聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

信条

信号なんか守るな

最近、駅までの通勤路の交差点で、小学生相手に「信号を守りましょう」と声掛けをするボランティアの人たちが急に現れまして。新学期だからかな。

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こういう信号のないところでは必要でしょうが、信号のあるところで赤信号では絶対渡るなと言い、渡ろうとした人間に「信号守ってください」とがなり立てるのは、はっきり言って迷惑です。

調べてみると、道路交通法では歩行者も信号無視をすると刑事罰を問われる可能性ありとか。

しかし、実際にそんなケースはないでしょう。私は何度もパトカーや白バイの目の前で信号無視したことがありますが職質を受けたことすらありません。

ニューヨークに行ったとき一番驚いたのは「信号無視」でした。車はもちろん止まりますが、歩行者は青だろうと赤だろうと左右を見て車が来なければ容赦なく渡っていく。外国で赤信号を律儀に守っている東洋人がいたら間違いなくそれは日本人です。

子どもたちに「ルール」を教えることは大切でしょうが、ルールにさえ従えばいいとまで言ってしまっては「思考停止」の人間を産むだけです。

私は左右を見て車が来ていないから渡った。それでも「信号を守れ」というのは「思考停止していなさい」ということです。ボランティアの人たちは違うというかもしれませんが、そうなのです。

大事なのは、そのルールをいまは守るべきなのか、それとも破るべきときなのか、柔軟に考える頭を育てることのはず。

だいぶん前から「考える力」を重視するとか何とか言ってますが、「信号ファシズム」が横行しているようでは日本の未来は暗いですな。


元号不要論に一言

昨日昼前に新元号が「令和」と発表されました。

何でも、新元号関連のツイートが450万もあったらしく、そのせいなのか休憩時間に覗こうとしてもアクセスできませんでした。

さて、今回の改元で、またぞろ「新元号なんか興味ない」などという人をたくさん見かけましたが、私に言わせれば「カッコつけているだけ」。斜に構えている自分に酔っているだけだと思う。普通の日本人なら興味あるでしょう。

というか、「元号不要論」がまた幅を利かせてきました。それも役所である外務省が、これからは元号を使わず西暦で行くとか。まぁ外務省は外国が相手だからそれは致し方ない。しかしながら、外国と一口に言っても西暦を使っているところばかりじゃない。イスラム歴の国と文書を交わすときにはどうするんだろう(これまでどうしてきたんだろう)と素朴な疑問が湧きます。

元号がないほうが計算をしやすいという利点があるのはわかりますし、コンピュータで何でも処理するようになった現在、改元の度にシステムを変えたりするのはいろいろと面倒だし金もかかる。

だから元号不要論があるのは理解できます。理解できますが、私は元号はあったほうがいいと思います。

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(平成の画像を使ったのは、単に菅が嫌いだから)

改元という「フィクション」
西暦にしろ和暦にしろ、時間的な区切りというのは「フィクション」にすぎません。

動物を見ればわかります。彼らは日付とか曜日に関係なく生きています。大晦日から元日になる瞬間に何らかの感慨を抱くなどということがありません。世紀末に不安になったり、新世紀を迎えて祝ったり、そんなことをするのは人間だけです。人間にはフィクションが必要なのです。

古来、元号というフィクションに一番求められたのは、「気分を変える」というものでしょう。飢饉や災害でしょっちゅう改元されていました。暗い時代といまとの間に「結界」を張ったわけですね。

いまは一世一元になりましたが、明治、大正、昭和、平成、ときて、令和。まだ「れいわ」という音の響きと「令和」の字面に馴染めませんが、そのうちに馴れるでしょう。平成だって最初は「ダッセー! 昭和のほうがかっこいい」と思ってましたから。

俗に「景気は気から」と言われますが、改元をきっかけに好景気になるかもしれません。人間は気分で生きているのだから充分ありえることです。


フィクションから意味が生じる
1990年だから平成2年ですか、キネ旬で「80年代ベストテン」という特集がありました。その選者の一人である大久保賢一氏が、日本映画界の80年代に関してこんなコメントを寄せていました。

「1980年から1989年までの10年間という区切りには何の意味もない。あえて意味を見出だすなら、それは『ツィゴイネルワイゼン』から『どついたるねん』に至る荒戸源次郎の10年ということになる」

意味がないと言いながら自分で意味を言っちゃってますね。

そうなんですよ。確かに1980年代という区切りには何の意味もありません。フィクションにすぎないのだから。しかし、いったん区切ってしまえば何らかの意味を読み取ってしまうのが人間という生き物の性です。

意味があるから区切るのではありません。
区切るから意味が生じるのです。

意味が生じるということは、その区切られた時代に思い出が生まれるということ。

「80年代」「90年代」「2000年代」「2010年代」「2020年代」という区切りと、「昭和」「平成」「令和」という区切り。

西暦と和暦の両方使えば、思い出が増えますよ、きっと。

人生そのものは変わらないのだから思い出が増えるはずがない? 

何をバカな。と、私は思います。思い出というのは人間の気分で作られるものなんだから、区切られた時間が多いほど思い出は増えるはずです。

仮に思い出が増えなくとも、少なくとも振り返る機会は増えますよね。それは楽しい時間が増えるということ。

元号が絶対必要だというわけではありません。そのほうが楽しいじゃないかと申し上げている次第。



ピエール瀧の「ドーピング」について

コカイン使用と所持の疑いで逮捕されたピエール瀧について、昨日の『ワイドナショー』で松本人志が言っていた「ドーピング」について考えてみました。


松本の語る「ドーピング」
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こんなことを言ってましたね。

「作品に罪はないという人が多いけど、僕は罪がある場合もあると思う。もし瀧さんがコカインをやっていたおかげでああいうすごい演技やいい楽曲を作れていたとしたらドーピングじゃないですか」

なるほど、スポーツ選手がいい成績を出すために筋肉増強剤や興奮剤を打つのと同じだと。

私は「ピエール瀧の行為がドーピング」という主張に反対はしません。しかし、その前に「ドーピングとは何か」を考えてみましょう。


ラウール・ゴンサレスの「ドーピング」
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レアル・マドリードの元主将で「スペインの至宝」と謳われたラウール・ゴンサレスは、一時期「低酸素の部屋で寝ている」と話題になりました。

低酸素の部屋で寝ると、少しでも体の隅々まで酸素を行き渡らせるために赤血球の数が増加するそうです。そのおかげでバテにくくなるとか。

「それはドーピングではないか!?」という声も上がったそうですが、結局うやむやに終わり、ラウールがお咎めを受けることはありませんでした。つまりルール違反とは言われなかった。

ルール違反ではなかったけれど、私はラウールの行為は「ドーピング」だと思います。

なぜなら、プレーの質と量を向上させるためという目的を達成するために、自分の体を手段にしているからです。


カントの「定言命法」
カント哲学に定言命法というものがあります。

「汝の人格および他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように注意せよ」

簡略化して「自己と他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と書いてある本もあります。

「ドーピング」というのは、だから、自分の体を手段としてのみ扱う行為だからダメだと思うんです。決して「それがルールだから」ではなく。コカインが合法の国があり、日本でもかつては覚醒剤を合法的に売買していたのだし、時代や国によってルールは変わります。殺人みたいにいつどこの国でも違法なのとはまったく違う。


もうひとつの「ドーピング」
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ピエール瀧の「ストレス解消のため」という理由(目的)のためにコカインを使用した、それが本当であれ嘘であれ(つまり松本の言うように「いい演技をするため」であれ)自分の体をそのための手段として痛めつけているのだから「ドーピング」と言って差し支えないと思います。

ここからが本題ですが、私が言いたいのは、「作品に罪がある場合もある」と、映画の公開自粛やDVDの販売中止もやむなし、ピエール瀧の作品はすべてこの世から駆逐されて当然、みたいな言説も同じように「ドーピング」だということです。

映画やドラマ製作に携わっている人たちは誰も自分たちの作品をお蔵入りになどしたくないでしょう。しかし、いみじくも松本自身が言ってましたよね。

「スポンサーにクレームを言う人がいて、それでスポンサーが逃げるんでしょうね」

スポンサーやその周辺の偉い人たちはピエール瀧を「手段」としてしか扱っていません。自分たちが非難を受けないようにピエール瀧にすべてをなすりつけて葬り去ろうとしている。

職場でこんな言葉を聞きました。

「この人、『陸王』で悪役やってたじゃないですか。ほんとに悪かったんだぁ」

薬物に手を出すのは「悪い」からじゃなくて「弱い」からですよね? 私も弱い人間だけど金がないからコカインなど買えません。でももし金があったらピエール瀧のようになっているかもしれない。その可能性は充分にあります。誰しもそういう可能性はある。

だから、少しは薬物に手を出す人間の弱さを慮ってもいいのではないか。ピエール瀧を「目的」として扱う、というのはそういうことでしょう。

でも、誰も彼もが「ピエール瀧は悪人として処分されるべき」としか言わない。みんな彼を「手段」としてのみ扱っている。そしてあろうことか、映画やドラマ、楽曲などの作品すべてを「手段」としてのみ扱っている。もし「目的」として扱うなら、簡単に葬り去るなどできるはずがありません。作品に対する「愛情」がない。

坂本龍一が言うように「音楽に罪はない」し、映画やテレビドラマにだって罪はない。

ピエール瀧の行為が「ドーピング」なら、彼を糾弾し、彼の作品すべてをこの世から抹殺しようとしている人たちもまた「ドーピング」に手を出していると私は思います。


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