聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

人間ドラマ

乙武洋匡『車輪の上』(一人称か三人称か)

たかだか不倫で政界進出を阻まれた乙武洋匡さん。いつの間にか小説を書いていたらしく、それが先日上梓された『車輪の上』。




期待をもって読みましたが、私にはあまり面白いと思える作品ではありませんでした。

ポイントは3つあります。

①テーマについて
②書き方について(一人称か三人称か)
③主人公への甘さについて


①テーマには大賛同
発想はいいと思うんですよ。車椅子の身体障害者がホストとしてデビューする、なんていうのはね。簡単なようでなかなか思いつかない。

それに以前、「感動ポルノ」という言葉が世界中に広まりますようにという記事を書いた人間からすると、少しも感動ポルノになってないのが素晴らしい。乙武さん自身が「感動ポルノとの訣別を!」みたいなことを言っていたから当然といえば当然ですが、実際、この『車輪の上』は障害者だから特別扱いせず殴るべきときは容赦なく殴るリョーマという店のオーナーが魅力的に描かれています。そしてそのリョーマから「障害を言い訳に使うな」と叱られる。私もいろんなことを言い訳にしてきたので、この言葉は胸にしみました。

しかしそれぐらいのことはあの乙武さんが書いているんだから読む前からわかっていたこと。同じ内容、同じテーマでももっと激烈なものを期待していたんですが、完全な肩すかしでした。

最終的に主人公はホストを辞めるんですが、リョーマの計らいで別の大役を担って再就職が決まるというのは読んでて悪い気持ちはしないけれど、何か「突き詰められてない感」が大きいんですよね。

私は、その原因は「書き方」にあると思います。


②一人称か三人称か
この『車輪の上』は一人称なのか、三人称なのかはっきりしません。「え、シゲノブが、とか主語を書いてるんだから三人称でしょう」と乙武さんは言うかもしれません。

でも、乙武さん自身が車椅子を使う身体障害者だからか、主人公の進平=源氏名シゲノブに肩入れしすぎというか、この小説は体裁は三人称小説なのに、実質的には一人称小説になってしまっているんです。

『車輪の上』第1章第1節は次のように始まります。

「これが東京の桜かあ」
進平は両脇にある大きなタイヤに手をかけて動きを止めると、


進平という主語があって三人称小説として始まります。が、直後の第1章第2節の出だしは、

巨大な迷路のような新宿駅の地下道を脱出するだけで二十分もかかるとは思わなかった。

「思わなかった」のは誰か、主語が明示されていません。ここではまだ進平しか登場してないから主語を書かなくてもいいという判断だったのでしょうか。

しかし、この作品で一番重要ともいえる第3章「同伴出勤」の最終第8節もそんな感じなのです。

夜八時過ぎ。すでに『維新』の看板には灯りがともっていた。車椅子を滑らせるようにして店の入り口をくぐると、若手ホストたちが忙しく立ち働いている。

この小説で車椅子に乗っているのは進平=シゲノブだけだから「車椅子を滑らせるようにして店の入り口をくぐっ」たのは彼だろうとわかりますが、しかし、三人称小説なのだから新しい節での最初の文章で主語を抜くのはよくない。もしかしたらシゲノブ以外の障害者が登場したのかもしれないわけだし。それに、ここはアヤという恋仲の女性と同伴出勤して二人の関係が大きく変化するシーン。同伴出勤なのに、

シゲノブはアキラが案内する席へと車椅子を走らせた。その後ろをアヤがうつむきながらついていく。

この書き方では、シゲノブとアヤがかなり距離を置いて入ってきたようで、ぜんぜん同伴出勤という感じがしません。主語は複数形であるべきなのに、単数形として書き始めてしまったからシゲノブとアヤの距離感が変になったんだろうと思います。

で、この節の最後、2万7千円を請求されたアヤが、福沢諭吉が三人いることを確認してホッと胸をなでおろすという描写がありますが、ほとんどシゲノブの視点だけで書き進められているのに突如アヤの視点が入ってくるので混乱してしまうのです。

この直後の第4章「レッテル」においてそれはさらに高まってしまいます。

ここではヨシツネという名のホストが実は女性、トランスジェンダーだったことが判明するんですが、いつものようにシゲノブの視点で「アヤと連絡が取れなくなった」「タイスケという親友ホストの売り上げが上がったが、上がったことで困ったことが出てきた」とシゲノブ目線ですべてが語られているのに、突如そのシゲノブからトイレのモップを受け取ったヒデヨシという名のホストに視点が変わり、ヨシツネの財布を拾って彼が実は女性であることを知ってしまう。

この『車輪の上』は、精神としてはほぼすべてシゲノブの視点で語られる一人称小説なのに、作者の都合で突然三人称の語りになったりする。

私もこないだ一人称小説を書いたので、それなりにわかっているつもりではありますが(その詳細については→「小説を書き始めました」)一人称で書くか三人称で書くかは小説作法においてとても重要です。


③主人公への甘さ
乙武さんは、自身が障害者だから、一人称だと視点が障害者だけに限定されるのを嫌ったんじゃないかと推察します。健常者の視点からも描いて障害者である自分を客観視したいというのはよくわかります。ですが、リョーマやタイスケやアヤが、すべて「シゲノブから見たリョーマ」「シゲノブから見たタイスケ」「シゲノブから見たアヤ」としてしか描かれていませんよね。

あくまで三人称を使って、障害者である主人公をできるだけ突き放して客観的に描きたいという思いはどこへやら。結局、障害者である主人公に肩入れしすぎというか、ほとんど同化して書かれてしまっています。それならそれで最初から一人称で書くべきではなかったでしょうか。すべてを徹底してシゲノブの視点で描く。

私も自分のことを徹底して突き放して書くために二人称という手法を使いました。一人称と言いましたが実は二人称です。というか、「おまえ」を主語にした二人称小説ですが、その「おまえ」とは私自身のことなので精神としては一人称小説なのです。

それはさておき、徹底してシゲノブの視点で描くというのは、乙武さんだからできることだと思うし、この小説でもほとんどそうなってますよね。でも、ところどころで三人称を使う中途半端さが、主人公にとってとても都合のいい甘い結末を生んでしまったように思うのです。


④アキラの話が読みたい
せっかく三人称で書くと決めたのなら、章によって視点を変えるのもありですよね。「リョーマの視点から語る章」「アヤの章」「タイスケの章」など。

ちなみに、私が一番読みたかったのは「アキラの章」です。あの歴史上の偉人から取った源氏名ばかりの店で、ホストでないとはいえ唯一本名(?)を名乗っていた男はいったいどういう出自のどういう人間なのか、とても興味がありましたが、最後まで詳細は語られずに終わってしまいました。

アキラの物語を読みたいですね。そのときは一人称か三人称か、はっきりしてほしいです。


益田ミリ『今日の人生』(気づきとどんでん)

敬愛してやまない益田ミリさんの『今日の人生』(ミシマ社)を読んだんですが、すべてのページが愛おしくなる傑作でした。帯にはいまをときめく石田ゆり子の絶賛文が書かれています。



日常の何でもない一コマにとんでもない非日常を感じてしまうとか、何でもない一コマがかけがえのない時間だと気づかせてくれるのが益田ミリさんの魅力ですが、この『今日の人生』は集大成的な傑作だと思いました。

例えばこんなエピソード。

ある日、片づけをしていたら母親からもらった小さなオルゴールが出てくる。ミリさんはそれが妙に懐かしくそして悲しい。

なぜかというと、上京前にお母さんが「何かほしいものを買ってあげる」というので買ってもらったものだから。いや、ただそれだけなら単に懐かしいで終わりですが、そのオルゴールはかなりよこしまな気持ちで買ってもらったものだったんですね。将来、有名になったときオルゴールのようにメロディが出るものだったりするほうが思い出に深みが出てインタビューを受けるときにいい話と受け止められるんじゃないか、という。

で、一緒に買いに行って、小さな安物を買ってもらった。何も知らないお母さんはもっと高価なものを、みたいなことを言ったけれどそれを制して買ってもらった。でも、よこしまな気持ちで買ってもらったものだから好きになれず、ずっとしまってあった。

それを今日久しぶりに手に取ってあのメロディを聴くと、オルゴールにまつわるすべての記憶がいい思い出に変わっていて、ミリさんは心の中で「人生……」とつぶやく。

うーん、深い! 一言で言ってしまえば「嘘から出た真」というやつでしょうが、人生というか、人間という生き物がもつ不可思議な心の動きが不可思議なまま提示されていて心が温まるし、何も知らないお母さんのことを思うと何となく残酷な気もしてしまう。

他に特に好きなエピソードを3つだけ挙げると……


「何か、むなしい」という日は、とりあえず〈むなしさ〉を味わいます。

たったこれだけの言葉にミリさんの不器用だけれど真摯に人生と向き合っている姿が見えてきます。私なんかむなしさを感じたらすぐにそこから逃げようとしてしまいますから。これからは逃げずに味わってみようと思った今日の人生。


②外国の空港で係員が「ボーディーバ」を見せろと舌打ちしながらしつこく言われ、それは本当は「ボーディングパス=搭乗券」のことだったのだが、その外国人は完全に上から目線で英語がわからない人間を軽蔑している。本当なら日本語でいいから「舌打ちなんて失礼ですよ」と文句のひとつくらい言うべきであった。「わたしはわたし自身を守ってやれなかった」と後悔するミリさん。

「わたしはわたし自身を守ってやれなかった」

我が身を振り返ってみると、私自身を守ってやれなかったことってとてもたくさんあるような気がします。もっと自分を大切にしようと思った今日の人生。でもあんまり文句を言いすぎるとそれはそれで角が立つし、バランスが難しい。


③空港でお土産を買い、お茶しながら原稿を書いているミリさんの隣の母娘の会話。
娘さんはもう30分以上愚痴り続けていて、それはおそらく旦那のことで「それであたし言ったんだけど効果ないし! 信じらんない!」
お母さんは何も言わずに「うん、うん」と聴いていて、娘さんは最後にこう言ったとか。
「でも、ま、毎日楽しくやってるから安心して」

なるほど。いろいろ鬱憤が溜まっているから愚痴るものの「喧嘩するほど仲がいい夫婦」なのか。それとももう離婚を考えるくらい本気で仲が悪いけれど、母親が何も言わずに聴いてくれるからうまくガス抜きができて、とりあえずいますぐ離婚するのはやめてお母さんには気分よく帰ってもらおう、という娘としての気遣いだったのか。

いずれにしても、何も言わずに「うん、うん」と相槌を打って聴いてあげるって大事だな、と思った今日の人生。

脚本の書き方を教えてくれた恩師が「クライマックスで大事なことは『気づき』と『どんでん』だ」と言っていましたが、益田ミリさんのマンガはいろんなところに人生の真実に気づく瞬間があり、それが小さなどんでん返しをもたらしてくれる。
「小さな」というところがポイントですね。大きなどんでん返しが面白いこともあるけれど、小さなどんでん返しにも魅力があるし、その魅力に気づかないようでは本当の意味で「生きている」とは言えないよ。とミリさんの作品は言ってくれているような気がします。

他にもいろいろ印象的なエピソードがありますけど紹介しきれません。ぜひ全編読んでみてくださいな。


『男たちの挽歌』(二人の「弟」)

香港ノワールの金字塔『男たちの挽歌』。



何度も見ている大好きな作品ですが、つい先日まで何度見ても「誰が主人公か」という作劇の基本中の基本がよくわからなかったんです。でも今回見直してみてよくわかりました。


①チョウ・ユンファ?
ABetterTomorrow1 (1)
『男たちの挽歌』といえばチョウ・ユンファといわれるくらい、この名優の代表作として知られています。多くの人もこの映画の主人公はチョウ・ユンファだろうといいます。実際、香港アカデミー賞でも主演男優賞を取っています。しかしながら、助演にすぎないマーロン・ブランドが主演男優賞を取った『ゴッドファーザー』の例もありますし(詳しくは→こちら)同様にトラブルメイカー役にすぎないダスティン・ホフマンが主演男優賞を取った『レインマン』の例もあります。(→こちら)だから主演男優賞というのは少しもその役者が主役だったということの証しにはならないのです。


②レスリー・チャン?
ABetterTomorrow3
この映画が「兄弟の葛藤」を軸にした物語であることは誰の目にも明白です。兄貴がヤクザだと知った弟は兄に裏切られたと思い、しかも兄のせいで父親まで亡くしてしまう。「あいつを許してやってくれ」と言われるからよけいに許したくない気持ちが芽生え、兄貴のせいで警察官としての未来はなくなり、重要な仕事からも外される。

だから、兄ティ・ロンが弟レスリー・チャンに許してもらう物語なのか、それとも兄を許したくなかった弟が最終的に兄を許す物語なのか、という二つの考え方の間で揺れた結果、弟が兄を許す物語、つまりレスリー・チャンが主役なんじゃないか、と思っていた時期があったんです。

でも違いました。


③ティ・ロン!
ABetterTomorrow2
主役はティ・ロンです。この画像から明らかなように、彼はレスリー・チャンとチョウ・ユンファの間で板挟みになっています。

いままで大事なことを見落としていました。チョウ・ユンファもまた彼の「弟」だということです。もちろん血のつながった弟ではなく「弟分」という意味です。

ヤクザの兄を許さないレスリー・チャンのために足を洗おうとするも、ヤクザ世界の弟チョウ・ユンファはもう一旗揚げようとヤクザの世界に戻ることを迫ってくる。二人の弟の間で揺れる兄貴の苦悩を描いていたのですね。

弟といえば……

話の発端はティ・ロンとチョウ・ユンファが弟分シンの裏切りに遭うことでした。で、いまやシンが親玉になっている。シンが裏切りさえしなければティ・ロンは円満に足を洗うことができた。その弟分シンを殺すことで物語は決着します。

だから「二人の弟の間で葛藤する」というのは間違いですね。本当は「三人の弟」です。

弟分の二人は身勝手なことを言うだけで死んでしまいますが、血のつながった弟だけは最終的に兄の苦悩を理解し、シンを殺すための拳銃を手渡します。そして、逮捕。

せっかく心が通い合ったのに、二人をつなぐ物が手錠というのが何とも哀しい。

でも、あれはハッピーエンドですよね。殺すべき弟分を殺し、和解したかった弟とは和解するのだから。


ギャラリー
  • ETV特集『キャメラマンMIYAGAWAの奇跡』を見て痛感した「遊び心」の重要性
  • 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(禍々しさと可笑しさと)
  • 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(禍々しさと可笑しさと)
  • 許せない映画⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』
  • 許せない映画⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』
  • 黒澤明『天国と地獄』の疑問点
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード