聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ラブストーリー

『幸色のワンルーム』(SNS時代の連続ドラマ作りの難しさ)

製作元のABCテレビは普通に放送したのに、親分のテレビ朝日はビビッて放送を自粛してしまったという、いわくつきの『幸色のワンルーム』第1話を見てみました。

私は、放送の是非よりも、SNS全盛時代におけるドラマ作りの難しさを痛感しました。

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放送自粛の是非
冒頭はギョッとなりましたね。誘拐されたという14歳の少女が、誘拐犯が盗撮した自分の写真で埋め尽くされた部屋の壁を見て「こんなに私のことを好きになってくれる人なんだから」と言うので。

さすがにその時点では、「これはちょっとまずいというか、リアリティがなさすぎでは?」と思いましたが、物語が進行するうちに、少女は親からひどい虐待を受けており、学校でもいじめられ、自殺していたところを青年に助けられた。つまり、「誘拐」ではないんですね。力ずくで無理やり誘拐したのかと思っていたら「保護」しただけだった。

なるほど。それならわかる。

警察をはじめ「誘拐」と考えている世間と、「保護」されてついには逃げ切れたら「結婚」しようとなる当の二人との「ずれ」がこの作品の面白さなのだから、未成年を誘拐する話だから不適切だ、犯罪を助長するという言説は的外れというか過剰反応というか。

だったら、巷にあふれる殺人事件を題材にしたドラマや映画はどうなるんでしょうか。そもそも無理やり誘拐した末にストックホルム症候群に陥る映画に『完全なる飼育』がありますが、あれはいいんでしょうか。実話なんですが。


SNS全盛時代のドラマ作りの難しさ
私は前述のとおり放送の是非よりも、SNS全盛のこのご時世において、この手のドラマを作るときの難しさのほうが気になりました。

親に虐待を受けている。
学校でいじめを受けている。
担任教師から猥褻行為を受けている。

ここまで周囲を悪人だらけにしないといけないのか、と。

いじめているクラスメイトは主人公が行方不明になってるのにそれを喜んでいるというのはリアリティに欠けると思いました。普通は怖がるんじゃないですか? 

逆に言うと、冒頭で「逃げ切れたら結婚しよう」と言わせないと読者や視聴者からのクレームがつく。だから極悪人に虐げられている主人公という設定が必要だったのかもしれません。だからポリティカリー・コレクトネスがドラマ作りを歪めてしまったということも言えるかもしれません。

『完全なる飼育』は普通に誘拐から始まって、無理やりレイプしたりという描写があったあと、徐々に恋愛関係に傾いていくわけですが、SNSでクレームが拡散する現代においては、そのような悠長なことはやってられないのかな、と思いました。

『万引き家族』と比較する文章を読みました。あの映画も世間的には「誘拐」、主人公たちにとっては「保護」を描いていましたが、なぜあれが上映自粛になったり観客からクレームがつかないかといえば、それは「劇場映画だから」ということに尽きるでしょう。
上映中にSNSで実況して悪評が拡散することもないし、それに何より2時間で終わりますから。終わるころには多くの観客が主人公たちに共感している。

でも『幸色のワンルーム』は「連続ドラマ」ですからね。誘拐(保護)から始まって徐々に少女と青年に共感するように仕向けることができない。それをやったらひどいバッシングを受けて打ち切りも覚悟せねばならない。だから冒頭で納得させるために周囲の人物をリアリティに欠けるほどの極悪人に設定しないといけない。

とても難しい問題です。できることなら、そういうことを恐れない作品が出てきてほしいとは思っていますが。


幸色のワンルーム [Blu-ray]
山田杏奈
アミューズ
2019-02-02


『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅薄であったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、映画がマコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通にマコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して主張してきたことではなかったでしょうか。


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『シェイプ・オブ・ウォーター』(単純につまらない)

賞レースを席巻している『シェイプ・オブ・ウォーター』を見てきましたが、これが心の底からつまらない映画でした。


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「悪」の創出
昨日、たまたま『イングロリアス・バスターズ』を再見しまして、こんなツイートをしました。

「ナチスを『絶対悪』として利用するだけの作劇は作家的怠慢だと思う。『独創的な悪』の創出は作家的使命のはずなのにタランティーノはそこから逃げている」


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『シェイプ・オブ・ウォーター』は悪を造形することから逃げてはいませんが失敗してますよね。マイケル・シャノン演じる極秘研究所のボスみたいな男(中間管理職?)は汚い言葉を吐き暴力を振るうだけで、少しも独創的でもなければ魅力的でもない役です。

まだしも『イングロリアス・バスターズ』のクリストフ・ヴァルツのほうが残忍さをエレガントな衣で隠していて面白いですが、彼にしたところで「総統の命令を粛々と遂行しているだけ」で本当のところ悪い奴なのかどうかは最後までわかりません。ブラピに頭の皮をはがれるときの子どもみたいな恐がり方から察するに「ただの小役人」だった可能性が高い。

ところで、『シェイプ・オブ・ウォーター』では結末が途中でわかりますよね。悪役が暴力しか振るわないんだからああなる他ありません。


わからない行動原理
それよりも、主人公サリー・ホーキンスが怪獣を家にこっそり連れ帰る動機がまったくわかりません。


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喋れないために誰も理解してくれない。怪獣も喋れないからお互い理解しあえる。というのはわからないではありませんが、彼女にはリチャード・ジェンキンスという孤独を分かち合う隣人がいるし、職場にはオクタヴィア・スペンサーという彼女の面倒を見てくれる心やさしい同僚がいます。

少しも孤独じゃない。「私には怪獣しかいない」というところまで追いつめられていません。

男がほしかった? 確かにオナニーシーンがあるし、後半は怪獣とセックスしまくってました。しかしですね、主人公の周りにはまともな男が出てきません。リチャード・ジェンキンスはゲイだし、マイケル・シャノンは女を暴力的に扱うことしか考えていない。ソ連のスパイは諜報戦のことしか頭にない。

怪獣との恋愛を描く。それはドラマ作りとして志が高い。ハードルが高すぎるほど高いですから。

しかし、それならば、前段としてまず「人間との恋愛」を描かないといけないのでは? 愛し合っているごく普通の男がいる。「私には彼しかいない」と思っている。でも何らかの問題のために二人の関係が破綻してしまう。だから怪獣しかいない! となればグッと乗れたと思うんですが、そうなっていません。だから、この映画は完全にご都合主義で作られていると思うわけです。


ご都合主義
ご都合主義といえば、クライマックス前のマイケル・シャノンもそうですよね。

同僚がソ連のスパイだとわかり、「あの掃除婦が……」というのを聞いて彼はオクタヴィア・スペンサーの家に行くんですが、なぜサリー・ホーキンスの家じゃないんでしょうか。

怪獣がいなくなったときはまだサリー・ホーキンスが怪しいとは思われていなかったようで全員のタイムカードを調べていましたが、あのとき、サリー・ホーキンスが指で「ファックユー」とやりますよね。マイケル・シャノンにははっきり意味がわからなかったようですが、サリー・ホーキンスが自分によからぬ思いを抱いているのはわかったはずで、「掃除婦」と聞いて真っ先にオクタヴィア・スペンサーを思い浮かべるのはどう考えても不自然です。サムソンとデリラの逸話を喋りたかったから? まさか!

もしあそこで真っ先にサリー・ホーキンスの家に急行していたらあの美しいラストシーンはなかったわけですから、完全なご都合主義です。登場人物が作者の操り人形にしかなっていない。

セットや衣装の色づかいが目に心地よく、照明もとても繊細でヴィジュアル的にはとても楽しめる映画でしたが、お話にまったく乗れなかったのでお金返してほしい。

これでアカデミー賞最有力候補??? 信じられません。昨日見た『ビッグ・シック』のほうがよっぽど面白かったですよ。


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