戦争

2018年04月03日

脳科学者・中野信子さんによる『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)を読みました。

誰かがちょっと失敗したときに感じる喜びの感情のことをドイツ語で「シャーデンフロイデ」というらしいですが、この本は「嫉妬」や「妬み」(この二語は心理学上は厳密に区別されるとか)に関する内容が、いつの間にやら「愛」や「正義」を盾に世の中を良くしようとするあまり、他者に対して残虐になるごく普通の人たちの恐ろしさを説いて終わります。

それを踏まえたうえで、フリッツ・ラングが戦時中にアメリカで撮った傑作『死刑執行人もまた死す』を見ると、いままでとは違った感慨がありました。「手に汗握る痛快無比なサスペンス」と思っていましたが、こちらの心をグサリと刺してくる「自己言及映画」がその正体でした。


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ナチスに占領されたチェコを舞台に、「死刑執行人」と恐れられたラインハルト・ハイドリッヒ暗殺事件という史実を基に練り上げられた物語です。

もちろんのこと、ナチスとナチスに与する者が「悪」として描かれています。

しかし、それにしても、原題は「HANGMEN ALSO DIE!」で、ハイドリッヒは一人だけなのになぜ「HANGMAN」ではなく「HANGMEN」と複数形なのかずっと不思議でした。それが今日やっと解けました。


国家のためのロボット
ハイドリッヒ暗殺犯ブライアン・ドンレビーは、祖国チェコを愛するがゆえにハイドリッヒを殺しました。が、ナチスは民衆に密告を奨励し、暗殺犯が捕まらないかぎりは無辜の市民を処刑すると脅して無関係の人間を人質として連行します。暗殺犯は「自分が自首すれば誰も殺されないですむ」と懊悩しますが「君はナチスが亡びたあと祖国再建のために必要な人間だ」と説得され、自首しないことを選びます。

妙です。
確かに暗殺犯ドンレビーは懊悩しています。同胞に説得される結構長いシーンは野田高悟ふうに言えば「演じられなければならない場面」です。ですが、ひとたび説得されるや、自分のせいで人質としていつ処刑されるかわからない身になったウォルター・ブレナンや彼の娘である主人公(はたして本当に彼女が主人公なのかどうかはいまは措きます)の苦しみなどないかのように、盗聴している敵の裏をかいたり、まるでロボットのように粛々とナチスとの戦いを遂行していきます。

主人公の女ですら妙です。
最初は父親が人質になったので暗殺犯ドンレビーをゲシュタポに売ろうとします。その心情は理解できます。が、馬車の御者らが妨害し、さらに「ゲシュタポに行くつもりだった」という声を聞いた路上の民衆に囲まれて密告を断念します。
そのあとはまるで密告という行為がこの世に存在しないかのようにブライアン・ドンレビーを売ることが少しも頭をよぎらないようです。ちょっとはそういうことを口走ったりしてもおかしくないのに。
しかも最後は父親が殺されるんですよね。暗殺犯である英雄ブライアン・ドンレビーのせいで。なのに彼女の悲しみやドンレビーへの恨みを描くことなく映画は終わります。

この映画では一人一人のキャラクターが「矛盾を抱えた普通の人間」ではなく「純粋に国家のために動く生き物」として描かれています。ドイツ人もチェコ人も同じです。


売国奴チャカをめぐって
後半の主眼は、ドンレビーが暗殺犯だと悟られないことと、同胞をナチスに売っていた売国奴チャカを成敗することが同時に進行します。結局、チェコ人たちは売国奴チャカを暗殺犯に仕立て上げることに成功し、正義は勝つ!みたいな凱歌を高らかに歌い上げる歌声がオーバーラップして幕を閉じますが、『シャーデンフロイデ』を読んだ私にはとてもハッピーエンドには見えませんでした。

手に汗握るサスペンスであることは変わらないし、裏切り者チャカが殺されるシーンなど痛快無比ですが、しかし、結局この映画はチャカを告発して成敗しておきながら、チャカを断罪するこの映画自身をも告発しているのです。

国家のためにならない者は排除する。それはナチスが党是としたものです。チャカを許せないと思い、彼が殺されるシーンでカタルシスを感じる観客もまたナチスと同根なのでは? というラディカルな問いかけ。

だから、「HANGMEN」とは私たち民衆のことなのでしょう。複数形である理由がやっとわかった次第です。あのラストの凱歌は決して勝利の歌ではなく「新たなる全体主義の歌」なのだと思います。


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ナチスは確かに悪の権化である。しかし人間である以上、誰しもナチスなのだ、誰もがヒトラーなのだという過激なメッセージは、監督や脚本家がドイツ人だからこそ発することができたのかもしれません。


死刑執行人もまた死す [DVD]
ブライアン・ドンレヴィ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2015-05-22





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2018年03月14日

おととい、私になりすました怪ツイート事件なるものが発生しました。フォロワーさんに不快なツイートを送ってすぐ消えたそうです。

事情はだいたいわかります。先週こんな記事を書きました。⇒『映画秘宝』創刊者・町山智浩の問題発言について 
おそらく、この記事に反感をもった人の犯行でしょう。他に反感を抱かれるような記事は書いてないし。犯人は町山智浩を批判するなんて許せない、と思ったのでしょうが、私がかねてから町山本を愛読している人間だということを知らないらしい。過去記事か過去ツイートを遡って確かめてほしいもんです。

それはともかく、ずっと前から思っていることですけど、誰かを批判するとその人のことが嫌いだと思う人が世の大半を占めていることは絶対におかしい。「嫌いだから批判する」と思っている。

そんなバカな。「好きだから批判する」んですよ!


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『丑三つの村』と何の関係もないこんな話から始めたのは、この映画が「本当の愛国心とは何か」をテーマとしているからです。


反日=愛国
ドキュメンタリー作家の松江哲明監督が、『靖国』が国会議員の検閲を受けた問題が起こったとき、「もっと反日映画が作られるべきだ」とコメントしていてオオオオと感動したものです。なぜなら、「もっと反日映画を」という言葉こそ真の愛国心の顕れですから。

日本が好きだからこそ、この国のダメなところを挙げて批判をする。それこそが「この国をよりよくしていこう」というムーブメントを起こせる。松江監督の発言にはそういう思いがあったはずです。


「ストーリーフォーカス」と「大きな物語」
『クリエイティヴ脚本術』という本には、焦点が当てられた物語(ストーリーフォーカス)がその背景にある「大きな物語」と密接なかかわりをもたないかぎりその物語は力をもちえない、ということが説かれています。




『丑三つの村』のストーリーフォーカスはもちろん「津山三十人殺し」ですが、背景にある大きな物語はというと、「大日本帝国の物語」ということになります。

古尾谷雅人演じる主人公は、秀才で陸軍師範学校に入るための勉学に明け暮れ、いずれは帝国軍人としてお国のために戦いたいと切望していますが、肺結核と診断され夢は途絶えます。それを根っことして村人を皆殺しにする事件が起きるわけですが、いままで私はこの映画を見て主人公の「戦争」ということをあまり考えていませんでした。ラストの大殺戮シーンがやたら凄惨なうえに感動的なのでね。呆気にとられていたというか。

しかし今回見直してみて初めて気づきました。彼は外敵と戦えなくなった結果、内なる敵と戦争するのですね。あの村が大日本帝国の縮図であることは明らかです。

お国のために産めよ殖やせよじゃ! と叫ぶ絵沢萌子や、お国のために働けんようになったくせにと主人公を傷つける大場久美子らは、二言目には「お国のため」と言いますが、あれは嘘ですよね。みんなそう言ってるしそう言っておけば安全だという自己保身でしょう。最後に殺される池波志乃が、夫の軍服(大日本帝国の象徴)を主人公に向かって投げ捨てながら逃げるシーンがすべてを物語っています。

「美しい国へ」とか「愛国心を」などと言っていた安倍某が実は私腹を肥やすことしか考えていなかったことと相似形をなしています。「村のため」と言いながら村人殺しを指揮している夏八木勲が、官僚に公文書改竄を指示した誰かさんにしか見えませんでした。


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彼らは愛国心を利用しているだけ。本当に国のために戦いたかった古尾谷雅人は、ニセ愛国者の彼らを殲滅することが自分の使命だと行動に打って出ます。

ストーリーフォーカスの次元では「個人的な怨念」で行動を起こす主人公ですが、大きな物語の次元では「世直し」なのですね。そしてその世直しのために主人公は「鬼」になることを決意します。


お婆やん殺害
これまでは、主人公の絶対的な庇護者であったお婆やんを殺すのは、劇中で語られる通り「惨劇を起こしたことで悲しませたくないからだ」と思っていました。確かにストーリーフォーカスの次元ではそうでしょう。しかし大きな物語の次元では「鬼」になるためだと初めて知りました。

まだ太平洋戦争が起こる前ですから「鬼畜米英」という言葉はなかったかもしれませんが、外敵を「鬼」と称する精神構造はおそらくあったはずです。主人公は内部の敵をやっつける「鬼」だと自らを規定しました。田中美佐子に「鬼!」となじられた彼は「鬼で何が悪い!」と返しますが、あれは開き直りではないと思います。その証拠に、すべての殺戮を終えてもう一度田中美佐子の元に戻ってきた主人公は「鬼が鬼退治しただけじゃ」と呟いて去っていきます。

「鬼」と「神」
それはともかく、ちょっと他の人と違うだけで非国民として主人公を排斥する村人たちは、いまのネット右翼と完全に重なります。公文書偽造が明らかになりネット右翼は鳴りを潜めているらしいですが、権力者が国家の土台を崩そうとしているのだから本当に国を愛しているのなら批判するべきなのです。いま政府を批判する人こそ愛国者であり、批判しない人は愛国者の仮面をかぶった売国奴です。

だから「鬼が鬼退治しただけじゃ」の前者の「鬼」と後者の「鬼」は意味が違います。「夜叉」という言葉も出てきますが、前者の「鬼」は後者のような本当の鬼を殲滅する「神」のようなものでしょう。

どの宗教でも「神」は鬼のように恐ろしい存在です。でも基本的に「愛」に溢れている。ラスト20分の陰惨きわまりない殺戮シーンがあんなにも感動的なのは、「村のため」ひいては「お国のため」という「本当の愛」に溢れているからだと思います。

完全に蛇足ですが、朝日新聞のスクープ記事が出た時点では政府を擁護していた人たちが、財務省が事実と認めた途端、素早く手の平を返している姿は、大日本帝国バンザイから民主主義バンザイへ手の平返しをした当時のニセ愛国者たちとまったく同じではないでしょうか?






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2017年07月20日

メル・ギブソン監督10年ぶりの新作『ハクソー・リッジ』の最終日に駆けつけてきました。


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うん、確かに『プライベート・ライアン』を超えたという評判もわかる凄まじい戦場描写が迫力たっぷりだし、前半が訓練で後半実戦というのは『フルメタル・ジャケット』みたいですが、凡作でしかない『フルメタル・ジャケット』に比べてこの映画は何だかんだ言いながらも139分まったく退屈することがなかった。キューブリックなんかよりメル・ギブソンのほうがよっぽどすぐれた監督だと思うんですけどね。スピルバーグとではどちらがどうかよくわかりませんが。

それはともかく、『ハクソー・リッジ』で何だかんだ言ってしまったというのは、主人公デズモンド・ドスの「二律背反」なんです。

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彼は何という宗派かは知りませんが(土曜日が安息日のキリスト教があると知ってビックリ)とにかく敬虔なクリスチャンなので、志願兵ではあるものの銃をもてないと言い張る。もてという上官の命令に背いて軍法会議にかけられます。

結局、父親(ヒューゴ・ウィーヴィング、歳食いました)の助け舟で衛生兵も立派な軍人だと准将だったか偉い人の言葉が残っていることが明らかになり、晴れて沖縄戦に帯同することになります。

ここで、少し脱線して、大島渚の言葉を紹介しましょう。

チャン・イーモウ監督『紅いコーリャン』公開時のパンフレットで大島さんが誰かとの対談でこんなことを言っていました。

「戦争というのは二つの勢力の争いなわけだから、片方だけ描いても片手落ちなんです。だから僕は『戦場のメリークリスマス』で捕虜収容所を舞台に敵味方双方を描いたわけなんです」

日本兵をほとんどモンスターとしてしか見せていないこの『ハクソー・リッジ』を大島さんが見たら激怒するんじゃないかと思うんですが、しかし、大島渚の言葉とて絶対ではありません。

あくまでもメル・ギブソンはじめ製作チームの主眼は、地獄のような戦場で一番根性を見せたのが良心的兵役拒否者だったという、そのデズモンド・ドスという絵に描いたような英雄を描くことだったでしょうから。

だから、日本側が描かれていない(なのに切腹のシーンは丁寧に見せてますが)ことを非とはしませんが、問題は主人公の心中の葛藤なんですよね。

敬虔なクリスチャンである彼は「汝、殺すなかれ」というモーセの十戒の一節に背くことができず、恋人との結婚式を犠牲にしてでも信仰に殉じようとします。


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こんなにきれいな人より神の教えを優先するというのはほとんどキチガイ沙汰としか思えませんが、それはともかく、彼は志願兵なんですよね。

軍法会議の席で「検査ではねられて兵役に就けなかった友人が二人自殺した」と言い、「戦地に赴ける体なのに行かないのはいかがなものか」と志願した理由を明かします。つまりは「合衆国市民として日本との戦争に行かないわけにはいかない」と。

でも、クリスチャンとしては人を殺すわけにいかないから衛生兵として傷ついた兵隊を助けることに専念する。

理屈としてはわかります。実際、彼は誰よりも勇敢に立ち回って多くの人を助けました。日本兵も助けました。ここはイエスの「汝の敵を愛せ」を実践しているようで微笑ましかったですね。

そして彼は同時に誰一人殺さなかった。

直接的には。

最後のほう、特にヴィンス・ヴォーン演じる軍曹を引きずっていくところなど、確かに彼は直接的には軍曹を助けているだけですが、軍曹が敵兵を殺すことに手を貸しています。

いや、それどころか手榴弾を蹴飛ばすところなんか、それで誰かが死んだかどうかは定かじゃないですが、明らかに周りの兵に怪我させてませんでしたか?

「国民」としてのデズモンド・ドスと「キリスト教徒」とのデズモンド・ドスがいて、真逆の二人がどうやってひとつの心の中で折り合いをつけていたのか、映画は少しも検証してくれません。

いくら実話とはいえ、いや、実話だからこそ、そこのところをもっと突っ込んでほしかった。
少なくとも、「汝、殺すなかれ」の「殺す」が直接的なことだけなのか、それとも間接的に殺人に加担することも含めるのか、彼の宗派ではどうなっているのか、ちゃんとした説明がほしかった。

そもそもの前提として、いくら衛生兵といっても戦場に出てしまえば相手を殺してしまう可能性はあるわけですから、軍隊を志願するという時点で何の葛藤も感じなかったというのは嘘としか思えないのです。

だから、最初のほうから実はあまり乗れてなかったんですよね。
脚本の不備に不満をもちながらも後半の戦闘場面には手に汗握ってしまったわけだから、メル・ギブソンの腕を評価せねばならないのかもしれませんが、やはり脚本家としてはどうしても食い足りない憾みが残った映画でした。


ハクソー・リッジ(字幕版)
アンドリュー・ガーフィールド
2017-10-04




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