日本文学

2020年05月27日

『5時に夢中!』のエンタメ番付で中瀬ゆかり親方が激賞していた、アイドル評論家・中森明夫さんの短編小説集『青い秋』。中瀬親方の言うとおり、これは大傑作です。できるだけ多くの人に読んでもらいたいと筆を執りました。


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小説かノンフィクションか
でもこれって「小説」なんですかね? 「小説書いてくださいよ」と友だち(?)だった編集者が言っていて、その人が死んでしまったために書いたみたいな感じになっていますが(中上健次を思わせる巨躯の小説家から「来いよ、文学に」と言われたのも大きかったような)「俺」「私」などの一人称の語り部は著者の名前をもじった「中野秋夫」で、衝撃の飛び降り自殺をしたアイドルの名前が「岡野友紀子」、後藤久美子と宮沢りえはそれぞれ「野口久美子」「宮川えり」として登場する。

どこまでが本当のことなんだろう? 

というのは愚問ですね。これが小説だろうとノンフィクションだろうと、著者の目というフィルターを通して見た世界はやっぱりひとつの「フィクション」でしょう。エピソードがすべて本当のことでも、どういう順番で情報を出し入れするか、どういう切り口で始め、どういう一文で幕を閉じるか、という「構成」という作業を経ているのだから、フィクションとしてどれだけ面白いかが問題。どこまでが本当かなんてどうでもよろしい。


全部で8つの物語から成る本ですが、特に印象的なものの感想を述べましょう。


「文芸編集者」
高垣という文芸編集者がいて、彼が「中野さん、小説書いてくださいよ。あなたの最初に出した本は小説だったじゃないですか。あれ僕が若い頃のバイブルだったんですよ」という。それで著者はこの『青い秋』を出したという態になっています。

高垣とは別の山辺という名の編集者と朝まで飲み交わす仲で、お互い独身貴族を気取り、結婚なんかするかーー! みたいに盛り上がっていたのに、ある日その人から電話で「結婚します」と言われショックを受ける。

それを写真家の篠川実信(篠山紀信)に話すと、

「もしかして山辺のこと、友だちだと思ってるの?」

と言われる。編集者なんて経費で飲み食いできるから作家とつるんでるだけだよ、と冷たい反応。そうか、俺は山辺とは友だちじゃなかったんだ。

じゃあ高垣とはどうだったんだろう。というのがこの小説の主題。

高垣はいつの間にか文芸編集者になり、いつの間にか副編集長になり、いつの間にか編集長に出世している。ほとんど連絡を取っていなかったのだから友だちじゃないようにも思うけれど、高垣が死んだと知らせが入り、葬列に参加した著者は思ってしまう。

「おまえ、おまえさ……俺の友だちじゃなかったの?」と。

「もう永久にわからない問い」を発し続けないといけない苦しみが如実に伝わってきますね。「もう永久にわからない問い」って普遍的なものでしょ。誰だってそういう問いを胸に秘めて生きている。


「四谷四丁目交差点」
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1986年4月に衝撃の自殺を遂げた岡田有希子(劇中では「岡野友紀子」)をめぐるお話。

あの年の4月は岡田有希子とチェルノブイリ原発事故でもちきりだった。

というのはどうでもいい話で、この小説には何度でも読みたくなるフレーズがあります。

「私は成長できなかった。成熟を果たせなかった。ずっと青いままに年齢だけを重ねてしまった」

これは私自身のことでもあるし、名作映画『レイジング・ブル』の主人公ジェイク・ラモッタのことでもある。

まぁラモッタはすべての人間のモデル、すべての愚か者の象徴といってもいいので当たり前かもしれない。

でも「自分のことが書いてある」と思えるのはそうそうあるものではありません。

私にとっては太宰の『人間失格』、中原昌也の『ニートピア2010』ぐらいかな。他にもあったような気がするけど。

著者は、毎年4月8日に岡田有希子が飛び降りた四谷四丁目交差点に赴き、大勢のファンと悲しみを共にする。そこで出逢った「あや」という名前の女性は、修学旅行でそのビルの屋上に行こうとしたけど、後追い自殺が相次いだこともあって固く閉じられていて行けなかったらしい。

著者は本が売れたりアイドルブームが去ったりするたびに引っ越しをしているんですが、いつの間にかあの飛び降り現場から歩いて5分とたたないところに居を構えていることに気づく。粘り強く交渉し、誓約書まで提出して屋上に入らせてもらった著者の耳に聞こえてきたのは、何と南沙織の『17才』だった。

著者の最初のアイドル体験で、あれから40年以上アイドルだけを追い続けてきた自身の来し方行く末に思いを馳せ、「成長できなかった。成熟を果たせなかった」という後悔に至る。

別に似たような体験を私がもっているわけではない。が、「成長できなかった。成熟を果たせなかった」という後悔の念は同じようにもっている。

それと、この一編を好もしいものにしている大きな要因に、著者は決して岡田有希子の自殺の理由探しをしたりしない、というのがあると思う。

少しだけそれに触れているところもあるが、遺書に載っていたある俳優の名前は絶対に出さない。いまさら犯人探しをしてどうなるのか、という節度に好感。私はその俳優と一日だけ仕事をしたことがあるけど、私のようなどこの馬の骨かわからない若造にも気遣いを忘れないとてもいい人だったことだけを記しておきます。


「美少女」
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後藤久美子と宮沢りえはいまでも連絡を取り合うほどの親友だと初めて知りましたが、共演したのはこのCMだけだそうです。

篠山紀信が二人の魅力を開花させたとか、時代を代表する美少女二人をメインにした話かと思いきや、実は主人公は別にいることが最後に判明します。

おそらくこの変な構成は著者の計算にはなかったものでしょう。後藤久美子と宮沢りえの話を書こうとしているうちに、国江という名前のデザイナーの話になってしまったものと思われます。

国江という男はロリコンの変態で、普通に妻子がいたにもかかわらず、娘ほどの年齢の女性劇作家と不倫関係になり、その顛末を暴露され、奥さんに捨てられ、その劇作家にも捨てられ、仕事を失い、財産も何もかもを失い、死んだという。

その国江が後藤久美子と宮沢りえを絶賛するときに使っていた言葉が「実存」

「見てごらん、あれが実存だよ」と二人を絶賛する。著者も意味がわからないが、読んでいるこちらもまったくわからない。

しかし、国江が死ぬ前、最後に会ったのは一緒に『レオン』を見たときだというからかなり昔ですが、そのとき国江はこう言っていたそうな。

「なぜレオンが最後に死ぬかわかるか? 少女を愛してしまったからだよ。少女を愛した者は死ななきゃならないんだ」

国江がロリコンなら中森明夫というアイドル評論家だってロリコンじゃないか。とよく言われるそうですが、著者は国江さんに比べたら自分などフェイクだという。嘘ではないでしょう。

本気で少女を愛してすべてを懸けて、失って、破滅していった男に思いを馳せるとき、著者は「こういうのを『実存』というんじゃないのか」と初めて理解するのだった……。

確かにすべてを懸けてすべてを失い破滅するのが実存なら、さんざん滅茶苦茶やって40代半ばで死んだ中上健次も実存だろうし、18歳で自殺を遂げた岡田有希子も実存だろうし、妻のいないこの世に未練はないと自決した西部邁(文中では「東部進」)も、彼を手助けしたTVマンも実存でしょう。

そして、著者も私も実存からはほど遠い。

成熟できずに50代も終わりを迎え、あの人に比べたら自分などしょせんフェイクにすぎないと自嘲するしかない思いに囚われ、このあと著者はどこへ行くのか。

そして、私自身もどこへ行くのか。。。


青い秋
中森 明夫
光文社
2019-10-22





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2020年05月12日

私がこの世で最も愛する詩人、没後5年の長田弘さんの最新詩集が発売されました。

『長田弘全詩集』というのも出ているのになぜ? と思うけれど、何とその『全詩集』にも載っていない詩群なのだそうな。おどろき。


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例によってオサダ節炸裂で最初のページから心を射抜かれてばかりでした。

でも、一番びっくりしたのは、何度も読んでいるうちに、昨今の「政治的発言をする芸能人バッシング」に思いが至ったことでした。


長田弘らしからぬ
まず、私がこの詩集で、ちょいと長田さんには不似合いな詩だなぁ、と思ったものをご紹介しましょう。

例えば、こういうの。

どこにも問いがなかった。
疑いがなかったからである。
誰も疑わなかった。
ただそれだけのことだった。

どこにも疑いがなかった。
信じるか信じないか、でなかった。
疑うの反対は無関心である。
ただそれだけのことだった。

(中略)

どこにも危険はなかった。
危険もまた、最初はただ、
些事としてしか生じないからである。
ただそれだけのことだった。

あらゆることは、ただそれだけの
些事としてはじまる。
戦争だって。


うん、言いたいことはわかります。わかるというか全面的に賛同するにやぶさかではないんですが、どうも政治的な主張をしようとすると長田さんですら「言いたいこと」が先走ってしまうんですね。

誰でも政治的な発言をするときはそうなんでしょうが、長田弘という詩人に私が求めるのはそういう「肉声」ではなく、もっと「透明な何か」なんですよね。


長田弘の真骨頂
例えば、この詩集の最初に置かれたこんな詩。


微笑みがあった。
それが微笑みだと、
はじめ、誰も気づかなかった。
微笑みは苦しんでいたからである。

苦しみがあった。
それが苦しみだと、
周りの、誰も気づかなかった。
苦しみは無言だったからである。


(後略)

このあととんでもない結語に至るんですが、気になる方はどうぞ本書を手に取ってみてくださいな。

それから、こんな詩。

本があった。
しかしそれが本だと、
ここにいる誰も、気づかなかった。
本は読まれなかったからである。


(中略)

意味があった。
しかし意味には、
何の、どんな意味もなかった。
意味を誰も考えなかったからである。

(中略)

智慧があった。
しかしそれが智慧だと、
ここにいる誰も思いもしなかった。
智慧は尋ねられなかったからである。

(後略)

いかがでしょう。

確かにこれらはすべて長田さんの「肉声」ではあるんでしょうが(そりゃ長田さんが書いてるんだから当たり前だ)でも、この世の誰かが発した言葉というよりは、言葉だけがポッと生まれたみたいな感じがしませんか?

肉体をもった誰かが口にしたんじゃなくて、手で書いたんでもなくて、人間が生まれる前から存在していたような、そんな言葉。

聖書にある「はじめに言葉ありき」の「言葉」ってこういうのだったのかな、と。神の言葉。人間の言葉ではない言葉。


芸能人の政治的発言を嫌う風潮
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検察庁法改正案など安倍政権のやりたい放題に小泉今日子やきゃりーぱみゅぱみゅ、その他いろんな芸能人が大声で異を唱えていますが、同じ日本人なのになぜか芸能人だけそういう発言をしたらダメだという人たちがいます。

まことにけしからん! とは思うものの、彼らも私も同根なのかな、と『誰も気づかなかった』を読んで思った次第。

私が長田さんの政治的発言を「透明でない」から何かいやだな、と思ったように、芸能人の政治的発言を嫌う人たちも、映画やテレビの中でしか見ることのない「記号」として消費する対象でしかない人間が「肉声」を発したことに「透明でない」感じがしたんじゃないかと思うわけです。

もしかすると、ここ数年の芸能人の不倫バッシングも根っこは同じなのかも、とも。

透明な記号として存在し続けてほしかった人たちが不倫という肉欲に溺れた行為をしているというのが汚らわしく感じられるんじゃないか。

でもそれって単に幼稚なだけじゃないの?

というわけで、私が長田弘さんに透明な詩を求める心情と、芸能人に透明な記号であってほしいと願う心情は似て非なるものだな、とも思ったのでありました。

来年は七回忌。合掌。



誰も気づかなかった
長田 弘
みすず書房
2020-05-07





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2020年02月08日

いま国内外で注目を集める村田沙耶香さんの最新中編小説集『変半身(かわりみ)』を読みました。


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「ニンゲンを脱ぎ捨てろ」というキャッチコピーにあるように、この小説では、私たちは「ニンゲン」という奇祭をやっている、実はぜんぜん別の「ポーポー」という生き物なのだ、という内容です。

地球(ほんとの地球は丸い星ではなくところどころに島があるどこまでも続く水たまりという設定)の外からやってきたポーポーが、新しい島で繁殖し始める前に、そこで生きていく安全を祈るため祭りを行っていた。それが「ニンゲン」という架空の生き物を演じるという奇祭。それがこの世の正体なのだと。

しかし本当にそうでしょうか?


一人称の罠
二年前に刊行された傑作『地球星人』について、私はこんな感想↓を書きました。

『地球星人』感想(あのラストをどう解釈するか)

『地球星人』のミソは一人称で書かれていることにある、という主張でした。

この『変半身(かわりみ)も一人称で書かれています。しかしながら如何様にも解釈が可能な『地球星人』とは違い、この作品では主人公・陸が実際に幼馴染の高木君が卵を産むところを目撃し、その卵から、上半身がイルカで下半身が人間のような本物のポーポーが孵化する瞬間を目の当たりにします。

そしてラジオもスマホもまったく動かない。これまで自分たちが信じていた地球の歴史、人類の歴史はすべて奇祭「ニンゲン」をまことしやかにするためだった真っ赤なウソだった!

そして陸自身も「自分が孵化している」のを感じます。ポーポーに変身しかけるところで物語は幕を閉じます。

しかし本当にそうなんでしょうか?


村田沙耶香の「宗教」
何の情報ももたない陸は、奇祭「ニンゲン」が終わったという宣言を聞く直前、幼馴染の花蓮にこんなことを言います。

「みんな、自分に都合のいい嘘を信じるんだ。人間ってそういう仕組みなのかな」

花蓮は答えます。

「そうかもね。新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ。次の瞬間には新しい信仰が始まってしまうんだから」

人間は信仰=宗教から逃れられない生き物だというのは村田沙耶香さんの作品に一貫するテーマですよね。みんな「普通教」に囚われているだけだ、と。

『コンビニ人間』では結婚するのが普通、36歳でコンビニでバイトなんておかしいという「普通教」への異議申し立てが主題でしたが、その主人公ですらコンビニという神を信仰しているわけで、どこまで行っても人間は宗教から逃れられないというのは、作者の主張というより、まったく例外のない、この世の数少ない真理のひとつでしょう。

だから、我々は「ニンゲン」という奇祭を演じるポーポーという生き物だというのも、また「信仰」のひとつでしかないというのが私の見方です。

だって、人間は宗教から逃れられないのが真理ということは、この世のもうひとつ奥にある唯一絶対不変の真理には到達できないということです。その前に立ちふさがって別のことを信じ込ませてる「神」という存在がいるのですから。その神を信じているのですから。


世界五分前仮説
哲学者バートランド・ラッセルが提唱した壮大な思考実験に「世界五分前仮説」というのがあります。

この世はたった五分前に生成された、何百年も何億年も前から存在しているように感じるのは、そういう歴史があると信じているからだ、というもの。

この仮説は否定することがかなり困難なようです。

『変半身(かわりみ)』はそれを哲学ではなく文学として提示しました。「自分たちは地球人で、地球には50億年の歴史があり、丸い球体の星で地動説が正しい」というのが千年前に作られた神話。その千年を五分と考えれば五分前仮説となる。

千年が五分だなんておかしい? それもまた数学や度量衡という宗教を信仰しているから出てくる疑問であって、この世の奥にある唯一絶対の真理からすれば少しもおかしくないのかもしれません。

そして、その五分前仮説は否定することが難しい。だから自分たちは実はポーポーであるという「真理」をみんなで信仰しようということになった、というのがこの小説の本当の結末でしょう。

陸はポーポーになったのではなく、ポーポー教を信じるようになっただけにすぎません。ポーポー教もいずれ新たな五分前仮説となるのです。


第2章の巧妙さ
そう解釈できるよううまく描写されているのが第2章の陸の実生活です。

どうも夫は詐欺集団の一人らしく、愛人を作って一週間に五回はセックスをするノルマが課されているとか、他人を騙すために何かを演じる人なんですね。妻の陸もその片棒を担がされている。

現実にはこんな人たちは存在しないでしょうが、でもこれは現代ニッポンの巧妙なカリカチュアでしょう。

みんな何かを演じている。演じることによって詐取し、また詐取されている。

陸はおそらくそのような日常がいやになったのでしょう。それで幼いときに村で「モドリ」という秘祭が行われ、そこから逃げ出した記憶を利用して「自分たちはニンゲンという奇祭を演じるポーポーだったのだ」という新しい現実を信じることにした。

榊というプロデューサーが村に方言がないと観光客が来ないから語尾に「がちゃ」をつけて喋るように、というところから世界がおかしくなってきています。

いや、一人称で書かれているのだから、世界そのものがおかしくなったのではなく、陸の主観で捉えた世界がおかしくなっている、ということ。つまり、世界を見る陸自身がおかしくなっている。


「無」になる瞬間
これが三人称で書かれていたらすべて「客観的事実」として信じるほかありませんが、一人称だから陸の妄想であることを否定できません。現実の世界でおかしくなった自分に整合性をもたせようとしたのでしょう。

でも、主人公の妄想にすぎなかった、つまり「夢オチ」だからつまらないというのは当たらないと思います。

「宗教」である以上、神への信仰告白である以上、一人称で書かれねばならず、一人称で書かれる以上はすべては主人公の妄想だという疑いから逃れられない。

花蓮のセリフ「新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ」にあるように、自分が孵化するのを感じるクライマックスで陸は「無」になった。

そして次の瞬間には「自分はポーポーである」という別の宗教を信仰し始めるのです。

私たちにもいずれそういう瞬間が訪れるのかもしれません。まったく新しい自分と出逢う瞬間。まったく新しい世界に溶けこんで行く瞬間。

それこそ「オーガズム」と呼ぶべきものなのかもしれませんね。


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『コンビニ人間』(マニュアルという宗教)
『となりの脳世界』感想(いつか、どこかで)

変半身(かわりみ) (単行本)
村田沙耶香
筑摩書房
2019-11-28





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