聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

思想

江戸しぐさを考える(別に嘘でもいいのでは?)

江戸しぐさというものがあります。
ありますなんて言ってはいけないんですかね? だって巷では「あんなものは嘘だ」「捏造だ」とものすごい批判にさらされていますから。







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江戸しぐさの代表的なものがこの「傘かしげ」で、傘を差した者同士がすれ違うとき、お互いの傘を傾けてぶつからないようにする。

江戸しぐさとは、そういう、世間で生きていくためのマナーなんですね。「江戸時代の人たちはそのようなマナーをもって生活していた」ということで、芝三光、本名・小林和雄という人がちょっと前から広めたもののようです。

他にも、

「こぶし腰浮かせ」
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乗合船などで、後から来る人のために拳ひとつ分だけ腰を浮かせて座っていた、というもの。

「うかつあやまり」

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足を踏まれたほうが、「いや、私のほうがうかつでした」と言って、その場をやんわりとおさめる。

その他、約束の時間に遅れることを「時泥棒」というとか。

私は5年ぐらい前でしょうか、何かの縁で江戸しぐさに関する本を数冊読み、「へぇ、うかつあやまりって面白い」とか「傘かしげは確かにいまはやらない人がいる」とか呑気な感想をもっていました。まぁ、江戸しぐさというものを信じていたわけです。

それが昨今の江戸しぐさバッシングを見ていると、

「時間の概念がほとんどない時代になぜ『時泥棒』などという発想が出てくるのか」
「乗合船にはいまのような座席がなかった。座席がないのになぜ『こぶし腰浮かせ』などできるのか」
「当時、傘は贅沢品で、庶民はみんな雨合羽みたいなのを着て雨中を歩いていた。『傘かしげ』は絶対に嘘である」

という、至極まっとうな批判で、確かにそれも一理あるな、というか、江戸しぐさはやはり嘘であろうと思うわけです。




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ただ、私は「嘘でなぜいけないの?」と思うわけです。

というか、つい先日、雨の中を歩いていたら高校生の一段とすれ違ったんですが、こちらがいくら傘かしげをやっても向こうがしないから傘が衝突してお互い雨粒に濡れることになってしまいました。

おそらく彼らに「すれ違うときは傘を傾けなさい」とまっとうな注意しても聞く耳をもたないでしょう。

そこで考え出されたのが「江戸しぐさ」だと思うんですよね。
国造りの神話のように「マナー作りの神話」として。

「江戸時代の昔からそのようなマナーがある」というファンタジーを捏造することによってマナーの失われた現代にマナーを甦らせる試み。いいじゃないですか。

それを、嘘の歴史を捏造することで教育上問題がある、と批判している人たちって「正しい」ことだけが正義みたいに言っていますが、何が正しいかなんてわからんですよ。

ちょっと前まで「ビタミンCは風邪に効く」と言われていましたが真っ赤な嘘だといまでは言われていますし、歴史に関することだって、例えば聖徳太子は実在の人物として私は教わりましたが、いまは違うんでしょ。「厩戸皇子(聖徳太子)」と記述しないといけないとか。

厩戸皇子はいたのかもしれない。でも、さすがに神武天皇はフィクションでしょう。アマテラスやスサノヲ、イザナギ、イザナミにいたっては誰がどう考えても嘘です。

だから、「正しい歴史」を標榜する人は、『古事記』をも否定せねばならず、それはすなわちこの国の成り立ちを根底から否定することになりますが、そのことにどれだけ自覚的なのでしょうか。

話が大きくなりすぎましたが、つまるところ、根拠は嘘でもそれで「正しいマナー」が広まるなら別にいいんじゃないですか、というのが私の主張です。

「江戸しぐさ」という神話を根拠にしないとマナーを根づかせることが不可能な時代、ということのほうがよっぽど大きな問題だと思いますね。





福田恆在『人間・この劇的なるもの』(劇・死・花)



福田恆在さんの『人間・この劇的なるもの』読了。
いやはやとにかく素晴らしい読書体験でした。


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私ごときが偉大な先人の偉大な思想を論評するなんてもってのほか。

だから、この本のどういうフレーズにグッと来たか、そこだけを書き記したいと思います。(言葉通りではありません。主観的な採録ですのであしからず)


「個性などというものを容易に信用してはならない。そんなものは自分が演じたい『役割』にすぎぬ」

「死によって生は完結する。死によってしか完結しえない」

「古代の人々が祭儀に託したのは、生きながら死を経験することだったのではないか。祭儀は自らの生を燃えあがらせるためにあったのではないか」

「演劇は祭儀でなければならない。劇作家は祭祀であり、主人公もまた祭祀でなければならない」

「劇は究極において宗教的なものであった。その本質は今日もなお失われてはならぬ」

「自由ということ、そのことに間違いがあるのではないか。自由とはしょせん奴隷の思想ではないのか」

「自然は厳しい『形式』をもっている。太陽や月の運行によって私たちは生かされている。だから形式を否定する自由というものはそもそも間違っている。私たちは形式によって初めて人生全体と交合できる。初めて『生きている』と言えるのではないか」


シェイクスピア研究や自ら劇作に励むなかで、人生を演劇として見つめる独特の人生観、人間観が展開されています。

自然という「形式」の枠組みの中で生を謳歌するのが本当の人生だ、と。決して自由になってはならない。自由は個人主義の限界をあらわにするだけだ、形式こそ「全体」へと至る道である、みたいなことも書かれています。

福田恆在さんの言う「全体」とは、宗教や祭儀という言葉から察するに、おそらく「神」ということなんでしょうね。そんなワードはひとつも出てきませんが。

そして、私が一番グッと来たフレーズは、以下のもの。

「我々は博物学でも博物学者でもなく、生きた『花』を求めているはずだ」

本書でもちらっと触れられる世阿弥の『風姿花伝』の一節、

「鬼しか演じられないのはその程度の役者。花を演じられてこそ本当の役者」

を思い出しました。




賽銭箱に万札を入れる人の心性について

前々から初詣のニュースを見るたびにこういう映像を見ますが、


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いつもなんか変だなと思ってたんですよね。やっとその正体がわかりました。

お金をたくさん入れたら御利益があるというのは、結局のところ、

「金さえあればどんな問題でも解決できる」

という誤った思想をその人がもっているから、ということだったんですね。(いまごろ気づいた私)

最初は500円玉ぐらいから始まったはずが、何もうまく行かないからやがて千円札になり、それでもうまく行かないから5千円札になり、そして万札になる。万札も1だったのが2枚になり3枚になり…

その人が「金さえあれば…」という思想をもち続けるかぎりこの悪循環は終わることはないでしょう。(マイケル・コルレオーネもそうでしたね)

断言してもいいです。

賽銭箱に万札を入れる人は不幸から逃れられないと。


 

内田樹先生経由で20数年ぶりに腹に入ってきた主治医の言葉について

いま内田樹先生の『内田樹の生存戦略 悩める人いらっしゃい』を読んでるんですが、もう20数年前の主治医の言葉がストンと腹に入ってきて驚いています。


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この本で内田先生は、「何だかよくわからないけどこういうことを学びたい」なら、それを学ぶのは芽がある、とおっしゃるんですね。

はっきりとこういうことを学びたい、という人は、「それを学べばこういう利益がある」ことがわかっているから、消費者心理に毒された現代人ならその利益を得るための最少の努力しかしない。そして、できうるかぎりその努力の量をゼロにしようとする、と。

だから、「何だかよくわからないけど…」というのは結構いいんだと。

何だかよくわからないから、それに関係する本をたくさん読まなくちゃいけない。人の話を聞きに行かなくちゃいけない。映画を見なくちゃいけない。時間をかけて考えなくちゃいけない。最終的にそれを学んで得られる利益がわかってないからこそ「そういう無駄な時間」を過ごすことができる。それが「学び」だと。

翻って、20数年前の私は、結局大学には行きませんでしたが、なぜか親が受験することだけは強く勧めるので受けるだけ受けたんですね。行くつもりがないから最初から落ちるつもりで受験するという変な話でしたが、それはさておき、そのとき家の近くの外国語大学を受けたんです。学科はスペイン語学科。

で、主治医にスペイン語学科を受けると言って「なぜスペイン語?」と聞かれ、「何となく」と答えたんです。ほんとにそうだったから。いまみたいにスペインリーグを毎日見てそこから派生してスペイン内戦の勉強をしたり、「バスク祖国と自由」のテロリストに取材した本やジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読むことになるなんて、そのときの私には夢にも思ってないことでした。

それはさておき、「何となく」との答えに対し、主治医は「それが一番ええんや」と言ったんですね。私はそれをただの社交辞令だと思っていました。そう答えておけば目の前の若造も気分を害しないだろうし無難だろう、という。

でも、内田先生の言葉を読んで、あれはそういう卓見からくる人生の師としてのありがたい教えの言葉だったのだとわかりました。

そうではないかもしれません。あのときの私が感じたように、ただの社交辞令だったのかもしれません。でも、わたしはあれは「教え」だったと思います。

内田先生は他の数多くの本で同じことを何度もおっしゃっています。

「学びが発動するのは、『この人は私の師だ』と思ったときだ」

つまり、その人がどういうつもりで発言したかどうかなどどうでもいいことなのです。問題は、聞いた人間が「いまの言葉には『何か』がある」と感じるかどうかなのです。

だから、主治医の腹の中はどうでもいいことです。「実際のところ」などどうでもいい。私が「あの言葉は若造を教え諭そうとしたありがたいお言葉だった」と思っているかぎりは。



「価値」とは何か(フィギュアを箱から出さない人の心性について)

わたしにはフィギュアとかそういうのを集める趣味はありませんが、ああいうのが好きな人の行動でどうしても解せないのが、「箱から出すと価値が下がるから」と、買ったままの状態で飾ってあることなんですね。


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おもちゃなんだから、箱から出して触ったり動かしたり、2つ以上あれば激突させたり…って完全に子どもの遊び方ですが、昔ミニカーで遊ぶのが好きだった私などはそれが普通の楽しみ方だと思うんですが、箱から出さずにただ眺めているだけ。

価値が下がるからというのは最初から売り飛ばすつもりなのかと思ったら、どうもそれも違うようで、いったい何なのかわからなかったんですが、今日仕事中にひらめきました。

あ、なるほど、と。

かつてこんなこと言う奴がいました。

喫茶店でケーキセットを注文しました。
450円のショートケーキ
400円のモンブラン
350円のシフォンケーキ
どれを選んでもコーヒーとセットで700円だと。

すると彼は「そんなもんショートケーキに決まってる」と迷わずショートケーキを注文していました。ショートケーキが好きなのかと問うと「そうでもないが、同じ値段ならショートケーキを頼むのが一番得じゃないか」と。

これは完全な間違いです。
「価値」というものを別の価値と勘違いしてしまっています。

確かにショートケーキが一番価格が高い。でもそれはあくまでも「市場における価値」にすぎません。自分が食べる以上、「自分にとっての価値」を考えなければなりません。

私は上記3つのうちなら断然モンブランです。同じ700円でショートケーキとモンブランなら間違いなくモンブランのほうが私にとっては価値が高いのです。自分にとっての価値の前では市場における価値などゴミ同然です。

極端な例を挙げれば、世界三大珍味のひとつフォアグラを一度だけ食べたことがありますが、少しもうまいと思いませんでした。市場における価値は莫大なものでしょうが、私にとっての価値はゼロに等しい。価値がゼロのものをおごってもらってもうれしくないし、コーヒーとセットで700円なんて高すぎます。

価値が下がるからフィギュアを箱から出さない人にとってのその「価値」というのは「市場における価値」ですよね。相場は知りませんが、例えば1万円で買ったフィギュアが箱から出しただけで2~3000円になったりするのでしょう。

でもそれは「市場における価値」が目減りしただけであって、そのフィギュアがほしくて買ったその人の「自分にとっての価値」は箱から出したって目減りしないはずなのです。むしろ触ったり動かしたりするぶん価値は上がるんじゃないでしょうか。

市場における価値とは、すべての人の自分にとっての価値を平均した「平均値」にすぎません。

そんな「抽象的な数値」に振り回されるなんてまったくあほらしいことです。

自分にとっての価値という具体的なものだけを相手にして生きていきたいものですね。



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