哲学

2019年03月18日

コカイン使用と所持の疑いで逮捕されたピエール瀧について、昨日の『ワイドナショー』で松本人志が言っていた「ドーピング」について考えてみました。


松本の語る「ドーピング」
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こんなことを言ってましたね。

「作品に罪はないという人が多いけど、僕は罪がある場合もあると思う。もし瀧さんがコカインをやっていたおかげでああいうすごい演技やいい楽曲を作れていたとしたらドーピングじゃないですか」

なるほど、スポーツ選手がいい成績を出すために筋肉増強剤や興奮剤を打つのと同じだと。

私は「ピエール瀧の行為がドーピング」という主張に反対はしません。しかし、その前に「ドーピングとは何か」を考えてみましょう。


ラウール・ゴンサレスの「ドーピング」
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レアル・マドリードの元主将で「スペインの至宝」と謳われたラウール・ゴンサレスは、一時期「低酸素の部屋で寝ている」と話題になりました。

低酸素の部屋で寝ると、少しでも体の隅々まで酸素を行き渡らせるために赤血球の数が増加するそうです。そのおかげでバテにくくなるとか。

「それはドーピングではないか!?」という声も上がったそうですが、結局うやむやに終わり、ラウールがお咎めを受けることはありませんでした。つまりルール違反とは言われなかった。

ルール違反ではなかったけれど、私はラウールの行為は「ドーピング」だと思います。

なぜなら、プレーの質と量を向上させるためという目的を達成するために、自分の体を手段にしているからです。


カントの「定言命法」
カント哲学に定言命法というものがあります。

「汝の人格および他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように注意せよ」

簡略化して「自己と他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と書いてある本もあります。

「ドーピング」というのは、だから、自分の体を手段としてのみ扱う行為だからダメだと思うんです。決して「それがルールだから」ではなく。コカインが合法の国があり、日本でもかつては覚醒剤を合法的に売買していたのだし、時代や国によってルールは変わります。殺人みたいにいつどこの国でも違法なのとはまったく違う。


もうひとつの「ドーピング」
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ピエール瀧の「ストレス解消のため」という理由(目的)のためにコカインを使用した、それが本当であれ嘘であれ(つまり松本の言うように「いい演技をするため」であれ)自分の体をそのための手段として痛めつけているのだから「ドーピング」と言って差し支えないと思います。

ここからが本題ですが、私が言いたいのは、「作品に罪がある場合もある」と、映画の公開自粛やDVDの販売中止もやむなし、ピエール瀧の作品はすべてこの世から駆逐されて当然、みたいな言説も同じように「ドーピング」だということです。

映画やドラマ製作に携わっている人たちは誰も自分たちの作品をお蔵入りになどしたくないでしょう。しかし、いみじくも松本自身が言ってましたよね。

「スポンサーにクレームを言う人がいて、それでスポンサーが逃げるんでしょうね」

スポンサーやその周辺の偉い人たちはピエール瀧を「手段」としてしか扱っていません。自分たちが非難を受けないようにピエール瀧にすべてをなすりつけて葬り去ろうとしている。

職場でこんな言葉を聞きました。

「この人、『陸王』で悪役やってたじゃないですか。ほんとに悪かったんだぁ」

薬物に手を出すのは「悪い」からじゃなくて「弱い」からですよね? 私も弱い人間だけど金がないからコカインなど買えません。でももし金があったらピエール瀧のようになっているかもしれない。その可能性は充分にあります。誰しもそういう可能性はある。

だから、少しは薬物に手を出す人間の弱さを慮ってもいいのではないか。ピエール瀧を「目的」として扱う、というのはそういうことでしょう。

でも、誰も彼もが「ピエール瀧は悪人として処分されるべき」としか言わない。みんな彼を「手段」としてのみ扱っている。そしてあろうことか、映画やドラマ、楽曲などの作品すべてを「手段」としてのみ扱っている。もし「目的」として扱うなら、簡単に葬り去るなどできるはずがありません。作品に対する「愛情」がない。

坂本龍一が言うように「音楽に罪はない」し、映画やテレビドラマにだって罪はない。

ピエール瀧の行為が「ドーピング」なら、彼を糾弾し、彼の作品すべてをこの世から抹殺しようとしている人たちもまた「ドーピング」に手を出していると私は思います。




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2019年02月18日

先日、映画『ファースト・マン』を見に行ったら、思いがけなく私小説作家の車谷長吉さんの言葉を思い出しました。

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「宇宙開発とかそんなことに費やすお金があるなら、なぜ飢えてる子どもたちを救わないのか」

正論ですね。100%正しいから少しも反論できない。

『ゼロ・グラビティ』が公開されたとき、脚本家の荒井晴彦さんも同じようなことを言っていました。

「この人たちは宇宙まで行っていったい何をしてるのか。そんなことより地球上の山積みの問題を何とかしようと思わないのか」

しかし私は両者の言い分に納得できないんです。


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確かにこのような子どもたちを見ると胸が痛むし、車谷さんや荒井さんの言い分は正しいと思う。でもちょっと待ってよ、と。

宇宙開発や物理学や数学よりも飢えてる子どもを救え。それは「政治的に正しい」から誰も反論できないんですが、宇宙開発や物理学の最新理論の研究にはまったく意味がないかというとそうではないでしょう。

スーパーカミオカンデで粒子を超高速で飛ばして素粒子の秘密を解き明かすとか、そういうのって「ロマン」もあるんでしょうけど、何よりも『ブレードランナー』のセリフを借りれば「我々はどこから来てどこへ行くのか」を探究してるわけでしょ? それって政治的には正しくなくても哲学的な営みだと思うんですよ。

米ソの宇宙開発競争は政治的なものでしたが、宇宙の秘密を解き明かしたいという純粋な欲望は人間なら誰しももっているだろうし、もしもっていないなら、あまりに政治に毒されていると思います。

そりゃ私だって飢える子供を少しでも減らしたいから慈善団体に寄付したりしています。政治的に正しい行いをしている。だから車谷さんや荒井さんのような考え方が悪いとは言いません。

でも、衣食住が足りている人間は宇宙の秘密を研究してはいけない、「我々はどこから来てどこへ行くのか」という哲学的な探究をすべきでないという主張には賛同できないし、何か胡散臭いものを感じてしまうのです。

「マタイの福音書」にある「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉は常に忘れたくないと思います。そして、今日食う物さえないない子どもたちのことも忘れずに。

別の記事でも書きましたが、どちらかだけが重要なんてありえない。

両方大事!






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2019年02月12日

クローズアップ現代+「個人情報格付け社会 ~恋も金回りもスコア次第!?~」を見て衝撃を受けました。


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中国のオンライン・マーケット最大手アリババが、学歴、勤務先、年収、預金残高、購入履歴、ローンの返済具合、健康状態などを勘案してAIによって点数を弾き出し、それがその人の信用度スコアとなるそうです。

その点数をもとに結婚相手を探す人もいれば、家賃無料で豪勢な暮らしを享受できる人もいるとか。


直感的にイヤ!
昔、タイトルを忘れてしまいましたが、確か小山ゆうのマンガで、一人一人のIQがその人の額に刻印されてしまい、IQが低い人は殺してもかまわないとかそんな設定の物語がありました。中国ではもはやそれが現実になっているのですね。IQに代わる「信用度」というスコアによって。

企業や大学の格付けだって見るの嫌なのに、人間を格付けするなんてありえない。でも中国人はその点数は客観的なデータに基づくものだから信用しているそうです。笑えない。


長年の友人を切る!?
しかも、借金を返さないなど友人に信用度が低い人がいると自分のスコアも下がってしまうらしく、昔からの友人を切る人も続出しているとか。インタビューアーが「いいんですか?」と訊いても「もちろんです。自分のスコアが下がるほうが嫌ですから」って、え、マジで?

日本でもこの信用格付けという考え方が金融業でも取り入れられているとか。
ある人は、AIから毎日8000歩の散歩をするよう命じられ、それをこなしていくとスコアが上がり、低い金利でお金を借りられるようになる。カードローン地獄にはまっていたその人はそれによって借金完済できたらしく、そういう使い方ならいいかもと思うのですが、いや待てよ、と。みんな何かAIの奴隷になってしまってない?


奴隷の奴隷
ハイデガーだったでしょうか。「奴隷の奴隷」という概念を提示した哲学者がいます。
主人は奴隷をいくらでもこき使える。だから主人は何でも奴隷にやらせる。しかし、そのことによって逆にその主人は奴隷なしには生きられなくなる。主人は「奴隷の奴隷」になり、奴隷は「主人の主人」になる、という面白い考え方です。

中国人も一部の日本人もいまやAIという、本来は人間の道具にすぎない物の奴隷になってしまっているのですね。AIに気に入られるように日々の生活を生きている。


国家に都合のいい人間になりたいですか?
実際、中国では、駐輪禁止区域に駐輪したら監視カメラがすべて見ているのでスコアが下がるとか。環境にやさしい行動を取るとスコアが上がる。

それならいいじゃないという声が聞こえてきそうですが、しかし、何が環境にやさしいかというのは科学の問題というよりはいまや「政治」の問題ですし、すべてAIが見ているから道徳的に悪いことをしたらスコアが下がるのはいいことというのも違う気がします。

AIは人工知能と言いますが、現時点でのAIは自分で考えることができません。開発者が作ったフレームの中でしか考えられない。とすれば、アリババという超巨大企業が何が正しいかを決めているわけです。そしてそのような巨大企業は100%中央政府と結託している。つまり、国家にとって都合のいい人間が生み出されているだけです。なぜそこに気づかないのか。AIの奴隷になることを通して、最終的に国家の奴隷になることを求められているのに。

日本でこの技術がどのように活かされるか、という締めで番組は終わりましたが、道徳を教科とし、点数をつけるようになってしまったこの国でも早晩同じような状況になるような気がしないでもありませんが、日本人だけは違うんじゃないかという淡い希望ももっています。

どうなりますやら。





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