聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

人間ドラマ

『ワンダー 君は太陽』(脚本構成の妙とは)

激賞する人が絶えない話題の映画『ワンダー 君は太陽』があさってで終わると知り、滑り込みで見てきました。

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顔に障碍を抱えた少年オギーとその家族の物語。と聞くと、何やら私の苦手な「人は見た目じゃない」というテーゼを打ち出す映画かと思っていました。そんな当たり前のことを聞きたくて映画館に行っているわけではないのに。と思っていたら、この映画はちょっとひねってるんですね。

いや、人は見た目じゃないというテーゼはそのままです。そこにはいささか鼻白むところがないではない。だって、少年はひどいいじめを受けるけれども「失恋」が描かれませんよね。この先の長い人生を考えるなら、顔のせいで振られるという手ひどい経験を描かないと本当のハッピーエンドではないと思いました。

しかし……

やはりこの映画にはそんな小賢しい言葉をうっちゃる魅力と奥行きがあります。


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姉ヴィアの描写の素晴らしさ
何といっても白眉はこのヴィアというお姉ちゃんの描写ですね。弟が顔のせいでいじけたりいじめられたり辛いのは痛いほどわかる。でもそのせいで両親はいつも弟の心配をしてばかり。自分のほうを見てくれない。と、こちらもだいぶいじけている。障碍者本人だけでなくその家族も間接的に被害を受けていることをちゃんと押さえています。

ヴィアの章ではヴィアのナレーションで語られ、ヴィアの友人ミランダの章ではミランダのナレーションで語られます。章ごとで語り手が違うんですね。これが面白いと思いました。オギーという主人公を中心に据えた単純な構成だと、差別はいけませんよ、障碍者にはやさしくしましょうという通俗的な映画に堕していた可能性が高い。章ごとに語り手を変えることで物語に奥行きが出ています。

ただ、ヴィアの章がすべてヴィアを主人公にした構成になっているかというとそうではなく、章の最初だけその人の語りで始まりますが、途中から誰目線なのかわからなくなるくらい語りが混乱してしまっています。そこは確かに瑕疵でしょうが、それでも私はこの映画の「構成」の工夫の仕方が気に入りました。


構成の鬼・橋本忍
先日亡くなった橋本忍さんは私の最も嫌いな脚本家でした。弟子の山田洋次監督などいろんな映画人から「構成の鬼」と評されていましたが、私の目には「構成病」にかかった人に思えます。

『砂の器』は普通にうまいと思いましたが(でも好きな映画ではありません)もっと高評価の『切腹』になるともういけません。淀川長治が「頭だけで作った映画」と批判していましたが、まさにその通りと膝を打ったものです。

時間軸をいじりすぎなのです。映画作りとは「時間と空間を組織する」ということに他ならず、脚本家の仕事は特に時間構成を担いますが(空間も少しはね)橋本さんは時間を行ったり来たりすることにこだわりすぎなのです。『生きる』なんかでも。ああいう時間をいじった映画の最たる例がクリストファー・ノーランの『メメント』でしょう。

東陽一監督の講義を受けたとき「構成の勉強をしたかったら『パルプ・フィクション』を見て」と言われました。あれも時間軸をいじっていますが、不思議と気にならない。気にならないどころかやたら面白い。おそらく時間軸をいじることによってプロットを前進させるという「計算」が働いていないからでしょう。だからやっぱりタランティーノは天才だということになりますが、それはともかく。


構成の妙
姉のヴィアをはじめ、ミランダ、ヴィアの恋人のジャスティン、オギーの友人ジャックとサマーなどの描写を通してオギーだけに焦点が当たらないようにしたこの映画の脚本構成は高く評価すべきと思います。さまざまな光が乱反射してオギーの顔を照らす工夫のように感じられました。

オギーがいわれなき迫害を受ける→周囲の手助け→一件落着、という一直線の物語にせず、直線もあれば曲線もあり、アップダウンもある物語構成。こういうのを本当の「構成の妙」というんだと思います。

ただ、それならそれで父親の章、母親の章もあってしかるべきでは? とも思いましたがね。だから結果的には失敗作なのかもしれませんが、私はこの映画の作者たちの野心を高く買いたいと思っています。

満員御礼で不特定多数の人と一緒に映画を見る醍醐味を久しぶりに満喫しましたが、あれだけ入るのなら1日1回の上映でもうしばらく続けられるんじゃないでしょうか。いい映画だし評判もいいのだから興行主にはもう少し考えもらいたいもんです。



『女と男の観覧車』(もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいのでは?)

ウディ・アレンの新作『女と男の観覧車』。

冒頭のコニーアイランドで若い女が練り歩くシーンは明らかにダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』へのオマージュでしたね。
オマージュといえば、サークの50年代メロドラマを現代に蘇らせようとしているのがトッド・ヘインズ。2002年の『エデンより彼方に』がいまだに印象深いですが、そのトッド・ヘインズがマイケル・カーティスの『ミルドレット・ピアース/深夜の銃声』を連続ドラマとしてリメイクしたことはあまり知られていない。あの連ドラに主演したのがまさに『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットでした。
この映画の舞台も50年代だし、ダグラス・サーク→トッド・ヘインズ→ケイト・ウィンスレットという感じでつながっているのですね。


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さて、そのケイト・ウィンスレットのややオーバーアクション気味の芝居が鼻につくこの映画では、前作からアレン組の一員となったヴィットリオ・ストラーロが撮影監督の任についています。巷間ではストラーロの光の捉え方が絶賛されているようですが、私はまったくいいと思いませんでした。

いや、いいと思ったショットもたくさんあったんですよ。

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↑こういうのとか。

↓こういうのも。

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暖色系のアンバーが基調となっているこの映画の良さを表すいいショットですね。

しかし……

初めてケイト・ウィンスレットとジャスティン・ティンバーレイクが愛を交わす場面で、ケイト・ウィンスレットの顔がアンバー一色になり、かと思うとサァーっと寒色系のブルー一色になったりするのがどうにも好きになれません。同じようなライティングが義理の娘ともめる最後のほうのシーンでもありましたが、とにかくダサい。原色に近いくらいの強いフィルターを使って暖色と寒色をまぜこぜにするというのが、何の意図があるのかわからないし、これ見よがしな感じがしてまったく好きになれない。
それに、ケイト・ウィンスレットが登場するシーンとラストシーンで、顔が飛んでしまうくらい強い光を当てていますが、あれもダサい。あんなのストラーロじゃなくても撮れるでしょう。

ヴィットリオ・ストラーロが撮影した映画で私のお気に入りは、

『ディック・トレイシー』
『シェルタリング・スカイ』
『地獄の黙示録』

あたりですが、『女と男の観覧車』のような何の意図も感じられないライティングはなかったですよね。『ディック・トレイシー』は原色たっぷりでしたが、あれは原作のマンガの色をそのまま表現しようという意図があった。でも『女と男の観覧車』には何の意図もありません。ただ「こういう画を撮りたい」という欲望しか感じられない。監督の要望通りに撮っただけでしょうが、しかし、アレンは何ゆえにあのようなダサい画を求めたのか。

私にとって、ウディ・アレン作品の撮影監督といえばカルロ・ディ・パルマです。アレンといえばカルロ・ディ・パルマといってもいいくらい。しかし調べてみると、カルロ・ディ・パルマと組んでいたのは『ハンナとその姉妹』(1986)から『地球は女で回ってる』(1997)までのほんの10年ちょっとだけなんですね。おそらくそこで病に倒れたのでしょう。2004年に亡くなるまで何も撮っていません。

アレンはその後、

スヴェン・ニクヴィスト
ダリウス・コンジ
ヴィルモス・ジグモンド
ハリス・サヴィデス

といった錚々たる名前と一緒に仕事をしていますが、カルロ・ディ・パルマほど相性の合う人とは巡り合えていないようです。

カルロ・ディ・パルマが撮っていた頃はほぼワンシーン・ワンカットでした。アレンは自身が役者でもあるから芝居をとても大事にする。カルロ・ディ・パルマにはワンカットで撮る技術に長けていたからアレンは彼に頼りきりだったと推察します。
ただ、ワンカットで撮るためには美術監督がそのようなセットを組んでくれないといけない。アレンはずっとサント・ロカストという美術監督と組んでいますが、同じ人と組んでいるのになぜワンカットで撮れないセットにOK出したのか、まったくわかりません。

この『女と男の観覧車』はとにかくカットバックがものすごく多かったですよね。でも、イーストウッドみたいにカットバックを自家薬籠中のものにした監督とは違い、アレンは役者の芝居を細切れで見せる監督ではありません。だから編集の呼吸が悪い。イーストウッドならここぞというところでつなぐからため息が出るほど素晴らしいカットバックになるんですが、アレンにはそのような腕がないからどうにも見苦しい。

光や色に執拗にこだわるから役者への演技指導がおろそかになっている気がしました。私はケイト・ウィンスレットの大ファンですが、この映画の彼女のオーバーアクションには辟易させられました。単純に芝居が下手な女優にしか見えませんでした。

もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいと思います。


『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(なぜあんな撮り方を)

話題の映画『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』。うーん、ちょっとよくわからない映画でしたね。


テーマの問題
もちろんメインテーマには賛同します。
だいぶ前に『町山智浩のアメリカの今を知るTV』で紹介されていたときから面白そうだと思っていたし、それに何よりあの「男女同額のギャラ」を求めたベネディクト・カンバーバッチとはぜんぜん違いますから。(そこらへんのお話については→「ベネディクト・カンバーバッチは女性差別主義者かもしれない件」 を参照してください。映画で描かれたテニスの男女間格差についても触れています)




ビリー・ジーン・キングはあくまでも男子と女子のチケットの売り上げが同じなんだから賞金も同じにせよ、と。至極まっとうな要求です。だからベネディクト・カンバーバッチにはまったく賛同できない私ですが、ビリー・ジーン・キングには100%賛同します。

しかし、ビリー・ジーンがレズビアン(というかバイセクシュアル?)なのは事実であるとしても、「性別」のメインテーマと「性的嗜好」のサブテーマがひとつの物語としてうまくリンクしていない気がしました。「男と女のどちらが上か」という問題と、「女を性愛の対象にする女」というマイノリティの問題ってぜんぜん別だと思う。

でもメインテーマそのものには賛同しているので、クライマックスのスティーブ・カレルとの決戦は手に汗握りましたね。結果は知っていても、編集でごまかすような撮り方をせず、ワンラリーをほぼワンショットに収める撮り方には好感がもてました。

しかしながら……


撮り方の問題
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私が「なぜあんな撮り方をしたんだろう」と疑問に思うのは、画像のようなショットですね。

これはエマ・ストーンのクロースアップですが、普通にカメラを寄せて撮っているのではなく、少し離れたところにカメラを置いてズームレンズで寄った撮り方です。すぐ手前の女性の後頭部がピンボケしているからわかります。ズームで寄ると被写界深度が浅くなるので必然的にすぐ手前やすぐ奥のピントがボケてしまう。

この『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』におけるクロースアップは、すべてではありませんが半分はこのようなわざわざカメラを離してズームで寄るという撮り方がされていました。でも、なぜそのような撮り方をするのか少しも理解できませんでした。

もっと普通に撮ればいいのに。ずっとそう思いながら見てましたね。
クライマックスのテニスシーンにはそのようなショットがなかったからよけいに開放感があって面白く見ました。

もしかして、そういう狙い?(笑)


『鬼の棲む館』(神話・宗教・時代の三位一体)

日本映画専門チャンネルでやっていた『鬼の棲む館』。これがべらぼうに面白かった。神話と宗教が絡み、男二人の「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」が時代背景とともに見事に描かれています。


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1969年大映作品『鬼の棲む館』
原作:谷崎純一郎『無明と愛染』(「あいぞめ」ではなく「あいぜん」です)
脚本:新藤兼人
監督:三隅研次
出演:勝新太郎(無明の太郎) 
   高峰秀子(楓)  
   新珠三千代(愛染)  
   佐藤慶(高野の上人)




時代背景
まず、高峰秀子演じる楓が「頼もう」と荒れ果てたお堂を訪ねる場面から始まります。そこに住んでいるのは無明の太郎と言われる盗賊とその愛人の愛染。楓は太郎の妻なんですが、愛染に寝取られたと。それで太郎と奪い返しに来た。

そんな楓の気持ちなどお構いなしに、太郎は京へまたぞろ金目のものを盗みに行くと言って出かけます(このとき薪代わりに仏像を叩き斬るのが後半に向けての伏線ですね)。京はひどい戦乱にまみれていて、応仁の乱の時代なのかな、と思いましたが違いました。

太郎がいない間に佐藤慶演じる高野の上人が一夜の宿を求めて訪ねてきます。このとき「京方と吉野方が……」と語っていて、なるほど、南北朝時代なのかと。

鎌倉末期の直後で南北朝時代が舞台というのがこの映画のミソですね。鎌倉末期から持明院統と大覚寺統の間で「両統迭立」の状態にあり、その末期に後醍醐天皇が現れて南北朝時代に突入。皇統が分裂していた時代でした。

この時代背景は後半の展開にかなり大きな意味をもってきます。


英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー
楓は上人に語ります。
かつて荘園名主だった太郎は戦火で荘園が潰れたために京へ出てきて愛染と出逢い、その愛染によって暗黒面に落とされた。楓はそんな太郎を奪い返しに来たのだと。しかし、実際は愛染に復讐したい気持ちのほうが強いようです。。

そこを上人は鋭く突きます。愛染を「鬼」と罵る楓の心にもまた鬼が棲んでいると。鬼は多かれ少なかれ誰の心にも棲むものだ、というのが真言宗の考え方かどうかは知りませんが、少なくともこの上人の思想ではあるらしい。

では、なぜこの上人はそのような思想をもつに至ったか。やはり上人自身がかつては暗黒面に堕ちたアンチヒーローだったことが大きいのでしょう。
いまは出家して英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーを歩んでいる。かつての自分のような太郎に出会い改心させようとする。が、上人もまた太郎と同じくかつて愛染の誘惑に負けた弱い人間だったことが判明します。上人はかつて貴族で、愛染にそそのかされて人を殺めたことが語られます。太郎と上人は同じ穴のムジナというわけです。そして、再び愛染が色仕掛けで上人に迫る。

で、こんなことになってしまいます。

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己に負け、仏の道を誤った上人は舌を噛み切って自殺します。英雄の旅を完遂できなかった上人の胸中を察するととても悲しい。


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しかし、「仏も私のカラダに負けた!」と高らかに笑う新珠三千代を見た勝新は発作的に彼女をぶった斬ります。そして、上人の遺志を継いで、妻の楓とともに出家をする。

このへんの展開はとってつけたような感じが否めませんが、上人が堕落する直前、太郎が上人の念仏によって黄金色の仏像の強い光に負けたという事実が、彼をして上人の死に様に「仏性」を見えさせたのでしょう。鎌倉仏教が花開いた直後でまだ末法思想の名残もあっただろう時代。しかも、いつ終わるかわからない戦乱の世だった、という時代背景も関係しているかもしれません。


南北朝時代の意味
時代背景の意味がこれでもうわかりましたよね。
かつて太郎は楓と幸せな生活を送っていたけれど、愛染と出逢うことで暗黒面に堕ちた。
その愛染によって暗黒面に堕ちていた上人はそれゆえに仏に道に入って暗黒面から脱却した。
その上人が再び愛染によって暗黒面に堕ちたがゆえに、太郎は暗黒面から脱却した。

上人と太郎はどちらもヒーローズ・ジャーニーを歩んでいますが、どちらかがヒーローのとき、もう片方はアンチヒーロー。

両雄、並び立たず。両統迭立から南北朝へと皇統が分裂していた時代というのがうまく活かされています。

京が戦火の焼かれている時代というだけなら応仁の乱でもいいような気がしますが、やはり皇統分裂のこの時代のほうがテーマがより明確になるという計算なのでしょう。
ただ、両統迭立や南北朝の分裂というのが、愛染のような女の魔性によって引き起こされたものかどうかは浅学のためまったく知りません。


クライマックスで大事なこと
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クライマックスで大事なことは、愛染を斬った太郎がその死骸に抱きつき、号泣することでしょう。
ちょっと前まで愛し合っていた仲だから、ということではないと思います。発作的に斬った、ということへの悔いでしょう。

太郎は上人が死んだ時点で仏の心が芽生えていた。ならば、彼が愛染を暗黒面から救い出し、新しい英雄の旅に歩ませなければならなかったはず。それを気持ちはわかるが発作的に斬ってしまった。救い出すことができなかった、ということへの悔恨と謝意の表れと解釈するのが私流の見方。

彼女は最初から最後まで、ヒーローとアンチヒーローを循環的に行き来するキャラクターではなく、ユング心理学でいうところの「身体のアーキタイプ」なのかもしれません。いや、確実にそうでしょう。ヒーローを暗黒面へ転落させる役どころ。決して変化しない。

だから「鬼」なのでしょう。しかし「鬼は誰の心にも棲んでいる」のです。上人も己の鬼に負けた。太郎も負けかかっていた。太郎を救いに来たはずの楓も鬼退治という妄執に囚われた鬼に成り下がっていた。

だから、愛染は決して身体のアーキタイプではなく、アンチヒーローだと思います。それはヒーローに変容する可能性を秘めた存在ということです。そう考えないと「誰の心にも鬼が棲んでいる」と言った上人が浮かばれません。魔性にだって仏性はひそんでいるのです。それが釈迦の教えだったはず。

だから、太郎のアンチヒーローからヒーローへの変容は、きっかけは上人の死ですが、それだけではまだ完全ではなく、愛染を斬ってしまったことで完全なる変容となったのだと思います。

仏教、それも大乗仏教の国だからこそこういう映画が作れた。キリスト教などの一神教を信仰する人にこういう物語は作れない。私は日本人としてこの映画を誇りに思います。

ただ、惜しむらくは、高峰秀子の役どころがやや狂言回し的なところで終わってしまったところでしょうか。冒頭など、あの勝新をも圧倒する横綱相撲ぶりに瞠目していたんですが、だんだん影が薄くなってしまって……。
太郎の変容はしっかり描かれますが、楓の心に棲む鬼がどうなったか、その顛末が描かれないのはとても惜しいと思います。



『アイ、トーニャ』(暴力の面から考察してはいけない)

トーニャ・ハーディングがナンシー・ケリガンを暴行させた(と言われる)スキャンダルを描いた話題作『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』。

この映画は、トーニャ・ハーディングを徹底して「かわいそうな人」として描くことが主眼のようですが、私はまったく納得がいきません。

いや、別にハーディングが嫌いとか、元夫とそのお友達のケリガン襲撃をまったく知らなかったなんて嘘だろう! なんてことも思いません。

事件のことはリアルタイムで知っていますし、私は判官贔屓の強い人間なのでどちらかといえばハーディングに同情的だったような気がします。(うろ覚えですが)

ケリガン襲撃事件は、いろいろ話がこじれた結果だったと。そういう立場を取るならそれでいいですが、それでは本当に「トーニャ・ハーディングはかわいそうな人でした」ってだけの話じゃないですか。

母親から暴力を振るわれていたことも、とんでもないDV男と結婚してしまうことも、彼の友達に頭のおかしな人たちがいたということも、どれもこれも「彼女はかわいそうな人」と言うための道具ですよね。

貧しい家庭に生まれ、金がないから衣装にもお金がかけられない。審査員に「衣装代に5000ドルくれたら自分で作らなくていいのに」と文句をつけていましたが、あそこをもっと掘り下げるべきでは?



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私はかねてから「フィギュアスケートはスポーツじゃない」と思っています。なぜなら、人間の主観で点数が決まるから。「芸術点」という言葉がすでにスポーツではないことを暗示してるじゃないですか。そして、この映画を見てその感を強くしました。

だって、きれいな衣装を着ていたらそれだけで得点が高くなるんでしょう? そんなのスポーツじゃない。音楽によっても変わってくるし、やはりあれは「芸術」でしょう。そりゃ「スポーツ」の側面もあることは否定しませんよ。

トーニャ・ハーディングの悲劇は「フィギュアスケートを純粋なスポーツとしか捉えていなかった」ことにあると思います。母親も、夫も、周囲の人みんな含めて。

貧しくて幼い頃からクラシックを聴いたり、オペラを見たり、美術展を見に行ったり、そういう体験がまったくなかったわけでしょう? でもスケーティング技術は抜群。それならなぜフィギュアスケートだったんでしょうか? スピードスケートだったらよかったのに。

ハーディングはアメリカ人で初めてトリプルアクセルを成功させることに執着して見事に成功させます。運動神経やスケーティング技術、精神力は申し分ない。でも、どうしてもそれだけでは高い得点が得られないのがフィギュアスケートという競技。



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だから、この人がなぜ娘にフィギュアスケートをやらせようとしたのかがわからない。上流階級の連中を驚かせたかったのか、何なのか。

スピードスケートをやらせていたらあんな事件は起こらなかっただろうし、栄光の金メダリストになれていたかもしれない。衣装に金をかけなければ優勝できないと知っても、貧しいこととろくな芸術に触れたことがない育ちの悪さが影響してトリプルアクセルを飛ぶことしか頭にない。

これらも「彼女はかわいそうな人」という主張の一助にはなっていますが、私は作者が主人公に同情しているだけの映画を面白いとは思えません。

フィギュアスケートを完全なスポーツと捉える主人公と、芸術的側面を重視するお偉方の葛藤劇をもっと掘り下げてほしかった。まだ関係者はみんな存命みたいだから、もっと突っ込んだ取材をして作ってほしかったと思います。

特に母親は主人公に最も影響を与えた人物だし、フィギュアスケートをはじめさせたのも彼女。

どうしても暴行事件が目玉だからか、母親も夫も「暴力」ばかりが前景化するよう描かれてますが、それは違うんじゃないの、と。暴力が原因で主人公が悲劇に遭遇した。それじゃやっぱり「同情」ですよね。

彼女がケリガン暴行事件のことを知らなかったという立場を取るなら、暴力の面から考察してはいけないと思いました。


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