聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

思想

史群アル仙『今日の漫画』(圧倒的なリアリティ)



花田菜々子さんの『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』で小さく紹介されていた史群アル仙(しむれ・あるせん)というマンガ家さん。何でもちょっと前まで引きこもりだったそうで、ツイッターで試しに1ページ読切の漫画を載せたらぐんぐんリツイート数が伸びてフォロワーも一気に1万人を超えたとか。

そのマンガがこちら↓

『狂人になりきれない男』
kyounomanga-kyoujinnni

気が狂って自分を馬鹿にした連中を皆殺しにしてやる! と意気込んだ主人公が妹の「お兄ちゃん、どうしたの?」という無垢な一言に救われる。
まぁよくある話だと言えばよくある話ですが、妙なリアリティがあります。私自身にも似たようなことがありましたが、ここは友人のエピソードを紹介しましょう。
彼は「このままでは誰か人を殺してしまう」と自分で自分が恐ろしくなり、ある日、思いきってお母さんにそのことを告白しました。「俺、誰かを殺してまいそうや」するとお母さんは「はいはい、何でもええからご飯食べ」と少しも取り合わない。でも彼はその一言に救われ、二度と自分が自分でなくなる恐怖を味わうことはなかったそうな。

この作品は妹の純粋な気持ちが兄を救う、となっていて、比べるとすると、友人のエピソードのほうが上かなと思います。なぜ救われたのかよくわからないぶんね。因果関係がはっきりしていないほうが物語の奥行きは深くなりますから。


さて、この『今日の漫画』では、このような1ページだけの読切マンガが73編と、10ページ未満の短編が3編収められています。

他に私の心を撃ちぬいたのを3編だけご紹介すると、

『学校』
kyounomanga-gakkou (1)
クラスで自分だけがネズミで周りはみんなネコ。ネズミの主人公は自分だけ異質でしかも弱く、標的になる毎日にうんざりしている。「死の恐怖に怯えながらじっとしているのだ……毎日」と。
これは作者が実際に学校に行っていたときの心情を素直に表現したものでしょう。私も同じような感じだったからよくわかります。底なしの孤独。。。


『失敗』
kyounomanga-shippai

楽しかった日々が思い出されるけれど、我に返ると首を吊ろうとしたロープが切れて自殺は失敗に終わる。死ぬ直前にそれまでの人生を走馬灯のように思い出すというアレをマンガにしたものです。『ふくろうの河』(アンブローズ・ビアス『アウル・クリーク橋の一事件』の映画化作品)のハッピーエンド版といっていいんじゃないでしょうか。
いずれにしても、私のような過去に自殺を図ったことがある者にとってはやたらリアリティがあります。私は別にその瞬間に走馬灯が見えたなんてことはありませんでしたが、心の中に過去のあれやこれやが浮かんでは消えていきました。
人間の記憶は、その人がどれだけ幸せな人生を送っていようと、どれだけ不幸を味わっていようと、楽しかった記憶、つらかった記憶、そのどちらでもない記憶が「6:3:1」になっているそうです。そういう配分になってないと生きていけないんだとか。


最後はもう少し明るいものを。

『シノブ』
kyounomanga-shinobu

もう死ぬから新聞を取ってこないでもいいと言っているのに、犬は言葉がわからないからしつけられたとおりにもっていき、そしておせっかいにもほっぺたをペロペロなめて主人公の気力を恢復させることを暗示して幕を閉じるのですが、これはいいですね。私も飼い犬にどれだけ救われたかわかりません。内田樹先生が「いまの世の中に求められているのは『おせっかい』だ」と繰り返し言っていますが、このマンガはまさにおせっかいによって救われる様が描かれています。


というように、この史群アル仙という変な名前のマンガ家さんは自分のことを素直に正直に描いている。私が脚本家として成功できなかったのは素直でも正直でもなかったからだ、と痛感させられました。どこかカッコつけていたんですよね。
カッコつけるといえばまだ聞こえがいいですが、もっと正直に白状するなら、「借り物の思想」で書いていました。史群アル仙さんのように自分の生活からくる本当の思想を書こうとしなかった。

でも、いまはそういう脚本の代表格だった作品をリニューアルしようと目論んでいます。はたしてどこまで自分の本心からくる思想で書けるか。覚悟が問われています。



本当の「勉強」とは何か

ちょっと前に、博士号を取得した人の数と論文数において日本は先進国中ダントツの最下位という報告が出た際、

「もう大学は職業訓練校になればいい」

というとんでもない意見をツイッターで見かけました。


study_night_boy

努力は嘘をつく?
よくスポーツ選手が「練習は嘘をつかない」と言います。練習をすれば着実に実力が上がる、と。それは確かに真理でしょう。ただし、自分のどこがよくないかを見極め、そこを矯正しつつ同時に長所を伸ばすにはどうしたらいいかを考えてやれば、という条件付きで。それをせずに闇雲に長く練習しても疲弊するだけでしょうが、ちゃんと考えながらやればまさに「練習は嘘をつかない」。

職業訓練校で勉強するのも同じようなものでしょう。
ワードで文書作成できるようになった、エクセルの関数を憶えた、グラフ作成ができるようになった、フォトショップが使えるようになった、ドリームウィーバーを憶えた、フォークリフトの免状を取った、etc.

自分が何を知らないかを見極め、そこを補強する勉強をしていけば、就職の道は勉強時間に比例して広く開けていくはずです。

しかし、本当の勉強というのは「努力が嘘をつく」ものなんですよね。


勉強すればするほど……
本当の勉強というのは、勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされる営みのことです。1冊の本を読めば知らないことがたくさん出てきて、あれもこれも読まないと……という気持ちになる。そして読めば読むほど知らないことがどんどん無尽蔵に増えていき「自分は何もわかっちゃいない」と途方に暮れる……。

私は高卒なので大学の内情についてはまったく知りませんが、本当の勉強がそういうものだということは身をもって知っています。大学は職業訓練校になればいいと本気で言える人は、本当の意味での勉強をしたことのない人なのでしょう。


谷崎潤一郎『神童』



先日、谷崎潤一郎の傑作中編『神童』を再読しました。
主人公は幼くして古今東西の書物に通暁したまさに「神童」で、とにかく学問にしか興味がない。だから学校の授業がつまらなくて眠ってしまう。

しかし、そこが彼の本質的な欠点なのですね。本当の意味での勉強をしていたら学校の授業がつまらないということはありえません。いくら古今東西の書物に通暁していても、目の前の生身の肉体をもった教師が語る言葉には世界中の書物が束になってかかってもかなわない「力」があります。主人公はそれがわかっていない。自分は神童であり、いろんなことを知っていて教師よりも頭がいいという自惚れがあるから授業中に居眠りをしてしまう。最近、「ネットでいろんな情報を仕入れられるから講義が退屈」という学生が増えているらしいですが、彼らはまさに『神童』です。

本当の勉強をしていれば、自分はまだまだ何も知らない、だから誰でもいいから教えてほしいと教師の講義を集中して聴くでしょう。そこには何かがある。つまらないと断じる前にまずは聴いてみる。主人公が神童で終わってしまうのは「たくさん勉強したから自分は賢い」と、勉強時間や読んだ本の冊数に比例して自分の知識や教養が上がっていると勘違いしているからです。

勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされ、したたかに打ちのめされる。そういう「蟻地獄」に自らはまりこむ自虐的な営為にこそ「勉強」というものの本質があります。

だから、大学を職業訓練校にせよ、なんていうのは、「本当の勉強」を実行したことも、その甘美な味わいも知らない者の戯言にすぎないと思うのです。


「生産性の低さ」にこそ価値がある!(『ローカリズム宣言』より)

最近、話題の「生産性」という言葉(もう下火かな?)。何だかいやな言葉だなぁと思っていたら、「生産性が低いことにこそ価値がある」という人が現れました。

内田樹先生の『ローカリズム宣言 「成長」から「定常」へ』を読んで唸りました。杉田水脈の発言より半年も前に「生産性」への絶妙な批評が出ていたんですね。





内田先生は、すべてを数値で換算し、数値に換算できないことには意味がないとするグローバリズムに嫌気が差してUターン、Jターン、Iターンなどさまざまな形で農村に住みつく若者が増えていると前置きして次のようにその理由を語ります。(以下、若干編集してます)

若い人たちが農業を目指す大きな理由のひとつは、現代において農業が例外的に生産性が低いだということにあると僕は思っています。『生産性が低い』ということはひとつのタスクを達成するために多くの人手が要るということです。逆に言えば『生産性が高い』というのはできるだけ少ない人数で多くの仕事を仕上げることができるということです。つまり雇用が減るということ」

「人間が経済的活動をするのは人間的成熟を果たすためです。そうであるなら、できるだけ多くの人間が経済活動に参加することのほうが生産性や利益率や株価よりもはるかに重要です。僕たちが過去20年間のグローバリズム資本主義の推移を通じて学んだことは、それは雇用機会の拡大にも市民一人一人の市民的成熟にも何の関心もないことでした。ということは、グローバリズム資本主義のルールの下で行われているもろもろの営みは言葉の本当の意味での経済活動ではないということです

「都市での賃労働に見切りをつけた若者たちは、別にそこで合理的な経営をしたり、機械化を進めたり、資本の集中による『強い農業』を立ち上げるつもりなのではありません。彼らが農業を志したのは、それが極めて生産の低い仕事だからです」

「そうである以上、まず信頼できる人間的ネットワークを立ち上げることが必要となります。相互扶助・相互支援的な人間のつながりを作り、歓待信頼約束保障という人間的な概念によって人と人を結びつけることが必要となる」

「農業では、ひとつのタスクを達成するために大人数の手が要ります。その人的リソースは『賃金』で雇い入れることはできません。山林の保護とか、水路の確保とか、道路の整備とか、そういうことは誰も一人の力ではできない。自分たちでやるしかない。そのためにはまず私たちと発語しうるような、一人称複数的な主体をこそ農業の主体として立ち上げるしかない」

「農村では他にも、屋根を葺いたり、祭礼を守ったり、寄合に集まったり……とさまざまな活動への参加を求められる。そういう活動を通じて都会から来た若者は次第に一人前の『百姓』に仕上がっていく。そういう漸進的な成熟プロセスが可能なのも、農業がとにかく『人手が要る』仕事だからです。生産性が低いからです」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うーん、相変わらずの卓見ですね。農業だけでなく、第一次産業と言われる農林水産業はすべて同じでしょう。
私は常々、職業に貴賤なしというけれど貴賤はあると思っています。賤業についてはここでは措くとして、貴業の最たるものは農林水産業だと思っていましたが、それは単に生きるために必要な食べ物を生産するからではなく、その生産を通じて人間的な成熟がはかれるからなのだということがようやくわかりました。

「おまえは生産性が低いからクビにする」
「生産性が低い人間には何の価値もない」
「そんな人間に手厚い保護をする必要などない」

そういうことを言う人間には徹底抗戦しましょうぞ!


tasukeai


こういう風景が復活することを祈って。


最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード