聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

思想

梅沢富美男の未婚ハラスメントとハゲハラについて思うこと

umezawatomio

歯に衣着せぬ男、梅沢富美男が『梅ズバッ』で未婚ハラスメントをしたとか昨日ツイッターで見ました。

番組そのものは見ていません。ユーチューブにあるかなと思ったけれどなかった。でもまぁだいたいわかりますよ。ゲストの吉田羊と楠田枝里子に「何で結婚しないんだ」と言ったとかで、この人がどういう言い方をしたかくらいは見なくてもわかる。

あらかじめ断っておくと、私はこのオッサン好きですよ。もしかすると、クリント・イーストウッドが2年前の大統領選挙のとき「みんなポリティカリー・コレクトネスにはうんざりしているんだ。だから俺はトランプに投票する」と言ったのと同じかもしれません。
私はトランプは嫌いでしょうがないけど、梅沢富美男は大好き。言いたい放題だけど嫌味がない。でも、嫌味があるかないかという感じ方は人によって違うのでしょう。

で、当のツイート主の主張は、「なぜ結婚しないんだ」という未婚ハラスメントが昔から横行していて、もういいかげんやめてほしい、というものでした。

わからないではない。私もこの歳で未婚だから「なぜ」とか「同い年の人はみんな結婚して子どももいる」とか言われるともちろんいい気はしません。でも、それをハラスメントだとかこの世からそういう発言をなくすべきだとか、そんなことを思ったこともない。

人間は言葉でコミュニケーションを取る生き物で、言葉が刃物になることがある。誰のどんな言葉だって刃物になりうる。だって相手が何を嫌がるかは当人にしかわからないから。

繰り返しますが、私自身は「なぜ結婚してないの」と言われるのはいやです。いやだけれどハラスメントだと告発するつもりはない。私が相手を知らず知らず傷つけていることも多々あるだろうし。

そう、人間は刃物となりうる言葉でコミュニケーションを取るのだから、常に心を傷つけたり傷つけられたりという状況にある。

どうも最近の人たちは傷つきやすくなっていませんかね? ツイッターでも「自分の好きな映画をけなされるのがすごくいや」と言ってる人たちがいます。好きな映画を否定されると自分が否定されたように感じるんですって。そんなの単に感じすぎなだけしょう。

「なぜ結婚しないの」はハラスメントだと思います。だけど、すべての言葉がハラスメントになる可能性がある以上、ハラスメントを完全追放するのは不可能です。



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私は禿げてますけど、自分からハゲを笑いのネタにするから周りは逆に安心するそうです。それはおそらく、この人には少々のことならハゲハラにはならない、というサインになるからでしょう。それぐらいハラスメントということに対して言われる側はもちろん、言う側もセンシティブになっている。

そりゃ私だって、こちらが笑いのネタにしているからといって度を越した言葉や笑いにはいやな気がしますけど、「人間はそういうもの」と思ってやり過ごしています。やり過ごせばいいだけの話じゃないの? 

すべてのハラスメントをやり過ごすべきだと言ってるんじゃないですよ。やり過ごせないほどひどいなら、「おっぱいもませて」の事務次官や「このハゲーーーー!」の議員みたいに録音して訴えて社会的制裁を受けさせるべきでしょう。でも「何で結婚しないの」ぐらいの言葉がそれに該当するとは思えない。

どうもいまの世の中は、「どこまでもクリーンでなければならない」という強迫観念が蔓延していると思う。少しでも心地よくないものはこの世から追放しましょうと。

抗菌グッズの売り上げを表す折れ線グラフと、アレルギー患者の増減を表す折れ線グラフは完全に一致するそうです。

過ぎたるはなお及ばざるがごとし。きれいすぎるのも問題なのでしょう。

私だって結婚したら未婚の人に「なぜ結婚しないの」って言っちゃうと思う。

いまの日本人は「自分は被害者になる可能性がある」ということをデフォルトにしています。それでは片手落ちで、「被害者になる可能性もあるし同時に加害者になる可能性もある」というのをデフォルトにしないといけないと思うのです。


『うしろめたさの人類学』(「うしろめたさ」と「負い目」の狭間で)

うちの両親は、孫(つまり私の甥っ子)たちに誕生日やクリスマスに現金をプレゼントしています。
お年玉ならいいけどプレゼントを現金でなんて絶対ダメだ、現金がほしいと言ったら怒らなきゃ、といくら私が言っても現金をねだる孫かわいさにいつも現金を贈っています。


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松村圭一郎というエチオピアでフィールドワークを重ねた文化人類学者による『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)で説かれるのは、「贈与」こそが貨幣による商品交換に代わってこの世界を変える契機になりうる、ということです。

「うしろめたさ」とは何かというと、エチオピアでは乞食がぜんぜん珍しくなく、乞食に普通にお金を分け与えることが普通であると。
でも日本では物乞いに現金を与えることを良しとしません。昔イタリアに行ったとき物乞いに少額のお金をあげたんですけど、それを帰国してから言ったらいろんな人から「何でそんなことをしたのか」と非難されました。でも国境なき医師団に寄付しているというと異口同音に「偉い」という。おかしいのでは? 困っている人のためにお金を出す、という意味においては同じなんですけどね。間接的ならよくて直接はよくないというのは理解に苦しむ。

という疑問が本書を読んで氷解しました。

つまり、乞食と自分とでは圧倒的に自分のほうが豊かである。豊かな自分が直接現金を与えると、彼我の格差が顕現してそこに「うしろめたさ」を感じてしまうのだ、と。

仮に、その乞食に家まで荷物をもってもらったとして、その対価としてお金をあげるとなると、これはもう労働力として対価を支払っている、つまり貨幣と商品との交換だから少しも「うしろめたさ」を感じることがない。

寄附金には「対価」という性質はないですが、それはいまは措くとして、現代ニッポンはすべてを貨幣と商品との交換として捉える、つまり「市場」の性格が大きい。それゆえに閉塞感を感じる人が多いのではないか。

著者はまたこうも言います。
社会とは動的なもので、二人の人間の間である「行為」がなされるから「関係」が生まれるのではなく、「関係」という現実が互いの行為によって構築されていくのだ、と。

与える。受け止める。そこに「関係」が生まれる。
蓮實重彦も「映画の中である人物が何かを投げ、それが受け止められるとき、二人の間に親愛の情が生まれる」と言ってましたっけ。蓮實はホークスの『脱出』におけるライターを例に出していましたが、私がこの言葉を読んでいつも想起するのはジャッキー・チェンの『龍拳』。恨み骨髄だったはずの男が実はそれほど悪い男ではなく本当に悪い奴が別にいると悟ったジャッキーに、その男から松葉杖が投げられる。それをしかと受け止めたジャッキーが大逆転勝利を収め、二人は抱き合うという胸のすくラスト。

閑話休題。
いまの日本では「市場」ばかりが幅を利かせていて、だから貨幣と商品との交換だけの関係しかない。

それを克服するには「贈与」することが大事だと。与える。受け止める。そうやって人間と人間の関係を構築していくこと。そうすれば国家と市場経済が一体化して動きが鈍った社会に「スキマ」を作ることができる。この「スキマ」という言葉が「贈与」と並んでこの本のキーワードのようです。交換だけでなくそこに贈与をもちこむことでスキマを作る。それは社会を動かすということ。もともと動的な社会の動きを取り戻すということ。

という著者の主張に一も二もなく賛成なのだけれど、はたしてこれがいまの世の中に有効なのかと考えると途方に暮れてしまうのです。

冒頭に記したとおり、プレゼントさえ現金という形で贈られることがあり、それを当然だと思って育った人間が確実にいます。彼らはもしかすると恋人にプレゼントを渡すとき、将来自分の子どもにプレゼントを与えるときに現金を与えてしまうのではないか、という危惧をもっていました。でもいまはその危惧がもっと大きくなり、与えられる側がプレゼントとして渡された現金を喜んで受け取ってしまうのではないか。つまり、それはおかしいと訴える私のような人間が少数派になりつつあるのではないか、という危惧に変わってきつつあります。

そもそも「贈与」がこれからの社会にとって大事になってくるという主張は、内田樹先生や柄谷行人さんなど私の好きな思想家がすでに言っていることです。
それに、出版元のミシマ社を立ち上げた三島邦弘さんって確か内田樹先生の本の編集者だった人ですよね(間違っていたらすみません)。
だから、この本を読む人ってもともと「贈与が大事だ」「市場価値だけがすべてじゃない」とわかっている人たちなんですよね。

ツイッターをやっていていつも思うのは、似た考え方の人ばかりフォローしているから真逆の考え方をしている人たち(例えばネトウヨとか)のツイートを読むことがないのです。裏を返せばネトウヨたちは私や私がフォローしているアンチ安倍のツイートを読むことがない。

本来、このような本は、現金をプレゼントとして贈ってもいいと考えるような人たち、「それって何の役に立つんですか?」とすぐ訊くような人たち、金銭に換えられないものは価値がないと信じ込んでいる人たちにこそ読まれないといけないと思うんですが、それは難しい。

著者は「だから少しでも与える側の『うしろめたさ』を受け止める側の『負い目』に転換しない工夫が必要だ」というのですが、うーん、具体的にどうしたらいいのかよくわかりません。

最近は落とした物を拾って渡すと怒る人がいますよね。あれって「負い目」を感じているからなんですね。なるほど。「うしろめたさ」を感じるから乞食にお金を与えない。逆に他人に何かしてもらうと「負い目」を感じてしまってお礼を言うどころか怒る。

しかし、大事なのは「与え続ける」ことなのでしょう。わからないと思考停止してしまってはいけない。大事なのは「動き続けること」。社会は常に動いているのだから身も心も動き続けねば。与え続けねば。それがもしかすると内田樹先生の言う「おせっかい」なのかもしれませんね。




『人工知能は資本主義を終焉させるか』(齊藤元章の大きな誤り)

人工知能と経済学の関係を研究する経済学者の井上智洋さんと、スパコン・人工知能エンジン開発者の齊藤元章さんの対談本『人工知能は資本主義を終焉させるか 経済的特異点と社会的特異点』(PHP新書)を読みました。


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齊藤さんは何でもつい最近、東京地検特捜部に詐欺容疑で逮捕されたらしく(逮捕されたせいで『プロフェッショナル 仕事の流儀』が放送見送りになったのはこの人だったのかと初めて知りました)これはもしかすると齊藤さんの思想が原因の国策捜査なのかな、という気もします。

ことの真偽はまったくわかりませんが、この本は非常に面白いところとあまりにアホすぎるところの差が激しい珍本でした。

面白いと思ったところは、

・『21世紀の資本』のトマ・ピケティの「R>G」という不等式について
・安土桃山時代の日本の軍事力は世界最強だったこと
・累進課税と言いながら、超高額所得者は逆に税率が低くなる
・ベーシックインカムとヘリコプターマネー
・「人類補完計画」

人類補完計画は齊藤さんの計画ですが(『新世紀エヴァンゲリオン』のエンディングみたいなのを本当にやろうとしているようです。それも地球規模ではなく宇宙規模で)他はすべて井上さんが喋り手で齊藤さんが聞き手になっているときの話ばかり。

だから、井上さんの話は傾聴に値するのですが、齊藤さんの話には納得できませんでした。

人類補完計画だって、ブレイン・ブレイン・インターフェースといって、人間の脳と脳を直接つなぐことによって、すべての人類、宇宙に棲息するすべての知的生命体をひとつにつなぐことなんですが、そのことで私たちが得られる幸福度がどの程度のものかは知る由もありません。

脳と脳を直接つなぐことによって、うつ病の人がどれだけしんどい思いをしているか、ガンで苦しむ人がどれほどの痛みに耐えているか、歩けない人がどれほどの不自由を強いられているかを直接体感できるため他者への共感度が増す、というのはその通りでしょう。

しかし、脳と脳を直接つなぐのだから自分が考えていることが相手に筒抜けなわけですよね。いくら何でもそれは嫌です。ほとんどすべての人が嫌なんじゃないですかね。

だから、地球人すべての脳をひとつにつなぐよりも、隣の人の脳と自分の脳をつなぐことがまず難しいですよね。不可能では? 

スパコンと量子ニューラル・ネットワークというものを接続すれば、現在のスパコンが計算終了まで100億年かかる問題も瞬時に解決できてしまうという話があって、それ自体は面白い話ですが、人間は機械じゃないので「脳と脳を接続する」ことを嫌がる人のことを少しも考慮していないのはいかがなものでしょうか。

さらに、齊藤さんの夢は「地産地消・個産個消」らしく、地産地消はわかります。こういうのですよね。↓

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近代以前は自給自足の生活でしたが、それはたとえば100人の村があったらその100人ですべてを賄うやり方です。その100人はおそらく分業制だったはずで、絵のように刈り入れは女性がやって、男たちはその間に狩りに行くとか。

しかし、齊藤さんの提唱する「個産個消」というのは、まさに一個人ですべてを賄うやり方なんです。

「個産個消が可能になれば、誰にも頼る必要がなくなり、金銭も不要になるから犯罪も減るし、何より個性と創造性の爆発が期待できる」

うーん、、、本当に犯罪は減るのでしょうか。誰にも頼らなくて済むのでしょうか。

齊藤さんが忘れているのは、「隣の柿は赤く見える」ということです。

「自分に必要なものは自分ですべて賄えるのだから」と齊藤さんは言いますが、人間は必要じゃないものもほしがる生き物なんですよね。

「有名人のサイン」がいい例です。

あれは単なる「直筆の名前」にすぎません。何でそんなものがほしいの? と訊いてちゃんとした答えが返ってきた試しがありません。みんな「他人がほしがっているから、世間が価値があると言っているから」というただそれだけの理由で「自分もほしがっている」と勘違いしてしまうのです。

このようなことはコンピュータの世界に当てはめれば「バグ」に相当するんでしょうが、齊藤さんは「人間は常にバグを生み出し続ける生き物である」ということをすっかり失念しています。

お金のない世界はユートピアであるという主張には同意します。

しかし、そう主張していた人が詐欺を働いていたとして逮捕されました。

もし本当なら齊藤さん自身がバグだったわけだし、国策捜査としてハメられたのだとしたら、東京地検が、もっといえば日本という国家がバグです。

いずれにしても、「バグ」を生み出し続けるのが人の世であることは間違いなく、だから、やっぱり「人類補完計画」なんてアニメの中の夢物語にすぎないと思います。


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江戸しぐさを考える(別に嘘でもいいのでは?)

江戸しぐさというものがあります。
ありますなんて言ってはいけないんですかね? だって巷では「あんなものは嘘だ」「捏造だ」とものすごい批判にさらされていますから。






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江戸しぐさの代表的なものがこの「傘かしげ」で、傘を差した者同士がすれ違うとき、お互いの傘を傾けてぶつからないようにする。

江戸しぐさとは、そういう、世間で生きていくためのマナーなんですね。「江戸時代の人たちはそのようなマナーをもって生活していた」ということで、芝三光、本名・小林和雄という人がちょっと前から広めたもののようです。

他にも、

「こぶし腰浮かせ」
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乗合船などで、後から来る人のために拳ひとつ分だけ腰を浮かせて座っていた、というもの。

「うかつあやまり」

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足を踏まれたほうが、「いや、私のほうがうかつでした」と言って、その場をやんわりとおさめる。

その他、約束の時間に遅れることを「時泥棒」というとか。

私は5年ぐらい前でしょうか、何かの縁で江戸しぐさに関する本を数冊読み、「へぇ、うかつあやまりって面白い」とか「傘かしげは確かにいまはやらない人がいる」とか呑気な感想をもっていました。まぁ、江戸しぐさというものを信じていたわけです。

それが昨今の江戸しぐさバッシングを見ていると、

「時間の概念がほとんどない時代になぜ『時泥棒』などという発想が出てくるのか」
「乗合船にはいまのような座席がなかった。座席がないのになぜ『こぶし腰浮かせ』などできるのか」
「当時、傘は贅沢品で、庶民はみんな雨合羽みたいなのを着て雨中を歩いていた。『傘かしげ』は絶対に嘘である」

という、至極まっとうな批判で、確かにそれも一理あるな、というか、江戸しぐさはやはり嘘であろうと思うわけです。



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ただ、私は「嘘でなぜいけないの?」と思うわけです。

というか、つい先日、雨の中を歩いていたら高校生の一段とすれ違ったんですが、こちらがいくら傘かしげをやっても向こうがしないから傘が衝突してお互い雨粒に濡れることになってしまいました。

おそらく彼らに「すれ違うときは傘を傾けなさい」とまっとうな注意しても聞く耳をもたないでしょう。

そこで考え出されたのが「江戸しぐさ」だと思うんですよね。
国造りの神話のように「マナー作りの神話」として。

「江戸時代の昔からそのようなマナーがある」というファンタジーを捏造することによってマナーの失われた現代にマナーを甦らせる試み。いいじゃないですか。

それを、嘘の歴史を捏造することで教育上問題がある、と批判している人たちって「正しい」ことだけが正義みたいに言っていますが、何が正しいかなんてわからんですよ。

ちょっと前まで「ビタミンCは風邪に効く」と言われていましたが真っ赤な嘘だといまでは言われていますし、歴史に関することだって、例えば聖徳太子は実在の人物として私は教わりましたが、いまは違うんでしょ。「厩戸皇子(聖徳太子)」と記述しないといけないとか。

厩戸皇子はいたのかもしれない。でも、さすがに神武天皇はフィクションでしょう。アマテラスやスサノヲ、イザナギ、イザナミにいたっては誰がどう考えても嘘です。

だから、「正しい歴史」を標榜する人は、『古事記』をも否定せねばならず、それはすなわちこの国の成り立ちを根底から否定することになりますが、そのことにどれだけ自覚的なのでしょうか。

話が大きくなりすぎましたが、つまるところ、根拠は嘘でもそれで「正しいマナー」が広まるなら別にいいんじゃないですか、というのが私の主張です。

「江戸しぐさ」という神話を根拠にしないとマナーを根づかせることが不可能な時代、ということのほうがよっぽど大きな問題だと思いますね。




体罰はどんな状況でもダメという意見について

まずはシャルリー・エブド事件の話から始めましょう。


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あれはもう3年くらい前ですかね。フランスの「シャルリー・エブド」という新聞がムハンマドの風刺画(というよりあれは単なる愚弄画でしたが)を掲載してテロリストの仕返しを受けた事件がありました。
あれに対して「私たちはみんなシャルリー」というデモが起きて世界中で議論が湧きあがりましたが、あれってフランス特有の現象らしいですね。

敬虔なクリスチャンとして有名な佐藤優氏によると、ロシアなどでは宗教に関するあのような表現は厳しく罰せられるとか。

フランス革命の国では、国家と宗教を峻別することを国是としているため、あのような愚弄画を掲載する自由があるそうです。
一方で、学校の授業で宗教について教えてはいけないとか。イスラム教徒のブルカを一切認めないというニュースも世界を賑わしましたが、あの国では公式には宗教というものは「なかったこと」になっているらしい。イスラム教徒も存在しないし、その教義ももともと「ない」ものなんだと。
そんなバカな!


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ジャズ奏者の日野皓正氏の公衆の面前での往復ビンタが批判にさらされていますが、その批判の急先鋒である尾木ママは、

「体罰はどんな状況であっても許されない」

と発言しています。

この国では、体罰は絶対に許されないと。

これっておかしいですよね?

そもそも「絶対」なんてものはこの世に存在しないことを教えるのが教育者の務めではないの? 絶対に宗教を教えてはならない、というフランスの馬鹿げた国是と相似形をなしてやいませんか?

「臭いものに蓋をする」という言葉がありますが、いま体罰は完全に「臭いもの」になってる気がします。そして、誰もそれを疑わない。
これはもうほとんど「全体主義」す。


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昨日のワイドナショーでは、この問題を取り上げて、

松本は、
「いまは体罰が許されない時代じゃないんだ、というけど、なぜ昔は許されていまはダメなの? 納得のいく説明を誰もしてくれない。体罰を受けた僕たちは少しもひねくれた人間になっていない」

私も体罰を受けたことがある人間ですが、別に普通の人なんじゃない? とよく言われるし、体罰を受けたのは「自分のほうが悪かったからだ」といまでは思っていますよ。

宮澤エマは、
「あの生徒は完全に演奏に入り込んでしまっていたからスティックを奪われたあとも手で演奏を続けようとしたのか、それとも、もともと日野さんと何かあって反抗的に続けようとしたのかによっても答えは違ってくると思うし、日野さんも日頃からこういうことをやってるからその延長でビンタしたのか、それとも公衆の面前だからこそビンタをして教育効果を狙ったのかでも違ってくる」

というように、様々な意見が出て、とても健全な議論になっていましたが、どうもこの国で体罰に関しては、フランスにおける宗教と同じで、議論すること自体がナンセンスみたいになってるのがどうにも苛立たしいかぎりです。

絶対にダメと臭いものに蓋をするんじゃなくて、
「世の中はすべてグレーゾーンである。君たちはこの問題をどう考えるか」
と問うのが教育者の役割なんじゃないんですか? 

それをいまはお笑い芸人が代わりにやっている。世も末とはこのことですな。

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