聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

社会派

『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(なぜあんな撮り方を)

話題の映画『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』。うーん、ちょっとよくわからない映画でしたね。


テーマの問題
もちろんメインテーマには賛同します。
だいぶ前に『町山智浩のアメリカの今を知るTV』で紹介されていたときから面白そうだと思っていたし、それに何よりあの「男女同額のギャラ」を求めたベネディクト・カンバーバッチとはぜんぜん違いますから。(そこらへんのお話については→「ベネディクト・カンバーバッチは女性差別主義者かもしれない件」 を参照してください。映画で描かれたテニスの男女間格差についても触れています)




ビリー・ジーン・キングはあくまでも男子と女子のチケットの売り上げが同じなんだから賞金も同じにせよ、と。至極まっとうな要求です。だからベネディクト・カンバーバッチにはまったく賛同できない私ですが、ビリー・ジーン・キングには100%賛同します。

しかし、ビリー・ジーンがレズビアン(というかバイセクシュアル?)なのは事実であるとしても、「性別」のメインテーマと「性的嗜好」のサブテーマがひとつの物語としてうまくリンクしていない気がしました。「男と女のどちらが上か」という問題と、「女を性愛の対象にする女」というマイノリティの問題ってぜんぜん別だと思う。

でもメインテーマそのものには賛同しているので、クライマックスのスティーブ・カレルとの決戦は手に汗握りましたね。結果は知っていても、編集でごまかすような撮り方をせず、ワンラリーをほぼワンショットに収める撮り方には好感がもてました。

しかしながら……


撮り方の問題
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私が「なぜあんな撮り方をしたんだろう」と疑問に思うのは、画像のようなショットですね。

これはエマ・ストーンのクロースアップですが、普通にカメラを寄せて撮っているのではなく、少し離れたところにカメラを置いてズームレンズで撮る撮り方です。すぐ手前の女性の後頭部がピンボケしているからわかります。ズームで寄ると被写界深度が浅くなるので必然的にすぐ手前やすぐ奥のピントがボケてしまう。

この『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』におけるクロースアップは、すべてではありませんが半分はこのようなわざわざカメラを離してズームで寄るという撮り方がされていました。でも、なぜそのような撮り方をするのか少しも理解できませんでした。

もっと普通に撮ればいいのに。ずっとそう思いながら見てましたね。
クライマックスのテニスシーンにはそのようなショットがなかったからよけいに開放感があって面白く見ました。

もしかして、そういう狙い?(笑)




『タクシー運転手』(「生活」と「政治」の見事なリンク!)

話題の韓国映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』。

この映画は韓国史上非常に重要な「光州事件」を扱っているのですが、無知な私は見に行く直前にウィキペディアで事件のあらましをほぼ初めて知った次第。事件の名前は知っていたけれども実情なんかまるで知らなかったし、あのドイツ人記者がいなかったら世界に知られることもなかっただろうなんてことはもっと知りませんでした。

まず、タクシー運転手のソン・ガンホ演じる主人公が金目当てのためにドイツ人記者を乗せて光州事件に遭遇する、という設定がすごくいいと思います。あの人、「政治」とかぜんぜん興味なさそうでしょ。


英雄を「神輿」として描く
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トーマス・クレッチマン演じるドイツ人記者は完全な「神輿」として描かれていますね。『仁義なき戦い』で松方弘樹の名セリフがあります。

「親父、あんた結局わしらが担いどる神輿やないの。神輿が一人で歩けるいうんなら歩いてみぃや!」

トーマス・クレッチマンも一人では歩けない、ソン・ガンホが運転してやらないと何もできない神輿です。このドイツ人は光州事件を世界に知らしめた英雄だそうですが、それをただの神輿にしてしまったこの映画の脚本家は天才だと思います。

もし彼を主人公にしていたら少しも面白い映画になっていなかったでしょう。なぜなら彼は最初から「政治」に興味があるジャーナリストだから。ソン・ガンホのように「政治に目覚める」ということがない。
ドイツ人記者が英雄なのではなく、タクシー運転手を英雄として描く。その英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーは、「政治に興味のないソウル在住のタクシー運転手が、光州事件を目の当たりにして政治に目覚める物語」として語られます。
では、どのようにして目覚めるかというと……


生活者ソン・ガンホ
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初期設定として、主人公ソン・ガンホは生活に汲汲としています。妻が病気で死に、父子だけで生きていくのが精一杯だった。だから彼はドイツ人記者を光州まで乗せるのだって金のためだし、危ないと見るや料金を受け取っているのに逃げようとする等々、前半は生活に汲汲としているだけで政治には興味がないごく普通の市井の人として描かれます。

何よりも生活には金が要るし、隣家の坊やに娘が怪我させられたと知るや文句を言いにいくも、母親から逆ギレされてほうほうの体で逃げ帰ってきて何とか傷の治療だけはしてやる。この子には俺しかいない。だから稼ぐのだ! と光州まで行くんですが、政治に興味のない彼は殺されそうになるとドイツ人記者が撮っていた8ミリカメラを「渡しちゃえば?」なんて軽いことを言って逃げ延びようとする。どこまでも生活に汲汲としている人。政治なんか俺には関係ないという人なのですが……


「政治」と無縁の「生活」などありえない
ちょうど1カ月前ですかね、佐川前国税庁長官の証人喚問があったころ、
「もう政治の話はうんざり。好きな映画の話だけしていたい」
とツイートしていた人がいて、開いた口がふさがりませんでした。

だって、このまま安部政権が延命して独裁政権になってしまったら安穏と映画を楽しむ生活なんか不可能になっちゃうんですよ。政治と無関係な生活などありえないのに何を言ってるんだろうと。

ソン・ガンホはまさにそういう類の人でした。生活に必要な金を稼ぎ、娘の成長が楽しみな毎日。それだけでいい。でも、それも軍事政権があのまま続き、民主化されていなければどうなっていたことか。


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逃げようとしたソン・ガンホは地元・光州のタクシー運転手から難詰されます。「料金を受け取ったんなら目的地まで連れて行かなきゃいけないだろう」と。

それでしょうがなくドイツ人記者をデモの現場まで連れて行き、殺されかけて改心します。ように見えますが、軍が同胞を殺している凄惨な現場を見て心変わりしたというより、同業者から説教されたのが効いたんだと私は見ます。

なぜなら、この映画では「生活」と「政治」はリンクするものだということ、政治に無縁な生活などありえないことがテーマだからです。

後半のソン・ガンホは神輿たるトーマス・クレッチマンをソウルまで送ることが何よりの目的になります。ここで大事なのは、ソン・ガンホは純粋に政治的信念からそのような危険な行為をしたわけではないということです。
ソン・ガンホは生活のためにタクシー運転手をやっている。タクシー運転手とは何か。料金をもらってお客さんを目的地まで送り届ける職業である。だから彼はトーマス・クレッチマンに言いますね。「私は運転手。あなたはお客さん。お金をもらった以上はソウルまで連れて行く」と。同業者から説教されたことが彼を変えました。

韓国政治史的には、あのドイツ人記者をソウルまで送り届けることは純粋に「政治的な行為」でしょう。主人公にも「この人を送り届けなければこの国に未来はない」という思いはあったかもしれない。でもその一念だけならそこらへんにある政治映画と何も変わりがありません。

生活の糧を得るために、すでに受け取った10万ウォンのために、この人を無事にソウルまで送り届けるのだ、という「タクシー運転手」としての信念がまず先にあることが肝要です。
ラスト、軍に追走されたときも助けてくれるのはデモ隊の学生ではありません。同業のタクシー運転手たちです。「お客さんを無事に目的地まで!」という労働者・生活者としての「信念」と、韓国国民としての「愛国心」の融合。

「生活のため」が即「国のため」にリンクする作劇。お見事!





『ペンタゴン・ペーパーズ』(正義は目を曇らせる)

スピルバーグの新作というか、すでに前作になっちゃいましたが、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見てきました。


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アイゼンハワー、トルーマン、ケネディ、ジョンソンの4つの政権が国民に嘘をつき、勝てる見込みがないと知りつつベトナム戦争に突き進んでいった最高機密をめぐる物語。

自分の都合の悪いニュースはすべてフェイクニュースだと切り捨てる現トランプ政権への批判として至極まっとうな映画だと思うし、いったんニューヨークタイムズにリークされてトップ落ちの憂き目に遭うも、今度は自分たちワシントンポストが全文書を手に入れる。そこから最高裁判決を鑑み、掲載してジャーナリズム魂を守って投獄されるか、それとも闇に葬るかの選択を迫られるも、メリル・ストリープ社主の鶴の一声で掲載に至る。ここらへんは、すべてこうなるとわかっていても興奮しますよね。

というのは私の本当に言いたいことではありません。本当に言いたいのは、スピルバーグは自分たちの政治的信条は正しい、我々は正しい映画を作っているんだと思うあまり目が曇ってしまったのではないか、ということです。


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そう思ったきっかけは、役者です。
メリル・ストリープ、トム・ハンクスといった当代随一の役者陣が出演しているのに「演技合戦」が見られませんよね。トム・ハンクスなら眠っていてもあの程度の芝居は可能でしょうし、何より「色気」がない。メリル・ストリープはじめ女優も男優も色気のある人間として演出されていない。


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これらのシーンには「女」の色気が少しだけ滲み出ていますが、メリル・ストリープならもっとできるはずなんですよ。
ズバッと言ってしまえば、すべての役者が政権批判を訴えるための「駒」にしかなっていないんです。

スピルバーグはどうしても映像演出の面ばかり語られますが、彼は演技指導の達人です。
そうはっきり認識したのは『リンカーン』のとき。ダニエル・デイ・ルイスにあれだけの芝居をさせるというか、彼は油断すると「やりすぎる」人じゃないですか。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』なんてシリアスドラマなのに私は彼のオーバーアクションにずっと笑っていました。そんな暴れ馬を『リンカーン』ではちゃんと制御していました。他にも『ミュンヘン』は渋すぎる俳優陣のアンサンブルが見事でしたし、何よりあの映画のエリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジャフリー・ラッシュたちには「色気」があった。

スピルバーグはインタビューで、トランプ政権が発足してすぐにブラックリストにこの脚本があると知り、すぐに準備して撮影・仕上げをして年内公開にこぎつけたといいます。その馬力には感心せずにいられませんが、政治的主張をしようという心意気が前面に出すぎというか、正しい主張のこもった物語をわかりやすく伝えることだけに神経が行きすぎたんじゃないかと思われます。この映画に役者の色気がないのはそのせいでしょう。

もう一度この画像。

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何かどっちも薄暗いと思いませんか? あまりに画面にメリハリがない。とてもあのヤヌス・カミンスキーが撮った画面とは思えません。

俳優にも色気がなければ、画面にも色気がない。あのような芝居・映像にOKを出したスピルバーグは、おそらく自身の政治的主張の正しさによって目が曇っていたと思われます。

かつてスパイク・リーは「政治的主張だけが映画のすべてであるはずがない」と言いました。

その言葉はそのまま『ペンタゴン・ペーパーズ』への批評になると思います。



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