聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

思想

『うしろめたさの人類学』(「うしろめたさ」と「負い目」の狭間で)

うちの両親は、孫(つまり私の甥っ子)たちに誕生日やクリスマスに現金をプレゼントしています。
お年玉ならいいけどプレゼントを現金でなんて絶対ダメだ、現金がほしいと言ったら怒らなきゃ、といくら私が言っても現金をねだる孫かわいさにいつも現金を贈っています。


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松村圭一郎というエチオピアでフィールドワークを重ねた文化人類学者による『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)で説かれるのは、「贈与」こそが貨幣による商品交換に代わってこの世界を変える契機になりうる、ということです。

「うしろめたさ」とは何かというと、エチオピアでは乞食がぜんぜん珍しくなく、乞食に普通にお金を分け与えることが普通であると。
でも日本では物乞いに現金を与えることを良しとしません。昔イタリアに行ったとき物乞いに少額のお金をあげたんですけど、それを帰国してから言ったらいろんな人から「何でそんなことをしたのか」と非難されました。でも国境なき医師団に寄付しているというと異口同音に「偉い」という。おかしいのでは? 困っている人のためにお金を出す、という意味においては同じなんですけどね。間接的ならよくて直接はよくないというのは理解に苦しむ。

という疑問が本書を読んで氷解しました。

つまり、乞食と自分とでは圧倒的に自分のほうが豊かである。豊かな自分が直接現金を与えると、彼我の格差が顕現してそこに「うしろめたさ」を感じてしまうのだ、と。

仮に、その乞食に家まで荷物をもってもらったとして、その対価としてお金をあげるとなると、これはもう労働力として対価を支払っている、つまり貨幣と商品との交換だから少しも「うしろめたさ」を感じることがない。

寄附金には「対価」という性質はないですが、それはいまは措くとして、現代ニッポンはすべてを貨幣と商品との交換として捉える、つまり「市場」の性格が大きい。それゆえに閉塞感を感じる人が多いのではないか。

著者はまたこうも言います。
社会とは動的なもので、二人の人間の間である「行為」がなされるから「関係」が生まれるのではなく、「関係」という現実が互いの行為によって構築されていくのだ、と。

与える。受け止める。そこに「関係」が生まれる。
蓮實重彦も「映画の中である人物が何かを投げ、それが受け止められるとき、二人の間に親愛の情が生まれる」と言ってましたっけ。蓮實はホークスの『脱出』におけるライターを例に出していましたが、私がこの言葉を読んでいつも想起するのはジャッキー・チェンの『龍拳』。恨み骨髄だったはずの男が実はそれほど悪い男ではなく本当に悪い奴が別にいると悟ったジャッキーに、その男から松葉杖が投げられる。それをしかと受け止めたジャッキーが大逆転勝利を収め、二人は抱き合うという胸のすくラスト。

閑話休題。
いまの日本では「市場」ばかりが幅を利かせていて、だから貨幣と商品との交換だけの関係しかない。

それを克服するには「贈与」することが大事だと。与える。受け止める。そうやって人間と人間の関係を構築していくこと。そうすれば国家と市場経済が一体化して動きが鈍った社会に「スキマ」を作ることができる。この「スキマ」という言葉が「贈与」と並んでこの本のキーワードのようです。交換だけでなくそこに贈与をもちこむことでスキマを作る。それは社会を動かすということ。もともと動的な社会の動きを取り戻すということ。

という著者の主張に一も二もなく賛成なのだけれど、はたしてこれがいまの世の中に有効なのかと考えると途方に暮れてしまうのです。

冒頭に記したとおり、プレゼントさえ現金という形で贈られることがあり、それを当然だと思って育った人間が確実にいます。彼らはもしかすると恋人にプレゼントを渡すとき、将来自分の子どもにプレゼントを与えるときに現金を与えてしまうのではないか、という危惧をもっていました。でもいまはその危惧がもっと大きくなり、与えられる側がプレゼントとして渡された現金を喜んで受け取ってしまうのではないか。つまり、それはおかしいと訴える私のような人間が少数派になりつつあるのではないか、という危惧に変わってきつつあります。

そもそも「贈与」がこれからの社会にとって大事になってくるという主張は、内田樹先生や柄谷行人さんなど私の好きな思想家がすでに言っていることです。
それに、出版元のミシマ社を立ち上げた三島邦弘さんって確か内田樹先生の本の編集者だった人ですよね(間違っていたらすみません)。
だから、この本を読む人ってもともと「贈与が大事だ」「市場価値だけがすべてじゃない」とわかっている人たちなんですよね。

ツイッターをやっていていつも思うのは、似た考え方の人ばかりフォローしているから真逆の考え方をしている人たち(例えばネトウヨとか)のツイートを読むことがないのです。裏を返せばネトウヨたちは私や私がフォローしているアンチ安倍のツイートを読むことがない。

本来、このような本は、現金をプレゼントとして贈ってもいいと考えるような人たち、「それって何の役に立つんですか?」とすぐ訊くような人たち、金銭に換えられないものは価値がないと信じ込んでいる人たちにこそ読まれないといけないと思うんですが、それは難しい。

著者は「だから少しでも与える側の『うしろめたさ』を受け止める側の『負い目』に転換しない工夫が必要だ」というのですが、うーん、具体的にどうしたらいいのかよくわかりません。

最近は落とした物を拾って渡すと怒る人がいますよね。あれって「負い目」を感じているからなんですね。なるほど。「うしろめたさ」を感じるから乞食にお金を与えない。逆に他人に何かしてもらうと「負い目」を感じてしまってお礼を言うどころか怒る。

しかし、大事なのは「与え続ける」ことなのでしょう。わからないと思考停止してしまってはいけない。大事なのは「動き続けること」。社会は常に動いているのだから身も心も動き続けねば。与え続けねば。それがもしかすると内田樹先生の言う「おせっかい」なのかもしれませんね。




『人工知能は資本主義を終焉させるか』(齊藤元章の大きな誤り)

人工知能と経済学の関係を研究する経済学者の井上智洋さんと、スパコン・人工知能エンジン開発者の齊藤元章さんの対談本『人工知能は資本主義を終焉させるか 経済的特異点と社会的特異点』(PHP新書)を読みました。


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齊藤さんは何でもつい最近、東京地検特捜部に詐欺容疑で逮捕されたらしく(逮捕されたせいで『プロフェッショナル 仕事の流儀』が放送見送りになったのはこの人だったのかと初めて知りました)これはもしかすると齊藤さんの思想が原因の国策捜査なのかな、という気もします。

ことの真偽はまったくわかりませんが、この本は非常に面白いところとあまりにアホすぎるところの差が激しい珍本でした。

面白いと思ったところは、

・『21世紀の資本』のトマ・ピケティの「R>G」という不等式について
・安土桃山時代の日本の軍事力は世界最強だったこと
・累進課税と言いながら、超高額所得者は逆に税率が低くなる
・ベーシックインカムとヘリコプターマネー
・「人類補完計画」

人類補完計画は齊藤さんの計画ですが(『新世紀エヴァンゲリオン』のラストシーンみたいなのを本当にやろうとしているようです。それも地球規模ではなく宇宙規模で)他はすべて井上さんが喋り手で齊藤さんが聞き手になっているときの話ばかり。

だから、井上さんの話は傾聴に値するのですが、齊藤さんの話には納得できませんでした。

人類補完計画だって、ブレイン・ブレイン・インターフェースといって、人間の脳と脳を直接つなぐことによって、すべての人類、宇宙に棲息するすべての知的生命体をひとつにつなぐことなんですが、そのことで私たちが得られる幸福度がどの程度のものかは知る由もありません。

脳と脳を直接つなぐことによって、うつ病の人がどれだけしんどい思いをしているか、ガンで苦しむ人がどれほどの痛みに耐えているか、歩けない人がどれほどの不自由を強いられているかを直接体感できるため他者への共感度が増す、というのはその通りでしょう。

しかし、脳と脳を直接つなぐのだから自分が考えていることが相手に筒抜けなわけですよね。それは嫌です。ほとんどすべての人が嫌なんじゃないですか。

だから、地球人すべての脳をひとつにつなぐよりも、隣の人の脳と自分の脳をつなぐことがまず難しいですよね。不可能では? 

スパコンと量子ニューラル・ネットワークというものを接続すれば、現在のスパコンが計算終了まで100億年かかる問題も瞬時に解決できてしまうという話があって、それ自体は面白い話ですが、人間は機械じゃないので「脳と脳を接続する」ことを嫌がる人のことを少しも考慮していないのはいかがなものでしょうか。

さらに、齊藤さんの夢は「地産地消・個産個消」らしく、地産地消はわかります。こういうのですよね。↓


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近代以前は自給自足の生活でしたが、それはたとえば100人の村があったらその100人ですべてを賄うやり方です。その100人はおそらく分業制だったはずで、絵のように刈り入れは女性がやって、男たちはその間に狩りに行くとか。

しかし、齊藤さんの提唱する「個産個消」というのは、まさに一個人ですべてを賄うやり方なんです。

「個産個消が可能になれば、誰にも頼る必要がなくなり、金銭も不要になるから犯罪も減るし、何より個性と創造性の爆発が期待できる」

うーん、、、本当に犯罪は減るのでしょうか。誰にも頼らなくて済むのでしょうか。

齊藤さんが忘れているのは、「隣の柿は赤く見える」ということです。

「自分に必要なものは自分ですべて賄えるのだから」と齊藤さんは言いますが、人間は必要じゃないものもほしがる生き物なんですよね。

「有名人のサイン」がいい例です。

あれは単なる「直筆の名前」にすぎません。何でそんなものがほしいの? と訊いてちゃんとした答えが返ってきた試しがありません。みんな「他人がほしがっているから、世間が価値があると言っているから」というただそれだけの理由で「自分もほしがっている」と勘違いしてしまうのです。

このようなことはコンピュータの世界に当てはめれば「バグ」に相当するんでしょうが、齊藤さんは「人間は常にバグを生み出し続ける生き物である」ということをすっかり失念しています。

お金のない世界はユートピアであるという主張には同意します。

しかし、そう主張していた人が詐欺を働いていたとして逮捕されました。

もし本当なら齊藤さん自身がバグだったわけだし、国策捜査としてハメられたのだとしたら、東京地検が、もっといえば日本という国家がバグです。

いずれにしても、「バグ」を生み出し続けるのが人の世であることは間違いなく、だから、やっぱり「人類補完計画」なんてアニメの中の夢物語にすぎないと思います。


江戸しぐさを考える(別に嘘でもいいのでは?)

江戸しぐさというものがあります。
ありますなんて言ってはいけないんですかね? だって巷では「あんなものは嘘だ」「捏造だ」とものすごい批判にさらされていますから。







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江戸しぐさの代表的なものがこの「傘かしげ」で、傘を差した者同士がすれ違うとき、お互いの傘を傾けてぶつからないようにする。

江戸しぐさとは、そういう、世間で生きていくためのマナーなんですね。「江戸時代の人たちはそのようなマナーをもって生活していた」ということで、芝三光、本名・小林和雄という人がちょっと前から広めたもののようです。

他にも、

「こぶし腰浮かせ」
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乗合船などで、後から来る人のために拳ひとつ分だけ腰を浮かせて座っていた、というもの。

「うかつあやまり」

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足を踏まれたほうが、「いや、私のほうがうかつでした」と言って、その場をやんわりとおさめる。

その他、約束の時間に遅れることを「時泥棒」というとか。

私は5年ぐらい前でしょうか、何かの縁で江戸しぐさに関する本を数冊読み、「へぇ、うかつあやまりって面白い」とか「傘かしげは確かにいまはやらない人がいる」とか呑気な感想をもっていました。まぁ、江戸しぐさというものを信じていたわけです。

それが昨今の江戸しぐさバッシングを見ていると、

「時間の概念がほとんどない時代になぜ『時泥棒』などという発想が出てくるのか」
「乗合船にはいまのような座席がなかった。座席がないのになぜ『こぶし腰浮かせ』などできるのか」
「当時、傘は贅沢品で、庶民はみんな雨合羽みたいなのを着て雨中を歩いていた。『傘かしげ』は絶対に嘘である」

という、至極まっとうな批判で、確かにそれも一理あるな、というか、江戸しぐさはやはり嘘であろうと思うわけです。




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ただ、私は「嘘でなぜいけないの?」と思うわけです。

というか、つい先日、雨の中を歩いていたら高校生の一段とすれ違ったんですが、こちらがいくら傘かしげをやっても向こうがしないから傘が衝突してお互い雨粒に濡れることになってしまいました。

おそらく彼らに「すれ違うときは傘を傾けなさい」とまっとうな注意しても聞く耳をもたないでしょう。

そこで考え出されたのが「江戸しぐさ」だと思うんですよね。
国造りの神話のように「マナー作りの神話」として。

「江戸時代の昔からそのようなマナーがある」というファンタジーを捏造することによってマナーの失われた現代にマナーを甦らせる試み。いいじゃないですか。

それを、嘘の歴史を捏造することで教育上問題がある、と批判している人たちって「正しい」ことだけが正義みたいに言っていますが、何が正しいかなんてわからんですよ。

ちょっと前まで「ビタミンCは風邪に効く」と言われていましたが真っ赤な嘘だといまでは言われていますし、歴史に関することだって、例えば聖徳太子は実在の人物として私は教わりましたが、いまは違うんでしょ。「厩戸皇子(聖徳太子)」と記述しないといけないとか。

厩戸皇子はいたのかもしれない。でも、さすがに神武天皇はフィクションでしょう。アマテラスやスサノヲ、イザナギ、イザナミにいたっては誰がどう考えても嘘です。

だから、「正しい歴史」を標榜する人は、『古事記』をも否定せねばならず、それはすなわちこの国の成り立ちを根底から否定することになりますが、そのことにどれだけ自覚的なのでしょうか。

話が大きくなりすぎましたが、つまるところ、根拠は嘘でもそれで「正しいマナー」が広まるなら別にいいんじゃないですか、というのが私の主張です。

「江戸しぐさ」という神話を根拠にしないとマナーを根づかせることが不可能な時代、ということのほうがよっぽど大きな問題だと思いますね。





福田恆在『人間・この劇的なるもの』(劇・死・花)



福田恆在さんの『人間・この劇的なるもの』読了。
いやはやとにかく素晴らしい読書体験でした。


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私ごときが偉大な先人の偉大な思想を論評するなんてもってのほか。

だから、この本のどういうフレーズにグッと来たか、そこだけを書き記したいと思います。(言葉通りではありません。主観的な採録ですのであしからず)


「個性などというものを容易に信用してはならない。そんなものは自分が演じたい『役割』にすぎぬ」

「死によって生は完結する。死によってしか完結しえない」

「古代の人々が祭儀に託したのは、生きながら死を経験することだったのではないか。祭儀は自らの生を燃えあがらせるためにあったのではないか」

「演劇は祭儀でなければならない。劇作家は祭祀であり、主人公もまた祭祀でなければならない」

「劇は究極において宗教的なものであった。その本質は今日もなお失われてはならぬ」

「自由ということ、そのことに間違いがあるのではないか。自由とはしょせん奴隷の思想ではないのか」

「自然は厳しい『形式』をもっている。太陽や月の運行によって私たちは生かされている。だから形式を否定する自由というものはそもそも間違っている。私たちは形式によって初めて人生全体と交合できる。初めて『生きている』と言えるのではないか」


シェイクスピア研究や自ら劇作に励むなかで、人生を演劇として見つめる独特の人生観、人間観が展開されています。

自然という「形式」の枠組みの中で生を謳歌するのが本当の人生だ、と。決して自由になってはならない。自由は個人主義の限界をあらわにするだけだ、形式こそ「全体」へと至る道である、みたいなことも書かれています。

福田恆在さんの言う「全体」とは、宗教や祭儀という言葉から察するに、おそらく「神」ということなんでしょうね。そんなワードはひとつも出てきませんが。

そして、私が一番グッと来たフレーズは、以下のもの。

「我々は博物学でも博物学者でもなく、生きた『花』を求めているはずだ」

本書でもちらっと触れられる世阿弥の『風姿花伝』の一節、

「鬼しか演じられないのはその程度の役者。花を演じられてこそ本当の役者」

を思い出しました。




賽銭箱に万札を入れる人の心性について

前々から初詣のニュースを見るたびにこういう映像を見ますが、


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いつもなんか変だなと思ってたんですよね。やっとその正体がわかりました。

お金をたくさん入れたら御利益があるというのは、結局のところ、

「金さえあればどんな問題でも解決できる」

という誤った思想をその人がもっているから、ということだったんですね。(いまごろ気づいた私)

最初は500円玉ぐらいから始まったはずが、何もうまく行かないからやがて千円札になり、それでもうまく行かないから5千円札になり、そして万札になる。万札も1だったのが2枚になり3枚になり…

その人が「金さえあれば…」という思想をもち続けるかぎりこの悪循環は終わることはないでしょう。(マイケル・コルレオーネもそうでしたね)

断言してもいいです。

賽銭箱に万札を入れる人は不幸から逃れられないと。


 
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