日本映画

2020年07月26日

城定秀夫監督の最新作『アルプススタンドのはしの方』がとんでもなく素晴らしかった。今年のベストワンという人がいるのもうなずけます。


残念なタイトル
arupususutandono3

タイトルは残念でした。いや、この見せ方のことではありません。字体も色もいいと思う。

そういうことではなくて、『アルプススタンドのはしの方』の「方」は「ほう」にすべきじゃなかったか、ということです。

アルプススタンドのはしの方
アルプススタンドのはしのほう

上は最後だけ漢字なので少しだけバランスが悪いように思います。ま、好みの問題ですが。

そんなことより……


戦略
arupususutandono1

アルプススタンドのはしのほうだけでドラマを展開させる企画はひとつの発明ですよね。(球場の中の廊下とかが舞台になったりもするけど)

もともとは高校の演劇部がやった舞台劇らしいですが、見事に「映画」になっていました。

その要因のひとつはやはり「カメラ」でしょう。


カメラ
私は常々「意味もなく手持ちカメラで撮るのやめて」と言っていますが、この『アルプススタンドのはしの方』は後半、手持ちで撮ったショットが散見されましたが(試合展開が動きまくるのに合わせていたのでちゃんと意味があった)前半の落ち着いたシーンはすべて三脚にカメラを据えて普通に撮っていました。それだけで好もしく思えてしまうのがいまの映画。内外問わず。

クレーンでググっと上がるショットもありましたが、基本的にアルプススタンドで接写しようと思ったらクレーンを使うしかないのかしら。

私が現場にいた頃はクレーンを1日レンタルすると100万かかると聞きました。いまはいくらくらいするのだろう。仮に同じ100万だとしても、10日借りたらそれだけで1000万でしょう? かなりの低予算映画みたいだからそのへんどうやりくりしたのかぜひ知りたい。

長回しを基本に撮られていますが、黒木ひかり(この子しか役者の名前がわからなかった)演じる吹奏楽部部長の久住がガリ勉で友だちのいない宮下にお~いお茶を差し出すところなど、ここぞというときはクロースアップの切り返しになる。

基本といえばそうですけど、最近は基本をおろそかにした映画が多いので、とてもうれしい。

カットを割るべきときしか割らない。かつての古典的ハリウッド映画はすべてそういう作法で作られていたはずですが、その遺伝子を受け継ぐ映画を久しぶりに見れて本当に幸せ。


見えないものが見える!
matsumototoshioAraiHaruhiko

『映像の発見』という名著中の名著を書いた松本俊夫監督は、

「映らないものを見せるのが映画だ」

みたいなことを言っていて、『映像の発見』を教科書にシナリオを書いてきたという荒井晴彦さんも同様の主張をしています。


矢野君が見える!
arupususutandono2

『アルプススタンドのはしの方』で「映らないもの」といえば、当然のことながら野球の試合ですよね。そして重要人物でありながらついに登場しない「園田」と「矢野」という部員も映らない。

でも、映画を見ていたら彼らの顔が見えてきますよね。

エースの園田のせいで試合では絶対に投げられない控え投手だった藤野は「しょうがない」と野球部を辞めたところから物語が始まります。

強制的に応援しに連れてこられた演劇部の安田と田宮は、去年の関東大会で田宮がインフルエンザで出演できなくなり、台本を書いてその芝居に賭けてきた安田は「しょうがない」と自らを慰めている。

勉強しかできなくて学年1位だけが取り柄だった宮下は、黒木ひかりの吹奏楽部部長で園田の彼女に学年1位の座を奪われる。宮下は園田のことが好きなので恋敵に追い落とされた。それもまた「しょうがない」。

でも、劇中「しょうがない」などという言葉が辞書にない人物がいて、一人目が野球部の矢野。

彼はどうしようもない下手糞なのに人一倍練習に励む。藤野はそんな矢野を馬鹿にしている。でも9回裏の大事な局面で矢野が打席に立ちます。

ただし送りバント要員として。矢野は見事に監督の期待に応えて送りバントを成功させる。送りバントとは劇中でも語られるように、自分はアウトになって味方のランナーを進めること。矢野はおそらく送りバントの練習を必死にやってきたのでしょう。

そして田宮が「矢野君、すごくうれしそう」と言います。安田は「顔見えないじゃん」と突っ込みますが、おそらく矢野君は本当にうれしそうな顔をしていたと思う。それをカメラは矢野君には背を向けたまま、「矢野君、すごくうれしそう」という田宮の笑顔だけを捉えることで「映っていない矢野君」を見せることに成功している。お見事!


黒木ひかり=久住
kurokihikari1

「しょうがない」という言葉を知らない人物二人目は、黒木ひかりの久住。

彼氏の園田にLINEを送ってもほとんど返事が来ない。うまくいっていないらしい。もう別れるしかないのか。最終回の前に一言送ろうとするけど、やめる。でも彼女は「しょうがない」とは思わない。やる気のない部員を叱咤し、LINEは送らないがもっと大きな音を贈ることにする。その決意と行動が素晴らしい。


厚木先生
喉が使い物にならないくらい大声を出して応援する茶道部顧問の厚木先生もまた矢野と同じ「しょうがない」を知らない人物でしたね。

「しょうがない」なんて言うな! という暑苦しい教師ですが、世界を変えるのはあのような人物だというのが作り手たちの信条なのでしょう。

演劇部の田宮、吹奏楽部の久住、そして厚木先生の三人によって、矢野君の顔や人となりが見えてしまう。これぞ映画のマジック!!

矢野君は練習の甲斐あってプロに入ったことがラストで示されますが、これはほとんどファンタジー。人生はそんなに甘いものではない。

でも、頑張れば報われるというファンタジーを映画というメディアが信じられなくなったら終わりだろう、というのもまた作り手たちの思想信条なのでしょう。


「しょうがない」は呪いの言葉
では、この『アルプススタンドのはしの方』という映画は、ファンタジーばかりを語っているのでしょうか? 現実的な不条理や理不尽さは描かれていないのでしょか?

まさか!

何度も上に書いている「しょうがない」がそれですよね。「しょうがない」は自らを縛り、自らを罠にはめる呪いの言葉だというのも、これまた作り手たちの思想信条なんだと思います。

『仁義なき戦い』を書いた笠原和夫さんは、

「枷は主人公の心のあり方にこそ求めよ」

と説きました。

まさに登場人物はみな「しょうがない」という心に巣食う呪いに縛られていました。でも、周囲から馬鹿にされる「能天気」な人間がそれを取り払う。

しょうがないと現実を見つめるより、もっとバカになろう。自分が犠牲になって周りを生かす送りバントしかできなくても、その先にきっと光が見えてくる。

それを信じられるか否か。おそらくその力を「才能」というのです。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年07月18日

三浦春馬が自殺した日に見たのがこの映画だったのは何やら象徴的のような……?

内容をまったく知らず、ただ京アニ作品などで敬愛している吉田玲子さんが脚本を書いているというただそれだけで見に行ったのだけど、これが大当たり。やっぱり吉田さん、天才だと思う。


ひたむきな、どこまでもひたむきな
noborukoterasan3

小寺さん(ちなみに「コデラ」ではなく「コテラ」です)はボルダリング部に所属してクライマーを目指す高校生。ひたすら登ることしか考えていないので不思議ちゃんと陰口を囁かれている。

それでも彼女は登る。


noborukoterasan2

クラスメイトで写真家を目指す子が自分を盗撮していたと知っても怒るどころか自分の登るフォームのおかしさのほうが気になってしまう。というかそれしか気にしていない。「盗撮」という概念そのものが小寺さんにはない。

進路希望でも第一志望に「クライマー」と書く小寺さん。もっと現実的になれ、体育大学とかスポーツ推薦を目指すとか、と担任教師は諭すけれど、それに対する返答が「嘘を書けってことですか?」。

担任は図星を衝かれて何も言えない。小寺さんはあくまでクライマーを目指すという。先輩の話によると、宇宙飛行士やハリウッド女優を目指すのと同じぐらいの難関だという。それでも目指すという小寺さんに教師はもう何も言えない。言わない。

ここが素晴らしい。凡百の映画ならもっと叱責するところ。それが世界の原理。でも『のぼる小寺さん』の映画の原理は「ひたむきな人間を嗤ってはいけない」というものだから、教師は受け容れる。

現実にこんなことありえない、などと腐す人とはおそらく私は一生友だちになれない。映画がファンタジーを語らなかったらいったい何が語るというのか。

教師だけでなく、普通なら馬鹿にするであろう先輩たちも小寺さんのひたむきさに何も言えない。最初は小馬鹿にしていたけど、大会での小寺さんのひたむきさに思わず「ガンバ!」と叫んでしまう。

ほとんど学校に来ないヤンキーみたいな子も、小寺さんに感化されたのか、いまは自分で学費を稼いでネイルアートの学校に通っているという。小寺さんのような人をいの一番に馬鹿にするようなかわいい女の子が、小寺さんのクライミングを見て「何か泣けるじゃないですか」という場面は圧巻の素晴らしさ。

小寺さんのことばかり語ってきたけど、実はこの映画の主人公は小寺さんではなく、彼女に恋慕するクラスメイトの男子。


noborukoterasan4

彼は卓球部に所属するも、隣のボルダリング部ばかり見ている。クラスでも小寺さんばかり見ている。そのひたむきさがいい。

ひたむきといえば、四条君という、中学の時分に小寺さんに告白して振られた男子がいて、彼は気が弱いにもかかわらずクライミングシューズをはかずに登ろうとした不良たちに「シューズをはかずに登るな!」と引きずりおろす。そのせいで首領格の男子に馬乗りになられるのだけど、四条君は勝ったんですよね。不良たちはゲラゲラ笑いながら去っていったけど、あれを負け犬の遠吠えという。

四条君のそういうひたむきさに打たれたのか、バレー部(だったっけ)の女の子に告白されてつきあうことになる。

それを聞いた我らが主人公・近藤君は驚きながらも、自分はあくまでも小寺さんをひたむきに見つめ続けようと決意する。

その決意のご褒美がこれ。


noborukoterasan1

「静けさや岩にしみいる蝉の声」
松尾芭蕉の句が好きだという小寺さんと蝉の声を聞きながらこんなことになる。

「世界中の脚本家が『アイ・ラブ・ユー』に代わるセリフを毎日探している」

とは君塚良一さんの言葉だけれど、セリフなしで背中に寄り掛かるだけで表現したことの素晴らしさに感涙しました。抱き合うんじゃなくてそれとは真逆というのがね。ささやかな幸福感があってたまらなかった。


三浦春馬の死
miuraharuma

映画に行く直前に「三浦春馬が死亡。自殺とみられる」というニュースを見て心がざわざわしながら家を出たんですが、いま最新のニュースを見てみると、東出昌大が不倫で大バッシングの嵐に晒されていたとき、そんなに叩くのはおかしいんじゃないか、とツイートして、逆に彼がバッシングされていたとか。

別にネット民はひたむきであることを嗤ったわけじゃないけれど、小寺さんや近藤君や四条君のような人たちを嗤う人間と、三浦春馬を自殺に追いやった者どもは同じ穴のムジナだと思う。

世界がコテライズムに染まるといいと思う。
誹謗中傷したくなる気持ちを抑えて「ガンバ!」と叫びたい。




  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年05月11日

自粛警察が跋扈するなど、コロナのおかげでこの国の陰湿なところが顕わになっている今日この頃ですが、三密を断つ、ということで通常の映画も連ドラも撮影中断。

それにめげず、「いまだからこそ」作るべき作品を作る人たちがいることに拍手喝采、感謝感激。

といっても私が見たのは、NHK『今だから、新作ドラマ作ってみました』の第二夜「さよならMyWay!!!」と、上田慎一郎監督の新作『カメラを止めるな! リモート大作戦!』の2本だけ。(ジャ・ジャンクーの『来訪』も見たけどあれはリモート撮影ではない)

両方とも面白くなかったです。でも、ここでは作品の優劣は特に問題ではありません。面白い面白くないよりも「リモート撮影の限界」が論旨です。


「さよならMyWay!!!」
sayonaramyway

NHKの「さよならMyWay!!!」では、主人公・小日向文世の亡妻・竹下景子がパソコン画面に突如現れるところから話が転がります。

竹下景子はあの世からというとんでもなく「リモート」な出演で、当然のことながら二人のツーショットはありません。延々とパソコンの中の連れ合いとの喋くりが描かれます。

あくまでもいまは濃厚接触を避けるためにリモート(遠隔)撮影をしましょう、というだけなのに、作品世界の設定も「遠隔」というのはいかがなものか。

映画は今日撮ったカットと100日前に撮ったカットをつないでもそれらしく見せることができるメディアなのに。もったいない。


『リモ止め』の戦略
rimotome2

『リモ止め』では画像のように、それぞれ自宅に引きこもった俳優さんに自分自身を撮影してもらう。

台本上は同じ部屋にいる設定であっても、別個に撮って編集でつなぐとの監督の指示があり、自分で首筋をこちょこちょし、別個に撮ったこちょこちょする手とつなぐという手法。これを『カメ止め』の監督らしく、すべてばらしたうえで見せています。

だから「さよならMyWay!!!」とは違い、作品世界では同じ場所に二人の人物がいるわけです。

しかしながら、その二人を別個に撮るという監督の指示がばらされている。舞台裏をばらすことで逆に面白さを醸し出そうという戦略は、特に面白いものではありませんでしたが、戦略としては充分アリだと思います。

しかし……


映像リテラシーの問題
あれは阪神大震災の年だからもう25年前ですか。ハリウッド俳優が日本のCMに大挙して出ていた頃のことですが、ハリソン・フォードが筒井道隆と一人の女優(誰だったか忘れた)と共演! みたいな言われ方をしていたCMがあったんですけど、ハリソン・フォード一人と、筒井道隆と女優のツーショットがカットバックされていたんですね。

「これ共演じゃなくて別撮りじゃないか!」

と専門学校の同期生と笑ってしまいましたが、「普通の人は別々に撮ってるってわからないんだろうなぁ」と誰かが言っていました。

だから、リモート撮影であっても、「さよならMyWay!!!」のように舞台設定も別々にしないといけなかったり、『リモ止め』のように舞台設定は同じでもそれを別個で撮っているというネタばらしが必要になってくるんだな、と。

もし、別撮りの映像をうまくつないでまるで室内で仲良く団欒している(ような)シーンやスポーツに興じている(ような)シーンを見せても「どこがリモート撮影なんだ!」というクレームが出るんだろうなと思った次第。

一般の観客にそういう「映像リテラシー」を求めるのは野暮でしょう。みんなが映像リテラシーなんかもってしまったら作り手はかなり作りにくくなっちゃいますもんね。映画を作ったことのある人ならわかると思いますが、映画なんて最終的には「いかにごまかすか」ですから。

だから、「リモート撮影」という条件で一番個性を発揮できるのは、いいか悪いかは別にして、やはり『カメ止め』の上田慎一郎監督ということになるのでしょう、と思ったところで、カットカット!


関連記事
リモート撮影作品の限界について(『2020年五月の恋』を見て思ったこと)


マッケンドリックが教える映画の本当の作り方
アレクサンダー・マッケンドリック
フィルムアート社
2009-09-28







  • このエントリーをはてなブックマークに追加