聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

哲学

批判を許容しない社会について

哲学者・中島義道さんの『「思いやり」という暴力』(PHP文庫)を読んで何度も膝を打ちました。



批判のない国ニッポン
この本は旧題が『〈対話〉のない社会』といい、日本人は対話することをできるだけ避ける。そのことにいらだちを募らせる著者が「それでいいのか日本人!」と声高に叫ぶ内容です。

でも、私は「対話」というキーワードよりも「批判」のほうに関心が向きました。とはいえ、この二つの言葉は同じことを表しているのでしょう。対話とは相手を面と向かって批判し、批判された者はその批判を受け容れ、さらに反論して議論を高めていくことだからです。批判のないところに対話はない。

英語教師たちへの感謝を述べる日本人代表の挨拶が紹介されていますが、ただ外国人教師たちへの感謝が述べられるだけなんですね。通り一遍の何の個性もない挨拶に対し、外国人たちは一様に怒ります。

「何の批判もなしにただ感謝だけを述べられても困る」
「建設的な批判がないのはいかがなものか」


というように。


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批判は悪口?
私はよくこのブログで映画の批判をしていますが、それは日本の映画評論家にはまともな批評をする人がいないからです。面白い映画をいかに褒めるかばかりに神経を注いで、つまらない映画には無視を決め込む。これは製作者たちとの対話を拒否しているということだと思います。

一般の映画ファンも同様で、近頃は何でもネガティブなことを言うと「ディスる」といって非難する。ちょっと前にツイッターで「映画の悪口は言うもんじゃない」と言っていた人がいました。目を疑いました。批判は悪口なんですって。そりゃま、誹謗中傷の類はそうでしょうが、その人の論旨では批判することが悪口だという感じでした。

映画製作者たちも同様です。去年の暮れに、ある映画監督と相互フォローの関係になりました。その人の映画がちょうど公開されたので見に行ったら少しも面白くなかったので正直に感想を書きました。もちろん誹謗中傷はしていません。建設的な批判をしたつもり。しかし、その監督さんからは何の反応もない。観客との対話を拒否している。

つまり日本では「批判はしてはならない」し、「批判されても受け容れない」のが普通のようです。

でもそれは中島義道さんが忌み嫌う「対話のない社会」そのものです。

だからこれからも建設的な批判をしていくつもりです。



内田樹がサッカーを論じる!

ギョッとすることが書いてありました。

内田樹先生の編著による『人口減少社会の未来学』の冒頭、内田先生自らによる「序章」があって、まだそこしか読んでないんですけど、「AIの発達によって最初に失職するのは銀行員だろう」と。

え、私はてっきり見たままを入れるだけのデータ入力なんかが真っ先に淘汰されるとばかり思ってましたが、まさか銀行とは・・・

兄二人が銀行マンでして、でももうすぐ定年だからそんなに心配はない。問題は、兄の子で、この4月に入行したばかりなんですがね。大丈夫だろうか。

それはまた別の機会に譲るとして(最近AIに関する本を読んでるので感想がまとまったときにでも)今日のお題はタイトル通り内田先生がサッカーを論じていることなんですね。




もちろんサッカーを直截的に論じているわけではありませんが、序章には次のような意味のことが書いてあります。

「これから世界中で起こるであろう人口減少という人類誕生以来初めての難事が真っ先に日本を襲うのに、当の日本人はまったくこれを喫緊の課題とは考えていない。そういう『最悪の事態』を想定するのは敗北主義だと排斥し、その真逆の根拠のない楽観にすがりついてあれこれと多幸症的な妄想にふけることは積極的に奨励されている」

と、内田先生はいつものように舌好調で語るんですが、これってあれですよね?

そう、こないだのワールドカップ1次リーグ最終節でポーランドと演じた談合試合。

あれにはいろいろと非難があるようです。クライフの言葉「醜く勝つくらいなら、美しく負けろ」を引き合いに出す美学主義者もたくさんいるようですが、私は戦略的にダメだと思う。(私の感想はこちら→西野ジャパン徹底批判!!!!!(なぜ1位通過を目指さなかったのか)

セネガルがコロンビアに追いつくという「最悪の事態」を想定せず、コロンビアが勝ちきるという楽観にすがった。少子化問題とサッカーというまったく土俵の違う案件ですが、日本人の特質が如実に表れています。

先の大戦では、度重なる空襲と原爆2発で壊滅的な敗戦を強いられましたが、あそこまで壊滅的だと逆に責任のある者も言い逃れができる。実際、東京裁判で「私に責任はない」と主張した人は大勢いたそうな。

中でも浅学のため初めて名前を知った小磯國昭という人は、満州事変にも三国同盟にも真珠湾攻撃にもすべて個人的には反対だったと主張したそうです。ではなぜあなたは自分が反対する政策を掲げる政府の中で重職を累進しえたのかと検察官が問い詰めると、次のような答えが返ってきたそうです。

「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、我々はその国策に従って努力するというのが我々に課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる行き方であります」

うーん、なるほど。西野監督から最終ラインでパスを回してセネガルの負けを待て、と指令を受けた選手たちの胸中はこういうものだったのですね。だから最初は「この状況で!?」と意味がわかりかねた長友も「監督の意思だった。すごい選択だと思う」と言っているわけですか。他の選手や元選手たちもこぞってあの判断を英断だとしているわけですね。

そして、もしセネガルが引き分けに終わって敗退に追い込まれていたとしても、「監督の命令だったので」と選手は自分に責任はないと言い、元選手たちは「命令である以上、選手は従わないといけませんから」と選手をかばったのでしょう。

西野監督は男前だから言い訳しないと思うけれど、それが逆に「決勝トーナメントに行くための決断だったのだから」と国中でまたも「感動をありがとう!」という気色悪い歓迎ムードになっていたような気がします。

この国には「批判」というものがないなぁといつも思います。
私はいつも批判的なことばかり書いてますが、「悪口」と思う人もいるようです。悪口って誹謗中傷の類ですよね。でも中傷と批判はぜんぜん違いますよ!(これはまた別の話)


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決勝トーナメント大胆予想!



『中動態の世界』と依存症③断酒会の意味

(承前)①TOKIO山口達也の事件をめぐって
   ②薬を飲むのは自発的な行為か


激情に駆られている人は「強制」の状態にある
山口達也の事件について、多くの人が「酒で傷んだ体を治すために入院していたのに、退院したその日に焼酎一本空けてしまうなんてけしからん」「酔っぱらって前後不覚の状態だったと言ったって、飲んだのは山口自身じゃないか。自業自得だろう」とかいろいろ意見が飛び交っています。

それらはどれも正論なのでしょうが、中動態の観点からすると、山口達也も彼を批判する人たちも同じ「強制」の状態にあるのです。山口は酒という外部の刺激に圧倒されて猥褻行為に及んでしまったし、彼を批判する人たちも、山口達也の愚行という外部の刺激に圧倒され我を失っています。彼らはみな「まったき強制」の状態にあります。


松岡昌宏の会見
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TOKIOの他の4人の会見で、特に松岡昌宏の言葉に感動した、という人が大勢います。私も感じるものが多かったですが、彼の言葉は、はたして「自由」(自分の本質の表現)なのか、それとも「強制」(外部の刺激に圧倒されている状態)なのか、はたしてどちらなのでしょうか?

私はどちらでもある、と思います。

『中動態の世界』の著者、國分功一郎さんは、中動態の世界では、まったき自由もまったき強制もないと言います。山口達也など依存症患者も、彼らを感情的に非難する人たちも、まったき強制の状態にあるわけだから、中動態の世界に生きていないことになります。

でも、松岡昌宏は中動態の世界に生きていると思うのです。それは「完全に自由になってもいないし、完全に強制の状態にも陥っていない」ということ。

松岡以外の3人は、どうもあまり自分の言葉で語っている気がしないんですよね。事務所からこう言えと文字通り強制された部分もあるだろうし、世間受けするためにはどういうふうに言うのが一番いいかという計算が透けて見えます。

松岡だって事務所からの指示はあったでしょうが、他の3人が芝居がかっているのに対し、彼だけは芝居に見えない。自分の本質を表現している。つまり「自由」の状態にある。とはいっても涙を流したり唇を震わせたり、激情に駆られている面も否めないから「強制」の状態でもある。

自由と強制のはざまで揺れ動く。まさに中動態の世界に生きているからこそ多くの人の耳目を集めたのでしょう。


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山口達也はボロボロ泣いているだけで、完全な「強制」の状態ですね。酒に強制され、自分が犯した罪に圧倒されてしまっている。一番ダメな状態です。
彼は、松岡昌宏のように、自分の本質を表現するように語らねばならない。いまは無理でも。


断酒会の意味
今回、断酒会というものの意味が初めてわかった気がします。
映画の中でしか見たことありませんが、同じ依存症患者同士で体験談などを語るのって、いったい何の意味があるのかいままでよくわかりませんでした。同類相憐れんでいるだけじゃないの? と。

でも、違うんですね。断酒会で体験談を語るのは治療にとても有効だそうです。

だから、やっぱり薬を飲むのは自発的行為ではないのです。医師に言われたから飲んでいるだけ。そして薬が効いている状態で酒を飲むと気持ち悪くなるから酒と縁遠くなる。それは外部の刺激に圧倒され「強制」に陥っているだけ。それだけでは酒は断てない。
かといって、強い意志をもつこともダメ。それは外部からの「やめるべき」という刺激に圧倒されているから。
酒を断つためには「自由」の境地が必要。

自由になるためには、強制と自由のはざまで揺れ動くためには、断酒会で体験談を話すのが有効なのですね。それも、心にもないことを言うのではなく、松岡昌宏のように自分の言葉で話す。自分の本質を表現するように話す。それが依存症克服のカギだと。

何だか当たり前の結論になっちゃいましたが、でも、自分の本質を表現するように周りが誘導するのも大事なのでしょう。だから、強い意志で克服しろ、とか、だからおまえはダメなんだ、と叱責するだけでは何の解決にもならない。

山口達也は松岡昌宏の言葉に応えないといけないと思う。せっかく仲間がお手本を示してくれたのだから。


自分自身のことを考える
ならば、私自身はどうでしょうか。

いままで自発的に薬を飲んでいたけれども、本当は非自発的であることがわかりました。ずっと「強制」の状態にあったのですね。

もしかすると、脚本を書いていたのは自己の本質を表現するためだったのかもしれない、と初めて思い当たりました。そして、いまは脚本ではなく小説という形で自分の半生を徹底して批判的に書くということをやっている。それって強制の状態から無意識に自由を志向しているのかもしれない、などと。

いろいろなことを考えさせてくれた『中動態の世界』に感謝します。




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