聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

人間ドラマ

『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅はかであったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、マコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通に、マコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して言ってきたことではなかったでしょうか。


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『スリー・ビルボード』(たったひとつの回想シーンが)

私はかつてある高名な脚本家から、

「君の脚本は意外性を求めすぎている。もっとオーソドックスに構えたほうがいい」

と叱られたことがあります。


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アカデミー賞レースを賑わせている『スリー・ビルボード』を見てきました。
何しろ監督賞にノミネートされている『ダンケルク』や『レディ・バード』より受賞の可能性が高いというのですから、そういう意味でも楽しみな映画でした。

しかし・・・

結局、この映画って何が言いたいんだろう? 作者の真意がわからない映画でした。というか、昔の自分の脚本を読んでいるような気恥しさがありました。(以下ネタバレあります)

最初の10分ぐらいはグッと乗ったんですよ。


それぞれの「言い分」
まず最初の、主人公ミルドレットが3枚の看板を見つけるシーンがただならぬ雰囲気を醸し出していて心を鷲づかみにされました。そしてこのシーン。


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ミルドレットは、レイプのうえ殺された娘の事件の捜査がまったく進展しないことに業を煮やし、町の大きな看板3枚に文句を並べたてます。「レイプされ殺された」「逮捕はまだ」「なぜだ、ウィロビー署長」と。

そのウィロビー署長は末期がんに冒されており、ミルドレットもそれは知っています。「知ってて実名を出して広告を出したのか」とウィロビーはじっとミルドレットの横顔を見つめます。ここまでがおよそ10分ぐらいですが、傑作を予感させる出だしだったんですよね。

何がいいと言って、「悪人」が出てこなさそうだったので。ミルドレットにはミルドレットなりの言い分があり、ウィロビーはじめ警察には警察の言い分がある。どちらの気持ちもわかる。ウィロビーを末期がん患者と知っていながら「死んでから広告出しても意味ないでしょ」と少しも悪びれないミルドレットの気持ちもわかるし、「知ってて広告を出したのか」というような表情を見せるウィロビーにも彼なりの言い分があります。

つまり、「善と悪」の対立ではなく、「善と善」の対立になっていると感じたわけです。

それが・・・



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ディクスン登場
ウィロビーの部下にディクスンという差別主義者の警官がいるんですが、彼が出てきてからだんだんおかしくなる一方でした。

彼は別に犯人隠匿しているわけでもないのに警察を非難されたというだけでミルドレットを目の敵にしますが、彼の登場によって「善と善」の対立が「善と悪」の対立に変わってしまいました。

いや、もっといえば、「悪と悪」でしょうか。

ミルドレットは看板に放火されたことを恨んで警察署に放火し返します。が、この行動はあまりに常軌を逸していないでしょうか。あの時点ですでに看板に広告を出した効果は充分あるんだから、あそこまで激怒する理由がわからない。

それに何より、ミルドレットが犯人や警察にだけ憎しみを燃やしているのが少しも理解できません。


一度だけの回想シーン
おそらく娘が殺される日の朝なのでしょうが、ミルドレットと娘は喧嘩して、「レイプされたって知らないから」と怒って出ていく娘に対しミルドレットは「レイプされたらいいわ」と吐き捨てます。それが最期の別れとなってしまった。ミルドレットには自責の念もあるはずなのに、少しも自分を責めません。あの回想シーンを挿入するからには、一番責められるべきは自分自身じゃないのかという葛藤を描かないといけなかったはず。なのに警察ばかりを攻撃するモンスターになってしまっています。

ウィロビー署長も、突然自殺する展開には驚愕しましたが、いくら末期がんといっても、町を守る警察官としてちょっと無責任すぎませんかね。遺書に書かれていた妻子への想いは理解できます。しかし、彼には父や夫としてだけでなく、警察署長という大切な務めもあるのだから、ちゃんと仕事を引き継いでから死ねばよかったんじゃないですか? 性急にすぎるし、ウィロビーもミルドレットもいったいどういう行動原理で動いているの少しもわからない。意外性を求める作者たちの顔がちらつきました。

そして極めつけは先述のディクスンです。
彼は、ウィロビーが自殺したことを恨んで広告屋を屋根から突き落とします。その気持ちはわかります。が、新署長にクビと言われて潔く引き下がるのは少しも彼らしくありません。しかも彼はミルドレットの放火によって大やけどを負ったのに、心を入れ替えて真犯人究明に乗り出します。

え、何で???

ミルドレットのせいで死にかけたのだから、いくら「こいつらが犯人では?」と思える会話が聞こえてきたって、前半の彼の行動原理からしたら「奴らが犯人だな。あの女には教えないでおこう」とほくそ笑むんじゃないんでしょうか?

さらには、彼らは犯人ではなく、戦地でいろいろあったものの軍人のため守られていることがわかります。おそらく中東でレイプなど悪行の限りを尽くしてきたのでしょう。ディクスンはミルドレットに電話を掛けて、一緒にアイダホまで彼らを殺しに行くところで終わります。

「ほんとに殺すのか」「道々考えましょ」というセリフからはどこまで本気か推し量りかねますが、アイダホまで実際に行こうとするのがまったくわからない。

ミルドレットはいったい何がしたいんでしょう? 罪悪感を感じながらも警察への敵意しか見せず、最後は犯人じゃない男たちを殺しに行く。いくらレイプ魔には違いないといっても、それは「理屈」じゃないですか?

この監督はやはり「意外性」に取りつかれすぎだと思います。意外性を優先させるから人物の行動原理が歪んでしまっているのです。


『T2 トレインスポッティング』(悔恨と希望と)

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もともと1作目がそれほど好きではないということもあり、劇場に見に行かなかった『T2 トレインスポッティング』。あまりに評判がいいみたいなので21年前の前作を再見したうえで鑑賞しました。

もう滂沱の涙! 涙で画面がかすんでしまうとは思ってもみませんでした。

まだ若かった彼らはただの愚か者であり、愚か者なりに自分の人生を歩んでいましたが、21年たってもやっぱり愚か者でしかないという厳しい現実が身につまされます。恋仲だった女は立派な弁護士になっているというのに。

我が身を振り返ってみると、1作目を見たのはまだ20代前半のときでした。そして21年たって40代半ばになってわかったことは、「自分はいつまでたっても子どもで愚か者でどうしようもないバカである」という悲しい現実だけです。悔恨と自己嫌悪。

21年前と確実に賢くなったこともあります。それは、

「歳をとらないとわからないことがある」

ということです。

でも、その「歳をとらないとわからないこと」とは何だろう? と考えると途端にわからなくなる。わからないからいまだに愚か者のままなのでしょう。

昔は、40代の人間ってもっと大人だと思っていました。いろんなことを学び、いろんなことを悟り、若造にはわからないことがわかるようになるんだと漠然と思っていました。でも、実際にこの歳になってわかったことは、「人間はいつまでたっても子どもだ」ということです。

おそらく、20代の私がこの映画を見ても少しもよさがわからないでしょう。後悔するという経験をある程度積まないと理解できない『レイジング・ブル』のような映画ですね。

もしかすると、この映画の良さがわかるということは、少しは1作目を見たときより大人になったということかもしれない。うまく言葉にはできないけれど、それが「歳をとらないとわからないことがわかった」ということの正体なのかもしれない。

というわけでユアン・マクレガーと一緒に、21年前の自分の残像とともに踊るのです。

ユアン・マクレガーのように踊れるかどうか。そこにこれからの人生を生き抜いていく鍵がある気がします。そこに「希望」があるのだと。



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一期は夢よ、ただ狂え! 


『フレンチ・コネクション』(スマートな自己言及映画)

泣く子も黙る名作中の名作『フレンチ・コネクション』。

私はユング心理学を援用した比較神話学で脚本の書き方を学んだ人間なので、映画を見るときもそういう観点から見ることがあるのですが、この『フレンチ・コネクション』はその意味でも類まれな面白さをもった映画といえると思います。

ユング心理学そのものを学んだわけじゃないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんけど、平たく言うと、「身体」「心理」「感情」、そしてもうひとつ「霊」というところから人間を考えるそうですが、私は「霊」に関してはそういう映画じゃないかぎりは無視しています。

「身体の物語」
「心理の物語」
「感情の物語」

この3つの側面からこの映画を眺めてみると・・・

①身体の物語
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何といってもこの映画はこのカーチェイスのシーンが有名です。麻薬密輸グループを逮捕しようと躍起になる主人公ジーン・ハックマンが相棒のロイ・シャイダーと協力して組織の頭目フェルナンド・レイを逮捕しようと奮闘するのが物語のあらましです。

カーチェイス以外にも、中盤に素晴らしい尾行のシーンがあったり、この映画は身体の物語、つまり「アクション映画」として出色の出来栄えです。



②心理の物語
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問題解決のための謎を解くのが「心理の物語」だそうで、俗っぽい言葉で言うと「サスペンス」とか「ミステリ」ということになります。
この映画では、密輸グループが車をやり取りしていることを突き止めたジーン・ハックマンがいったい車のどこに麻薬を隠しているのか、それを突き止めるのが「心理の物語」です。



③感情の物語
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だいたい映画における感情はほとんどが恋愛として描かれますが、同性同士の友情物語の場合もあります。
この映画における「感情の物語」はちょっと特殊で、ソニー・グロッソという役者が演じる財務省の役人とジーン・ハックマンとの確執がそれに当たります。ソニー・グロッソはかつて懇意だった刑事がジーン・ハックマンのせいで死に追いやられたと恨んでおり、二人は何かにつけて諍いを起こします。


④逆転!
この映画は、ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが自分たちで見つけたヤマを解決できるか否か、つまりフェルナンド・レイを逮捕できるかどうかの物語であり、そのために尾行やカーチェイスを経てラストの銃撃戦に至ります。

「心理の物語」はすでに解決されています。「感情の物語」は最初からほとんど味付け程度の意味しかもっていません。だから「身体の物語」にさえケリをつけてしまえばいい。

が、ここで驚くべきことが起こります。

ジーン・ハックマンが「フェルナンド・レイがいた!」とばかりに発砲したら、命中はしたもののその男は何とソニー・グロッソであり、即死していました。それに気づいたロイ・シャイダーは意気消沈してしまいます。でもジーン・ハックマンは少しも驚くことも慌てることもなくフェルナンド・レイを追い求めるところで物語は幕を閉じます。

フェルナンド・レイを射殺していれば「身体の物語」に首尾よく終止符を打てました。それがこの映画の眼目だったはずです。なのに、フェルナンド・レイは逃げ延びてしまうため「身体の物語」は終わりません。(だから「身体の物語」に終止符を打つべく続編が作られます)

しかし、なぜでしょうか?



⑤自己言及
フェルナンド・レイを射殺してしまえばすべて丸く収まったはずですが、しかしそれだと「目的のためには手段を選ばない刑事」に対する批判的な目がなくなってしまいます。

同年に作られた『ダーティハリー』も目的のためには手段を選ばない刑事を描いていましたが、『フレンチ・コネクション』の作者たちは、当時流行り出したそういう刑事ものへのアンチテーゼを打ち出した、というのが私の見立てです。おそらく無意識に。

「身体の物語」に終止符が打たれるはずが、アッと驚く逆転によって、味付け程度だったはずの「感情の物語」が一気に前面に出てきます。
はたして、ジーン・ハックマンは本当にソニー・グロッソとフェルナンド・レイを間違えたのか、それともソニー・グロッソだと確信してどさくさまぎれにわざと撃ち殺したのか。

真相は誰にもわかりません。しかし、それまでのジーン・ハックマンの言動から察するに「わざと」の可能性は大いにあります。ロイ・シャイダーの疑惑の目にも注目したい。(この疑惑の目も「感情の物語」ですね。一枚岩だった二人に初めて感情的な亀裂が入る)

この逆転は、「身体の物語=アクション映画」を楽しみに来た観客に対してほとんど喧嘩を売っているとさえ思えます。最後の最後で「この映画はアクション映画ではなかったんですよ~」と言っているんですから。

凶悪犯が急増した70年代初頭、「はたして目的のためには手段を選ばない刑事」は許される存在なのか、とこの映画は観客に問うてきます。おそらく、ソニー・グロッソが懇意だった刑事はジーン・ハックマンの「俺は法の執行者なのだ」という傲慢で身勝手な性格のせいで死んだのでしょう。

そして、ラストシーンに至って、ジーン・ハックマンはそれを責めたてるソニー・グロッソをももしかしたらわざと殺したかもしれない。いったい何が正義なのか。正義を標榜しすぎるから悪がより凶悪になるんじゃないのかというメッセージも読み取れます。

だから、この『フレンチ・コネクション』は「刑事映画を批評する刑事映画」なのです。ヌーヴェルヴァーグのように直截的なやり方ではなく、もっとスマートなやり方で作られた「自己言及映画」と言えるでしょう。


⑥伏線
最後に、ラストの疑惑の一発の銃弾には伏線がありますよね?


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フェルナンド・レイの手下に狙撃されそうになったジーン・ハックマンが彼を執念深く追いつめて射殺するシーン。あの有名なカーチェイスの直後です。

このエピソードは、ジーン・ハックマンと狙撃犯との「身体の物語」です。撃たれそうになった者が、逆に撃ち殺してこのエピソードは終わります。

が、このエピソードには「心理の物語」もあります。それは、列車に乗った狙撃犯をどうやって追うか、というサスペンスです。ジーン・ハックマンは迷うことなく一般市民の車を強奪して狙撃犯を追います。

「心理の物語」としての解決にはなっていますが、この「一般市民から車を強奪する」という主人公の行動=キャラクターが、映画全体の「感情の物語」を読み解くカギになっているところも素晴らしい。


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アーネスト・タイディマンの脚本、しびれます。

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シンクロ率ゼロ! 『シンクロナイズド・モンスター』

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この映画には「逆境」がありませんよね。
宣伝惹句には「職なし、家なし、彼氏なし」とあって、確かにそういうダメダメな設定で始まりますが、すぐに解決していまいますから。

偶然にも旧友の男と出会って、彼の酒場で働くことになり、住む家もある。テレビは男が運び込んでくれるし、着の身着のままのはずなのにパソコンはもっていて無料Wi-Fiもある。(どこまで都合ええねん)

彼氏は最後までできないものの、出会ってすぐにチューしかけてくる男と中盤に一夜を共にしますから、その方面でも不満はなさそう。

つまり、惹句にある逆境はすぐに順境になってしまうんですね。で、次なる逆境がこちら。


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ソウルに突如出現した怪獣が何と主人公とシンクロしていることが判明。なぜか彼女が動いたとおりに怪獣も動き、怪獣が攻撃されると彼女の同部位が痛む、と。これが第2の逆境。

多数の人を殺していると罪の意識にさいなまれる主人公。この逆境をどのように順境にするのかと思ったら・・・

何と、何も解決しないんですね。

なぜ彼女が怪獣とシンクロしているのか何の説明もありません。映画なんだから大ボラでいいから何らかの説明をしないと見てるこちらは納得できません。しかも、彼女と怪獣のシンクロ率100%も最後までそのまんま。


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実は、「第3の逆境」がありました。

彼氏に捨てられた直後に拾ってくれた旧友の男は、こちらは同じソウルに出現したロボットとシンクロしていて、「やっと主役の座が回ってきた」とやりたい放題する始末。なかなかのナイスガイかと思っていたら、とんでもないバッドガイだったという展開自体は悪くないものの、物語全体からすると、この「第3の逆境を解決するために第2に逆境が利用されている」だけなのです。

しかも、彼女を捨てたはずの彼氏が連れ戻しに来たりとか、いったいこの映画は何をやりたいのか少しも見えてきません。


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そういえば、冒頭にも肩すかしがありました。

主人公がパソコンをもっているということ自体がよくないと思うのですが(パソコンは彼氏のもので、まとめられた荷物の中にネットに接続できるものが何もないほうがよかったと思います)それはともかく、ネット動画でソウルに怪獣出現を知った彼女がのちのバッドガイに電話をすると、「それって9時間前の話だろ」と言われますよね。

あそこまで主人公に感情移入して見ていたこちらとしては冷や水を浴びせられたように興ざめしました。

やはり、男が拾ってくれたとき、車のラジオで「ソウルで怪獣出現!」のニュースを聞くべきだと思うんです。オーソン・ウェルズの「火星人襲来」を引き合いに出して「これはラジオドラマよ」と笑っていたら、酒場に到着してテレビを見るとほんとに出現していた! えええーーーーーーーーっ!!

というように、主人公や作中人物みんなと一緒に驚きたかったんですがね。主人公とバッドガイと観客、この三者の情報量を同じにしておくことがこの映画の場合は必要だったかと。

だから、私が言う「シンクロ率ゼロ」というのは、決して彼女と怪獣のシンクロ率のことではなく、私とこの映画とのシンクロ率のことです。

少しも乗れなかった。期待していたのにとても残念です。

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