社会派

2020年07月23日

エミリオ・エステベスの監督最新作『パブリック 図書館の奇跡』が素晴らしかった。(以下ネタバレあります)


見事な社会派ドラマ
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物語は、大寒波に見舞われたシンシナティで、シェルターに入れてもらえなかったホームレスたちが図書館のワンフロアを占拠、職員のエミリオ・エステベスもそれに加担して主犯として占拠運動の先頭に立つ、というもの。

実際に日本でも豪雨か何かのときに入れてもらえなかったホームレスがいましたよね。

ホームレスになるからそういう目に遭うんだ。自己責任だ。

という声は日本でもあったし、トランプが大統領のアメリカではもっとあるんでしょう。社会問題を根底に据えてどっしり重心の低い見事なドラマに仕上がっていました。やっぱりエミリオは監督として有能ですよ。

でも、私が感動したのは物語の意味的なことよりも、『マッドマックス 怒りのデスロード』でついに描かれなかったものがこの映画では見事に描かれていたことなんです。


『マッドマックス 怒りのデスロード』への不満
日本でもファンの多い『マッドマックス 怒りのデスロード』、私はあまり好きになれませんでした。

全編クライマックスって、それはクライマックスがないのと同じでは? という不満もありましたが、もっと大きな不満は「暖色と寒色のドラマ」がついに描かれなかったことなのです。


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このように、昼間は圧倒的な暖色、夜間はもっと圧倒的な寒色で撮られています。

なのに、そこに何の葛藤もないから「ドラマ」になっていないのです。いったい何のためにこれみよがしなフィルターワークではっきり分けて撮ったのか少しもわからずイライラが募りました。


暖色と寒色のドラマ
『パブリック 図書館の奇跡』は大きく二つの場所が舞台となっています。

図書館の中と、クリスチャン・スレイターやアレック・ボールドウィンら権力者たちがたむろしている警察の一室。

『怒りのデスロード』ほどはっきり色分けされていませんが、劇場のスクリーンで見ると一目瞭然です。

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ホームレスを守る図書館が温かみのある暖色系で、彼らを排除しようとする者どもの部屋が冷たい寒色系というのはとてもいい設計です。対立する二つの陣営をはっきり色分けして「色と光のドラマ」が成立していました。

図書館内は暖色系の色が多い。実際のシンシナティ公共図書館でロケしたらしいですが、壁や床が木製なのでもともと温かみがある。加えて、ホームレスたちの衣裳が薄汚れているので暖色っぽく見える。黒人の肌も暖色系。それを活かした画作りですね。

対して、クリスチャン・スレイターたちがいる一室は壁もシャツも真っ白で完全な寒色系。ライティングもそこを考えて冷え切った映像に仕立てています。(ついでに言うと、外のマスコミのトレーラーも寒色のライティングが施されていました)

後半、権力者側だったジェフリー・ライトがエミリオ側に寝返りますが、彼は黒人なので暖色の部屋によく似合う。

というか、もともとエミリオ・エステベスに同情的だったからああいう展開になったというより、暖色系の顔をしているからああなった、と考えたほうが楽しい。

最後、クリスチャン・スレイターに「もうショーは終わりです」と言い放つ警察官もメキシコ系の非白人でした。


ドラマの結末が……
しかしながら、この暖色と寒色のドラマの結末はいただけなかった。

ついに逮捕というそのとき、エミリオもホームレスたちも全裸になっているというのが、物語の意味的にも配色的にもいい結末とは思えませんでした。ちょっと肩透かしというか。

ただ、この映画はほとんど夜のシーンですが、ずっと外にいる、エミリオの隣人で一夜を共にした女性の顔がよく撮れています。


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「よく撮れている」というのは、最近のアメリカ映画では室内シーンですら顔にろくに照明を当てずに撮っている映画が多いからです。表情が読み取れなくてイライラします。

この『パブリック 図書館の奇跡』はそういう意味でも素晴らしかった。夜なのにこんなにはっきり顔が映るのはおかしい。でも映るように撮らなければ観客には伝わらない。

ただ、彼女はエミリオの味方なのだから青い寒色のライトではなく暖色のライトを当ててほしかった。

そういえば、この映画も洋の東西を問わず最近の映画界の宿痾となってしまった「手持ちカメラ症候群」に侵されていました。それもほとんどのカットで。

ちゃんと三脚にカメラを据えて普通に撮ってほしい。


関連記事
最近のアメリカ映画が人物の顔にちゃんと光を当てない件


怒りの葡萄〔新訳版〕(上) (ハヤカワepi文庫)
ジョン スタインベック
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2014-12-19





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2020年03月25日

いまだにこの映画がカンヌでもオスカーでも『パラサイト』に負けたというのが信じられない2019年フランス映画『レ・ミゼラブル』。(以下ネタバレあります)


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つい先日、ブライアン・デ・パルマの8年ぶりの新作『ドミノ 復讐の咆哮』というのを見ましたけど、この『レ・ミゼラブル』のほうがよっぽど「ドミノ」だと感じたのは私だけではないでしょう。

お話の転がし方にも工夫がありますが、私はやはりラジ・リという監督さんの演出力に驚嘆しました。

これは何度も言っていることですが、京都の専門学校に行っていた頃、監督を目指す友人たちは「どう撮るか」ばかり考えていました。

カメラをどう動かすか。
どうつなぐか。
光をどこに当ててどこに当てないか。

などなど。

それも大事でしょうが、役者への演技指導が監督の一番の仕事じゃないの? というのが私のスタンスでした。


荒井晴彦さんの誤解
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脚本家の荒井晴彦さんがよく映画芸術誌上で言っています。「どう撮るか」は監督の仕事だが「何を撮るか」は脚本家の仕事だ、と。

本当にそうでしょうか?

脚本を書いていた者の感覚からすると、脚本にだって「どう」はあると思うんですよね。この題材を映画にする場合、どういう切り口で語るべきか、というのは「どう」の範疇でしょ?

逆に、できあがった脚本に「何を撮るか」はふんだんに盛り込まれているとはいえ、やはり実際の現場に行って実際の役者がそれぞれの役を演じるとなると、そこには「何を見せるか」という問題が出てきます。

つまり演技指導です。脚本には小説と違って必要最小限のことしか書かれてないから同じセリフでもどう抑揚をつけるかとか、喋りながら動くのか、あるいは、立ち止まって喋るのか。脚本にもある程度動きが書かれているとはいえ、そこは役者の生理や全体のバランスを考えて変えていかねばなりません。

セットや衣裳のデザインや光の塩梅なども「何を」のうちに入るのでしょうけど、一番はやはり「役者」ですよね。役者が「何」を担当する。その「何」を演出するのは監督の役目です。

脚本家も「何を撮るか」を書くけれど、監督も現場で「何を撮るか」を形作る。

荒井さんは監督もやってるのになぜそんな大きな誤解をしているのだろうと不思議です。


『レ・ミゼラブル』
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『レ・ミゼラブル』では役者が輝きまくっていました。

私の中の「映画史上最高の演技」は『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマンなんですけど、あれに勝るとも劣らない「まるで目の前に実際に存在しているかのような」芝居が繰り広げらていました。

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子どもたちへの演出はもっとよい。この子どもたちはこの映画でかなり重要な役柄を背負っていますけど、物語上重要だからというより、やはり現場での演技指導が卓越していたから印象に残るのでしょう。彼らもジーン・ハックマン並みの芝居を見せてくれます。ラストシーンのあの表情!

とはいえ、ラストははっきりあの火炎瓶を投げて大炎上し、警官が子どもを撃ち殺して……というカタストロフをちゃんと見せ切ってほしかったという思いもあります。あそこで幕というのはちょっと手抜きな気がしないでもない。

カメラも最近の映画特有の手持ちカメラが多く、最初はぐらぐら揺れるカメラに「またか」と辟易しましたが、映画があまりに充実しているので気にならなくなりました。

ただ、ここは手持ち、ここはフィックスという分け方に意味がなかったような……? 「何」を担当する役者があれだけ魅力的なら全編手持ちカメラで撮ってもよかったように思います。(個人的には全編フィックスのほうがいいけど)

とにかく、今年見た映画の中では、臨場感という点では『1917』より素晴らしく、映画全体としても『フォードvsフェラーリ』より上を行くとんでもないものを見たという感じです。

いまはお腹いっぱいで他の映画を見る気になれません。時間と財布が許してくれたらもう一度見に行きたいくらい。


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2020年02月01日

ずっと見たい見たいと切望してきた東海テレビ製作による『さよならテレビ』。

監督が傑作『ホームレス理事長』『やくざと憲法』の土方宏史さんということでよけいに期待が高まっていましたが、これが期待にたがわぬ素晴らしい壮大なる「自爆テロ映画」でした。


最初にすべてが……?
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冒頭、土方監督が『テレビの今』という仮題の企画書を見せ、同じ会社の面々に取材を申し込む。テレビがいまどうなっているかを撮らせてほしいと。

で、すぐ机の下にマイクが仕込まれるんですが、「ダメだ、マイクがあると喋れない」となり、お偉いさんたちの猛反発に遭って、

①机のマイクを外す
②打ち合わせは許可を取ってから
③発表の前に必ず試写をする

という三条件を新たに設けて取材が進むことになるんですが、土方監督が「テレビ局内部にカメラを向けることでハレーションを起こすかもしれませんが、それならぜひそれも撮りたい」と言っていたハレーションがまさに起こってましたよね。いつもカメラを向ける側のテレビマンたちが、カメラを向けられれるとキレかかる。マイクがあるとナーバスになって喋れない。いつも取材対象にはそれを受け容れさせているのに……。


三人の登場人物
しかし、そんなことにお構いなしに映画は別の方向に進みます。

登場人物が三人出てきます。

局アナの福島さん(右側)
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派遣社員から一年契約の契約社員になれた新人の渡邊くん
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ベテラン記者の澤村さん(中央)
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これら三者三様のドラマが展開されるんですが、この人たち、すべて「外様」ですよね。

局アナはもちろん東海テレビの社員ですが、カメラを向ける側ではなく向けられる側だから社内でも異質の存在のはず。常日頃からカメラを向けられている人にカメラを向けても意味ないでしょう。

新人の渡邊くんもしかり。まだ半人前以下の彼はカメラやマイクを突きつけるより、自分が被写体になることのほうが多い。それにテレビマンになりたての人間にカメラを向けて「テレビの今」を活写できると思うなんてあまりに馬鹿げています。

澤村さんも中途入社らしく、かなりのベテランのようですが一年契約の契約社員といってましたよね。やはり東海テレビの中では外様。

やっぱり、冒頭でカメラを止めろ! と叫び、渡邊くんのミスを叱り飛ばしていた東海テレビの中枢の人たちのあれやこれやを見せてくれないと意味がない。


自爆テロ=アクロバティック・ドキュメンタリー
おそらくは、撮ったけど編集で切ったのではなく、撮らせてもらえなかったのでしょう。もしくは撮って編集でも残したけど試写をしたら切らされた。そこで土方監督は逆の手を打った。

最後に澤村さんに「このドキュメンタリーも結局、いつもテレビがやってるのと同じでしょ?」と告発してきます。共謀罪で逮捕されたが無罪になった人との対面の場面は最初からマイクなどが仕込まれた「やらせ」だった。そうやってテレビ番組は作られている、この映画だって同じでしょと澤村さんが告発する。

と見せかけて、実はその澤村さんも仕込みなんですよね。あの告発はもともと台本にあるセリフのはず。

だって、最後に「出演者」として三人の名前が出ましたから。被写体ではなく「出演者」です。ドキュメンタリーなのに「出演者」です。

ドキュメンタリーと称していたこの映画は、実は周到に準備された劇映画だった。というか、編集の魔力によって無理やり劇映画にしてしまった。それもかなり不出来な。

映画そのものが、いまの腐ったテレビをそのままなぞるような「腐った映画」たろうとしています。

渡邊くんが地下アイドルのライブに行ったりするのをなぜ見せる必要があるのか。密着取材だから撮るのはいいけど作品のテーマとぜんぜん違うことだから編集で切らないといけないのにあえて残す。

それは、いまのテレビはこういう必要のない場面、テーマや主旨とは関係ないけど、アイドルおたくが情けない顔で握手会に参加してる場面があると視聴率が上がるからですよ、と作者自身が身を挺して訴えるためでしょう。

映画そのものを駄作にすることで「テレビの今」を告発する自爆テロ映画。何ともアクロバティックなドキュメンタリーで、これはかなりの実験作にして野心作だと思いました。

まだまだ映画には可能性が残されていますね。この映画は希望の星です。


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