聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

人間ドラマ

『アイ、トーニャ』(暴力の面から考察してはいけない)

トーニャ・ハーディングがナンシー・ケリガンを暴行させた(と言われる)スキャンダルを描いた話題作『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』。

この映画は、トーニャ・ハーディングを徹底して「かわいそうな人」として描くことが主眼のようですが、私はまったく納得がいきません。

いや、別にハーディングが嫌いとか、元夫とそのお友達のケリガン襲撃をまったく知らなかったなんて嘘だろう! なんてことも思いません。

事件のことはリアルタイムで知っていますし、私は判官贔屓の強い人間なのでどちらかといえばハーディングに同情的だったような気がします。(うろ憶えですが)

ケリガン襲撃事件は、いろいろ話がこじれた結果だったと。そういう立場を取るならそれでいいですが、それでは本当に「トーニャ・ハーディングはかわいそうな人でした」ってだけの話じゃないですか。

母親から暴力を振るわれていたことも、とんでもないDV男と結婚してしまうことも、彼の友達に頭のおかしな人たちがいたということも、どれもこれも「彼女はかわいそうな人」と言うための道具ですよね。

貧しい家庭に生まれ、金がないから衣装にもお金がかけられない。審査員に「衣装代に5000ドルくれたら自分で作らなくていいのに」と文句をつけていましたが、あそこをもっと掘り下げるべきでは?



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私はかねてから「フィギュアスケートはスポーツじゃない」と思っています。なぜなら、人間の主観で点数が決まるから。「芸術点」という言葉がすでにスポーツではないことを暗示してるじゃないですか。そして、この映画を見てその感を強くしました。

だって、きれいな衣装を着ていたらそれだけで得点が高くなるんでしょう? そんなのスポーツじゃない。音楽によっても変わってくるし、やはりあれは「芸術」でしょう。そりゃ「スポーツ」の側面もあることは否定しませんが。

トーニャ・ハーディングの悲劇は「フィギュアスケートを純粋なスポーツと捉えていた」ことにあると思います。母親も、夫も、周囲の人みんな含めて。

貧しくて幼い頃からクラシックを聴いたり、オペラを見たり、美術展を見に行ったり、そういう体験がまったくなかったわけでしょう? でもスケーティング技術は抜群。それならなぜフィギュアスケートだったんでしょうか? スピードスケートにすればよかったのに。

ハーディングはアメリカ人で初めてトリプルアクセルを成功させることに執着して見事に成功させます。運動神経やスケーティング技術、精神力は申し分ない。でも、どうしてもそれだけでは高い得点が得られないのがフィギュアスケートという競技。


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だから、この人がなぜ娘にフィギュアスケートをやらせようとしたのかがわからない。上流階級の連中を驚かせたかったのか、何なのか。

スピードスケートをやらせていたらあんな事件は起こらなかっただろうし、栄光の金メダリストになれていたかもしれない。衣装に金をかけなければ優勝できないと知っても、貧しいこととろくな芸術に触れたことがない育ちの悪さが影響してトリプルアクセルを飛ぶことしか頭にない。

これらも「彼女はかわいそうな人」という主張の一助にはなっていますが、私は作者が主人公に同情しているだけの映画を面白いとは思えません。

フィギュアスケートを完全なスポーツと捉える主人公と、芸術的側面を重視するお偉方の葛藤劇をもっと掘り下げてほしかった。まだ関係者はみんな存命みたいだから、もっと突っ込んだ取材をして作ってほしかったと思います。

特に母親は主人公に最も影響を与えた人物だし、フィギュアスケートをはじめさせたのも彼女。

どうしても暴行事件が目玉だからか、母親も夫も「暴力」ばかりが前景化するよう描かれてますが、それは違うんじゃないの、と。暴力が原因で主人公が悲劇に遭遇した。それじゃやっぱり「同情」ですよね。

彼女がケリガン暴行事件のことを知らなかったという立場を取るなら、暴力の面から考察してはいけないと思いました。


『ワンダーストラック』(おそらく人生初の映画)

トッド・ヘインズ監督の新作『ワンダーストラック』を見てきました。

これがどうも「人生で初めての映画」となったようです。そんなたいそうな話ではありません。以下は感想でも批評でもなくただの日記と思って読んでください。


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監督がトッド・ヘインズというだけで見に行ったので、どういう内容かはまったく知りませんでした。
すると、いきなりデビッド・ボウイの『スペース・オデッセイ』がかかったりするので、やはりこの監督のセンスの良さを感じずにはいられませんでした。が、肝心の内容が……

二つの時代を行ったり来たりするんですね。それがわかった時点で急激に熱が冷めました。私は時間軸をいじくる映画が好きじゃないんですよ。橋本忍脚本の名作の誉れ高い『切腹』も好きじゃないし。クリストファー・ノーランの『メメント』なんて言語道断だと思ってるし。そういえば『ダンケルク』も時間軸をいじってたっけ。

ああいう映画ってこちらの「頭脳」しか刺激してこないでしょ。たとえば『ゴッドファーザー』とか『仁義なき戦い』を見て頭脳が刺激されますか? ああいう真の名作は観客の「腹」を撃ちぬいてくるんですよ。それが最近は頭脳に来る映画が氾濫している。

監督とは旧知の仲のエド・ラックマンが撮っているとは思えない雑な映像にも興味がもてないというか、ああいう70年代B級映画風の画がほしいなら別のカメラマンと組めばいいのに。とか、ぜんぜん気持ちが映画に入っていかない。

時計を見るとまだ30分ちょっとしかたっていない。ここで決意しました。「出よう」と。

私は「もうこの映画から得るものは何もない」と確信できたら躊躇なく途中退出する人間です。「もったいない」とよく言われますが、私に言わせれば時間のほうがもったいない。料金は前金で払っていていつ出ようが変わらないんだし。

というわけで、ペットボトルを鞄に入れて出ようとしたんですが、そのとき、主役の少年が財布を盗まれたんですよね。

お、これはちょっとどうなるの? と、あとほんの少しだけ見てみようと思って座り直したのでした。

直後のシーンで探していた書店が見つかるも移転していて、移転先を黒人少年が教えてくれる。主人公は耳が聞こえないから黒人少年が何と言ったかわからず彼の後をつける。

この二人の出逢い方がよかったというか、ごく平凡な出逢い方なのに、なぜか死ぬまでこの二人は親友同士でいるんじゃないだろうかと思わせる出逢いに惚れ惚れとしてしまったのでした。

「映画とはつまるところ、人と人が出逢うことだ」

とは蓮實重彦の至言ですが、いっぺんにこの映画が好きになってしまいました。

というわけで、結局最後まで見てしまい、「もう出る」と決意したにもかかわらず最後まで見た初めての映画となった、というわけです。

しかしながら、少年と少女の関係とか何の変哲もないものだったし、最後まで見た甲斐は少なかったのであのときの直感は正しかったのかも。

でも、少年の母親がすでに死んでいると知った黒人少年の戸惑いを捉えたショット。あの画のアングル、サイズ、影の落とし方はさすがエド・ラックマンと思いましたぞ。


『正義のセ』①第2話で見えた作者たちの狙い

吉高由里子が新米検事を演じる『正義のセ』。

先週の第1話は、あまりに青臭さが前面に出すぎてて、「青臭さを失ったら人間おしまい」と思っている当方としてはうれしい反面、ちょっと戸惑いもありました。

だって、、、


危惧
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この人、検事に見えないでしょ? 窮地で抜群の頭の良さを発揮したりしますが、本当に司法試験に合格した人間なんだろうか、と。

でも、そこは吉高由里子。持ち前の天然キャラを最大限に活かして、そのような不自然さをギリギリで回避しています。これからのお約束になりそうな「トイレでの頭がんがん絶叫」もこの人らしくて面白い。

ただ、第1話を見たかぎりでは、このまま「新米検事のお仕事ウロウロ奮闘記」でずっと行くとしたらきついな、見るのやめてしまうんじゃなかろうか、と危惧していました。

しかしそれは昨日の第2話で雲散霧消しましたね。

第1話ではパワハラ上司の傷害事件という比較的軽い事件でしたが、第2話は「もう?」と思いたくなる殺人事件。ここで殺人事件をもってきたということで凡百のお仕事ドラマにはしないぞ、という作者たちの意気込みが見えた気がします。


絶妙なプロットポイントⅠ
全10話と仮定した場合、もし最後まで純粋なお仕事ドラマで行くなら、第2話はもうちょっと重めの事件にして、第3話でいよいよ殺人事件ということになるのが普通でしょう。三幕構成で言うところのプロットポイントⅠで大きな事件を扱う、つまり、新米検事が飛躍するきっかけとして殺人事件が扱われることになったであろうと思われます。

しかし、第2話で主人公に突きつけられた殺人事件が「家族」に関するものだったことでこのシリーズ全体の行方ががらりと変わったように思います。彼氏との遠距離恋愛に悩み、未婚であることを気に病んでいるアラサー女性である主人公が、事件を解明していく過程で「家族とは」「夫婦とは」ということを考えざるをえなくなる。そのための殺人事件。検事として飛躍するためのエピソードではなく、一人の独身アラサー女性にとって考えさせられる事件となっていました。

寄生している実家の豆腐屋を妹の広瀬アリスが継ぐと言い出して親子喧嘩になったり、そしてこの人も家族のことで悩んでいる。


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安田顕があまりにいい味出しすぎで、いっそこの人を主役にしたスピンオフドラマを見たいとすら思わせる名演ですが、この小姑みたいな事務官も家族のことで悩んでいる。

つまり、『正義のセ』と謳っている以上、あくまでも表面上は「新米検事のお仕事ウロウロ奮闘記」で行くんでしょうけど、それと同じ比率で家族や結婚といったテレビドラマらしい身の回りの小さなお話が描かれるんじゃないか。もしかしたらそっちのほうがメインプロットかも、と。

映画でそういうせせこましい話は好きじゃないですが、テレビドラマではそういう「小さいけど大事なこと」を語ってほしいと常々思っている私としては、第2話を見てものすごくうれしくなり、これは最後まで見られそうだと安堵した次第です。わざわざ広瀬アリスを配しているんだから、あの妹の話もまだまだ絡んできそうだし。(ただそれが見えてしまうキャスティングはいかがなものか、とは思うものの)

来週は結婚詐欺師の話らしいから、「主人公の結婚」が全体のプロットポイントⅠになるようです。

そうこなくっちゃ!

『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅はかであったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、映画がマコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通に、マコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して言ってきたことではなかったでしょうか。


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『スリー・ビルボード』(たったひとつの回想シーンが)

私はかつてある高名な脚本家から、

「君の脚本は意外性を求めすぎている。もっとオーソドックスに構えたほうがいい」

と叱られたことがあります。


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アカデミー賞レースを賑わせている『スリー・ビルボード』を見てきました。
何しろ監督賞にノミネートされている『ダンケルク』や『レディ・バード』より受賞の可能性が高いというのですから、そういう意味でも楽しみな映画でした。

しかし・・・

結局、この映画って何が言いたいんだろう? 作者の真意がわからない映画でした。というか、昔の自分の脚本を読んでいるような気恥しさがありました。(以下ネタバレあります)

最初の10分ぐらいはグッと乗ったんですよ。


それぞれの「言い分」
まず最初の、主人公ミルドレットが3枚の看板を見つけるシーンがただならぬ雰囲気を醸し出していて心を鷲づかみにされました。そしてこのシーン。


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ミルドレットは、レイプのうえ殺された娘の事件の捜査がまったく進展しないことに業を煮やし、町の大きな看板3枚に文句を並べたてます。「レイプされ殺された」「逮捕はまだ」「なぜだ、ウィロビー署長」と。

そのウィロビー署長は末期がんに冒されており、ミルドレットもそれは知っています。「知ってて実名を出して広告を出したのか」とウィロビーはじっとミルドレットの横顔を見つめます。ここまでがおよそ10分ぐらいですが、傑作を予感させる出だしだったんですよね。

何がいいと言って、「悪人」が出てこなさそうだったので。ミルドレットにはミルドレットなりの言い分があり、ウィロビーはじめ警察には警察の言い分がある。どちらの気持ちもわかる。ウィロビーを末期がん患者と知っていながら「死んでから広告出しても意味ないでしょ」と少しも悪びれないミルドレットの気持ちもわかるし、「知ってて広告を出したのか」というような表情を見せるウィロビーにも彼なりの言い分があります。

つまり、「善と悪」の対立ではなく、「善と善」の対立になっていると感じたわけです。

それが・・・


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ディクスン登場
ウィロビーの部下にディクスンという差別主義者の警官がいるんですが、彼が出てきてからだんだんおかしくなる一方でした。

彼は別に犯人隠匿しているわけでもないのに警察を非難されたというだけでミルドレットを目の敵にしますが、彼の登場によって「善と善」の対立が「善と悪」の対立に変わってしまいました。

いや、もっと正確にいえば、「悪と悪」でしょうか。

ミルドレットは看板に放火されたことを恨んで警察署に放火し返します。が、この行動はあまりに常軌を逸していないでしょうか。あの時点ですでに看板に広告を出した効果は充分あるんだから、あそこまで激怒する理由がわからない。

それに何より、ミルドレットが犯人や警察にだけ憎しみを燃やしているのが少しも理解できません。


一度だけの回想シーン
おそらく娘が殺される日の朝なのでしょうが、ミルドレットと娘は喧嘩して「レイプされたって知らないから」と怒って出ていく娘に対しミルドレットは「レイプされたらいいわ」と吐き捨てます。それが最期の別れとなってしまった。ミルドレットには自責の念もあるはずなのに、少しも自分を責めません。あの回想シーンを挿入するからには、一番責められるべきは自分自身じゃないのかという葛藤を描かないといけなかったはず。なのに警察ばかりを攻撃するモンスターになってしまっています。

ウィロビー署長も、突然自殺する展開には驚愕しましたが、いくら末期がんといっても、町を守る警察官としてちょっと無責任すぎませんかね。遺書に書かれていた妻子への想いは理解できます。しかし、彼には父や夫としてだけでなく、警察署長という大切な務めもあるのだから、ちゃんと仕事を引き継いでから死ねばよかったんじゃないですか? 性急にすぎるし、ウィロビーもミルドレットもいったいどういう行動原理で動いているの少しもわからない。意外性を求める作者たちの顔がちらつきました。

そして極めつけは先述のディクスンです。
彼は、ウィロビーが自殺したことを恨んで広告屋を屋根から突き落とします。その気持ちはわかります。が、新署長にクビと言われて潔く引き下がるのは少しも彼らしくありません。しかも彼はミルドレットの放火によって大やけどを負ったのに、心を入れ替えて真犯人究明に乗り出します。

え、何で???

ミルドレットのせいで死にかけたのだから、いくら「こいつらが犯人では?」と思える会話が聞こえてきたって、前半の彼の行動原理からしたら「奴らが犯人だな。あの女には教えないでおこう」とほくそ笑むんじゃないんでしょうか?

さらには、彼らは犯人ではなく、戦地でいろいろあったものの軍人のため守られていることがわかります。おそらく中東でレイプなど悪行の限りを尽くしてきたのでしょう。ディクスンはミルドレットに電話を掛けて、一緒にアイダホまで彼らを殺しに行くところで終わります。

「ほんとに殺すのか」「道々考えましょ」というセリフからはどこまで本気か推し量りかねますが、アイダホまで実際に行こうとするのがまったくわからない。

ミルドレットはいったい何がしたいんでしょう? 罪悪感を感じながらも警察への敵意しか見せず、最後は犯人じゃない男たちを殺しに行く。いくらレイプ魔には違いないといっても、それは「理屈」じゃないですか?

この監督はやはり「意外性」に取りつかれすぎだと思います。意外性を優先させるから人物の行動原理が歪んでしまっているのです。





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