聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

社会派

『JFK』(公文書は太陽光線と同じ)

オリバー・ストーン監督の1991年作品『JFK』。

森友学園問題での公文書改竄が世間を賑わせていますが、「公文書といえば、ケネディ暗殺の公式資料が確か去年トランプが公開を承認するも一部は非公開にしたことがあったっけ」と思って久しぶりに見てみようと。

この映画、暗殺事件の唯一の訴追者である主人公の地方検事ジム・ギャリソンの手記を原作としていますが、原作はもうひとつあり、さらにオリバー・ストーンと脚本家ザカリー・スクラーのかなり主観的な思いも入っているので「事実を捏造している」という批判もありました。

映画の内容についてはいまは措きます。次の4枚の画像をご覧ください。


奇妙な光線

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撮影監督ロバート・リチャードソンにアカデミー賞が与えられた照明ですが、どう見ても光の加減が変です。

すべて室内なのに光が強すぎる。室内灯の灯りならもっと室内全体が明るくないといけないのにどれも薄暗い。薄暗いのに人物にだけ細い強烈な光が当たっています。強さから考えたら日光でないとおかしいですが(一枚目は月光でしょうが)窓から入り込んだ日光が部屋全体を照らすことなく人物にだけ降り注いでいるというのはどう考えてもおかしい。

これはリアリズムの見地からすると「ありえない照明」ということになります。光源が何なのか、どこから来ているのか、すべて謎です。
ケネディ暗殺の真相が謎だから光源も謎でいいと考えたのかどうかは知りません。しかし、そうでも考えないとこの光の当て方はあまりに不自然です。

ケネディ暗殺事件の「真相」が書かれたとされる「ウォーレン委員会報告書」は公文書です。大半は一般公開されたようですが、一部のみ国家機密として秘匿されています。その他の資料も極秘扱い。トランプは各方面からの声を鑑みて「一部のみ公開。あとは非公開のまま」と決定したそうですが、あの品性下劣なトランプですら公開を延期しただけで改竄などやっていません。


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公文書=物理法則
翻って日本では、先週辞任させられた佐川国税庁長官の国会答弁に合うように公文書が書き換えられました。本来なら公文書の記述に沿った答弁をしないといけないはずなのに、逆になっている。忖度か誰かの指示かはわかりませんが、あの答弁は佐川長官の「主観的な言葉」にすぎません。『JFK』におけるオリバー・ストーンたちの主張と同じです。
もし、このたびの公文書改竄が「大した問題ではない」のなら、『JFK』の主張に合うようにウォーレン委員会報告書を書き換えたってかまわないことになります。もっといえば、劇中のあまりに不自然な光に合うように太陽光線をねじ曲げてもいいということになります。

そんなことができますか? 神でない人間にできるわけがないし、してはならない。

公文書というのは、そういうものです。100%客観的な事実だけを記してあると決裁されたものなのですから、それは太陽光線をも司る物理法則と同じく、どこまでも厳密なものです。

だから公文書改竄は「神をも恐れぬ所業」と言って過言ではないと思います。人間には許されていないことをやってしまった。「この問題は適当に済ませていま手薄になっている外交にもっと力を」と昨日ある番組で一般市民がインタビューで答えてましたが、「???」でした。

いま国際社会における日本の信用は地に堕ちました。こんな状態でいくら外交努力をしたところですべて無駄です。まずこの問題を徹底究明して断罪されるべき者を断罪し、それからまたコツコツと信用を築き上げていかないと。

何十年もかかるでしょう。神をも恐れぬ所業をやってしまったのですから。



『女神の見えざる手』(現代アメリカ映画の深い闇)

一部で熱狂的に迎えられているジョン・マッデン監督、ジェスカ・チャステイン主演による『女神の見えざる手』を見てきました。


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うーん、、、なんというか、銃規制法案に反対する者を完全に「悪」として捉えているのが白けますね。まぁジェシカ・チャステインも相当汚い手を使っているわけだから「どっちもどっち」かもしれませんが、銃規制に賛成の人間を主人公に据えて、彼女が最終的に勝つわけだから、作者たちの政治的立場がどちらに軸足を置いているかは簡単に察しがつきます。

政治的に中立な人間なんかいないわけだから、政治信条そのものにいいも悪いもありません。が、それを映画とかフィクションに仕立てる場合には、主人公が信じていることにも弱点があり、敵対者たちの言い分にもそれなりの理がある、というふうにしないと、最近アメリカ映画に多い、アメコミ原作のヒーローものとどう違うというのでしょう。

乱射事件の被害に遭い生き延びた女性が再び銃を突きつけられるも合法的に拳銃を所持していた民間人に助けられる場面をもっと掘り下げたら面白くなったと思うんですが、主人公が勝つか負けるかというところにばかり気を取られて、挙句の果てに敵失で勝利というのは「金返せ!」と言いたくなります。

この映画は正確にはフランスとアメリカの合作ですが、フランス側はあのリュック・ベッソンが設立した「ヨーロッパ・コープ」が関わっており、その精神においてはアメリカ映画のようなものです。それも悪い意味で。



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先日、デビッド・フィンチャーがこんな発言をしました。

「いまのアメリカ映画界では『キャラクター・ドラマ』というものができない。だから活動の場を連続テレビドラマに移そうと思う」

フィンチャーといえば、『明日に向って撃て!』を200回見たことが有名ですが、『明日に向って撃て!』のようなキャラクター・ドラマは最近のアメリカ映画ではほとんど見られなくなりました。

ちょっと前に『明日に向って撃て!』と同じポール・ニューマン主演、監督はシドニー・ポラックによる名作『スクープ/悪意の不在』を再見したんですが、『女神の見えざる手』と同じ社会派ドラマなのに、何と手触りの違うことか。


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上の画像の、奥にメインキャラクターがいるとすると、手前の通り過ぎる人はただのエキストラで「シャッター」と呼ばれます。

最近のアメリカ映画で主人公の事務所とかが舞台になるとこのシャッターがものすごく多いと思いませんか?

『スクープ』でも、大新聞社のオフィスのシーンが何度もありますが、シャッターなんかほとんどなかったですよ。

シャッターが多いと確かに人が多いなかでスリリングな場面が演じられているという「臨場感」を出すにはもってこいの手法なんでしょうが、あまり落ち着いて見られないんですね。クライマックスみたいな場面ばかりのアメコミ映画とほとんど同じです。デビッド・フィンチャーが嫌気がさしたのもわかります。

『女神の見えざる手』では公聴会のシーンが非常に重要なカギを握っていますが、全体を捉えるマスターショットもあり、それぞれを正面から捉えたバストショットもあり、ある人物の見た目を望遠で捉えた主観ショットもあり、切り返しがあり、移動撮影があり、バラエティに富んでいますが、例えば同じ公聴会の場面のある『ゴッドファーザーPARTⅡ』のように落ち着いて見ていられるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。『ゴッドファーザーPARTⅡ』の公聴会は、ある一方からのアングルしかなかったですよね。


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昔は、テレビカメラを一方にしか置けなかったからでしょうか。最近の公聴会の様子を見ると、結構アングルがいろいろあります。

そういう事情を反映しているのならある程度しょうがありませんが、しかし、いずれにしても、最近のアメリカ映画は、シャッターが多く、かつ編集が目まぐるしい。落ち着いて見られない。

落ち着いて見られないからキャラクターのドラマとして不出来なのか、キャラクターが描けていないから目まぐるしい映像テクニックでごまかそうとしているだけなのか。

どっちにしろ、またまた「現代アメリカ映画の奥深い闇」を見てしまった思いです。

『マンディンゴ』と『ジャンゴ 繋がれざる者』

久しぶりにリチャード・フライシャー監督の『マンディンゴ』を見て興奮しまくってます。





まだ白人が黒人を奴隷として使役することが合法だったアメリカ南部を舞台にしたキワモノ映画ですが、これが実に素晴らしい!

上の画像が象徴的ですが、傲慢な農場主ジェームズ・メイスンがいて、その息子ペリー・キングとその妻スーザン・ジョージ、そして彼らが競売で手に入れたマンディンゴ(格闘用奴隷)のケン・ノートンを軸に物語が展開されるのですが、黒沢清監督が言うところの「映画の原理」と「世界の原理」の覇権闘争がとりわけ面白いのです。



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どういうことかというと、ジェームズ・メイスンやペリー・キングは黒人を奴隷として自分たちの思うがままに酷使し、その根底には蔑視の気持ちがあります。それが当時のアメリカ南部の白人として当然の姿でした。ですが、黒人を蔑視しながらも、何度も死闘を制するケン・ノートンに対してペリー・キングが抱いている感情は、ただの「主人」としてのものだけではありません。「いくら金を積まれてもこいつだけは絶対に売らない」というセリフからも明らかなように、彼はこの黒人に同胞愛のようなものを感じています。

ジェームズ・メイスンですら、ケン・ノートンと別の女奴隷の間に子どもが生まれたとき、「黒い虫にしか見えん」と言いながら、好々爺のような目で赤ん坊を見つめていました。やはり同じ人間として赤ん坊はかわいいのですね。

ケン・ノートンだって主人のペリー・キングを尊敬しているし(あの言葉は嘘ではないでしょう)ケン・ノートンが黒人との格闘を制して主人を儲からせたとき、同じ黒人として彼を非難して処刑された奴隷もいましたが、主人付きの女奴隷などは、勝って帰ってきたと知って喜びを隠せない表情を見せます。同じ黒人でもリアクションが真逆です。

「奴隷制は、白人対黒人の図式であって、白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」というのが「映画の原理」でしょう。

とはいえ、この映画が描いているように、白人だからといって必ずしも黒人を100%蔑視しているわけではないし、黒人だからといって100%白人を敵視しているわけでもありません。それが「世界の原理」です。

結局、妻のスーザン・ジョージに子を産ませた(というか誘惑されたから悪いのは妻のほうですが)ケン・ノートンをペリー・キングが殺し、激怒した他の奴隷がジェームズ・メイスンを射殺してこのキワモノ映画は幕を閉じます。

白人が黒人を殺し、黒人が白人を殺す、という「映画の原理」の勝利によって高らかと凱歌を謳いあげるところがこの映画の爽快さです。世界の原理を尊重しながらも、最終的には映画の原理が勝利せねばならない。それが「映画」なのだという断言は感動的です。

一方で、数年前に同じ黒人奴隷を題材にしたこんな映画がありました。


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クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』。

この映画では、「白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」という映画の原理が最初から最後まで優位です。



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魅力的な悪役を演じるレオナルド・ディカプリオに顕著なように、彼には黒人の赤ん坊を好々爺のように見つめるジェームズ・メイスンのような資質がまったくない人物として造形されています。登場シーンから殺されるシーンまで彼は一切変化しません。



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確かに、奴隷頭を演じたサミュエル・L・ジャクソンのように、黒人を差別する黒人というは新鮮でした。スパイク・リー監督の『ゲット・オン・ザ・バス』にも出てきましたよね、この手の奴。

『マンディンゴ』より『ジャンゴ』のほうがすぐれていると思われるのは、この奴隷頭の存在だけでしょう。

しかし、この奴隷頭ですら、肌は黒いけれど白人と同じ暮らしをし、同じように黒人を差別し、同じように主人公の激怒を買って白人たちと一緒に殺されるのですから、結局、彼は「白人」の役割しか担っていません。そして彼も最後まで一切変化しません。黒人なのだから少しくらい主人公に同情的な面を見せてもいいのに、そんな場面は少しもない。

主人公ジェイミー・フォックスのメンター的役割をもつクリストフ・ヴァルツは白人ですが、アメリカ人ではなくドイツ人で奴隷制をナンセンスなものと思っているようです。つまり彼は徹頭徹尾黒人側として描かれている。

この映画には、白人側だけど黒人に魅力を感じる人や、黒人側だけど白人を尊敬する人など一人も出てこない。


読書について


ショーペンハウエルの『読書について』という本は決して読書を称揚するような内容ではなく、逆にあまり読んじゃいけないよ、ということが繰り返し語られています。

「本当の思想家とは、書物をたくさん読んだ人ではなく、世界という書物を直接読んだ人のことである」と。

タランティーノはおそらく「映画を見すぎ」なのです。だから『ジャンゴ』のような善が悪を駆逐する痛快な映画を作れはしても、『マンディンゴ』のような深さをもった映画には遠く及ばない。

100%の善人、100%の悪人など映画の中にしか存在しませんから。





『30年目の真実・宮崎勤の肉声』には嘘がある!

昨日放送された『30年目の真実・宮崎勤の肉声』はなかなかの力作ドラマだと感じました。が、このドラマには嘘がある! と声を大にして言いたい。


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もし金子ノブアキ演じる刑事がいなかったら、宮崎勤は連続幼女誘拐殺害事件の犯人としては捕まらなかったんじゃないかと思えるほど、この刑事の勘が鋭かったようですが(というか、トランクから血が出てるのに車の色が違うからホシじゃないと決めつける同僚や係長のほうがどうかしてる気もしますが)とにかく、宮崎勤の肉声と、当時実際に放映された映像と、今回撮られた再現映像とを駆使してあの事件に迫るドラマとして見応えがありました。

が、やはり、このドラマには「嘘」があるんですよ。


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最終的に、
「宮崎勤は俺たちと同じただのちっぽけな人間だった」
そこに一番衝撃を受けた金子ノブアキ。そのラストシーンはなかなか見せるものでした。

だが、不満もあります。


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ダンカン演じる宮崎勤の父親。だいぶ息子とそりが合わなかったようで、あの部屋に入ろうとすると怒るから近寄らないようにしているとか、報道陣から部屋を見せてくださいと言われたときに、チラと息子の部屋のほうを見てから「いいですよ」と言うときの影のある顔など、もうちょっとこの父親と宮崎勤のことを突っ込んでくれてもよかったんじゃないかと。

ただ、私が本当に言いたいのはそういうことではなく、この人が事件から数年後に自殺したことを世の人はほとんど知らない、ということなんです。
このドラマでもその事実にはまったく触れていませんでした。

というか、この父親の自殺ってテレビはおそらくほとんど報じていません。新聞でも社会面の片隅にひっそり書かれていただけ。少なくとも私の友人・知人は誰もあの父親が自殺したことを知りません。

何かあったんじゃないか。宮崎勤の父親の自殺には公にできないある秘密がある。

と、自殺を報じた新聞記事をたまたま見たときからずっと思ってきましたが、このドラマを見てその思いを強くしましたね。

このドラマには「嘘」があるから。

その嘘というは、「自供書の書かせ方」です。

ドラマでは、宮崎勤の供述を金子ノブアキの同僚がずっと書き留めていましたが、最後の最後で金子ノブアキが、
「おまえのやったこと全部ここに書け!」
と白紙を差し出します。そして、同僚刑事が、日付、場所などちゃんと書けよ、みたいな命令をしていました。あれは絶対におかしい。

私はちょうど宮崎勤の父親が自殺した年に警察に捕まったことがあります。そのとき、私の供述したことを警察官が文章にまとめたものを読めと言われ、その紙を見てみると、「自供書」と書かれていました。自分で書いてないのになぜ自供書? と思ったら、うっすらと鉛筆で書いてあるんですね。

で、何度も読めと言われ、「それで間違いないか。本当に間違いないな?」と念を押されてから、
「よし、上からペンでなぞれ」
と、なぞらされるんですよ。あれは屈辱でした。

私が犯したのは軽犯罪法違反であり、殺人なんかに比べたらちっちゃなもの。書類送検のうえ不起訴処分になったはずですが、それぐらいちっぽけな事件でも、自供書というのは容疑者の自由には書かせないものなんです。なのに、白紙を渡して「やったことを書け」なんてありえない。

この『30年目の真実・宮崎勤の肉声』の冒頭、どれだけ人物の言動を忠実に再現しているか、まるで手柄のように提示されます。

なのに、自供書に書き方(書かせ方)ひとつにも嘘がある。

おそらく警察から自供書は本当は警察官が書いていることを知られたくないから現実どおりに表現しないでくれという要請があってああいう表現になったのでしょうが、そんなことすら隠す警察(とマスコミ)は、宮崎勤の父親の自殺についても何か隠しているんじゃないか、というのが私の見立てです。

宮崎勤事件が抱える闇はまだまだ大きいと断定せざるをえません。



『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)



ジョージ・A・ロメロ監督が亡くなったので、追悼の意味をこめてデビュー作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を再見しました。



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やはりこの映画の肝は「主人公の入れ替わり」にあると思うんですよね。

最初に登場する兄妹のうち兄のほうがゾンビに殺されて物語が幕を開けるんですが、この時点では逃げ延びた妹バーバラが主人公なんですね。そんなに仲良くなかったような兄ですが、ゾンビに殺されてしまい、バーバラは以後ほとんどを放心状態でおろおろするばかり。観客はそんなバーバラに感情移入してしまいます。

で、バーバラが農家の母屋にたどり着くと誰もいず、周りはゾンビに取り囲まれている。上の階に上がろうとしたら悲惨な死体があり、外に飛び出そうとするとちょうどトラックでやってきた黒人ベンと出会います。

実はこのベンと「主人公の入れ替わり」が行われるんですが、最初観客はベンにはあまり感情移入できません。

なぜなら、彼は「いろんなことを知っているから」です。
ゾンビが死肉を食らうことも知っているし、戦い方もある程度知っている。

だいたい映画の主人公というものは、観客と同じかそれより少ない情報しか知らないというのが普通です。バーバラに感情移入できたのは、突然兄を殺されたことへの同情もあるでしょうが、彼女がゾンビについて何も知らないことが自分たち観客と同じだからです。自分たちより多くの情報量を知っている人物は頼りには感じられても共感はしにくい。

さて、この映画は1968年の作品ですが、その8年前に「主人公の入れ替わり」という前代未聞の手法をやってのけた名作があります。天才ヒッチコックによる『サイコ』。






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最初は会社の金4万ドルをくすねたマリオンに感情移入してしまうんですよね。これからどうなるんだろう。捕まるんだろうか。あの警官がどこまでも追ってくるんじゃないか。

と思っていたら、あるモーテルに着き、そこの支配人ノーマン・ベイツと出会う。このノーマン・ベイツと主人公の入れ替わりが行われるんですが、ヒッチコックがどういう手を使ったかというと、「物量作戦」なんですね。

二人が出会ってから会話するシーンが長い。特にマリオンがサンドイッチを食べながらノーマン・ベイツの母親の話を聞く場面などめちゃ長い。さらにマリオンが殺されてその死体の処理をするシーンも異常に長い。

観客は、いったいあの母親は何者なのか。息子への嫉妬で殺したんだろうか。しかし主人公と思っていたマリオンが死んでこれから映画はどこへ向かうのか。

という、前代未聞の疑問をもちながら死体処理シーンを見るので最初はあまり長さを感じないはずです。

逆にあの場面にじっくり時間という物量をかけたからこそ「主人公の入れ替わり」は成功したと言えます。

ただ、マリオンは殺されることで物語から強制的に退場させられるから、ノーマン・ベイツへの主人公の入れ替わりはそこまで時間をかけなくても、という気もします。

ただ、ここで問題になるのが「情報量」です。

マリオンの情報量と観客の情報量は完全に一致していましたが、ノーマン・ベイツは母親について観客よりもたくさんのことを知ってるじゃないですか。(実際は彼自身知らないことがたくさんあるわけですが、それは最後になって初めてわかることですもんね)

つまり、マリオンが死んだ時点でノーマン・ベイツには主人公の資格がないんですよね。だから充分に時間をかけて、粘着気質らしき母親に困らされている哀れな息子を描かねばならなかったのでしょう。(極めつけは車を沼に沈めるシーンですね。いったん車が沈まなくてノーマン・ベイツが慌てそうになるところで観客は「沈んでくれ!」とハラハラしますから。あそこでノーマン・ベイツは主人公になったと言っていいでしょう)



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この二人の場合はどうでしょうか。

入れ替わりにかかる時間はほとんど数分です。いや数分もかかっていないかも。

ヒッチコックより巧みな戦術が取られているんですよね。
その戦術も「情報量」です。

バーバラよりもいろんなことを知っていたベンですが、地下室に何者かがいることは知らなかった。ここで、観客の情報量とベンの情報量が一致し、ベンは主人公の資格を得ます。

『サイコ』ではマリオンが死ぬにも関わらず入れ替わりに多くの時間を要しましたが、この『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では、最初主人公と目されていたバーバラが死なないにも関わらず、入れ替わりがほとんど瞬時に行われてしまう。

もし『サイコ』でマリオン殺害が未遂に終わっていたら、主人公の入れ替わりは完遂できたでしょうか? 私はかなり疑問に思います。



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ジョージ・A・ロメロ。
一部分とはいえヒッチコックを超えてしまった男。

ご冥福をお祈りします。


続きの追悼記事
『ゾンビ』(「妊婦」のコードを破って見せたロメロ)





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