聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

日本映画

ネトウヨへの対処法(『万引き家族』をめぐって)

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是枝裕和監督の新作『万引き家族』がカンヌ映画祭の最高賞パルムドールを獲ったことが世間を騒がせています。

私は「日本映画が受賞したからうれしい」という感情がよくわからないのですが、というか、むしろ是枝監督とは相性が悪いので自分は楽しめないんじゃないかなぁ、という不安のほうが強い。

いずれにしろ、またぞろ「日本スゴイ!」案件が来てしまったなぁ、と思っていたら思わぬ伏兵がいました。

「万引きして生計を立てている家族を主人公に描いた映画など国賊映画だ」とか「コレエダとかいう奴は在日に違いない」とか言ってるネトウヨさんたち。なるほど、そう来たかと。


『壁の中の秘事』
かつて若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン映画祭に出品されたとき、同作がポルノ映画ということで「国辱映画」と言われたそうですが、あのときの騒動もこんな感じだったのかなぁと。

見てから言えや、というか、おそらく劇中で描かれる一家は生活保護を受けたくても受けられないから万引きしているのでしょう。不正受給を許さないと息巻く人たちとネトウヨさんたちはおそらく同じ人たちだと思いますが、あなた方が生活保護の基準を厳しくするから作家的想像力によってこういう一家が生み出されたわけだから、この映画が反日だというなら、あなた方も反日では?

と言いたくなるんですが、映画を見てもないのに非難するなんて、と先日ツイートしたばかりなので内容について云々するのはやめましょう。


もしカンヌで受賞していなかったら
『万引き家族』はちょっと前から予告編やってるし、当然ユーチューブにもあるだろうし、新聞、雑誌、ネットその他で宣伝されてるはずだからカンヌの発表前にすでに知ってる人は知ってましたよね。それがパルムドール受賞となったら途端に「万引き家族映画なんて反日的だ!」となる。

もし同じ金賞でもカンヌじゃなくてロカルノ金賞とかだったらそんなに吠えないんでしょう。だって大したニュースにならないから。

逆に、『万引き家族』という邦題をもつ中国映画や韓国映画がパルムドールだったらどうか。これについてもあまり騒がないはずです。日本のマスコミは日本映画が受賞しなければあっさり伝えるだけですからね。

つまり、ネトウヨって大きなニュースに乗っかってるだけなんですね。いろいろ言いたい放題言ってるように見えて、自分たちの発言で世間が騒ぐような案件にだけヘイト運動をする。

決して自分たちでネタを探してきてるわけじゃない。メディアの記事や有名人の発言に乗っかってるだけ。もしそうじゃないのであれば、出品作に選ばれた時点で騒がないとおかしい。

彼らは自分たちの狂騒をメディアが取り上げてくれるのを待ってるだけだから、相手にしてはいけないと思う。

私も頭がカッカしてしまい、今朝方、ネトウヨさんたちに真剣に反論するツイートや、嗤うツイートなどをリツイートしてしまいましたが、いまは削除しました。彼らが一番痛いのは無視されることでしょう。もちろん、同じ思想の人たちからはリツイートやいいねをたくさんもらえるんでしょうけど、たぶん、彼らに最もエネルギーを備給するのは、私たちのような反ネトウヨの冷静さを欠いた反論のような気がします。これまでにも、反論した人間を「在日」と指差すことで溜飲を下げていましたから。

だから、「ネトウヨはけしからん」という論旨のつぶやきをしない、文章を書かないことが一番肝要だと思いますね。今後同じようなことが起こった場合は、「相手にしない」「完全無視」これ以外にないと思いますね。何事もなかったかのように通り過ぎましょう。

至極当たり前のように見えて、これって実は難しいと思います。みんな頭カッカしてすぐ反論しちゃいますから。

↓実際に映画を見た感想はこちら↓
『万引き家族』(我々はみな許されざる者である)


『鬼の棲む館』(神話・宗教・時代の三位一体)

日本映画専門チャンネルでやっていた『鬼の棲む館』。これがべらぼうに面白かった。神話と宗教が絡み、男二人の「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」が時代背景とともに見事に描かれています。


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1969年大映作品『鬼の棲む館』
原作:谷崎純一郎『無明と愛染』(「あいぞめ」ではなく「あいぜん」です)
脚本:新藤兼人
監督:三隅研次
出演:勝新太郎(無明の太郎) 
   高峰秀子(楓)  
   新珠三千代(愛染)  
   佐藤慶(高野の上人)




時代背景
まず、高峰秀子演じる楓が「頼もう」と荒れ果てたお堂を訪ねる場面から始まります。そこに住んでいるのは無明の太郎と言われる盗賊とその愛人の愛染。楓は太郎の妻なんですが、愛染に寝取られたと。それで太郎と奪い返しに来た。

そんな楓の気持ちなどお構いなしに、太郎は京へまたぞろ金目のものを盗みに行くと言って出かけます(このとき薪代わりに仏像を叩き斬るのが後半に向けての伏線ですね)。京はひどい戦乱にまみれていて、応仁の乱の時代なのかな、と思いましたが違いました。

太郎がいない間に佐藤慶演じる高野の上人が一夜の宿を求めて訪ねてきます。このとき「京方と吉野方が……」と語っていて、なるほど、南北朝時代なのかと。

鎌倉末期の直後で南北朝時代が舞台というのがこの映画のミソですね。鎌倉末期から持明院統と大覚寺統の間で「両統迭立」の状態にあり、その末期に後醍醐天皇が現れて南北朝時代に突入。皇統が分裂していた時代でした。

この時代背景は後半の展開にかなり大きな意味をもってきます。


英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー
楓は上人に語ります。
かつて荘園名主だった太郎は戦火で荘園が潰れたために京へ出てきて愛染と出逢い、その愛染によって暗黒面に落とされた。楓はそんな太郎を奪い返しに来たのだと。しかし、実際は愛染に復讐したい気持ちのほうが強いようです。。

そこを上人は鋭く突きます。愛染を「鬼」と罵る楓の心にもまた鬼が棲んでいると。鬼は多かれ少なかれ誰の心にも棲むものだ、というのが真言宗の考え方かどうかは知りませんが、少なくともこの上人の思想ではあるらしい。

では、なぜこの上人はそのような思想をもつに至ったか。やはり上人自身がかつては暗黒面に堕ちたアンチヒーローだったことが大きいのでしょう。
いまは出家して英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーを歩んでいる。かつての自分のような太郎に出会い改心させようとする。が、上人もまた太郎と同じくかつて愛染の誘惑に負けた弱い人間だったことが判明します。上人はかつて貴族で、愛染にそそのかされて人を殺めたことが語られます。太郎と上人は同じ穴のムジナというわけです。そして、再び愛染が色仕掛けで上人に迫る。

で、こんなことになってしまいます。

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己に負け、仏の道を誤った上人は舌を噛み切って自殺します。英雄の旅を完遂できなかった上人の胸中を察するととても悲しい。


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しかし、「仏も私のカラダに負けた!」と高らかに笑う新珠三千代を見た勝新は発作的に彼女をぶった斬ります。そして、上人の遺志を継いで、妻の楓とともに出家をする。

このへんの展開はとってつけたような感じが否めませんが、上人が堕落する直前、太郎が上人の念仏によって黄金色の仏像の強い光に負けたという事実が、彼をして上人の死に様に「仏性」を見えさせたのでしょう。鎌倉仏教が花開いた直後でまだ末法思想の名残もあっただろう時代。しかも、いつ終わるかわからない戦乱の世だった、という時代背景も関係しているかもしれません。


南北朝時代の意味
時代背景の意味がこれでもうわかりましたよね。
かつて太郎は楓と幸せな生活を送っていたけれど、愛染と出逢うことで暗黒面に堕ちた。
その愛染によって暗黒面に堕ちていた上人はそれゆえに仏に道に入って暗黒面から脱却した。
その上人が再び愛染によって暗黒面に堕ちたがゆえに、太郎は暗黒面から脱却した。

上人と太郎はどちらもヒーローズ・ジャーニーを歩んでいますが、どちらかがヒーローのとき、もう片方はアンチヒーロー。

両雄、並び立たず。両統迭立から南北朝へと皇統が分裂していた時代というのがうまく活かされています。

京が戦火の焼かれている時代というだけなら応仁の乱でもいいような気がしますが、やはり皇統分裂のこの時代のほうがテーマがより明確になるという計算なのでしょう。
ただ、両統迭立や南北朝の分裂というのが、愛染のような女の魔性によって引き起こされたものかどうかは浅学のためまったく知りません。


クライマックスで大事なこと
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クライマックスで大事なことは、愛染を斬った太郎がその死骸に抱きつき、号泣することでしょう。
ちょっと前まで愛し合っていた仲だから、ということではないと思います。発作的に斬った、ということへの悔いでしょう。

太郎は上人が死んだ時点で仏の心が芽生えていた。ならば、彼が愛染を暗黒面から救い出し、新しい英雄の旅に歩ませなければならなかったはず。それを気持ちはわかるが発作的に斬ってしまった。救い出すことができなかった、ということへの悔恨と謝意の表れと解釈するのが私流の見方。

彼女は最初から最後まで、ヒーローとアンチヒーローを循環的に行き来するキャラクターではなく、ユング心理学でいうところの「身体のアーキタイプ」なのかもしれません。いや、確実にそうでしょう。ヒーローを暗黒面へ転落させる役どころ。決して変化しない。

だから「鬼」なのでしょう。しかし「鬼は誰の心にも棲んでいる」のです。上人も己の鬼に負けた。太郎も負けかかっていた。太郎を救いに来たはずの楓も鬼退治という妄執に囚われた鬼に成り下がっていた。

だから、愛染は決して身体のアーキタイプではなく、アンチヒーローだと思います。それはヒーローに変容する可能性を秘めた存在ということです。そう考えないと「誰の心にも鬼が棲んでいる」と言った上人が浮かばれません。魔性にだって仏性はひそんでいるのです。それが釈迦の教えだったはず。

だから、太郎のアンチヒーローからヒーローへの変容は、きっかけは上人の死ですが、それだけではまだ完全ではなく、愛染を斬ってしまったことで完全なる変容となったのだと思います。

仏教、それも大乗仏教の国だからこそこういう映画が作れた。キリスト教などの一神教を信仰する人にこういう物語は作れない。私は日本人としてこの映画を誇りに思います。

ただ、惜しむらくは、高峰秀子の役どころがやや狂言回し的なところで終わってしまったところでしょうか。冒頭など、あの勝新をも圧倒する横綱相撲ぶりに瞠目していたんですが、だんだん影が薄くなってしまって……。
太郎の変容はしっかり描かれますが、楓の心に棲む鬼がどうなったか、その顛末が描かれないのはとても惜しいと思います。



『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅はかであったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、マコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通に、マコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して言ってきたことではなかったでしょうか。


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『丑三つの村』(本当の愛国心とは何か)

おととい、私になりすました怪ツイート事件なるものが発生しました。フォロワーさんに不快なツイートを送ってすぐ消えたそうです。

事情はだいたいわかります。先週こんな記事を書きました。⇒『映画秘宝』創刊者・町山智浩の問題発言について 
おそらく、この記事に反感をもった人の犯行でしょう。他に反感を抱かれるような記事は書いてないし。犯人は町山智浩を批判するなんて許せない、と思ったのでしょうが、私がかねてから町山本を愛読している人間だということを知らないらしい。過去記事か過去ツイートを遡って確かめてほしいもんです。

それはともかく、ずっと前から思っていることですけど、誰かを批判するとその人のことが嫌いだと思う人が世の大半を占めていることは絶対におかしい。「嫌いだから批判する」と思っている。

そんなバカな。「好きだから批判する」んですよ!


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『丑三つの村』と何の関係もないこんな話から始めたのは、この映画が「本当の愛国心とは何か」をテーマとしているからです。


反日=愛国
ドキュメンタリー作家の松江哲明監督が、『靖国』が国会議員の検閲を受けた問題が起こったとき、「もっと反日映画が作られるべきだ」とコメントしていてオオオオと感動したものです。なぜなら、「もっと反日映画を」という言葉こそ真の愛国心の顕れですから。

日本が好きだからこそ、この国のダメなところを挙げて批判をする。それこそが「この国をよりよくしていこう」というムーブメントを起こせる。松江監督の発言にはそういう思いがあったはずです。


「ストーリーフォーカス」と「大きな物語」
『クリエイティヴ脚本術』という本には、焦点が当てられた物語(ストーリーフォーカス)がその背景にある「大きな物語」と密接なかかわりをもたないかぎりその物語は力をもちえない、ということが説かれています。




『丑三つの村』のストーリーフォーカスはもちろん「津山三十人殺し」ですが、背景にある大きな物語はというと、「大日本帝国の物語」ということになります。

古尾谷雅人演じる主人公は、秀才で陸軍師範学校に入るための勉強に明け暮れ、いずれは帝国軍人としてお国のために戦いたいと切望していますが、肺結核と診断され夢は途絶えます。それを根っことして村人を皆殺しにする事件が起きるわけですが、いままで私はこの映画を見て主人公の「戦争」ということをあまり考えていませんでした。ラストの大殺戮シーンがやたら凄惨なうえに感動的なのでね。呆気にとられていたというか。


しかし今回見直してみて初めて気づきました。彼は外敵と戦えなくなった結果、内なる敵と戦争するのですね。あの村が大日本帝国の縮図であることは明らかです。

お国のために産めよ殖やせよじゃ! と叫ぶ絵沢萌子や、お国のために働けんようになったくせにと主人公を傷つける大場久美子らは、二言目には「お国のため」と言いますが、あれは嘘ですよね。みんなそう言ってるしそう言っておけば安全だという自己保身でしょう。最後に殺される池波志乃が、夫の軍服(大日本帝国の象徴)を主人公に向かって投げ捨てながら逃げるシーンがすべてを物語っています。

「美しい国へ」とか「愛国心を」などと言っていた安倍某が実は私腹を肥やすことしか考えていなかったことと相似形をなしています。「村のため」と言いながら人殺しを指揮している夏八木勲が、官僚に公文書改竄を指示した誰かさんにしか見えませんでした。


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彼らは愛国心を利用しているだけ。本当に国のために戦いたかった古尾谷雅人は、ニセ愛国者の彼らを殲滅することが自分の使命だと行動に打って出ます。

ストーリーフォーカスの次元では「個人的な怨念」で行動を起こす主人公ですが、大きな物語の次元では「世直し」なのですね。そしてその世直しのために主人公は「鬼」になることを決意します。


お婆やん殺害
これまでは、主人公の絶対的な庇護者であったお婆やんを殺すのは、劇中で語られる通り「惨劇を起こしたことで悲しませたくないからだ」と思っていました。確かにストーリーフォーカスの次元ではそうでしょう。しかし大きな物語の次元では「鬼」になるためだと初めて知りました。

まだ太平洋戦争が起こる前ですから「鬼畜米英」という言葉はなかったかもしれませんが、外敵を「鬼」と称する精神構造はおそらくあったはずです。主人公は内部の敵をやっつける「鬼」だと自らを規定しました。田中美佐子に「鬼!」となじられた彼は「鬼で何が悪い!」と返しますが、あれは開き直りではないと思います。その証拠にすべての殺戮を終えてもう一度田中美佐子の元に戻ってきた主人公は「鬼が鬼退治しただけじゃ」と呟いて去っていきます。

「鬼」と「神」
それはともかく、ちょっと他の人と違うだけで非国民として主人公を排斥する村人たちは、いまのネット右翼と完全に重なります。公文書偽造が明らかになりネット右翼は鳴りを潜めているらしいですが、権力者が国家の土台を崩そうとしているのだから本当に国を愛しているのなら批判するべきなのです。いま政府を批判する人こそ愛国者であり、批判しない人は愛国者の仮面をかぶった売国奴です。

だから、「鬼が鬼退治しただけじゃ」の前者の「鬼」と後者の「鬼」は意味が違います。「夜叉」という言葉も出てきますが、後者の「鬼」は前者のような本当の鬼を殲滅する「神」のようなものでしょう。

どの宗教でも「神」は鬼のように恐ろしい存在です。でも基本的に「愛」に溢れている。ラスト20分の陰惨きわまりない殺戮シーンがあんなにも感動的なのは、「村のため」ひいては「お国のため」という「本当の愛」に溢れているからだと思います。

完全に蛇足ですが、朝日新聞のスクープ記事が出た時点では政府を擁護していた人たちが、財務省が事実と認めた途端、素早く手の平を返している姿は、大日本帝国バンザイから民主主義バンザイへ手の平返しをした当時のニセ愛国者たちとまったく同じではないでしょうか?


『ガチ☆ボーイ』(佐藤隆太が泣かせる!)

BSプレミアムドラマの『弟の夫』があまりに素晴らしく、特に佐藤隆太の芝居が素敵すぎるので、10年前のこの作品を再見したくなりました。


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主人公は記憶障害で、眠るとその日一日の記憶を失ってしまう。でもそれ以外の記憶はすべて憶えている。というかなりご都合主義の設定ですが、見ているうちにそんなことは忘れてしまいます。何しろ「頭は忘れても体が憶えている」というのがテーマだし。

大学在学中に司法試験に合格した秀才で将来を嘱望されていたのに、いまは実家の銭湯を手伝うくらいしか生きていく道がない。父親の泉谷しげるは息子の自慢話に明け暮れていたのにそれももう叶わない。妹の仲里依紗は兄貴想いのいい子だけれど兄の苦悩をはたで見守るしかない。

サエコ演じるマドンナ的なマネージャーに佐藤隆太は恋をするんですが、相思相愛かと思いきや彼女は向井理演じる部長が好きで失恋してしまう。ただ失恋するだけでなく、告白するのが4回目で振られるのが2回目だと知った主人公の号泣を見て、「脳に障害があるのにプロレスって…」という疑問が吹き飛んでしまうのです。というか、一緒に号泣するほかないのです。

とにかくこの映画は力強い。それは佐藤隆太という役者だけが出せる力なのだろうと思います。この映画の6年前、『木更津キャッツアイ』で初めて見たとき、正直言っていまのような素敵な役者になるとは夢にも思っていませんでした。そのうち消えるのだろう、ぐらいにしか。

それがいまや、『ウチの夫は仕事ができない』の懐の深い上司役とか、『弟の夫』のシングルファーザー役とか、佐藤隆太にしか出せない味を出せる役者に成長しました。軽く見ていた不明を恥じます。

テレビドラマ的な作りに対して、

「映画的じゃない」
「ただの浪花節」

みたいな批判もありそうですが、私は大好きです。ご都合主義も含めて、ここまで熱いドラマを展開されては、あばたもえくぼです。

すべての映画が映画的じゃないといけないの? 映画で浪花節を歌っちゃいけないの?

同じプロレスを題材にしているからじゃないですが、あの『カリフォルニア・ドールス』のよう、と言ってしまっては褒めすぎですかね。

でもまぁ未見の方は騙されたと思ってご覧になってくださいませ。

ラスト30分、「映画の奇跡」があなたに襲いかかります!!!



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