思想

2019年06月05日

NHKスペシャルの『彼女は安楽死を選んだ』。本放送はまったく情報がなく、ツイッターで知り再放送リクエストをしたところ、ものすごく早くやってくれました。かなりのリクエストがあったようですね。

安楽死といえば、というか、自殺といえばいつも思い出すのが、長谷川和彦監督の言葉。

「生まれてくるのは選べないけど、死ぬのはてめえで選べるからな。俺はずっとそう思って生きている」

『太陽を盗んだ男』の主人公は、原爆を作って何がしたいのかわからいまま悶々とするんですが、最後に菅原文太刑事から「おまえが殺したがっているのはおまえ自身だ!」と言い当てられます。

「俺はずっとこいつが何をしたいのかぜんぜんわからなかったんだが、あ、こいつ死にたいんだ、とわかったとき、グッと自分に引き付けられた気がしたよ」

とも言ってましたっけ。


anrakushi

ミナさんという多系統萎縮症という重い病気を患った方は、苦しみ続けるだけの生活に終止符を打つべく、姉二人に同行してもらって安楽死が合法化されているスイスへ死出の旅に出ます。

姉二人は本人の意思を尊重しようと考えています。でもミナさんには妹が一人いて、その妹さんはミナさんの決断を受け容れません。お姉さん二人にしても、連れて帰りたいけど、連れて帰ったところでまた自殺を図るんじゃないか、それならいっそここで死なせてやったほうが……という消極的な賛成でしかない。

そりゃそうですよね。いくら本人が「それでいい」と思っていても周りは簡単には受け容れられない。

私の祖父は19世紀委末から21世紀初頭まで3世紀をまたにかけた長寿をまっとうしましたが、晩年は寝たきりで褥瘡がひどかった。食べるために起きようとすると激痛でうめき、横になるときもうめく。こんなに苦しんだ状態で生きていて何の意味があるのだろう、楽にさせてあげたいと何度も思いました。本人も死にたかったんじゃないか。いや、それは私が一方的に思っていただけなのか。もう答えはわからない。

でも仮に祖父が自分から「安楽死してもらうためにスイスに行く」と言ったらどうだったか。はたして賛成できたか、どうか。

長谷川監督の「てめえの勝手」というのは間違いとは思わないけれど、周りの人のことを考えるとそこまで言えない気がする。

わからない。

はっきりしているのは、死ぬ瞬間のミナさんは、やっと死ねるという安堵の表情にも見えたけれど、なぜこんな末路をという無念の表情にも見えたということ。

安楽死は是か非か。
この番組は1回の再放送で終わらせず、何度も定期的に放送すべきと思います。




  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年05月03日

平成から令和へ移行するとき、いい機会だからと赤坂憲雄さんの『象徴天皇という物語』という本を読んでいました。別に天皇の退位・即位とは関係なく、職場で「あ、これって天皇制だな」と思う出来事があったからです。その日の帰り、本屋に寄るとこの本を見つけたので購入しました。

450136

はっきり言って、この本は私にはあまりに難しくてついていけませんでした。著者自身が「この頃の私が書く本はすべてわかりにくい」とあとがきに書いていますが、それならわかりやすく書き直してから文庫にしてよ! と思うものの、この本がきっかけである文章を読み直せたのだから良しとしましょう。この本で最初に引用される、坂口安吾の『堕落論』です。


天皇を利用する国民
5111B7EP5EL._SX334_BO1,204,203,200_

ずっと前に読んでから一度読み返しただけなので完全に忘れてましたが、安吾は敗戦に際して書いたこの随想の中で、「天皇制」を激しく攻撃しています。

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは、彼らが自ら主権を握るよりも天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた」

「藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から天皇を盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒瀆のかぎりを尽くしていた」

そして安吾の舌鋒はそのまま日本国民に襲い掛かります。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、他ならぬ陛下の命令だから忍びがたいけれど忍んで負けよう、という。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 われら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ち向かい、土人形のごとくバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまた情けない歴史的大欺瞞ではないか」


天皇制という政治形態がどういうものかは日本人なら誰でも知っていましょう。時の権力者はみな天皇を「玉」として担ぎ上げ、自らの権力を正当化してきました。

しかし安吾は、それは権力者だけが天皇を利用してきたのではなく、我々国民もそうだったのだと看破していました。


職場の天皇
いまの職場にも「天皇」がいます。何の力もなく、ただのお飾りにすぎないという意味もあるけれど、「利用される玉」として。

その人物を仮にZ氏としましょう。そしてZ氏が使い物にならないからと会社が新たに雇ったのがY氏。Y氏は立場としては私たちより上だけれど一番の後輩。だからまずみんながやっていることを憶えないといけないのに憶えようとせず、会社から仕事のやり方を変えるよう指示を受けているとかで、ずっと以前からのやり方を変えようとする。実際、先週やり方が変わりました。なぜ入ってきたばかりの輩が、しかも仕事を憶えようともせず、憶えてないのだからこれまでのやり方の良し悪しもわからない輩が出しゃばるのか! と休憩時間は愚痴合戦で、そこにY氏が入ってきてまたもビッグマウスぶりを発揮するので、我慢ならなくなった私は、

「まず仕事を憶えるところから始めたらどうですか。仕事を憶えようともしない人間が変えようとしたって誰もついてきませんよ」と言いました。すると、Y氏は、

「私はZ氏の了解を取ってやり方を変えただけだ」

と言いました。なるほどね、Z氏という後ろ盾を利用して権勢をふるおうというわけか。まさに藤原氏や将軍家と同じですね。

そこからさらに言い合いがあったんですけど、Y氏はZ氏だけでなく「会社」という後ろ盾も利用する。何かほんとに日本の政治家みたい。

だって、

会社-Z氏-Y氏
アメリカ-天皇-政府


この二つは構造的にまったく同じじゃないですか。天皇という隠れ蓑だけでは足りなくなるとアメリカをもちだしてくる。


私の心の中の天皇制
というわけで『象徴天皇という物語』という本を読んでみたんですが、そこから安吾の『堕落論』『続堕落論』を読んでみると、これは厄介な問題だなと思ったんです。

だって、Y氏だって会社では力をもった人ですけど、会社を出たら安吾が攻撃した一般大衆と同じ名もなき人。安吾は、冒瀆しながら同時に崇拝するというアクロバットなやり方をやめて、厭なものは厭といい、好きなものを好きといおう。それは「堕落」には違いないけれど、そういう堕落からしか日本の再生はありえない。天皇制がある以上、日本の再生はありえないと論をまとめるんですが、悲しい哉、安吾の主張もむなしく、天皇制は平成から令和となった現代にも息づいています。

それは当然のことながら、この人たちが存在するという意味ではありません。



img_c164374b0679404de9526d3683b0f9af1015253

日本国憲法に書かれた象徴天皇という意味ではなく、天皇制という思想が深く日本人の心に内面化されているということ。

天皇制とは権力の二重構造を利用した「正当化」「責任逃れ」のカラクリのことです。Y氏を批判する私の心にもおそらくそのような、言葉の真の意味で堕落した心性が巣食っているはずなのです。

まず、そういうところを自覚するところから始めないと、天皇制を存続するにしても廃止するにしてもいずれの議論も無意味に帰す気がします。もし天皇制を廃止したとして、私たち日本人はそのような状態に耐えられるのか。耐えがたきを耐えられたのは天皇の命令があったからなんですがね。

日本国憲法には「天皇は日本国の象徴=シンボル」と書かれています。が、おそらく本当は「天皇が日本国の象徴」なのではなく「天皇制が日本国民の象徴」なのだと思います。

(つづく)


堕落論 (280円文庫)
坂口安吾
角川春樹事務所
2011-04-15





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年04月20日

中島貞夫監督の20年ぶりの新作『多十郎殉愛記』を見てきました。


640

伊藤大輔という名前
まず最初の「伊藤大輔監督の霊に捧ぐ」との言葉にグッときましたね。といっても私は語れるほどには伊藤監督の作品を見ていませんが。(一番好きなのは『下郎の首』かな)

「移動大好き」と名前をもじっていじられていたくらい移動撮影が好きだったというのは知っていますが、この『多十郎殉愛記』でも移動撮影がとても多かった。横移動もありましたが、見ていて一番グッときたのは、人物をフルショットくらいで捉えて、そこからジワリと前進移動で寄っていく画をカットバックした場面ですかね。何回かありました。主に長屋で。


東映京都スタッフの底力
伊藤大輔がどうのこうのよりも、東映京都スタッフの底力に戦慄しました。
長屋の奥まったところに多十郎が帰ってくる場面。明らかに白昼に撮っているのに夕景に見せる撮影・照明スタッフの力!
録音もよかった。私は松竹京都に属していた人間ですが、応援で東映の人が来てくれたりしまして噂は聞いていました。ご一緒したことはありませんが、「松竹の録音部はダメ。東映のほうが段違いにすごい」と先輩が言ってました。映画録音の要諦は「芝居を録ること」に尽きますが、何でもない足音や衣擦れの音にも情感がこもっています。音楽と画のリズムが合いまくりなのは逆に違和感がありましたけど。合わせすぎな感じがちょっと、ね。


中島貞夫の演技指導力
01-123

高良健吾も多部未華子もキャリア最高の芝居を見せてくれます。特に多部未華子の凛とした佇まいと柔らかな物腰が印象的。中島貞夫監督の類まれな演技指導力の賜物でしょう。


肝腎の物語は……
しかしながら、肝腎の物語はどうしたことでしょう。少しも感動させてくれません。

何よりも「主人公・多十郎が何をしたいのか」がまったくわかりません。

tajuroujunaiki_20190321_01_fixw_730_hq

最初はこうやって刀の柄を盾にしてばかりなので、暴力に嫌気が差した設定なのかと思いました。でも非暴力の思想をもった主人公で暴力にまみれた幕末を描くことが可能なのか、いや、でももし描き切ったらすごいことになるのでは!? もしかすると「夏みかん」はその象徴なのか! などと期待したんですが、結局、多十郎はちょうど半ばあたりで刀を抜きます。

その前に、多部未華子が刀を抜いたら竹光で「侍の魂はとっくに売ってしまった」みたいなことを言って多部は号泣してしまうのですが、実は本身を隠し持っていて手入れを欠かさない。で、抜刀隊に周りを囲まれたときに刀を抜くんですが、本身と竹光をすり替えるトリックがいったい何のためなのかさっぱりわかりません。多部未華子を欺くんじゃなくて抜刀隊や新選組を欺かないといけないのでは?

そもそもの問題として、多十郎は長州を脱藩した素浪人で、天下国家を論じるよりも夏みかんの絵を書いているほうがいいという男。そりゃ幕末にだってそういう侍はいたでしょうが、結局彼は何のために戦っているのでしょうか?

最後に駆け込んだボロ屋に僧侶とその女がいて、「天下国家のためか? 金か? 女か?」と訊かれ、すぐに多部未華子を思い浮かべるのですが、別に彼女のために戦っていたわけではないですよね? 結局、寺島進との決闘にも敗れ、自分がお縄になることで多部未華子と目をつぶされた弟は生き延びられるわけですが、別に最初からそういう目的で戦っていたわけではない。長州を脱藩したというだけで付け狙われていただけ。つまり、主人公は常に受け身で、主人公から積極的に起こすアクションがない。

多十郎はすごい剣士なのになぜあんなふうに落ちぶれたのかも結局答えが示されないし、何だかよくわからないままに終わってしまいました。

中島貞夫監督といえば、『沖縄やくざ戦争』という煮えたぎるような思想の詰まった傑作がありますが、この『多十郎殉愛記』には何もなかった。

すべての映画に思想がないといけないとは思いません。中島監督の作品にも『狂った野獣』『脱獄広島殺人囚』という思想とは縁のない傑作がありますし。

しかしながら、幕末というイデオロギーと暴力が結託した時代を扱うにあたって、無思想の人物を主人公に据えるというのはやはり無理があります。


沖縄やくざ戦争 [DVD]
松方弘樹
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2016-03-09




  • このエントリーをはてなブックマークに追加