信条

2019年11月17日

さっき東京の友人(といってももうすぐ70歳になる人)から電話がかかってきて、挨拶もそこそこに沢尻エリカの話になった。

前々から私が「沢尻エリカが好き」と言っていたから電話してきたらしく、「何で彼女は麻薬なんかやったのかね」と訊いてきた。

「別に麻薬くらいいいんじゃないですか?」と私は答えた。

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だって殺人や強盗はいつの時代、どの国でも重罪だけれど、薬物は時代や国によって違う。戦中の日本では覚醒剤が合法的に作られていた。戦艦や戦闘機を毎日徹夜で作らせるために軍部が覚醒剤を量産して労働者に打ちまくっていた。敗戦して大量の在庫を一掃するために、「この薬物はヤバい」という認識がありながら「ヒロポン」と称して合法的に売り続けた。在庫がなくなると途端に違法化した。

国の都合で変わるようなものは「悪」でも「罪」でもないと思う。そりゃ、ま、大麻やヘロイン、コカインなどの植物由来の薬物と違って覚醒剤は合成薬物なので精神錯乱して誰かを殺す可能性があるからダメだという意見には反対しません。が、別に麻薬くらいいいじゃないか、というのが私のスタンス。

その人も同じ考えをもってるはずだし、そうじゃなかったら友だち付き合いなんかしないのにおかしいなと思ったら、

「いや、そうじゃないんだ。そういう倫理的なことはどうでもいい。いまの時代、麻薬やってるのがばれたら女優業は完全アウトでしょ。それがわかっていながらなぜ渋谷のクラブなんてすぐ目のつくところで買ってたんだろう」

なるほど、そういうことか。それは私も同感。『パッチギ!』の井筒和幸監督も「アホンダラ!」と言ってましたが、あの人も同じでしょう。別に倫理的にダメだと言ってるんじゃなくて、女優としてありあまる才がありながらなぜばれたら即アウトの麻薬に手を染めたのか、と。しかもすぐばれるやり方で。

私も「もう沢尻エリカを映画やテレビで見ることはできないのか」と暗澹たる気持ちになったし。

でも、友人は別にファンではないので残念という気持ちから言っているのではなく、「なぜ女優が続けられなくなるようなことをやっていたのか」という素朴な疑問とのことだった。


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友人は言った。

「沢尻エリカは女優を辞めたかったんじゃないか。そのためのきっかけがほしかったんじゃないか」

「それは違うでしょう。それなら『別に』で何年か干されたときに辞めてるはずだし」
「いや、でもあれは計画的犯行じゃないじゃない。虫の居所が悪くてポロっと言っちゃっただけでしょ。そういうのがきっかけで辞めるっていうのはエリカ様はできなかったんじゃないか。自分の意思でで辞めたかったんじゃないかと」

なるほど。一理ある。一理あると頭ではわかっても体が拒絶していた。腑に落ちないというやつ。


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そういえば、沢尻エリカが好きだというと、決まって「あの『別に』はいいの?」と訊かれる。

そりゃ褒められたことではないし、映画関係者や事務所の社長からこっぴどく叱られてしかるべきでしょう。しかし、日本中が寄ってたかって叩くことではない。

だから別に「別に」はいいではないか、というのが私のこの12年間変わらないスタンスだけど、エリカ様はやはり「別に」程度のことで叩かれまくる日本の芸能界に嫌気が差していたのは事実だと思う。

でも、それって芸能界にかぎらない。いまはどんな業界でも品行方正であることが尊ばれる。昔のようにアウトローが喝采を浴びるなんてことはなくなった。

沢尻エリカはそれに反旗を翻したかったんじゃないか。

「いつか絶対ばれることを承知のうえでやっていたというのには同意します。ただ、理由は女優を辞めるきっかけがほしくて、ではないと思う。やってはいけないこと、イリーガルなことに手を染めていたかったんじゃないですか。それが自分の生き方だという」

今朝読んだ記事で、『ヘルタースケルター』に出演したとき、週刊文春で「大麻疑惑」と書かれたらしく、近しい友人がやめるよういくら説得しても「これが私の生き方だから」と固辞したとか。警察の家宅捜索でも潔く「ここにあります」と自分から教えてたらしいし。悪あがきをしないところはさすが肝が据わっている。

それもあってそう言ったんですが、友人は、

「そうか、君は麻薬を『原因』だと捉えるわけね。俺は『結果』だと思うんだけどな」

うーん、ここはちょいとわからなかった。「男が長話をするのもナンだから」と友人は電話を切ったのでそこで話は終わったけれど、「原因」「結果」という言葉は違うんじゃないか。

「手段」と「目的」でしょう。

友人は、麻薬を手段として女優を辞めるという目的を達成した、と主張。

逆に、麻薬そのものが目的だというのが私の主張。やってはいけないことにいつまで手を染め続けられるか、そのゲームを楽しんでいたような気がする。


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「桜を見る会」の目くらましのための逮捕。それはそうでしょう。他にも逮捕候補者はいるだろうに、嫌われ者の沢尻エリカというとっておきの切り札をもってきたのは、「桜を見る会」が相当ヤバい案件であることの何よりの証左に違いない。でも、そういうことが一切話題に出ない「沢尻エリカはなぜ薬物に手を染めたのか」という会話。とても有意義だった。


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さんま御殿で沢尻エリカの本音がポロリ

erikaー沢尻エリカ写真集
橋本 雅司
学習研究社
2004-04-08





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2019年11月10日

横尾忠則現代美術館で開催中の「自我自損展」に行ってきました。


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作者である横尾忠則さん自身がキュレーター(学芸員)を務めるという珍しい展覧会。

タイトルの「自我自損」とは、エゴに固執すると損をするという意味の造語で、自らの旧作に容赦なく手を加えて新たな作品へと変貌させたり、同一人物による作品とは思えないほど大胆にスタイルを変化させる、横尾さんの絶えざる自己否定と一貫したテーマである「自我からの解放」という意味がこめられているそうです。

「エゴに固執すると損をする」というのはまさしくその通りですね。

以前、映画の専門学校に通っていたときはエゴに固執する人間ばかりでした。「自分はこういう映画を作りたい」「自分はこうしたい」ということに固執するばかりで周りの意見を聞かない。それって「自分は絶対的に正しい」ということが前提にあるのでやめたほうがいい、といくら諭してもダメでした。

つまらなかった映画を二度と見ないと堂々と宣言する人も多かった。それも「この映画はつまらないという自分の判断が正しい」ということを前提にしているのでやめたほうがいい。そのときの体調やものの見方が合わなかっただけかもしれない。もう一度見たらすごく面白いかもしれない。そういう可能性を最初から放棄している。

「君子豹変す」という言葉があるように、周りの意見を聞き入れて自分の意見や考え方を変えることをおそれてはいけない。生きている以上はどんどん変わるのが普通。

その学校に行っていたときは「『タクシードライバー』が一番好きな映画」と言ってたんですが、歳をとるほどにそれほど好きではなくなりました(つい最近『ジョーカー』を見たのをきっかけに再見しましたが、やはりそんなにいい映画とは思えません)。まだSNSなんかなかったころ、ヤフーの掲示板で「あなたのオールタイムベストテンは?」という質問に『タクシードライバー』を入れなかったら「なぜ入ってないのか」と訊かれまして、好みなんか変わっていくのが本当だといってもキョトンとした顔をされました。「一貫した自分」なんて幻想にすぎないのに。


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今回の展示で私が一番心打たれたのはこの『ミケランジェロと北斎の因果関係』というやつなんですが、はっきり申し上げて、美術展なのに絵画よりも横尾さんの言葉のほうがよっぽど印象的でした。

2階から3階へ移ると、入り口に「ゲスト・キュレーター:横尾忠則のQ&A」というのが掲げてありました。

――今回のコンセプトは何ですか?

「コンセプトはない、というのがコンセプトです。作品はすべてその日の気分で選びました。別の日に選んだらまったく別の作品を選んだでしょう。私にとって気分や生理というのはとても重要なものです」

素晴らしい! 気分というのはとても大事。シナリオでも「初稿はハートで書け」って言いますもんね。しっくり来るか来ないか。「しっくり」というのはクローネンバーグふうに言えば「内臓感覚」ですね。

腑に落ちる、っていうじゃないですか。「腑」というのは五臓六腑の腑で内臓のこと。内臓的にしっくり来るかどうかが一番大事。頭で考えてはいけない。「リライトには頭を使え」というように、ハートや内臓でしっくりこなかったものだけを頭を使って補正していく。

「通常の展覧会では、キュレーター選びが私のキュレーションです。そこに学芸員の批評が表れる。私はそういう批評を見たい。要は人のふんどしで相撲を取っているわけですが、相撲の取り方に口出しはしません」

一流の人ならではの言葉ですね。他人がどういう選び方、配置の仕方をするかを大いに楽しむ。批評への批評はしない。

「自分の作品の解説はしたくありません」

そりゃそうでしょう。

幼少の頃に見た、教育テレビでやっていた美術番組を思い出しました。

ダリを中心にいろんな抽象画が紹介されて、ある日本人の抽象画家が「この絵にはこういう意味がこめられているんじゃないか」「この絵のこの部分はこういうことなんじゃないか」と解説していくんですが、最後にその人自身が描いた抽象画を解説する場があって、

「自分の絵を自分で解説するというのは好きではありません。なぜなら、自分で解説してしまったら作品がそこで終わってしまうからです

別に作者の意図通りに見なくちゃいけないなんてルールはないけれど、作者の意図だけが唯一の正解でその通りに見なくちゃいけないと勘違いしてる人はとても多いですからね。

その人は、ある程度までは解説してましたけど、「これ以上は私自身にもわかりません」と言っていたのが印象的でした。一緒に見ていた父は「それがホンマやろうなぁ」と言ってましたが、確かにそうなんでしょう。とても正直。

横尾さんもたぶん、自分の絵を十全には解説できないでしょう。そもそも解説なんていらない。邪魔になるだけ。

「見に来た人には『作品と対話してください』とだけ言いたい」

その通り。今回の展示ではあまりいませんでしたが、もっと大きな「フェルメール展」とか「ゴッホ展」「プラド美術館展」なんかに行くと、作品そのものより解説を読んでばかりの人って多いですよね。いったい何をしに来たんだか。

映画も同じ。見たあとに他人の感想ばかり読んでいる人は「映画との対話」ができていないと思います。

私はそれをバロメーターにしています。見たあとに他人の言葉を読みたくなったら映画との対話ができていなかった、何も読まずに自分の感想をまとめられたら対話ができていた証拠だと、ね。

「横尾さんにとって展覧会とは何ですか?」という質問に対し「僕のパンドラの匣の蓋を開ける行為です」という言葉もよかったなぁ。






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2019年06月21日

もう15年以上前のことですが、『インファナル・アフェア』が公開されたとき、うちの親父がこんなことを言いました。

「素晴らしかった! 香港映画ってジャッキー・チェンしかないのかと思ってたけどこういうのもあるんやね」

いやいや、ジャッキーの前にはブルース・リーがいるし、後にはチョウ・ユンファにチャウ・シンチー、ジョン・ウーにウォン・カーウァイなどいっぱいいるぜよ!

なんてことはもちろん主張していません。仮に香港映画界にジャッキーしかいないとして、その何がいけないのか、と心の中で毒づきました。ジャッキーだけでも充分すごいじゃないかと。

でも親父は映画ファンだから別にいいのです。楽しむためにお金を払っているのだから、ジャッキー・チェンなんかつまらないと断じてもそれはそれで尊重せねばならない。

私はイーストウッド作品やヒッチコックの信奉者だけれど、イーストウッドなんか面白くないという人の意見は尊重せねばならない。いつも気に入らない映画は容赦なく貶している私のような人間は、人一倍反対意見を尊重せねばならない。でないと自分の意見を言えなくなっちゃう。

しかし、映画作りをしている人、これから志そうという人がジャッキーを貶すのは我慢ならないというか、そんな輩に映画を作る資格なんかない! というのがこの記事の主旨です。

これがジャッキーじゃなければいいんですよ。「ヒッチコック好きは無能な映画ファン」と断じるタランティーノの意見はそれはそれで傾聴に値するものでしょう。

しかし、ジャッキーだけは別です。なぜかって? 答えは簡単。


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老齢と言っていい最近の作品はともかく、若い頃は一歩間違えば死ぬシーンをノースタントで演じていました。再起不能かと言われるほどの事故に遭っても、治ったらまた同じことに精を出す。文字通り映画作りに命を懸けていました。

そういう姿を見て素直に「すごい!」と思えないような人に映画を作る資格はありません。こんなことは小学生でもわかる理屈です。

でも、多いんですよね、映画人志望者でジャッキー・チェンを軽侮する人。

私が通っていた映画の専門学校でもそういう人はいました。上記のような話をして、「ジャッキーを軽く見る奴はいますぐやめるべきだ」と言ったら暗い顔でうつむいた人間が何人もいました。

あるレストランでバイトしてたときも映画監督志望者がいましたが、「ジャッキー・チェンなんかダメですよ」と言ったので、上記のようなことを滔々と述べて叱ったら真っ赤な顔をしてうなずいていました。(言いたいことはたくさんあったんでしょうけどね)


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とにかく、ジャッキーに限らず、映画作りに命を懸けている人間を軽く見る者に映画を作る資格はないと断言します。




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