日本映画

2019年08月07日

先日チャンネルNECOで放送された、貝原クリス亮脚本・監督による『振り込め詐欺』を見ました。

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ろくでなしの男にウリをやらされている女が、もっと金が必要だということで、「振り込め詐欺研修会」みたいなところに送り込まれるんですね。

そこで、こんなに簡単に大金が手に入る、と振り込み詐欺の手口のイロハを教え込まれ、首尾よく騙せたら1割もらえるという仕組み。ほんとにこんな研修会があるのかどうかは定かじゃないですが、かなり高い確率であると思われます。現実の日本社会では史上最も詐欺師が多い時代じゃないかと思えるほど振り込め詐欺に手を染める人が多いですもんね。前の職場で同僚さんが「石を投げたら詐欺師に当たる」と言っていたけど、そこまで多いとは思いませんが。

で、その組織が振込口座をタレコミされてしばらく活動を凍結することを決めたのをきっかけに、主人公は一緒に研修会に入った女と組織には秘密で大金を騙し取っていくんですが、それが組織にばれてしまい…

という物語なんですが、この映画には一人も善人が出てきません。主人公だけは仕方なく、という感じでしたけど、後半は自分から率先して詐欺に手を染めるし。

現実に振り込め詐欺の被害に遭う人がいまだに多数いますが、主人公に対する反発はありません。

なぜなら、研修会と称してはいるものの、おそらく暴力団の末端構成員とおぼしき男が、恫喝に恫喝を重ねて無理やり詐欺の手口を教えていくんですが、主人公は彼から9割も搾取されているわけで、だから、これはもう「プロレタリアートによるブルジョワジーへの反逆」なんですね。階級闘争。思わず応援したくなっちゃう。

とはいえ、研修員の男にも反感を感じないところがミソ。
彼は、「世の中カネだ、カネがすべてだ!」とわめくんですが、その言葉の是非はともかく、そこに彼の人生観・人間観が詰まっていると感じるからです。おそらく貧しい幼少時代を過ごし、金を騙し取られたこともあったのでしょう。金さえあれば、金さえあればこのクソみたいな人生を変えられる、そう信じて振り込め詐欺に血道を注いでいるのがわかるのです。

そうです。彼もまた階級闘争の下位に属する者なのです。何割かは知りませんが、組から搾取されているはず。

てことは、その上位にいる人間、金をたんまりもっていながら自分では何もせず人をこき使うだけの輩を出さないと片手落ちじゃないの? 主人公とその男が手を組んで半グレ集団に喧嘩を売るぐらいのことをやってほしい、と思いましたが、これはないものねだりかな。この映画の予算ではあまり大がかりな立ち回りとかできそうにないし。

でも、『真夜中のカーボーイ』みたいなエンディングにちょっと引いたのも事実。できれば、主人公には勝ってほしかった。金は得たけれど…という最後じゃなくて、金をゲットして超ハッピー! という能天気な映画を見たかった。

悪事に手を染めた主人公が何の裁きも受けずにハッピーエンド。それが正しい「階級闘争映画」のあり方じゃないかな、と。

とはいえ、何だかんだと考えさせてくれるこの『振り込め詐欺』はマジで面白かった。おすすめです。

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2019年07月25日

小沼勝監督が小水一男の脚本を風祭ゆきの主演で撮った1980年ロマンポルノ作品『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今……』。

これが何度見ても面白いんですが、その面白さの源流に何があるのか、いままでよくわかりませんでしたが、今日やっとわかったような気がしました。


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物語
まず、風祭ゆき演じる専業主婦は、実業家の夫と二人で暮らしており、夫は風俗嬢の女と不倫中。その女が暴漢に殺され、彼が犯人であるかのような写真まで撮られる。暴漢たちは「あんたの奥さんを抱かせてくれたら警察には言わない」というので夫は呑む。そして風祭ゆきは暴漢たちに犯される。帰ってきた夫は「女房を犯されたアホな亭主といわれる。一番の被害者は俺なんだぞ」とひどいことを言う。

風祭ゆきは、翌日、暴漢たちに会い、金を払う。実は夫を風俗嬢と別れさせてほしいと彼らに頼んでいたのだ(つまり風俗嬢もグルで死んだふりをしていただけ)。犯されたとき指を強く噛んだので、暴漢の指に傷があるのを見てすべてを悟る風祭。「あんたの旦那が犯していいって言ったんだぜ」と暴漢が言う。「嘘!」と風祭は信じないが、「鍵を貸してくれた」と物的証拠を突きつけられたので受け容れるしかない。

何だか入り組んだ物語ですが、単純化すると、風祭ゆきは夫の不倫をやめさせてくれとやくざな男たちに依頼した。が、彼女に欲情した男たちは、依頼を逆手にとって風祭を犯す。さらにあんたの亭主が許してくれたとばらすことで彼女を絶望させ、また犯す。

つまり、夫の不倫とそれをやめさせようとした妻、というごく普通の設定なのに、依頼した男女の奸計によって主役二人が泥沼地獄に陥れられる。


主体と客体
能動的に動いていると思っていた人間(風祭と夫)が実は受動的な立場に立たされていたわけです。しかも、夫は暴漢が風祭を犯すところを実は覗いていた。つまり、彼は主体を回復する行動をひそかにしていたんですね。この覗き行為によって、風祭ゆきだけが100%の客体として劇中のヒエラルキーで最下位に追いやられます。

という設定がユニークなんですが、この映画は主人公にとって逆境以外の何ものでもないシチュエーションを主人公自身がひっくり返すんですね。(ほとんどの映画はそういう仕組みですけど)

男が女を抱く。男が女を襲う。つまり、男が主体で女は客体である、というのがこの映画の初期設定です。

が、これを風祭ゆき演じる主人公がひっくり返す、つまり風祭が主体として屹立し、ヒエラルキーの最上位に返り咲くところにこの映画の一番の面白さがあります。


ヨットの管理人の役割
風祭夫妻はヨットを所有していて、その管理人として若い男を雇っているんですが、彼は風祭に欲情しまくりなのに彼女の水着姿を見て自慰行為にふけることしかできない。風祭は「何してるの?」と余裕たっぷりに言って海に飛び込み、若者は忸怩たる思いに襲われます。このシーンは映画が始まってすぐです。つまり、まだ風祭ゆきが客体でしかないとき。客体でしかない女に主体的にからかわれる若い男の鬱屈した思いに身がよじれてしまいます。

この場面では、風祭はまだ暴漢たちの企みを知らないから、自分が主体であると勘違いしてるんですね。だから本当は客体でしかないのに主体的に振る舞えてしまう。主人公が無知であるがゆえに若い男は弄ばれるのです。

中盤、背後のからくりを知ってしまった風祭は、自分が客体でしかないことを思い知らされます。自分が依頼した男たちがレイプ犯だった。しかも彼らに鍵を渡したのが夫だった。どこまでも客体である自分に打ちひしがれていると、またあの若い男が現れます。

風祭ゆきは彼に「あたしが好きなら抱いてみなさいよ」と言い放ちます。若い男は踏ん切りがつかない。風祭は笑います。

「どうせあなたの恋人は5本の指よ!」と。

あの若い男が主人公の逆襲に一役買っているところがミソですね。彼がいなければ風祭ゆきは客体から主体へと変貌を遂げることができなかったでしょう。若い男の意気地のなさを笑い飛ばす風祭ゆきは主体として覚醒を始めます。

このあと、くだんの風俗嬢を街で見つけた夫もからくりを知り、風祭が別れさせてくれと依頼していた事実を知ります。

この構成も絶妙ですね。風祭ゆきの覚醒のあとに夫がすべてを知る。つまり、この時点で夫が最下位の客体として物語の底に追いやられている。風祭ゆきの覚醒の前に夫がからくりを知ったら、両者の知っている情報量が同じになってしまいます。風祭ゆきが覚醒しかけたときに夫がすべてを知ることで、風祭はさらに最下位から上へ、夫は上から最下位へ、という立場の逆転に勢いが出ています。


風祭ゆきにとっての「主体」とは?
さて、風祭ゆきにとって「主体」として行動するとはどういうことでしょうか?

若い男に「あたしを抱いてみなさいよ」と挑発したように、男に自分を抱かせることでしょう。男が女を抱くのではなく、抱かせる。男が女を襲うのではなく、女が襲わせる。

その象徴が、だだっ広い一本道を歩く風祭ゆきを学生の群れが好奇の目で見る数シーンでしょう。

風祭ゆきは「そんな扇情的な恰好をしてるから襲われるんだ」みたいな、被害者の女性を責める言葉が出てくるような衣装を常にまとっています。

暴漢に襲われ、裏のからくりを知ったあとでもそんな恰好をしているのは、「襲われる女」ではなく「襲わせる女」として、真に主体的な存在として屹立するためでしょう。

だから、クライマックスで、若い男の手引きで家に侵入してきた学生たちに輪姦される場面を見ていても、もはや襲われてかわいそう、というような感情は湧いてきません。襲わせている女のしたたかさを感じてしまう。

射出された白濁液は、射出したというよりは風祭ゆきが吸い取っているように見えます。女王蜂が働き蜂が作ったローヤルゼリーを吸い上げるように。逆に、「見ろよ、このおっさん、女房が犯されてるのに勃起してやんの」と馬鹿にされる夫は、完全に堕落したダメな奴に成り下がります。

ヨット管理人の若い男は風祭を犯そうとしますが、うまくいかない。そして彼は管理人を辞めます。

ラスト、次の管理人としてあるサーファーの男に声を掛けようと走る風祭ゆきで映画は幕を閉じますが、彼女が「あの子、かわいい」と言って決めることから考えて、前任者と同じく「5本の指が恋人」のような男を探していたのでしょう。

もう夫では満足できない。男に襲わせる女であり続けるためには、純で奥手な男を生贄にする必要がある。

ラストシーン以降、風祭ゆきは何人もの男を毒牙にかけて生きていくはずです。物語は永遠に続くのです。

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2019年06月03日

見てきました。小松菜奈と門脇麦がギターデュオを演じる塩田明彦監督最新作『さよならくちびる』。

これが実に素晴らしかった! 予告編を見たときすでに傑作の予感がしていましたが、期待にたがわぬ作品でした。

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女の子二人のバンドを小松菜奈と門脇麦でやる、という時点で勝ったも同然という感じですが、塩田監督自身による脚本がまず素晴らしいですよね。


脚本
正直、時系列が複雑であまり理解できませんでした。毎晩どこかで開かれる解散ツアーと解散に至るまでの3人のウロウロが描かれるんですが、小松菜奈の男の家に入って決闘する成田凌は少なくとも数日入院していたみたいなので解散ツアーの前の出来事みたいだけど、どれぐらい前のことなのか判然としないし、問題のこのシーン、、、


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これも時系列のどこらへんなのかがわかりませんでした。でも、それもこれもあまり大事なことではないような。大事なのは、このキスシーンをツアー最終地である函館の直前にもってきたことですよね。「さよならくちびる」という歌が真に胸に迫ってくるのはキスシーンの時系列上の位置ではなく、脚本上の位置から来ると思うので。

作詞も作曲も天才的なハル(門脇麦)と、ハルが誘ってだけ、見た目がいいだけのレオ(小松菜奈)の葛藤劇。プラス、成田凌演じるシマという元バンドマンのマネージャーとの三角関係。

しかし、「なぜ私なんか誘ったの」というレオの問いに対し、「歌いたそうな目をしてた」というハルの返事が素晴らしい。それ自体がひとつの「詩」になってる。

必要なセリフしかないのも素晴らしい。目の表情や動きだけでわかるなら何も言わせない。基本ですけど基本だからこそ難しいんですよね。基本は奥義ですから。

逆に、何度も出てくるセリフ「バカで何が悪い」はこの映画のテーマなのでしょう。テーマをセリフで言わせちゃダメなのもまた基本ですが、ここは基本を踏み外してるのが逆にいいと思いました。お行儀をよくすることが目的になってどうするの、もっとバカになろうよ、人間はみんなバカなんだから。という人間讃歌。昨今の不倫だの何だの不祥事を起こしたらすぐ叩きまくる風潮に対するアンチテーゼのようにも感じました。映画で描かれるスキャンダルも男女関係のもつればかりだし。


演出
しかし、私が一番瞠目したのは脚本よりも演出です。

まず、オッと思ったのは、冒頭、車に乗り込んだ3人を3つのアングルでしか捉えていないこと。運転席の成田凌と助手席の門脇麦は真横から。後部座席の小松菜奈は斜め前から。他のアングルのあってよさそうなのにまったくなし。車内だからどうしても限られるというのもあるでしょうが、その昔、ロジャー・コーマン製作の『戦慄! プルトニウム人間』(監督:バート・I・ゴードン)という映画があって、巨人が出てくる場面は全部スクリーンプロセスなんですけど、低予算だからアングルが二つしかないんです。コーマン印ということで笑って許せてしまうんですが、普通そういうのは退屈。この『さよならくちびる』でアングルを限定しているのは、昨今のカットが目まぐるしく割られる多くの映画に対するアンチテーゼのようで好感をもちました。役者の芝居だけで行くよ、という。

かつて監督志望だった友人が撮り方のことばかり云々するので、「一般の観客は役者を見ている。カメラワークとかエッジの効いた編集とか、そんなの見てない」と言っても、あまりピンと来てないようでした。


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この映画では役者の芝居をとても大事にしてますよね。門脇麦に誘われてギターの弾き方を習い、二人で一緒にカレーを食べるシーン。孤独だった小松菜奈はあまりにうれしくて(←この感情も説明なし。私がそう感じただけ)思わず泣いてしまって門脇麦の肩に頭をのせるんですが、いっさいカットを割らず、ワンカットで見せてくれたのはたまらなくよかった。カメラが微妙に寄るんですけど、あそこはフィックスでよかったんじゃないかしら。寄りたくなる気持ちはわかるけど。

あとは成田凌と小松菜奈が林の中で会話するシーンとか、成田凌が門脇麦に無理やりキスするシーンとか、基本的にワンカットで見せる演出手法がたまらなく素晴らしかった。

何だかんだで函館に着き最後のライブを迎えるのですが、ここがちょっと特異な構造になっていると感じました。


誰に向かって歌っているのか
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この映画で一番の肝はこの二人のような気がする。ハルレオがまだ解散なんか考えていなかったころ、音楽番組のインタビューで「ハルレオのどこが好き?」と訊かれて左の子が突然ハルレオの歌を歌い出すんですよね。で、恋仲のもう一人の子と涙を浮かべあって抱き合う。この子らは函館にも来ていて、画像のシーンが函館の前か後かわかりませんが、時系列は重要ではない。二人でハルレオの動画を見ながら歌うシーンの瑞々しさ!

かつてソン・イルゴンという監督の『マジシャンズ』という映画がありました。バンドメンバーが自殺してしまい、解散したメンバーが久しぶりに集まり、最後は死んだ仲間へ向かって合唱するんですが、たった一人に向かって歌われる歌はこんなにも力強いのかと感動しました。

最後に歌われる「さよならくちびる」は、ハルはレオに向かって、レオはハルに向かって歌っているのは明白ですが、熱烈なファンに向かっても歌っているわけで、あの女の子二人を出す出さないではぜんぜん違う。あの子たちがいなかったら、バンド内のいざこざを描いただけになってしまうし、何よりあの子たちは「ハルレオは自分たちのためだけに歌っている」という幻想に浸っているわけでしょう?

映画だって観客はみんな「これは自分だけに作られた映画なのだ」という幻想に浸って見るというか、そう思える映画こそが心に残るわけだし、プロットに何らかかわりのない端役のファンを出す、それも短いシーン3つだけというのは瞠目すべきことと思いました。ひとつの発明ですね。

だからやっぱり一番感心したのは脚本ということでしょうか。(笑)

もう一度見に行ければ行きたいですね。

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さよならくちびる
ハルレオ
ユニバーサル ミュージック
2019-05-22





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