歴史

2020年05月16日

先日、BS1スペシャル『ウイルスVS人類③スペイン風邪 100年前の教訓』を見て驚愕しました。


スペイン風邪とナチス
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1918年から20年まで約3年に亘って猛威を振るったスペイン風邪(英語ではスパニッシュ・インフルエンザ)のせいでナチスが誕生したというのです。

その前に、第一次世界大戦をドイツの負けで終わらせたのもスペイン風邪だったというから驚きです。

当時のドイツ軍の将軍が「ドイツはアメリカに負けたのではない。インフルエンザに負けたのだ」と言ったとか。

講和条約を締結するためのパリ講和会議では、ドイツに多額の賠償金を支払わせるべきだと主張するフランスと、もっと穏便に解決すべきだと主張するアメリカが激しく対立していたそうです。


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アメリカのウィルソン大統領は何とかその線で押し切るつもりが、スペイン風邪にかかってしまいダウン。死にはしなかったものの、治って会議に戻った頃にはフランス派が優位で、ウィルソンもまだ体調が思わしくなかったので「フランスの言うとおりでいいでしょう」と妥協してしまったとか。

この結果、莫大な賠償金のせいでハイパーインフレが起こったドイツでは民衆の経済的困窮が続き、「ドイツ復活!」「ドイツ・ファースト」を掲げるヒトラーの登場を大歓迎したとか。

スペイン風邪がなくともヒトラーは登場していたでしょうが、登場しても、ベルサイユ条約がまったく違った形で締結されていれば、ヒトラーやナチスは歓迎されていなかったかも、という驚きの内容でした。


「歴史=his story by virus」?
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歴史を意味する英語「history」は「his story」つまり、時代の支配者である男たちの物語のことだ、とはよく言われますが、本当にそうなのでしょうか?

ベルサイユ条約やナチス、ヒトラーについて、スペイン風邪による影響なんていまのいままで知らなかったし、それらに関する本にもこれまで書いてあったためしがありません。

年初に放送された『100分deナショナリズム』で取り上げられていた『昭和維新試論』を読んだんですが、この本には原敬がどうのこうの、という記述がいくつかある。『ウイルスVS人類③』では、原敬がスペイン風邪にかかってその後の政治が変化したと言っていました。

しかし、『昭和維新試論』にはそのような記述は一切ありません。明治から昭和初期までを扱うこの書物は、スペイン風邪が大流行したことなど「まるでなかったかのよう」に書かれています。

それがダメだと言いたいのではなく、本当なら歴史は「his story by virus=ウイルスによる支配者の物語」として記述されるべきなのに、後半を捨象したのが巷間に流布されている歴史なのだということ。


人類はCOVID-19をいつまで憶えていられるか
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『ウイルスVS人類③』では、スペイン風邪は一説によると1億人もの死者を出したのに完全に忘れられた、その要因のひとつは直後の1923年に起こった関東大震災だろう、と言っていましたが、別に大震災がなくとも忘れられていたんじゃないでしょうか?

喉元すぎれば熱さを忘れる。

緊急事態宣言がまだ出ているのに、早く企業活動を再開させないと、という考えから休業要請を解除し、そのために日本中の繁華街で人出が戻っています。

喉元すぎれば熱さを忘れる。

私は別にそれが悪いと言っているのではありません。人間とはそういうものだというだけの話。私自身、街なかへ繰り出したしね。

COVID-19(=新型コロナウイルスによる新型肺炎の正式名称)を我々はいつまで憶えていられるか。

ほんの少し前までは「自粛警察」が幅を利かせていましたが、休業要請解除の動きから一変、自粛警察のニュースなど見なくなりました。

それどころか、1年後には「自粛警察」がまったく違う意味で使われている可能性があります。自粛しない人や店を叩くのではなく、過度に自粛する人たちを叩く。

もうCOVID-19など過去の遺物だとばかり、三密を防ぐための新しい生活様式を厳守する人たちを叩きまくる可能性は充分あると思います。

それを防ぐためにも、我々は新型コロナウイルスやCOVID-19をいつまでも憶えていなくてはいけないし、COVID-19によって世界の歴史がどう変わったのかを記述し続けていかなくてはならないと思う次第です。











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2019年11月02日

ドイツ文学者・池内紀さんの『ヒトラーの時代』を読みました。教えられるところ多でした。


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テーマは、サブタイトルにもあるように「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」。

ヒトラーは「民主的に選ばれた政治家」であることはよく言われます。民主政と独裁政は親和性が高いとは内田樹先生もよく言うこと。

ただ、ナチスが取った戦略は大事なことはすべて国民投票で信を問う。のだけど、反対票を投じられないような仕組みになっているとか、ある日突然共産主義思想が違法になり共産党の議席が全部なくなるとか、ほとんどめちゃくちゃ。でも宣伝相ゲッベルスのやり口が巧みでナチス支持の輪を広げていく。

とはいえ、ナチスのやり方はおかしいと思っていたドイツ国民も多くいて、ある地方ではナチスがいくら勢力を伸ばしても中央党というリベラルな政党が常に一定数の票を集めていた、というなかなか驚くべき記述もありました。

しかし著者の本当に言いたいことは、

「なぜこんな凡庸きわまりない男が史上最悪の独裁者になれたのか。とんでもない手法を取ったとはいえ、多数派でありさえすれば安心できる大衆にこそ真の原因がある」

ということでしょう。

続けてこんなマンガを読みました。橋本ナオキという人の『会社員でぶどり』


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社畜を自認する鶏のでぶどりと、後輩で意識高い系のヒヨコのひよ君の物語。

でぶどりは意味のない会議や、とにかく会社にいることが大事だという部長に心の中で文句を言いながらも毎日終電まで残業し、俺はほんと社畜だなぁなどと自嘲しています。

それに対してひよ君は、さっさと仕事を終わらせて「もう帰るのか」という部長の命令を無視して毎日定時で帰ります。そして先輩のでぶどりに、

「被害者ヅラしてるだけじゃ何も変わりませんよ。いくら命令されたとはいえ残業したのは先輩の意思でしょ。いやな会社でこの先もずっと疲弊するつもりですか。僕は辞めますよ」

といってほんとに辞めてしまう。著者も東京のIT会社を1年半ほどで辞めたそうですが、でぶどりとひよ君は著者自身の心の中の葛藤だったのでしょう。辞めたいけど辞めていいのかと悩みながらも、まず辞めないことには前に進めないというもう一人の自分。

『会社員でぶどり』の一番のキーワードはひよ君が何度も言う「被害者ヅラ」

悪いのは会社である。何かあったら会社のせいにすればいい。

と思って従っているうちに自分を社畜だと笑う人間(鳥?)になってしまった。そうなる前に辞めた著者は偉いと思います。ひよ君のロジックには一点の曇りもないし。


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だから、ヒトラーをあそこまでのさばらせてしまったのは、会社が悪いと言いながら従っていたでぶどりのような大衆なのでしょう。加えて、でぶどりは「会社を辞めたら周りが何と言うか。親に何と言われるか」と自分の気持ちよりどう思われるかを優先している。それは多数派でいたいということ。少数派であることをおそれず自らの意思を貫いたひよ君はやはり偉い。


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この男をこれ以上のさばらせないためにも、ひよ君のように勇気ある行動を取らねばならない。実際にやっているのが山本太郎ですね。私は一票を投じて少額の寄付をしただけ。他に何かできることはないか。

そういえば、最近、瀬戸内寂聴の『97歳の人生相談』という本も読んだんですが、寂聴さんが何度も言うのが、

「青春は恋と革命です」

というフレーズ。世の中の不正と闘って変えていかねばというメッセージ。

大いに知恵と勇気をもらった最近の読書でした。(『でぶどり』はすでに第2巻が出ているらしいので、早く読みたい)



会社員でぶどり
橋本 ナオキ
産業編集センター
2019-03-13





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2019年08月22日

いま、文芸評論家の三浦雅士さんが経済学者・岩井克人さんに聞き書きした『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫)を読んでいます。




まだ途中なんですが、めちゃくちゃ面白い知見にあふれていて夢中で読んでいます。


奴隷制度は必然だった⁉
この本で一番面白いのは「会社はモノだけれど同時に法人という形でヒトでもあるように、人間もまたヒトであり同時にモノなのだ」というところ。

「人間が生物学的にヒトであるのは自明の理だけれども、社会を営む存在としてのヒトはまず何よりも『法人』という概念によって獲得されたのではないか。つまり、法人である以上は会社と同じくモノでもある。だから奴隷制度は必然だった」

うーん、これはめちゃくちゃ面白い!


ホリエモンの誤算
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ホリエモンのニッポン放送の株買い占めによる乗っ取りが失敗に終わったことが例に出され、次のようなことが語られます。

「堀江さんが『カネで買えないモノはない』といったのは100%正しい。でも、ヒトとしての会社はカネでは買えない」と。

なるほど、あの騒動の本質はそういうことだったのか。


モノとして扱われる体験
今日、病院へ行ってきました。そこでこの本で言われていること「人間はヒトであり同時にモノでもある」を体験したんですね。

精神科なので、最初は↓こんな感じです。

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「人間対人間」といったかんじですね。私の話をよく聞いてくれる。

で、瞳孔の収縮を見ます。いい画像がなかったので、膝関節を見る医者に替えます。

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これは人間をモノとして扱っていますね。このように、人間は相手の人間をヒトとして扱ったりモノとして扱ったりをその場の状況に応じて使い分けていることに初めて気づいたわけです。

よく、ドラマなんかで女が男に「私、あなたの物じゃないから!」とかいう場面がありますが、ああいうふうに、人間をモノとして扱うのは普通よくないこととされています。しかしながら、誰だって人間をモノとして扱ったり扱われたりしている、ということにいまさらながら気づかされた次第。


映画というカウンターカルチャー
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映画も人間をモノとして扱いますよね。特にアクション映画がそうだし、次がポルノ映画かな。いや、どんな映画だって人間の肉体を描いているのだから、すべての映画が人間をモノとして扱っている。

黒沢清監督は、

「愛してると一言つぶやくより、一発ぶん殴るほうが映画においては決定的なのだ」

と言っています。

映画は、人間のヒトとしての心理も描くけれど、同時にモノとして物理的な捉え方もする。映画黎明期のサイレント映画ってどれも役者が不気味で怪奇的じゃないですか。あれは「モノとしての人間」が描かれているからでしょう。

資本主義が花開いた19世紀は近代文学が花開いた時代でもありました。そこでは「個人としての人間」つまり「人間精神」が尊ばれていた。「ヒトとしての人間」ですね。

その19世紀末にモノとしての人間を扱う「映画」というメディアが生まれたのは非常に示唆的ではないでしょうか。

ホリエモンは会社をモノとしてのみ見たために失敗しましたが、近代精神は人間をヒトとしてのみ見ようとした。それもまた片手落ちである。そこに映画というカウンターカルチャーが「モノとしての人間」を復活させた。

「歴史」というものの壮大さを感じるのはこういうときです。岩井さんと三浦さんはしきりと「最終的には文学の問題だ」と言っていますが、私に言わせれば「すべては映画の問題だ」

そういえば、奴隷制度が廃止されたのも19世紀でした。19世紀は「ヒトとしての人間」と「モノとしての人間」のせめぎあいだったのかもしれません。





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