聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

日本文学

村田沙耶香『地球星人』(一人称の万華鏡)

芥川賞作家・村田沙耶香さんの最新刊『地球星人』を読みました。(以下、ネタバレがありますのでこれから読む予定の方は絶対に読まないでください)




驚愕のラスト
というわけで、この記事を読んでいる方はすでに作品を読んでいる方のみと思いますので、あらすじの紹介などはしません。

世間のことを「工場」と表現したり、異性と恋愛して結婚して出産して家庭を築くという「普通の幸せイデオロギー」に対し著者はまた果敢に挑んでいるなぁ、とは思ったものの、これまでもそういう主題のものが多いから面白さよりも「既視感」のほうが大きかったんです。

ただ、それがラスト数ページで崩れ去りました。何と人肉食が描かれ、さらには男二人、女一人、合計三人が三人とも「妊娠」してしまうのですから。性交をしないと取り決めていたわけですから単性生殖ということですよね。しかも「明日はもっと増える。あさってはもっと」というセリフから察するに、単細胞生物並みのスピードで増殖するまったく別の生き物、つまりポハピピンポボピア星人に……


ウソから出たマコト?
結末まで読んで完全に頭がくらくらしていわく言い難い感覚に襲われました。奈月、由宇、智臣の三人がほんとにポハピピンポボピア星人になっちゃった、と。

しかし、おかしい。地球星人だった三人が幻想でしかなかったポハピピンポボピア星人になった、というなら「ウソから出たマコト」でしかないでしょう。村田沙耶香がそんなの書くだろうか、と。

逆ではないか。

彼らは最初からポハピピンポボピア星人だった。元の姿に戻っただけだと。文中にも「地球星人なんてポハピピンポボピア星人が作り上げた幻想じゃないか」という表現があります。「工場」の側の地球星人も実はみんな「元ポハピピンポボピア星人」であって、「工場」の洗脳によって地球星人としてふるまっているだけ。「まるで演技のように」「テレビドラマのように」という表現が多々ありますが、「現実は芸術を模倣する」というオスカー・ワイルドの至言を彼らはどこまでも生真面目に実践しているのですね。


一人称のマジック
「私たちは手をとりあい、肩を寄せ合って、地球星人の住む星へと、ゆっくりと踏み出した。光に包まれた私たちに呼応するように、地球星人たちの鳴き声が、この星の遠くまで響き渡り、森を揺さぶりながら広がっていった」

これが最後の一文ですが、「この星」というのはポハピピンポボピア星のことですよね。ほとんどの人が「地球」と思っている星の本当の名前。

なんですけど、この『地球星人』は一人称小説です。三人称なら作者が客観的に記述するわけだからその通りに受け取るしかありませんが、あくまでも主人公・奈月の語りなので「この星=ポハピピンポボピア星」とは限らないんですよね。やっぱり彼らは元地球人で、変な幻想に囚われた果てに人肉食(共食い)までやっちゃったから別の生き物に変身しただけなのかもしれない。

もともとこの物語は、奈月がお年玉で買ったぬいぐるみにピュートと名付け、そのピュートがポハピピンポボピア星人であり、魔法警察の任務を受けて危機に陥った地球にやってきた、そしてピュートが奈月に地球を守るよう魔法少女になってくれと依頼するところから始まります。

そして最後、別の生き物になった奈月がピュートを拾い上げると、人間の髪の毛で編まれた、ぜんぜん違う姿になっています。

ピュートがポハピピンポボピア星人だというのは奈月の幻想なのは明らかなんですが……


伊賀崎を殺したのは誰なのか
塾講師の伊賀崎を殺す場面でもピュートが命じるままに殺した、というように書かれていますが、はたして本当に伊賀崎を殺したのは奈月なんでしょうか?

奈月の姉が凶器の鎌や血の付いた靴下などを遺族に渡したのは本当なんでしょうけど、それだって姉が変質者が殺すところを目撃して証拠も握っていたけど、ここぞというところで妹を罠にはめてやろうともっていただけかもしれませんよね。

だって、伊賀崎殺害のあと、彼はある日から白いワゴン車に尾行されていると友人に話していたというし、恐くて眠れないから睡眠薬を飲んでいたという証言もあった。本当に別の変質者に狙われていたのではないか。それを奈月は自分が殺したかのように思い込んでいるだけではないのか。

一人称で書かれているうえに、殺害のはっきりした描写がないからどこまでも灰色です。というか、私は姉が伊賀崎を殺した可能性が一番高いと思う。伊賀崎と奈月がキスしていたのを目撃したと妬ましそうに言ってましたし。


ピュートはなぜ答えない?
伊賀崎を殺したかのように見える場面で、ピュートから「実は君は本当はポハピピンポボピア星人なんだよ」と告げられるも「ポハピピンポボピア星に帰れる?」と訊くと「■■■■■」という聞き取れない返答しかない。ピュートは奈月の幻想なのに答えが聞こえないっておかしいですよね。

というか、智臣と由宇がポハピピンポボピア星人になることに何もためらいがないのに対し、奈月は最後まで躊躇しています。人肉食の直前、「そんなことをしたらもう二度と地球星人の仲間には入れてもらえないのではないか」と思う奈月は、自分はポハピピンポボピア星人という幻想を生み出した張本人でありながら、地球星人であることに未練があるようです。「早く洗脳してほしい」という言葉もあります。あんなに洗脳を嫌がっているのに。


何があっても生きのびること
幼かった頃の奈月と由宇は「何があっても生きのびること」を誓い合って一年に一度の逢瀬を楽しんでいました。そしてその同じ言葉が終章近くでも語られます。

どうやら奈月にとって大事なのは地球星人の洗脳から逃れてポハピピンポボピア星人になることではなく、地球から故郷の星へ帰ることでもなく、「生きのびること」にあるようです。

だから、奈月たち三人が単性生殖で増殖能力の高いポハピピンポボピア星人になったという結末は奈月の幻想、妄想というのが私の解釈です。

伊賀崎がロリコンの変態だったことは確かでしょう。奈月は伊賀崎が殺してやりたいくらい嫌いだった。そして伊賀崎は何者かに殺された。でも「客観的事実」と言えるのはそれだけじゃないでしょうか。誰かが伊賀崎を殺したというのを聞いて自分が殺した、これでポハピピンポボピア星に帰れる、つまり地球で息苦しい思いをせず故郷の星で思いっきり人生を謳歌できると思いたかったのでしょう。本当は殺してないのに。そう考えればピュートの「■■■■■」という返答にも納得がいきます。

奈月は伊賀崎が嫌いだし、姉も嫌い、両親も嫌い、由宇と智臣以外の誰も彼も嫌い、とても息苦しい思いをしている。それでも生きていかねばならないから少しでも生きやすいように「地球星人なんてポハピピンポボピア星人が作った幻想なんじゃないか」という幻想を生み出した。しかし地球星人として普通に行きたいという欲求もある。

奈月にとって大事なのは「生きのびること」。生きのびられるのであれば地球星人であろうとポハピピンポボピア星人であろうとどっちでもいいのだと思います。ただ、人肉食などという許されないことをしてしまった以上、もう地球星人ではいられない。ポハピピンポボピア星人になるしかない、ということで三人がポハピピンポボピア星人になった妄想の中で生きのびることにしたのでしょう。

そう考えると、かなりぶっ飛んだ結末が、とても哀しい結末に思えてきます。


作者の罠
しかし、どこからが奈月の妄想なんでしょうか?
人肉食をしたあと、姉たちが押し込んでくる最終盤だけでしょうか。

ここでもう一度、姉が奈月と伊賀崎について話すシーンを思い起こしましょう。
姉は「奈月ちゃんが殺したの? そんなはずないよね」と言っていました。自分が殺したのならそんなこと言わないでしょう。ただここで大事なのは、このときすでに奈月の周りの人間はみなセックスのことを「仲良し」と言っているということです。

そんな表現をする人間は現実にはいません。ということはあのシーンからすでに妄想? いや、もしかしたら由宇とセックスして一族から締め出しを食らったときから? いや、もしかして最初から? すべてが奈月の夢?

もしかするとこの物語は、恋愛至上主義・結婚至上主義・出産至上主義と闘ってきた村田沙耶香という人の「地球星人の洗脳から逃れたい」「ポハピピンポボピア星人になりたい」という永遠に報われない願いを、奈月という架空の存在に託して語られたものなんじゃないか。

そんなふうにも読めてくるこの小説はまるで万華鏡のようです。少なくとも著者にはすでに「宇宙人の目」がダウンロードされているのでしょう。


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乙武洋匡『車輪の上』(一人称か三人称か)

たかだか不倫で政界進出を阻まれた乙武洋匡さん。いつの間にか小説を書いていたらしく、それが先日上梓された『車輪の上』。




期待をもって読みましたが、私にはあまり面白いと思える作品ではありませんでした。

ポイントは3つあります。

①テーマについて
②書き方について(一人称か三人称か)
③主人公への甘さについて


①テーマには大賛同
発想はいいと思うんですよ。車椅子の身体障害者がホストとしてデビューする、なんていうのはね。簡単なようでなかなか思いつかない。

それに以前、「感動ポルノ」という言葉が世界中に広まりますようにという記事を書いた人間からすると、少しも感動ポルノになってないのが素晴らしい。乙武さん自身が「感動ポルノとの訣別を!」みたいなことを言っていたから当然といえば当然ですが、実際、この『車輪の上』は障害者だから特別扱いせず殴るべきときは容赦なく殴るリョーマという店のオーナーが魅力的に描かれています。そしてそのリョーマから「障害を言い訳に使うな」と叱られる。私もいろんなことを言い訳にしてきたので、この言葉は胸にしみました。

しかしそれぐらいのことはあの乙武さんが書いているんだから読む前からわかっていたこと。同じ内容、同じテーマでももっと激烈なものを期待していたんですが、完全な肩すかしでした。

最終的に主人公はホストを辞めるんですが、リョーマの計らいで別の大役を担って再就職が決まるというのは読んでて悪い気持ちはしないけれど、何か「突き詰められてない感」が大きいんですよね。

私は、その原因は「書き方」にあると思います。


②一人称か三人称か
この『車輪の上』は一人称なのか、三人称なのかはっきりしません。「え、シゲノブが、とか主語を書いてるんだから三人称でしょう」と乙武さんは言うかもしれません。

でも、乙武さん自身が車椅子を使う身体障害者だからか、主人公の進平=源氏名シゲノブに肩入れしすぎというか、この小説は体裁は三人称小説なのに、実質的には一人称小説になってしまっているんです。

『車輪の上』第1章第1節は次のように始まります。

「これが東京の桜かあ」
進平は両脇にある大きなタイヤに手をかけて動きを止めると、


進平という主語があって三人称小説として始まります。が、直後の第1章第2節の出だしは、

巨大な迷路のような新宿駅の地下道を脱出するだけで二十分もかかるとは思わなかった。

「思わなかった」のは誰か、主語が明示されていません。ここではまだ進平しか登場してないから主語を書かなくてもいいという判断だったのでしょうか。

しかし、この作品で一番重要ともいえる第3章「同伴出勤」の最終第8節もそんな感じなのです。

夜八時過ぎ。すでに『維新』の看板には灯りがともっていた。車椅子を滑らせるようにして店の入り口をくぐると、若手ホストたちが忙しく立ち働いている。

この小説で車椅子に乗っているのは進平=シゲノブだけだから「車椅子を滑らせるようにして店の入り口をくぐっ」たのは彼だろうとわかりますが、しかし、三人称小説なのだから新しい節での最初の文章で主語を抜くのはよくない。もしかしたらシゲノブ以外の障害者が登場したのかもしれないわけだし。それに、ここはアヤという恋仲の女性と同伴出勤して二人の関係が大きく変化するシーン。同伴出勤なのに、

シゲノブはアキラが案内する席へと車椅子を走らせた。その後ろをアヤがうつむきながらついていく。

この書き方では、シゲノブとアヤがかなり距離を置いて入ってきたようで、ぜんぜん同伴出勤という感じがしません。主語は複数形であるべきなのに、単数形として書き始めてしまったからシゲノブとアヤの距離感が変になったんだろうと思います。

で、この節の最後、2万7千円を請求されたアヤが、福沢諭吉が三人いることを確認してホッと胸をなでおろすという描写がありますが、ほとんどシゲノブの視点だけで書き進められているのに突如アヤの視点が入ってくるので混乱してしまうのです。

この直後の第4章「レッテル」においてそれはさらに高まってしまいます。

ここではヨシツネという名のホストが実は女性、トランスジェンダーだったことが判明するんですが、いつものようにシゲノブの視点で「アヤと連絡が取れなくなった」「タイスケという親友ホストの売り上げが上がったが、上がったことで困ったことが出てきた」とシゲノブ目線ですべてが語られているのに、突如そのシゲノブからトイレのモップを受け取ったヒデヨシという名のホストに視点が変わり、ヨシツネの財布を拾って彼が実は女性であることを知ってしまう。

この『車輪の上』は、精神としてはほぼすべてシゲノブの視点で語られる一人称小説なのに、作者の都合で突然三人称の語りになったりする。

私もこないだ一人称小説を書いたので、それなりにわかっているつもりではありますが(その詳細については→「小説を書き始めました」)一人称で書くか三人称で書くかは小説作法においてとても重要です。


③主人公への甘さ
乙武さんは、自身が障害者だから、一人称だと視点が障害者だけに限定されるのを嫌ったんじゃないかと推察します。健常者の視点からも描いて障害者である自分を客観視したいというのはよくわかります。ですが、リョーマやタイスケやアヤが、すべて「シゲノブから見たリョーマ」「シゲノブから見たタイスケ」「シゲノブから見たアヤ」としてしか描かれていませんよね。

あくまで三人称を使って、障害者である主人公をできるだけ突き放して客観的に描きたいという思いはどこへやら。結局、障害者である主人公に肩入れしすぎというか、ほとんど同化して書かれてしまっています。それならそれで最初から一人称で書くべきではなかったでしょうか。すべてを徹底してシゲノブの視点で描く。

私も自分のことを徹底して突き放して書くために二人称という手法を使いました。一人称と言いましたが実は二人称です。というか、「おまえ」を主語にした二人称小説ですが、その「おまえ」とは私自身のことなので精神としては一人称小説なのです。

それはさておき、徹底してシゲノブの視点で描くというのは、乙武さんだからできることだと思うし、この小説でもほとんどそうなってますよね。でも、ところどころで三人称を使う中途半端さが、主人公にとってとても都合のいい甘い結末を生んでしまったように思うのです。


④アキラの話が読みたい
せっかく三人称で書くと決めたのなら、章によって視点を変えるのもありですよね。「リョーマの視点から語る章」「アヤの章」「タイスケの章」など。

ちなみに、私が一番読みたかったのは「アキラの章」です。あの歴史上の偉人から取った源氏名ばかりの店で、ホストでないとはいえ唯一本名(?)を名乗っていた男はいったいどういう出自のどういう人間なのか、とても興味がありましたが、最後まで詳細は語られずに終わってしまいました。

アキラの物語を読みたいですね。そのときは一人称か三人称か、はっきりしてほしいです。


村田沙耶香『コンビニ人間』(マニュアルという宗教)

とんでもない小説を読みました。最新刊『地球星人』が絶賛されている村田沙耶香さんの芥川賞受賞作『コンビニ人間』。
コンビニのマニュアルを「宗教」と捉えるところが斬新。そして、現代社会もまた大昔と同じ「魔女狩り」の舞台なのだ、というテーマに感動しました。




斬新きわまりない人物設定
何よりこの『コンビニ人間』で描かれる主人公・古倉恵子という人物の設定が素晴らしい。
幼少期からちょっと変わっていて、変わっていることを自覚するあまりほとんど口を利かないという戦法に出る。口を利けば誰よりも母親や妹など自分を慈しんでくれる家族が悲しむから。つまり、変人が変人であることを隠そうとしてよけい変人になってしまったんですね。家族はカウンセリングを勧めるもうまく行かず、主人公が大学に進学して独り暮らしを始めたと同時にコンビニでバイトを始めると、その普通さに喜んでくれた。

コンビニの完全マニュアル化された仕事の仕方が主人公には心地いい。だって自分で考えて行動すると変人性が露わになるから。コンビニでマニュアル人間になっておけば誰も悲しまずにすむ。


そうは問屋が卸さない!
とはいえ、18歳の大学生がコンビニでアルバイトなら「普通」だけれど、現在の主人公はアルバイト歴18年の36歳。恋愛経験なし、就職経験なしの「変人」。普通であろうとしたら変人になってしまったという可笑しみが逆に哀しい。

朝礼で店長とともに「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」と唱和するのが「まるで宗教みたいだ」と評されても主人公は「そうですよ」とあっさり認める。主人公にとってコンビニとは「世界」そのものであり、世界を維持するためには「宗教」が必要だ、と言わんばかり。


白羽の主張「現代は縄文時代と同じ」
その「まるで宗教みたいだ」と斜に構える新人店員は白羽(シラハ)という名前の若い男で、この男は何と婚活が目的で入店してきたという。
主人公と同じく30歳で就職経験なし、恋愛経験なし、ということで周りから奇異の目で見られている。しかも女なら就職経験なしでもまだ恰好がつくが、男ではもうどうしようもないと。就職か結婚をしていないと「何で何で」と問い詰められ、「そんなことではダメだ」と裁かれる。いわゆる「普通」の人たちは普通でない人を裁きたくてしょうがないというのが白羽という男の主張。
縄文時代云々というのも「いつからこの世の中はこうなってしまったのか」を研究するため歴史書を読みあさった結果、縄文時代からだという結論に行き着いたと。男は狩りに出て、女は子供を産んで家を守る。そこからはみ出たものは「ムラ」から排除されるのだと。

その主張には一も二もなく大賛成なのだれど、主人公と同じ境涯のくせして「普通」の人と同じ論理で主人公を難詰するというのが面白い。結局、彼もまた「普通」に囚われた人間なのですね。

で、まったく「普通」じゃない我らが主人公は、「じゃあ私と婚姻届を出すというのはどうでしょう」と提案する。何だかんだいっても級友たちは結婚もせず就職もしない主人公を上から目線で憐れんでいるし、よく働いてくれると店長からの評価も上々だけれど「なぜ36歳でコンビニバイト?」という訊かれるのにもうんざりしてきた。白羽と書類上のみ婚姻関係を結んでひとつ屋根の下で暮らすなら、そのような雑音も消えてくれるだろう、と利害が一致。


周囲の激変が笑える
主人公が妹に「男が家にいる」と言っただけで妹は「よかった。本当によかった」と喜び、級友たちもめちゃくちゃ盛り上がって「やっとこの女も普通になった」と盛り上がりすぎるほど盛り上がり、コンビニでも「あの白羽と同棲!?」と店長もバイト仲間もやたら盛り上がる。その様がやたら笑えました。仕事そっちのけでゴシップを伝え合うのに奔走するので、商品の補充もままならず、コンビニという生き物の「声」を聴くことのできる主人公は、自分が同棲しているという嘘によって悲鳴を上げるコンビニが哀れでならない。


コンビニは「神」、主人公は「預言者」
何だかんだでコンビニを辞めて「普通」の会社に就職することになった主人公は面接を受けに行く。早く着きすぎたので近くのコンビニでトイレを拝借しようと入ると、悲鳴が聞こえる。もちろんコンビニの。新商品がちゃんと陳列されてない。清掃ができてない。などの「声」を聴く。主人公はそれを「天啓」と表現する。

コンビニで働くことは「宗教」だというのは嘘じゃなかった。主人公はコンビニという「神」の声を聴いてそれを客のために実行する「預言者」だったのですね。なるほど!


現代はいまだに「魔女狩り」の時代
主人公はコンビニ教の敬虔な信者であり、それはとても奇特なので「普通」のムラから排除される存在。しかし、その「普通」というのもまた宗教なんですよね。男は狩りに出て女は家を守るというのもそう。「ジェンダー」と呼ばれる宗教です。

大学を出たら就職して、30代には結婚もして子どもを産んで……というのもまた「宗教」。コンビニのマニュアルと同じく決まりきったマニュアル通りに生きているだけ。ただ、そのマニュアル=宗教を崇拝しているのが圧倒的多数派だから「正統」であり、主人公は「異端」とされる。それだけの話。

だから、政治の世界でも「宗教戦争」はいまだにあるけれども、そんな大きなことでなくとも、日常の些細なところで「宗教戦争」は起こっているのだ、というのが著者の主張なのでしょう。

いや、「宗教戦争」ならまだいいほうで、実際には「異端審問」が行われている。現代はいまだに「魔女狩り」の時代なのだ。

というような大きくてシリアスなテーマを「喜劇」として提示したこの『コンビニ人間』はとてつもない大傑作だと思います。

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