人間ドラマ

2020年05月06日

ツイッターのフォロワーさんが、あの水野晴郎氏の『シベリア超特急』なみにすごい、と言っていたので非常なる興味をもって『M 愛すべき人がいて』1話から3話までを見てみました。


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いやいや、これは『シベ超』なんかと比べるのは失礼ですよ。同じく珍作ではありますが、まったく作法を知らずに作られた『シベ超』よりこの『M』のほうが断然面白い。私の大好きな金子修介監督のこれまた珍作『プライド』(満島ひかり主演)に通じるものを感じました。


しっかりした結構
鈴木おさむ氏による脚本はとても結構がしっかりしていると思います。

上京して女優を目指す女の子アユが、マサというプロデューサーとの出逢いで運命が変わっていく。

その直線上に、ライバルの女の子たちや、会社の社長(高嶋政伸怪演)、得体のしれない秘書(田中みな実)が立ちはだかる。周りの環境が彼女を締めつける。ときにはマサもアユをいじめぬく。アユはそれらに打ち勝ち、頂点へまっしぐら。でもまた困難が立ちふさがり……

というメロドラマの構成がとてもしっかりしていると思いました。しっかりしているから臭いセリフも聞いていられるのでしょう。


臭いセリフ・いいセリフ
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「俺の作った虹を渡れ!」
「あいつを選んだのは俺じゃない。俺を選んだのも俺じゃない。あいつを選んだのは、神様だ」

とかの臭すぎるほど臭いセリフのオンパレードですが、一方で、

「誰かを育てるときに大事なのは、自分も育とうとすることだ」
「未来は見えません。でも未来は作れます」

といった普通にいいセリフもありました。

いずれにしても、このドラマは「セリフを聞かせる」ことに注力しています。映画じゃなくてテレビドラマだからそれでいい。(『プライド』は映画でしたけど、あの映画の満島ひかりはヤバいほどにすごかった)

セリフを聞かせることにおいて、意識的かどうかは定かではありませんが、監督さんの編集コンセプトがかなり関わってきているように感じました。


常に喋っている人物を見せる
普通の映像作品なら、セリフのずり上げやずり下げということが行われます。

この『M』でもずり上げはあります。前のシーンの映像に次のシーンのセリフを乗せるとか。

でも、ずり下げはない。普通のずり下げは、喋っている人物のカットを割って、対面してそのセリフを聴いている人物のアップに切り替える手法ですが、この『M』ではそれがほぼありません。

常に喋っている人物が画面に映っています。そして喋り終わった途端、カットを割って聞いていた人物の無言のリアクションをしばらく見せてからその人のセリフを言わせる。ほとんどのシーンでこういう編集がなされているので意識的なのでしょう。(癖なのかもしれませんが)

編集をやっていた経験から言うと、常に喋っている人物を映すのってダサい感じがするんですよね。たまには聞いている人物にセリフを乗せたくなる。

この『M』も最初はダサさを感じました。でもここまで徹底していると、逆に、臭いセリフや大仰なセリフ回し、それらをすべてその人物の顔とともに見聞きするので、より大仰な感じがしていい意味でのケレン味が出ていると感じました。

第3話では普通にずり下げしている場面が数か所あるんですよ。監督が変わったからでしょう。でも1話と2話の木下高男監督は徹底してずり下げを行わない。

いや、1話と2話でそれぞれ一か所だけずり下げが行われたシーンがありました。

1話の、マサがアユに「女優をやめて歌手を目指せ。目の前の人間に伝わるように歌え」という場面。
2話の、天馬がアユに「目の前の人間に伝わるように歌いなさい」という場面。

あそこは聞いているアユの表情こそ大事ですからね。どちらも序盤の核心的なセリフですし。

特に1話では、田中みな実の奸計によってストーカーとして追い出されそうになったアユが、マサに伝わるように歌うことで窮地を脱しますし、2話では、伝わるように歌うことを習得したアユの成長が描かれますから。

ここぞというときだけずり下げを行った編集の勝利ではないかと。

以下は蛇足です。


田中みな実が笑える
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誰もが言うことでしょうが、マサの秘書を演じる田中みな実がすごい。臭すぎるほど臭い芝居ですが、あの役はあれぐらい臭くて大仰じゃないと成り立たないでしょう。

片目を失った背景を早く知りたい。あの眼帯の奥がどうなってるのか見たくてしょうがない。

というか、これってあの大映ドラマの名作『スチュワーデス物語』のパクリですよね。


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義手をはめた片平なぎさが風間杜夫に迫るシーンが毎回ありました。『M』でももっと田中みな実をフィーチャーすべきじゃないかなぁ。せっかく出てくるだけで笑えるおいしい役なのに。


清水美紀はもっと笑える
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アユに歌唱法を教え、根性を叩きこむ天馬先生を演じる水野美紀はもっと笑えました。

田中みな実は本業が女優じゃないからあそこまであざとい芝居をするのにも躊躇はないんでしょうが、清水美紀は曲がりなりにも女優なので、だいぶ照れがあったんじゃないですかね。でもその照れがいい。

アユを演じる安斉かれんも水野美紀の芝居に笑みをこぼしてましたよね。あれをNGにせずそのままオンエアにすることに決めたのは素晴らしい。ここまで臭くて大仰なんだからああいうのもOKにしましょうということですね。単にスケジュールの問題だけかもしれませんが。


というわけで、コロナのせいで撮影中断し、次の第4話をいつ見れるかわからないのが残念でしょうがない。

でも、『半沢直樹』や他の作品のように、最初からすべて延期にしなかったのは、途中まででもあまりに笑えて話題になるから、という計算なのでしょうね。放送再開されたら視聴率トップに躍り出たりして。





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2020年05月02日

久しぶりに再見しました。泣く子も黙る名作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。今回は最後のほうで『ラストエンペラー』を想起するなど、ちょいと新しい発見がありました。

『PARTⅠ』の感想はこちら⇒『ゴッドファーザー』(父親を乗り越えられなかった息子の悲劇)


続編ではない続編?
世に続編映画は数あれど、ここまで完璧な続編はありません。というか、これは正確には続編ではないんですよね。マイケルのその後、マイアミのドン、ハイマン・ロスとの闘いなどより、それと対比された若き日のヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)を描くことが主眼ですから。だから今風に言えば、『エピソード0』ですかね。『PARTⅠ』の前日譚をやるのはこの『PARTⅡ』が嚆矢でしょう。すぐれた発明です。

と思っていたのは昨日まで。やはりこれは「続編」だと今回は思いました。若き日のヴィトーが主眼ではなく、現在のマイケルが主眼だと。

とはいえ、誰もが言うように、この『PARTⅡ』ではデ・ニーロの芝居が何といっても素晴らしい。


街のガン ファヌッチ
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ヴィトーはパン屋でまじめに働く好青年でしたが、ある日、街を牛耳るファヌッチというドンが甥っ子をこの店で雇ってくれとやってくる。店主はファヌッチにだけは逆らえない、逆らったら恐ろしい目に遭うということで、しょうがなくデ・ニーロをクビにします。

ファヌッチは街のガンでした。誰も彼もがファヌッチのために苦しんでいる。ひょんなことからすでに闇の稼業に手を染めていた、後年彼の右腕になるクレメンザと知り合ったヴィトーは、同じく将来の右腕テシオと3人で裏の商売を始めます。が、ファヌッチから法外な金を要求される。ヴィトーは誠心誠意をこめてもう少し負けてはくれまいかと頭を下げますが、金の亡者ファヌッチはビタ一文負けるわけにはいかないと去る。

そこでヴィトーは決心します。ファヌッチを殺そうと。あいつを殺さなければ街のみんなは誰も幸せになれない。


マイケルのために初めて人を殺す
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そして、あの名場面です。祭りで賑わう街をよそにヴィトーはファヌッチを見事に殺します。ヴィトーにとって初めての殺人です。そして、拳銃をバラバラにして始末したあと自分の家に帰ります。家の前の階段に座っていたのは他でもない、幼少時のマイケルでした。ヴィトーは「マイケル、マイケル」と声をかけ、おまえのために俺はやってきたぞ、という感じで抱き上げます。

ヴィトーは金の亡者であるファヌッチを殺して新たなドンとして街を支配しますが、決してファヌッチのように法外な金を要求したりしません。払えない人の願いでもちゃんと聞いてあげる。PARTⅠで金のことばかり言う葬儀屋を叱責するのは、俺はファヌッチのようにはならないと誓ったからでしょう。

でもヴィトーは悪人です。暴力で問題を解決する以上しょせん薄汚れた悪人にすぎない。ヴィトーはそれをよくわかっています。だから『PARTⅠ』で「マイケル、おまえにだけはこんな仕事はさせたくなかった」と言うのです。

俺は薄汚れた悪人だ、でも俺のような悪人がいなければ苦しまねばならない人がいる。とヴィトーは汚れ役を買って出る。

街のみんなのために、家族のために、かわいい三男坊マイケルのために初めてヴィトーは人を殺します。

『PARTⅠ』でマイケルも中盤で初めて人を殺します。マイケルは戦争の英雄ですから、すでにたくさんの人を殺してるはずです。だから初めての人殺しではないものの、非合法の人殺しはあの場面が初めてです。

ヴィトーはマイケルのために、マイケルはヴィトーのために初めて人を殺すのですが、それを契機にヴィトーとマイケルの運命は真逆の方向へ変わっていきます。ヴィトーが誰からも敬愛されるドンになっていくのに対し、マイケルは誰からも愛されない、金しか信用できない孤独なドンに成り下がっていきます。

マイケルのために金の亡者ファヌッチを殺したのに、そのマイケルがファヌッチと同じ金の亡者になってしまった。

壮大にして完璧な悲劇です。ここまで完璧な悲劇は映画では他にないんじゃないでしょうか。

『PARTⅠ』で描いた「父親を乗り越えられなかった息子」の物語を、父親の若き日を描くことでその悲劇性をさらに高める。『PARTⅠ』と『PARTⅡ』ではほとんど同じことを語っているんですが、『PARTⅡ』でより深化してるんですね。Ⅱのほうが好きという人が多いのもうなずける出来栄えです。


兄をめぐって
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『PARTⅡ』はまた「兄」をめぐる物語でもあります。

マイケルの最大の罪、兄のフレドー殺しが描かれるだけでなく、それとカットバックして描かれるのが、フランク(マイケル・V・ガッツォ)というヴィトーの右腕だった男の自殺です。

フランクはマイケル襲撃の陰謀を企てたと殺されかかりますが偶然通りかかった警察官のおかげで一命を取り留め、FBIに保護されます。そして公聴会の重要証人として召喚されます。

が、このとき、マイケルが一人の男を連れてきます。フランクのお兄さん。ずっと本国イタリアで暮らしていて英語がわからない。でもフランクはそのせいで証言を拒否する。

FBIの証人保護施設か何かにトム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)が訪ねてきて言います。

「君は歴史が好きだったな。ヒトラーのこともいろいろ教えてもらった。……昔のマフィアはファミリーを組織化しようとした。ローマ皇帝とその兵隊のように。皇帝に謀反を起こした者でも処刑されるまでは猶予を与えられた。家族を守る猶予を」

兄貴を殺されたくなかったら自決しろという、ものすごく遠回しな脅迫ですが、フランクは唯々諾々と従って兄を守るために自殺します。それと並行して描かれるマイケルのフレドー殺し。

自分の兄は裏切り者だからと殺し(それも母親が死ぬのを待ってからという巧妙というか卑劣というか)別の裏切り者には兄を守るために死ねという。

皇帝マイケルは兵隊たちにどこまでも横暴です。


「皇帝」と「兵隊」
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『PARTⅡ』の最後には、まだ大学生だったマイケルが海軍に入隊したと言ってソニーから殴られそうになる回想シーンがあります。

もともとの台本にはないシーンであとから付け足したらしいですが、いままでずっとこのシーンがなぜ必要なのかわからなかったんです。

今回初めてわかりました。

マイケルは国のために戦う「兵隊」になります。ソニーは「何が国のためだ」と言いますが、本心は「おまえが仕えるべき相手はアメリカの大統領ではなく、ファミリーの皇帝たる親父ではないのか」ということだったはずです。そして「おまえだって皇帝の血を引いた男じゃないか。それがなぜ兵隊なんかに」とも。

マイケルは英雄として帰ってきますが、なぜか「兵隊」として働くのはいやになったと考えられます。皇帝に仕える兵隊ではなく、兵隊を顎で使う皇帝になりたい。

だから『PARTⅠ』でヴィトーが撃たれたとき、血相を変えて帰省し、家族のために力になりたいと殺人まで犯したんだと思います。でなければずっと堅気だった男があそこまでしないはず。

でも、それがそもそもの間違いだったのでしょう。

ヴィトーは「おまえにだけはこんな仕事をさせたくなかった」と言っていました。最初から堅気の人間として育てたはずですが、それはマイケル自身の望みでもあったはずです。

周りがやくざな連中ばかりなのに自分一人だけなぜ、とは思わず、おとなしく大学に入ってひとかどの人物になろうとしていたわけですから、堅気の人間のほうがいいと思っていたのでしょう。だから国のために軍隊にも入った。一兵卒として働いて生きていくというごく普通の将来像があった。

しかし戦場で何を見たのかはわかりませんが、「兵隊」に嫌気が差し「皇帝」になろうとした。そんな器じゃないのに。

『ラストエンペラー』のジョン・ローンに似たものを感じます。

皇帝として生まれながら、辛亥革命によって皇帝の座から引きずり降ろされ紫禁城に軟禁される。そして日本が満州国を建国するとき、皇帝になってほしいという依頼に胸を躍らせます。ただの操り人形だと妻は諭しますが彼の耳には少しも聞こえていない。

「もう一度皇帝になれる!」

その喜びが勝ってしまい、もう何も見えない聞こえない。

マイケルもソニーが殺されたとき、同じような思いをもったのかもしれません。

「ソニーは死んだ。フレドーは能無し。じゃあ俺が次期皇帝だ!」

皇帝の器じゃないのに皇帝になろうとした男の悲劇。その根っこには「裏切り」があった。ヴィトー襲撃もシチリアの妻殺しもすべては裏切り。テシオもカルロも裏切った。今度はフレドーまで。

マイケルはもしかしたら戦場で「国家の裏切り」に遭ったのかもしれない、という思いも芽生えてきました。だから「兵隊」がいやになったのかも……。

それについては『PARTⅡ』までではまったく描かれていませんが、もしかして『PARTⅢ』を見たらわかるのかしらん。あれ、あんまり好きじゃないから見る気が起こらないけど、久しぶりに見てみようかな。







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2020年04月04日

WOWOWオリジナル連続ドラマ『有村架純の撮休』が面白い!

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第1話は風吹ジュン扮する母親とのあれやこれや。第2話では「有村架純」という名前にこびりついたイメージに関するやや告発めいたものも面白かったですが、今回の第3話「人間ドック」にはやられた!って感じです。めちゃくちゃ面白かった。(以下ネタバレあります)


初恋の人との再会
今回は撮休を利用して人間ドック。そこでエコー検査の技師をしている初恋の人(かどうかは明示されないけど、たぶんそう)と再会する有村架純。(最後まで見たら「自分で仕組んだ再会」だったことがわかります)

会いたかった。彼もまだ自分のことを好いてくれている。なのになぜ? というラブストーリー特有のモヤモヤすっきりしない展開もいいですけど、メインプロットよりもサブプロットというかサブテーマのほうが面白かった。

そのサブテーマとは……

仮面と素顔


すっぴんと化粧
監督であるリリー・フランキーと遭遇した有村架純はすっぴんであることを指摘されます。休みだし人間ドックだしすっぴんなのは何の不思議もない。でも、あれは嘘ですよね。


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冒頭、彼女は化粧をしていましたから。

「女優にとって大事なのはどれだけたくさんの恋をするかだ、なんて信じちゃダメよ。たったひとつの大事な想い出を心にとどめておきなさい」という先輩か誰かの助言が紹介されます。そのとき有村架純は口紅を塗っていました。唇と同じ色の。なぜだろうと思ったら自分で仕組んだ初恋の人との再会のためだったんですね。芸が細かい。


社会的な役割という仮面
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元カレとの再会。でも彼は目の前の女が元カノとわかっていながら検査技師的な言葉遣いをやめようとしない。粛々と有村架純のパンツと胸元にタオルをねじ込み、検査のためのジェルを塗る。このあたりの手つきがやたらエロチックで悶絶してしまいました。(監督は世界の是枝裕和さんですが、今回熱を入れたのはここくらいじゃないですかね? あとは適当にやってもいい作品に仕上がる。そう言っていいくらい今回は脚本の出来が素晴らしい)

元カレと元カノ。

でありながら、検査技師であることをやめようとしない男に、有村架純は関西弁で「元気やった?」と語りかけます。おそらく上京してから関西弁を封じてきた男は、突如検査技師という仮面を脱ぎ捨てて柔和な感じで返事を始める。ここらへんは有村架純が兵庫県出身(伊丹でしたか)であることがうまく活かされてますね。もし方言を知らない人間だったらこの展開・味は望めなかった。

でも、彼は一線を越えなかった。仮面を脱ぎ捨てきることができなかった。だから悶絶してしまうんですが、最終的に一線を越える意思があることがわかります。絶対に本人に直接渡してはいけないエコー画像を渡し、その裏に「年に一度は受診しにきてください」と書いてある。

でも、それはあくまでも検査技師としてであって、おそらく彼は検査室で会う約束をして会おうとしているのでしょう。つまり、検査技師という仮面を脱ぎ捨ててもかまわない病院の外で彼女と会おうと考えている。どこまでも社会的役割という仮面を脱ぎ捨てられない人間という生き物の悲哀がよく出ています。(方言を封じて東京弁で喋るのも「仮面」ですよね)


タトゥーと白衣
「有村架純さんの予約が入っています」という婦長が、前日にあったクレームとして一番大きな声で言うのが「検便と大きな声で言われた」でした。「採血が下手」よりこちらのほうが大きい問題らしい。

病院なのだから検便くらい普通だろうに、それを周りに聞こえるような声で言われて恥をかいたと。誰だってウンコはするけどそれを隠しているのが現代人。ここにも「仮面」というサブテーマが生きています。

さて、その婦長が朝礼で隣のキャピキャピした看護婦の首のあたりを指して「出てる」と注意します。看護婦は襟を直して持ち場につきますが、あれは何だろうと思っていたら、最後に明らかになります。

その子は頸骨のすぐ下くらいまでタトゥーを入れているのでした。タトゥー自体が呪術のための仮面みたいなものなのにそれを日本社会は許さない。外国では普通ですよ。サッカー選手なんか入れ墨だらけですから。みんな大好きだったベッカムなんて顔と足以外は全部入れ墨ですよ。入れ墨をしているというだけで銭湯にも入れてもらえないこの国は絶対におかしい!

話がそれましたが、タトゥーという仮面をさらに白衣という仮面で隠してあの看護婦は働いているのですね。あの白衣は「看護婦」という社会的役割と「タトゥー隠し」という二つの役割を担っている。

そして、婦長もまた「仮面」をかぶっている。

検査技師の名前を確認してから女性ではなく男性技師で、と有村架純が自分で予約を入れてきたという情報に、タトゥーの子が興奮して「なぜでしょう⁉」と訊くと「女優の考えてることがわかったら面白くないでしょ」「婦長も女優目指してるんですか?」と訊くと不敵な笑み。

おそらく年齢からしてもうあきらめたんでしょうが、若いときは目指していたんでしょうね。彼女もまた「女優を目指していた。いまからでもチャンスさえあれば……」と考えている自分を白衣で隠している。(私もかつては「脚本家を目指している本当の自分」を「昼間働いている自分」という仮面で隠していたっけ)


有村架純の仮面
有村架純は女優。女優とは誰かを演じること、他の誰かを装う仕事。だから彼女は関西弁をしゃべる「有村架純になる前のただのカスミ」になるためにわざわざ唇と同じ色の口紅で化粧せねばならない。


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女優という仮面を隠すもうひとつの仮面としての口紅。元カレの仮面をはぐために、自分は二重に仮面をせねばならなかった。女優としての、有名人としての哀しみ。

そしてその口紅を差していたときのあのナレーションをもう一度思い起こしましょう。

「どれだけたくさんの恋をしたかではない。たったひとつの想い出をどれだけ大事にするか」

こうしてサブテーマの充実が見事にメインプロットの結末に落とし込まれました。素晴らしすぎる!








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