宗教

2018年10月05日

とんでもない小説を読みました。最新刊『地球星人』が絶賛されている村田沙耶香さんの芥川賞受賞作『コンビニ人間』。
コンビニのマニュアルを「宗教」と捉えるところが斬新。そして、現代社会もまた大昔と同じ「魔女狩り」の舞台なのだ、というテーマに感動しました。


斬新きわまりない人物設定
何よりこの『コンビニ人間』で描かれる主人公・古倉恵子という人物の設定が素晴らしい。
幼少期からちょっと変わっていて、変わっていることを自覚するあまりほとんど口を利かないという戦法に出る。口を利けば誰よりも母親や妹など自分を慈しんでくれる家族が悲しむから。つまり、変人が変人であることを隠そうとしてよけい変人になってしまったんですね。家族はカウンセリングを勧めるもうまく行かず、主人公が大学に進学して独り暮らしを始めたと同時にコンビニでバイトを始めると、その普通さに喜んでくれた。

コンビニの完全マニュアル化された仕事の仕方が主人公には心地いい。だって自分で考えて行動すると変人性が露わになるから。コンビニでマニュアル人間になっておけば誰も悲しまずにすむ。


そうは問屋が卸さない!
とはいえ、18歳の大学生がコンビニでアルバイトなら「普通」だけれど、現在の主人公はアルバイト歴18年の36歳。恋愛経験なし、就職経験なしの「変人」。普通であろうとしたら変人になってしまったという可笑しみが逆に哀しい。

朝礼で店長とともに「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」と唱和するのが「まるで宗教みたいだ」と評されても主人公は「そうですよ」とあっさり認める。主人公にとってコンビニとは「世界」そのものであり、世界を維持するためには「宗教」が必要だ、と言わんばかり。


白羽の主張「現代は縄文時代と同じ」
その「まるで宗教みたいだ」と斜に構える新人店員は白羽(シラハ)という名前の若い男で、この男は何と婚活が目的で入店してきたという。
主人公と同じく30歳で就職経験なし、恋愛経験なし、ということで周りから奇異の目で見られている。しかも女なら就職経験なしでもまだ恰好がつくが、男ではもうどうしようもないと。就職か結婚をしていないと「何で何で」と問い詰められ、「そんなことではダメだ」と裁かれる。いわゆる「普通」の人たちは普通でない人を裁きたくてしょうがないというのが白羽という男の主張。
縄文時代云々というのも「いつからこの世の中はこうなってしまったのか」を研究するため歴史書を読みあさった結果、縄文時代からだという結論に行き着いたと。男は狩りに出て、女は子供を産んで家を守る。そこからはみ出たものは「ムラ」から排除されるのだと。

その主張には一も二もなく大賛成なのだれど、主人公と同じ境涯のくせして「普通」の人と同じ論理で主人公を難詰するというのが面白い。結局、彼もまた「普通」に囚われた人間なのですね。

で、まったく「普通」じゃない我らが主人公は、「じゃあ私と婚姻届を出すというのはどうでしょう」と提案する。何だかんだいっても級友たちは結婚もせず就職もしない主人公を上から目線で憐れんでいるし、よく働いてくれると店長からの評価も上々だけれど「なぜ36歳でコンビニバイト?」という訊かれるのにもうんざりしてきた。白羽と書類上のみ婚姻関係を結んでひとつ屋根の下で暮らすなら、そのような雑音も消えてくれるだろう、と利害が一致。


周囲の激変が笑える
主人公が妹に「男が家にいる」と言っただけで妹は「よかった。本当によかった」と喜び、級友たちもめちゃくちゃ盛り上がって「やっとこの女も普通になった」と盛り上がりすぎるほど盛り上がり、コンビニでも「あの白羽と同棲!?」と店長もバイト仲間もやたら盛り上がる。その様がやたら笑えました。仕事そっちのけでゴシップを伝え合うのに奔走するので、商品の補充もままならず、コンビニという生き物の「声」を聴くことのできる主人公は、自分が同棲しているという嘘によって悲鳴を上げるコンビニが哀れでならない。


コンビニは「神」、主人公は「預言者」
何だかんだでコンビニを辞めて「普通」の会社に就職することになった主人公は面接を受けに行く。早く着きすぎたので近くのコンビニでトイレを拝借しようと入ると、悲鳴が聞こえる。もちろんコンビニの。新商品がちゃんと陳列されてない。清掃ができてない。などの「声」を聴く。主人公はそれを「天啓」と表現する。

コンビニで働くことは「宗教」だというのは嘘じゃなかった。主人公はコンビニという「神」の声を聴いてそれを客のために実行する「預言者」だったのですね。なるほど!


現代はいまだに「魔女狩り」の時代
主人公はコンビニ教の敬虔な信者であり、それはとても奇特なので「普通」のムラから排除される存在。しかし、その「普通」というのもまた宗教なんですよね。男は狩りに出て女は家を守るというのもそう。「ジェンダー」と呼ばれる宗教です。

大学を出たら就職して、30代には結婚もして子どもを産んで……というのもまた「宗教」。コンビニのマニュアルと同じく決まりきったマニュアル通りに生きているだけ。ただ、そのマニュアル=宗教を崇拝しているのが圧倒的多数派だから「正統」であり、主人公は「異端」とされる。それだけの話。

だから、政治の世界でも「宗教戦争」はいまだにあるけれども、そんな大きなことでなくとも、日常の些細なところで「宗教戦争」は起こっているのだ、というのが著者の主張なのでしょう。

いや、「宗教戦争」ならまだいいほうで、実際には「異端審問」が行われている。現代はいまだに「魔女狩り」の時代なのだ。

という、大きくてシリアスなテーマを「喜劇」として提示したこの『コンビニ人間』はとてつもない大傑作だと思います。


関連記事
『地球星人』(一人称の万華鏡)
『となりの脳世界』(いつか、どこかで)

コンビニ人間 (文春文庫)
村田 沙耶香
文藝春秋
2018-09-04




  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年05月12日

日本映画専門チャンネルでやっていた『鬼の棲む館』。これがべらぼうに面白かった。神話と宗教が絡み、男二人の「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」が時代背景とともに見事に描かれています。


20100520095929

1969年大映作品『鬼の棲む館』
原作:谷崎純一郎『無明と愛染』(「あいぞめ」ではなく「あいぜん」)
脚本:新藤兼人
監督:三隅研次
出演:勝新太郎(無明の太郎) 
   高峰秀子(楓)  
   新珠三千代(愛染)  
   佐藤慶(高野の上人)


時代背景
まず、高峰秀子演じる楓が「頼もう」と荒れ果てたお堂を訪ねる場面から始まります。そこに住んでいるのは無明の太郎と言われる盗賊とその愛人の愛染。楓は太郎の妻なんですが、愛染に寝取られたと。それで太郎と奪い返しに来た。

そんな楓の気持ちなどお構いなしに、太郎は京へ金目のものを盗みに行くと言って出かけます(このとき薪代わりに仏像を叩き斬るのが後半に向けての伏線ですね)。京はひどい戦乱にまみれていて、応仁の乱の頃かな、と思いましたが違いました。

太郎がいない間に佐藤慶演じる高野の上人が一夜の宿を求めて訪ねてきます。このとき「京方と吉野方が……」と語っていて、なるほど、南北朝時代かと。

鎌倉末期の直後で南北朝時代が舞台というのがこの映画のミソですね。鎌倉末期から持明院統と大覚寺統の間で「両統迭立」の状態にあり、その末期に後醍醐天皇が現れて南北朝時代に突入。皇統が分裂していた時代でした。

この時代背景は後半の展開にかなり大きな意味をもってきます。


英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー
楓は上人に語ります。
かつて荘園名主だった太郎は戦火で荘園が潰れたために京へ出てきて愛染と出逢い、その愛染によって暗黒面に落とされた。楓はそんな太郎を奪い返しに来たのだと。しかし、実際は愛染に復讐したい気持ちのほうが強いようです。。

そこを上人は鋭く突きます。愛染を「鬼」と罵る楓の心にもまた鬼が棲んでいると。鬼は多かれ少なかれ誰の心にも棲むものだ、というのが真言宗の考え方かどうかは知りませんが、少なくともこの上人の思想ではあるらしい。

では、なぜこの上人はそのような思想をもつに至ったか。やはり上人自身がかつては暗黒面に堕ちたアンチヒーローだったことが大きいのでしょう。
いまは出家して英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーを歩んでいる。かつての自分のような太郎に出会い改心させようとする。が、上人もまた太郎と同じくかつて愛染の誘惑に負けた弱い人間だったことが判明します。上人はかつて貴族で、愛染にそそのかされて人を殺めたことが語られます。太郎と上人は同じ穴のムジナというわけです。そして、再び愛染が色仕掛けで上人に迫る。

で、こんなことになってしまいます。

51iLYiEOd9L


己に負け、仏の道を誤った上人は舌を噛み切って自殺します。英雄の旅を完遂できなかった上人の胸中を察するととても悲しい。


51c533e20947e2499e008bfeea550595

しかし、「仏も私のカラダに負けた!」と高らかに笑う新珠三千代を見た勝新は発作的に彼女をぶった斬ります。そして、上人の遺志を継いで、妻の楓とともに出家をする。

このへんの展開はとってつけたような感じが否めませんが、上人が堕落する直前、太郎が上人の念仏によって黄金色の仏像の強い光に負けたという事実のおかげで、彼の目に「仏性」が見えたのでしょう。鎌倉仏教が花開いた直後でまだ末法思想の名残もあっただろう時代。しかも、いつ終わるかわからない戦乱の世だった、という時代背景も関係しているかもしれません。


南北朝時代の意味
時代背景の意味がこれでもうわかりましたよね。
かつて太郎は楓と幸せな生活を送っていたけれど、愛染と出逢うことで暗黒面に堕ちた。
その愛染によって暗黒面に堕ちていた上人はそれゆえに仏に道に入って暗黒面から脱却した。
その上人が再び愛染によって暗黒面に堕ちたがゆえに、太郎は暗黒面から脱却した。

上人と太郎はどちらもヒーローズ・ジャーニーを歩んでいますが、どちらかがヒーローのとき、もう片方はアンチヒーロー。

両雄、並び立たず。両統迭立から南北朝へと皇統が分裂していた時代というのがうまく活かされています。

京が戦火で焼かれている時代というだけなら応仁の乱でもいいような気がしますが、やはり皇統分裂のこの時代のほうが「二人のヒーローの分裂」というテーマがより明確になるという計算なのでしょう。


クライマックスで大事なこと
fbc519555106f8e7e5513dd94d2621ec

クライマックスで大事なことは、愛染を斬った太郎がその死骸に抱きつき、号泣することでしょう。
ちょっと前まで愛し合っていた仲だから、ということではないと思います。発作的に斬った、ということへの悔いでしょう。

太郎は上人が死んだ時点で仏の心が芽生えていた。ならば、彼が愛染を暗黒面から救い出し、新しい英雄の旅に歩ませなければならなかったはず。それを気持ちはわかるが発作的に斬ってしまった。救い出すことができなかった、ということへの悔恨と謝意の表れと解釈するのが私流の見方。

彼女は最初から最後まで、ヒーローとアンチヒーローを循環的に行き来するキャラクターではなく、ユング心理学でいうところの「身体のアーキタイプ」なのでしょうか。ヒーローを暗黒面へ転落させる役どころ。決して変化しない。

だから「鬼」なのでしょう。しかし「鬼は誰の心にも棲んでいる」のです。上人も己の鬼に負けた。太郎も負けかかっていた。太郎を救いに来たはずの楓も鬼退治という妄執に囚われた鬼に成り下がっていた。

だから、愛染は決して身体のアーキタイプではなく、アンチヒーローだと思います。それはヒーローに変容する可能性を秘めた存在ということです。そう考えないと「誰の心にも鬼が棲んでいる」と言った上人が浮かばれません。魔性にだって仏性はひそんでいるのです。それが釈迦の教えだったはず。

だから、太郎のアンチヒーローからヒーローへの変容は、きっかけは上人の死ですが、それだけではまだ完全ではなく、愛染を斬ってしまったことで完全なる変容となったのだと思います。

仏教、それも大乗仏教の国だからこそこういう映画が作れた。キリスト教などの一神教を信仰する人にこういう物語は作れない。私は日本人としてこの映画を誇りに思います。

ただ、惜しむらくは、高峰秀子の役どころがやや狂言回し的なところで終わってしまったところでしょうか。冒頭など、あの勝新をも圧倒する横綱相撲ぶりに瞠目していたんですが、だんだん影が薄くなってしまって……。
太郎の変容はしっかり描かれますが、楓の心に棲む鬼がどうなったか、その顛末が描かれないのはとても惜しいと思います。


鬼の棲む館 [DVD]
勝新太郎
KADOKAWA / 角川書店
2014-12-19





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年04月17日

結論から先に言いますと、女人禁制の本当のところの理由は「カネ」だと思います。相撲であれ、大峰山などの霊山であれ何であれ。


女性には「価値」がある
maxresdefault

まるで女性を物のように扱うこのような場面に顕著なように、女性には「価値」があります。価値があるから貨幣と同じように交換の対象となるわけで、男には何の価値もないから交換の主体になるしかない。文化人類学ではそういうことになっているらしいです。

今回の大相撲の女人禁制問題は、人が死にかけているのに人工呼吸をしようと土俵に上がった女性に「下りてください」とアナウンスしたことに世間が怒りの鉄槌を降したことに端を発していますが、あれは非難されて当然でしょう。女人禁制が妥当かどうかはこれからみんなが考えていかないといけない問題ですが、多くの識者の言うとおり、人命より優先される伝統やしきたりなどありません。

ただ、そのせいでみんなヒステリックに「女人禁制などナンセンス!」とがなり立てすぎではないでしょうか。もうちょっと冷静に考えてみようというのがこの記事の眼目です。


山の神は「女」
12年前に脚本家の内館牧子さんが『女はなぜ土俵にあがれないのか』という本を出しました。まったく憶えてないので図書館で借りてきました。まだ読んでませんが、気になる関連書も一緒に借りてきました。

その一冊、『女の領域・男の領域』という本では、「女人禁制」について丸々一章が割かれています。

初めて知ったんですけど、トンネル工事も女人禁制なんですってね。霊山が女人禁制なのと理由は一緒で、山の神は女神だから女性が入ると嫉妬して激怒するからなんですって。

これと同じように、狩猟は山で行われるものだから女人禁制。だけど面白いことに、漁業でも同じように女性は船に乗せない場合が多々あるらしいんですが、それはあくまでも日常的な漁の場合であって、新しく造った船の船おろしには女子を化粧させて乗せたり、豊漁祈願の祭りでは妊娠した女性を乗せるとか。
女性には子どもを産む能力があり、そのために月経の血を穢れとして忌む風習もあれば、逆に生殖能力を利用して豊漁を願うこともある。つまり、時と場合によって何とでも言い換えることができるんですね。


「作られた伝統」とは
言いかえることができると言えば、今回の相撲の女人禁制で識者の多くが口にしていた、「江戸時代には女相撲とか普通にあって、女人禁制になったのはたかだか明治以降。作られた伝統なのになぜ守らなきゃいけないの?」という言説には違和感を禁じえませんでした。
だって、それを言ってしまったら逆に「いつ作られたか明確にわからない伝統」においては女人禁制を認めないといけなくなってしまいますよ。

伝統というのはすべて「作られたもの」なんじゃないの? 比較的浅い歴史しかない伝統を「作られた伝統」とよく言いますが、しょせん伝統なんて人間が始めたものなんだから地球や宇宙の歴史からしたら浅すぎるほど浅い。


経済的な理由で変わる伝統
img26ab8f5fzik0zj

大峰山などの霊山で女人禁制なのは「山の神は女で女が入ると嫉妬するから」とされていますが、しかし、神が人を作ったのではなく「人が神を作った」のだから、「女が山に入れない理屈を作るために、男たちが山の神を女にした」のが本当だと思うんですよね。

何のために? 
古来の女人禁制の理由についてはまだわかりません。もっと勉強しないといけない。

ただ、はっきりしているのは、現在の女人禁制の理由は冒頭にも掲げたとおり「カネ」です。

大峰山だって、1970年に女人禁制の結界をだいぶ狭めたそうですが、その理由は「観光による地域振興」とはっきり謳っていたそうですから。それに、若者がみんな都会へ出てしまうから女性も山仕事をしないと追いつかなくなり……ということなんだとか。
しかしそれならすべての結界をなくしてしまえばいいのに、と思いますが、女人禁制をいまに残す最大の理由は「信仰と経済」の問題らしいです。つまり、女人禁制を解けば「一般の山」になる。観光客は増えても信者は来なくなり経済的に疲弊するんだとか。つまりは信者にとって「唯一の山」でありたい、と。

女人禁制を守る理由もカネなら、ゆるめる理由もカネ。

甲子園もそうですよね。おととし、女子マネージャーが甲子園に入ることを許されませんでしたが、同じ甲子園でもプロ野球の始球式を女性タレントがすることがあります。なぜそれは許されるのか。野球ファンは男性が多いから女性タレントを呼んだほうがカネになるからに決まっています。

じゃあ、なぜ高校野球のときはダメなのか。それはたぶん、「唯一性」だと思います。

祇園祭で2001年に山鉾に女性が乗ることが許され、300年ぶりに女人禁制が解かれたということが話題になりましたが、そのときも反対派には「いくら男女平等といってもそういう場がひとつくらいあってもいいと思う」という人が多くいたとか。

今回の「土俵に女は是か非か」の議論でも「そういう場があってもいいのではないか」という人がいる。
そして、「唯一」や「他と違う」というのはそれだけで「価値」つまり「カネ」となります。甲子園もカネを生むし、プロ野球もカネになる。

だから、土俵に女を上げないというのもそういう唯一性、他とは違う場所≒神聖な場所として担保しておきたいということなのでしょう。

ただ、そう結論した途端に疑問が湧きおこります。

なぜ、「唯一性を担保するために“女人禁制”が要請されたのか」です。「老人排除」でも「障碍者排除」でも「子ども排除」でも「ハゲ排除」でもなく、なぜ女性が排除されるのか。

これはまったくの推測ですが、冒頭に書いたとおり、女性そのものに「価値」があるから男性がそれを恐れてこういうことになったんじゃないかなーと。しかしこれは推測の域を出ません。

まだまだ勉強が必要なようです。









  • このエントリーをはてなブックマークに追加