セリフがあります。
「親父、あんた結局わしらが担いどる神輿やないの。神輿が一人で歩けるいうんなら歩いてみぃや!」
トーマス・クレッチマンも一人では歩けない、ソン・ガンホが運転してやらないと何もできない神輿です。このドイツ人は光州事件を世界に知らしめた英雄だそうですが、それをただの神輿にしてしまったこの映画の脚本家は天才だと思います。

もし彼を主人公にしていたら少しも面白い映画になっていなかったでしょう。なぜなら彼は最初から「政治」に興味があるジャーナリストだから。ソン・ガンホのように「政治に目覚める」ということがない。
ドイツ人記者が英雄なのではなく、タクシー運転手を英雄として描く。その英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーは、「政治に興味のないソウル在住のタクシー運転手が、光州事件を目の当たりにして政治に目覚める物語」として語られます。
では、どのようにして目覚めるかというと……


生活者ソン・ガンホ
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初期設定として、主人公ソン・ガンホは生活に汲汲としています。妻が病気で死に、父子だけで生きていくのが精一杯だった。だから彼はドイツ人記者を光州まで乗せるのだって金のためだし、危ないと見るや料金を受け取っているのに逃げようとする等々、前半は生活に汲汲としているだけで政治には興味がないごく普通の市井の人として描かれます。

何よりも生活には金が要るし、隣家の坊やに娘が怪我させられたと知るや文句を言いにいくも、母親から逆ギレされてほうほうの体で逃げ帰ってきて何とか傷の治療だけはしてやる。この子には俺しかいない。だから稼ぐのだ! と光州まで行くんですが、政治に興味のない彼は殺されそうになるとドイツ人記者が撮っていた8ミリカメラを「渡しちゃえば?」なんて軽いことを言って逃げ延びようとする。どこまでも生活に汲汲としている人。政治なんか俺には関係ないという人なのですが……


「政治」と無縁の「生活」などありえない
ちょうど1カ月前ですかね、佐川前国税庁長官の証人喚問があったころ、
「もう政治の話はうんざり。好きな映画の話だけしていたい」
とツイートしていた人がいて、開いた口がふさがりませんでした。

だって、このまま安部政権が延命して独裁政権になってしまったら安穏と映画を楽しむ生活なんか不可能になっちゃうんですよ。政治と無関係な生活などありえないのに何を言ってるんだろうと。

ソン・ガンホはまさにそういう類の人でした。生活に必要な金を稼ぎ、娘の成長が楽しみな毎日。それだけでいい。でも、それも軍事政権があのまま続き、民主化されていなければどうなっていたことか。


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逃げようとしたソン・ガンホは地元・光州のタクシー運転手から難詰されます。「料金を受け取ったんなら目的地まで連れて行かなきゃいけないだろう」と。

それでしょうがなくドイツ人記者をデモの現場まで連れて行き、殺されかけて改心します。ように見えますが、軍が同胞を殺している凄惨な現場を見て心変わりしたというより、同業者から説教されたのが効いたんだと私は見ます。

なぜなら、この映画では「生活」と「政治」はリンクするものだということ、政治に無縁な生活などありえないことがテーマだからです。

後半のソン・ガンホは神輿たるトーマス・クレッチマンをソウルまで送ることが何よりの目的になります。ここで大事なのは、ソン・ガンホは純粋に政治的信念からそのような危険な行為をしたわけではないということです。
ソン・ガンホは生活のためにタクシー運転手をやっている。タクシー運転手とは何か。料金をもらってお客さんを目的地まで送り届ける職業である。だから彼はトーマス・クレッチマンに言いますね。「私は運転手。あなたはお客さん。お金をもらった以上はソウルまで連れて行く」と。同業者から説教されことが彼を変えました。

韓国政治史的には、あのドイツ人記者をソウルまで送り届けることは純粋に「政治的な行為」でしょう。主人公にも「この人を送り届けなければこの国に未来はない」という思いはあったかもしれない。でもその一念だけならそこらへんにある政治映画と何も変わりがありません。

生活の糧を得るために、すでに受け取った10万ウォンのために、この人を無事にソウルまで送り届けるのだ、という運転手としての信念がまず先にあることが肝要です。
ラスト、軍に追走されたときも助けてくれるのはデモ隊の学生ではありません。同業のタクシー運転手たちです。「お客さんを無事に目的地まで!」という労働者・生活者としての「信念」と、韓国国民としての「愛国心」の融合。

「生活のため」が即「国のため」にリンクする作劇。お見事!



『ペンタゴン・ペーパーズ』(正義は目を曇らせる)

スピルバーグの新作というか、すでに前作になっちゃいましたが、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見てきました。


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アイゼンハワー、トルーマン、ケネディ、ジョンソンの4つの政権が国民に嘘をつき、勝てる見込みがないと知りつつベトナム戦争に突き進んでいった最高機密をめぐる物語。

自分の都合の悪いニュースはすべてフェイクニュースだと切り捨てる現トランプ政権への批判として至極まっとうな映画だと思うし、いったんニューヨークタイムズにリークされてトップ落ちの憂き目に遭うも、今度は自分たちワシントンポストが全文書を手に入れる。そこから最高裁判決を鑑み、掲載してジャーナリズム魂を守って投獄されるか、それとも闇に葬るかの選択を迫られるも、メリル・ストリープ社主の鶴の一声で掲載に至る。ここらへんは、すべてこうなるとわかっていても興奮しますよね。

というのは私の本当に言いたいことではありません。本当に言いたいのは、スピルバーグは自分たちの政治的信条は正しい、我々は正しい映画を作っているんだと思うあまり目が曇ってしまったのではないか、ということです。


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そう思ったきっかけは、役者です。
メリル・ストリープ、トム・ハンクスといった当代随一の役者陣が出演しているのに「演技合戦」が見られませんよね。トム・ハンクスなら眠っていてもあの程度の芝居は可能でしょうし、何より「色気」がない。メリル・ストリープはじめ女優も男優も色気のある人間として演出されていない。


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これらのシーンには「女」の色気が少しだけ滲み出ていますが、メリル・ストリープならもっとできるはずなんですよ。
ズバッと言ってしまえば、すべての役者が政権批判を訴えるための「駒」にしかなっていないんです。

スピルバーグはどうしても映像演出の面ばかり語られますが、彼は演技指導の達人です。
そうはっきり認識したのは『リンカーン』のとき。ダニエル・デイ・ルイスにあれだけの芝居をさせるというか、彼は油断すると「やりすぎる」人じゃないですか。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』なんてシリアスドラマなのに私は彼のオーバーアクションにずっと笑っていました。そんな暴れ馬を『リンカーン』ではちゃんと制御していました。他にも『ミュンヘン』は渋すぎる俳優陣のアンサンブルが見事でしたし、何よりあの映画のエリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジャフリー・ラッシュたちには「色気」があった。

スピルバーグはインタビューで、トランプ政権が発足してすぐにブラックリストにこの脚本があると知り、すぐに準備して撮影・仕上げをして年内公開にこぎつけたといいます。その馬力には感心せずに入られませんが、政治的主張をしようという心意気が前面に出すぎというか、正しい主張のこもった物語をわかりやすく伝えることだけに神経が行きすぎたんじゃないかと思われます。この映画に役者の色気がないのはそのせいでしょう。

もう一度この画像。

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何かどっちも薄暗いと思いませんか? あまりに画面にメリハリがない。とてもあのヤヌス・カミンスキーが撮った画面と思えません。

俳優にも色気がなければ、画面にも色気がない。あのような芝居・映像にOKを出したスピルバーグは、おそらく自身の政治的主張の正しさによって目が曇っていたと思われます。

かつてスパイク・リーは「政治的主張だけが映画のすべてであるはずがない」と言いました。

その言葉はそのまま『ペンタゴン・ペーパーズ』への批評になると思います。



『JFK』(公文書は太陽光線と同じ)

オリバー・ストーン監督の1991年作品『JFK』。

森友学園問題での公文書改竄が世間を賑わせていますが、「公文書といえば、ケネディ暗殺の公式資料が確か去年トランプが公開を承認するも一部は非公開にしたことがあったっけ」と思って久しぶりに見てみようと。

この映画、暗殺事件の唯一の訴追者である主人公の地方検事ジム・ギャリソンの手記を原作としていますが、原作はもうひとつあり、さらにオリバー・ストーンと脚本家ザカリー・スクラーのかなり主観的な思いも入っているので「事実を捏造している」という批判もありました。

映画の内容についてはいまは措きます。次の4枚の画像をご覧ください。


奇妙な光線

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撮影監督ロバート・リチャードソンにアカデミー賞が与えられた照明ですが、どう見ても光の加減が変です。

すべて室内なのに光が強すぎる。室内灯の灯りならもっと室内全体が明るくないといけないのにどれも薄暗い。薄暗いのに人物にだけ細い強烈な光が当たっています。強さから考えたら日光でないとおかしいですが(一枚目は月光でしょうが)窓から入り込んだ日光が部屋全体を照らすことなく人物にだけ降り注いでいるというのはどう考えてもおかしい。

これはリアリズムの見地からすると「ありえない照明」ということになります。光源が何なのか、どこから来ているのか、すべて謎です。
ケネディ暗殺の真相が謎だから光源も謎でいいと考えたのかどうかは知りません。しかし、そうでも考えないとこの光の当て方はあまりに不自然です。

ケネディ暗殺事件の「真相」が書かれたとされる「ウォーレン委員会報告書」は公文書です。大半は一般公開されたようですが、一部のみ国家機密として秘匿されています。その他の資料も極秘扱い。トランプは各方面からの声を鑑みて「一部のみ公開。あとは非公開のまま」と決定したそうですが、あの品性下劣なトランプですら公開を延期しただけで改竄などやっていません。


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公文書=物理法則
翻って日本では、先週辞任させられた佐川国税庁長官の国会答弁に合うように公文書が書き換えられました。本来なら公文書の記述に沿った答弁をしないといけないはずなのに、逆になっている。忖度か誰かの指示かはわかりませんが、あの答弁は佐川長官の「主観的な言葉」にすぎません。『JFK』におけるオリバー・ストーンたちの主張と同じです。
もし、このたびの公文書改竄が「大した問題ではない」のなら、『JFK』の主張に合うようにウォーレン委員会報告書を書き換えたってかまわないことになります。もっといえば、劇中のあまりに不自然な光に合うように太陽光線をねじ曲げてもいいということになります。

そんなことができますか? 神でない人間にできるわけがないし、してはならない。

公文書というのは、そういうものです。100%客観的な事実だけを記してあると決裁されたものなのですから、それは太陽光線をも司る物理法則と同じく、どこまでも厳密なものです。

だから公文書改竄は「神をも恐れぬ所業」と言って過言ではないと思います。人間には許されていないことをやってしまった。「この問題は適当に済ませていま手薄になっている外交にもっと力を」と昨日ある番組で一般市民がインタビューで答えてましたが、「???」でした。

いま国際社会における日本の信用は地に堕ちました。こんな状態でいくら外交努力をしたところですべて無駄です。まずこの問題を徹底究明して断罪されるべき者を断罪し、それからまたコツコツと信用を築き上げていかないと。

何十年もかかるでしょう。神をも恐れぬ所業をやってしまったのですから。



『女神の見えざる手』(現代アメリカ映画の深い闇)

一部で熱狂的に迎えられているジョン・マッデン監督、ジェスカ・チャステイン主演による『女神の見えざる手』を見てきました。


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うーん、、、なんというか、銃規制法案に反対する者を完全に「悪」として捉えているのが白けますね。まぁジェシカ・チャステインも相当汚い手を使っているわけだから「どっちもどっち」かもしれませんが、銃規制に賛成の人間を主人公に据えて、彼女が最終的に勝つわけだから、作者たちの政治的立場がどちらに軸足を置いているかは簡単に察しがつきます。

政治的に中立な人間なんかいないわけだから、政治信条そのものにいいも悪いもありません。が、それを映画とかフィクションに仕立てる場合には、主人公が信じていることにも弱点があり、敵対者たちの言い分にもそれなりの理がある、というふうにしないと、最近アメリカ映画に多い、アメコミ原作のヒーローものとどう違うというのでしょう。

乱射事件の被害に遭い生き延びた女性が再び銃を突きつけられるも合法的に拳銃を所持していた民間人に助けられる場面をもっと掘り下げたら面白くなったと思うんですが、主人公が勝つか負けるかというところにばかり気を取られて、挙句の果てに敵失で勝利というのは「金返せ!」と言いたくなります。

この映画は正確にはフランスとアメリカの合作ですが、フランス側はあのリュック・ベッソンが設立した「ヨーロッパ・コープ」が関わっており、その精神においてはアメリカ映画のようなものです。それも悪い意味で。



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先日、デビッド・フィンチャーがこんな発言をしました。

「いまのアメリカ映画界では『キャラクター・ドラマ』というものができない。だから活動の場を連続テレビドラマに移そうと思う」

フィンチャーといえば、『明日に向って撃て!』を200回見たことが有名ですが、『明日に向って撃て!』のようなキャラクター・ドラマは最近のアメリカ映画ではほとんど見られなくなりました。

ちょっと前に『明日に向って撃て!』と同じポール・ニューマン主演、監督はシドニー・ポラックによる名作『スクープ/悪意の不在』を再見したんですが、『女神の見えざる手』と同じ社会派ドラマなのに、何と手触りの違うことか。


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上の画像の、奥にメインキャラクターがいるとすると、手前の通り過ぎる人はただのエキストラで「シャッター」と呼ばれます。

最近のアメリカ映画で主人公の事務所とかが舞台になるとこのシャッターがものすごく多いと思いませんか?

『スクープ』でも、大新聞社のオフィスのシーンが何度もありますが、シャッターなんかほとんどなかったですよ。

シャッターが多いと確かに人が多いなかでスリリングな場面が演じられているという「臨場感」を出すにはもってこいの手法なんでしょうが、あまり落ち着いて見られないんですね。クライマックスみたいな場面ばかりのアメコミ映画とほとんど同じです。デビッド・フィンチャーが嫌気がさしたのもわかります。

『女神の見えざる手』では公聴会のシーンが非常に重要なカギを握っていますが、全体を捉えるマスターショットもあり、それぞれを正面から捉えたバストショットもあり、ある人物の見た目を望遠で捉えた主観ショットもあり、切り返しがあり、移動撮影があり、バラエティに富んでいますが、例えば同じ公聴会の場面のある『ゴッドファーザーPARTⅡ』のように落ち着いて見ていられるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。『ゴッドファーザーPARTⅡ』の公聴会は、ある一方からのアングルしかなかったですよね。


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昔は、テレビカメラを一方にしか置けなかったからでしょうか。最近の公聴会の様子を見ると、結構アングルがいろいろあります。

そういう事情を反映しているのならある程度しょうがありませんが、しかし、いずれにしても、最近のアメリカ映画は、シャッターが多く、かつ編集が目まぐるしい。落ち着いて見られない。

落ち着いて見られないからキャラクターのドラマとして不出来なのか、キャラクターが描けていないから目まぐるしい映像テクニックでごまかそうとしているだけなのか。

どっちにしろ、またまた「現代アメリカ映画の奥深い闇」を見てしまった思いです。

『マンディンゴ』と『ジャンゴ 繋がれざる者』

久しぶりにリチャード・フライシャー監督の『マンディンゴ』を見て興奮しまくってます。





まだ白人が黒人を奴隷として使役することが合法だったアメリカ南部を舞台にしたキワモノ映画ですが、これが実に素晴らしい!

上の画像が象徴的ですが、傲慢な農場主ジェームズ・メイスンがいて、その息子ペリー・キングとその妻スーザン・ジョージ、そして彼らが競売で手に入れたマンディンゴ(格闘用奴隷)のケン・ノートンを軸に物語が展開されるのですが、黒沢清監督が言うところの「映画の原理」と「世界の原理」の覇権闘争がとりわけ面白いのです。



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どういうことかというと、ジェームズ・メイスンやペリー・キングは黒人を奴隷として自分たちの思うがままに酷使し、その根底には蔑視の気持ちがあります。それが当時のアメリカ南部の白人として当然の姿でした。ですが、黒人を蔑視しながらも、何度も死闘を制するケン・ノートンに対してペリー・キングが抱いている感情は、ただの「主人」としてのものだけではありません。「いくら金を積まれてもこいつだけは絶対に売らない」というセリフからも明らかなように、彼はこの黒人に同胞愛のようなものを感じています。

ジェームズ・メイスンですら、ケン・ノートンと別の女奴隷の間に子どもが生まれたとき、「黒い虫にしか見えん」と言いながら、好々爺のような目で赤ん坊を見つめていました。やはり同じ人間として赤ん坊はかわいいのですね。

ケン・ノートンだって主人のペリー・キングを尊敬しているし(あの言葉は嘘ではないでしょう)ケン・ノートンが黒人との格闘を制して主人を儲からせたとき、同じ黒人として彼を非難して処刑された奴隷もいましたが、主人付きの女奴隷などは、勝って帰ってきたと知って喜びを隠せない表情を見せます。同じ黒人でもリアクションが真逆です。

「奴隷制は、白人対黒人の図式であって、白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」というのが「映画の原理」でしょう。

とはいえ、この映画が描いているように、白人だからといって必ずしも黒人を100%蔑視しているわけではないし、黒人だからといって100%白人を敵視しているわけでもありません。それが「世界の原理」です。

結局、妻のスーザン・ジョージに子を産ませた(というか誘惑されたから悪いのは妻のほうですが)ケン・ノートンをペリー・キングが殺し、激怒した他の奴隷がジェームズ・メイスンを射殺してこのキワモノ映画は幕を閉じます。

白人が黒人を殺し、黒人が白人を殺す、という「映画の原理」の勝利によって高らかと凱歌を謳いあげるところがこの映画の爽快さです。世界の原理を尊重しながらも、最終的には映画の原理が勝利せねばならない。それが「映画」なのだという断言は感動的です。

一方で、数年前に同じ黒人奴隷を題材にしたこんな映画がありました。


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クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』。

この映画では、「白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」という映画の原理が最初から最後まで優位です。



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魅力的な悪役を演じるレオナルド・ディカプリオに顕著なように、彼には黒人の赤ん坊を好々爺のように見つめるジェームズ・メイスンのような資質がまったくない人物として造形されています。登場シーンから殺されるシーンまで彼は一切変化しません。



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確かに、奴隷頭を演じたサミュエル・L・ジャクソンのように、黒人を差別する黒人というは新鮮でした。スパイク・リー監督の『ゲット・オン・ザ・バス』にも出てきましたよね、この手の奴。

『マンディンゴ』より『ジャンゴ』のほうがすぐれていると思われるのは、この奴隷頭の存在だけでしょう。

しかし、この奴隷頭ですら、肌は黒いけれど白人と同じ暮らしをし、同じように黒人を差別し、同じように主人公の激怒を買って白人たちと一緒に殺されるのですから、結局、彼は「白人」の役割しか担っていません。そして彼も最後まで一切変化しません。黒人なのだから少しくらい主人公に同情的な面を見せてもいいのに、そんな場面は少しもない。

主人公ジェイミー・フォックスのメンター的役割をもつクリストフ・ヴァルツは白人ですが、アメリカ人ではなくドイツ人で奴隷制をナンセンスなものと思っているようです。つまり彼は徹頭徹尾黒人側として描かれている。

この映画には、白人側だけど黒人に魅力を感じる人や、黒人側だけど白人を尊敬する人など一人も出てこない。


読書について


ショーペンハウエルの『読書について』という本は決して読書を称揚するような内容ではなく、逆にあまり読んじゃいけないよ、ということが繰り返し語られています。

「本当の思想家とは、書物をたくさん読んだ人ではなく、世界という書物を直接読んだ人のことである」と。

タランティーノはおそらく「映画を見すぎ」なのです。だから『ジャンゴ』のような善が悪を駆逐する痛快な映画を作れはしても、『マンディンゴ』のような深さをもった映画には遠く及ばない。

100%の善人、100%の悪人など映画の中にしか存在しませんから。





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