聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ラブストーリー

『女と男の観覧車』(もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいのでは?)

ウディ・アレンの新作『女と男の観覧車』。

冒頭のコニーアイランドで若い女が練り歩くシーンは明らかにダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』へのオマージュでしたね。
オマージュといえば、サークの50年代メロドラマを現代に蘇らせようとしているのがトッド・ヘインズ。2002年の『エデンより彼方に』がいまだに印象深いですが、そのトッド・ヘインズがマイケル・カーティスの『ミルドレット・ピアース/深夜の銃声』を連続ドラマとしてリメイクしたことはあまり知られていない。あの連ドラに主演したのがまさに『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットでした。
この映画の舞台も50年代だし、ダグラス・サーク→トッド・ヘインズ→ケイト・ウィンスレットという感じでつながっているのですね。


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さて、そのケイト・ウィンスレットのややオーバーアクション気味の芝居が鼻につくこの映画では、前作からアレン組の一員となったヴィットリオ・ストラーロが撮影監督の任についています。巷間ではストラーロの光の捉え方が絶賛されているようですが、私はまったくいいと思いませんでした。

いや、いいと思ったショットもたくさんあったんですよ。

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↑こういうのとか。

↓こういうのも。

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暖色系のアンバーが基調となっているこの映画の良さを表すいいショットですね。

しかし……

初めてケイト・ウィンスレットとジャスティン・ティンバーレイクが愛を交わす場面で、ケイト・ウィンスレットの顔がアンバー一色になり、かと思うとサァーっと寒色系のブルー一色になったりするのがどうにも好きになれません。同じようなライティングが義理の娘ともめる最後のほうのシーンでもありましたが、とにかくダサい。原色に近いくらいの強いフィルターを使って暖色と寒色をまぜこぜにするというのが、何の意図があるのかわからないし、これ見よがしな感じがしてまったく好きになれない。
それに、ケイト・ウィンスレットが登場するシーンとラストシーンで、顔が飛んでしまうくらい強い光を当てていますが、あれもダサい。あんなのストラーロじゃなくても撮れるでしょう。

ヴィットリオ・ストラーロが撮影した映画で私のお気に入りは、

『ディック・トレイシー』
『シェルタリング・スカイ』
『地獄の黙示録』

あたりですが、『女と男の観覧車』のような何の意図も感じられないライティングはなかったですよね。『ディック・トレイシー』は原色たっぷりでしたが、あれは原作のマンガの色をそのまま表現しようという意図があった。でも『女と男の観覧車』には何の意図もありません。ただ「こういう画を撮りたい」という欲望しか感じられない。監督の要望通りに撮っただけでしょうが、しかし、アレンは何ゆえにあのようなダサい画を求めたのか。

私にとって、ウディ・アレン作品の撮影監督といえばカルロ・ディ・パルマです。アレンといえばカルロ・ディ・パルマといってもいいくらい。しかし調べてみると、カルロ・ディ・パルマと組んでいたのは『ハンナとその姉妹』(1986)から『地球は女で回ってる』(1997)までのほんの10年ちょっとだけなんですね。おそらくそこで病に倒れたのでしょう。2004年に亡くなるまで何も撮っていません。

アレンはその後、

スヴェン・ニクヴィスト
ダリウス・コンジ
ヴィルモス・ジグモンド
ハリス・サヴィデス

といった錚々たる名前と一緒に仕事をしていますが、カルロ・ディ・パルマほど相性の合う人とは巡り合えていないようです。

カルロ・ディ・パルマが撮っていた頃はほぼワンシーン・ワンカットでした。アレンは自身が役者でもあるから芝居をとても大事にする。カルロ・ディ・パルマにはワンカットで撮る技術に長けていたからアレンは彼に頼りきりだったと推察します。
ただ、ワンカットで撮るためには美術監督がそのようなセットを組んでくれないといけない。アレンはずっとサント・ロカストという美術監督と組んでいますが、同じ人と組んでいるのになぜワンカットで撮れないセットにOK出したのか、まったくわかりません。

この『女と男の観覧車』はとにかくカットバックがものすごく多かったですよね。でも、イーストウッドみたいにカットバックを自家薬籠中のものにした監督とは違い、アレンは役者の芝居を細切れで見せる監督ではありません。だから編集の呼吸が悪い。イーストウッドならここぞというところでつなぐからため息が出るほど素晴らしいカットバックになるんですが、アレンにはそのような腕がないからどうにも見苦しい。

光や色に執拗にこだわるから役者への演技指導がおろそかになっている気がしました。私はケイト・ウィンスレットの大ファンですが、この映画の彼女のオーバーアクションには辟易させられました。単純に芝居が下手な女優にしか見えませんでした。

もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいと思います。


『幸色のワンルーム』(SNS時代の連続ドラマ作りの難しさ)

製作元のABCテレビは普通に放送したのに、親分のテレビ朝日はビビッて放送を自粛してしまったという、いわくつきの『幸色のワンルーム』第1話を見てみました。

私は、放送の是非よりも、SNS全盛時代におけるドラマ作りの難しさを痛感しました。

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放送自粛の是非
冒頭はギョッとなりましたね。誘拐されたという14歳の少女が、誘拐犯が盗撮した自分の写真で埋め尽くされた部屋の壁を見て「こんなに私のことを好きになってくれる人なんだから」と言うので。

さすがにその時点では、「これはちょっとまずいというか、リアリティがなさすぎでは?」と思いましたが、物語が進行するうちに、少女は親からひどい虐待を受けており、学校でもいじめられ、自殺していたところを青年に助けられた。つまり、「誘拐」ではないんですね。力ずくで無理やり誘拐したのかと思っていたら「保護」しただけだった。

なるほど。それならわかる。

警察をはじめ「誘拐」と考えている世間と、「保護」されてついには逃げ切れたら「結婚」しようとなる当の二人との「ずれ」がこの作品の面白さなのだから、未成年を誘拐する話だから不適切だ、犯罪を助長するという言説は的外れというか過剰反応というか。

だったら、巷にあふれる殺人事件を題材にしたドラマや映画はどうなるんでしょうか。そもそも無理やり誘拐した末にストックホルム症候群に陥る映画に『完全なる飼育』がありますが、あれはいいんでしょうか。実話なんですが。


SNS全盛時代のドラマ作りの難しさ
私は前述のとおり放送の是非よりも、SNS全盛のこのご時世において、この手のドラマを作るときの難しさのほうが気になりました。

親に虐待を受けている。
学校でいじめを受けている。
(次回の予告編を見るかぎり)担任教師から猥褻行為を受けている。

ここまで周囲を悪人だらけにしないといけないのか、と。

いじめているクラスメイトは主人公が行方不明になってるのにそれを喜んでいるというのはリアリティに欠けると思いました。普通は怖がるんじゃないですか? 

逆に言うと、冒頭で「逃げ切れたら結婚しよう」と言わせないと読者や視聴者からのクレームがつく。だから極悪人に虐げられている主人公という設定が必要だったのかもしれません。だからポリティカリー・コレクトネスがドラマ作りを歪めてしまったということも言えるかもしれません。

『完全なる飼育』は普通に誘拐から始まって、無理やりレイプしたりという描写があったあと、徐々に恋愛関係に傾いていくわけですが、SNSでクレームが拡散する現代においては、そのような悠長なことはやってられないのかな、と思いました。

『万引き家族』と比較する文章を読みました。あの映画も世間的には「誘拐」、主人公たちにとっては「保護」を描いていましたが、なぜあれが上映自粛になったり観客からクレームがつかないかといえば、それは「劇場映画だから」ということに尽きるでしょう。
上映中にSNSで実況して悪評が拡散することもないし、それに何より2時間で終わりますから。終わるころには多くの観客が主人公たちに共感している。

でも『幸色のワンルーム』は「連続ドラマ」ですからね。誘拐(保護)から始まって徐々に少女と青年に共感するように仕向けることができない。それをやったらひどいバッシングを受けて打ち切りも覚悟せねばならない。だから冒頭で納得させるために周囲の人物をリアリティに欠けるほどの極悪人に設定しないといけない。

とても難しい問題です。できることなら、そういうことを恐れない作品が出てきてほしいとは思っていますが。


『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅はかであったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、マコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通に、マコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して言ってきたことではなかったでしょうか。


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『シェイプ・オブ・ウォーター』(単純につまらない)

賞レースを席巻している『シェイプ・オブ・ウォーター』を見てきましたが、これが心の底からつまらない映画でした。


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「悪」の創出
昨日、たまたま『イングロリアス・バスターズ』を再見しまして、こんなツイートをしました。

「ナチスを『絶対悪』として利用するだけの作劇は作家的怠慢だと思う。『独創的な悪』の創出は作家的使命のはずなのにタランティーノはそこから逃げている」


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『シェイプ・オブ・ウォーター』は悪を造形することから逃げてはいませんが失敗してますよね。マイケル・シャノン演じる極秘研究所のボスみたいな男(中間管理職?)は汚い言葉を吐き暴力を振るうだけで、少しも独創的でもなければ魅力的でもない役です。

まだしも『イングロリアス・バスターズ』のクリストフ・ヴァルツのほうが残忍さをエレガントな衣で隠していて面白いですが、彼にしたところで「総統の命令を粛々と遂行しているだけ」で本当のところ悪い奴なのかどうかは最後までわかりません。ブラピに頭の皮をはがれるときの子どもみたいな恐がり方から察するに「ただの小役人」だった可能性が高い。

ところで、『シェイプ・オブ・ウォーター』では結末が途中でわかりますよね。悪役が暴力しか振るわないんだからああなる他ありません。


わからない行動原理
それよりも、主人公サリー・ホーキンスが怪獣を家にこっそり連れ帰る動機がまったくわかりません。


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喋れないために誰も理解してくれない。怪獣も喋れないからお互い理解しあえる。というのはわからないではありませんが、彼女にはリチャード・ジェンキンスという孤独を分かち合う隣人がいるし、職場にはオクタヴィア・スペンサーという彼女の面倒を見てくれる心やさしい同僚がいます。

だから少しも孤独じゃない。「私には怪獣しかいない」というところまで追いつめられていません。

男がほしかった? 確かにオナニーシーンがあるし、後半は怪獣とセックスしまくってました。しかしですね、主人公の周りにはまともな男が出てきません。リチャード・ジェンキンスはゲイだし、マイケル・シャノンは女を暴力的に扱うことしか考えていない。ソ連のスパイは諜報戦のことしか頭にない。

怪獣との恋愛を描く。
それはドラマ作りとして志が高い。ハードルが高すぎるほど高いですから。
しかし、それならば、前段としてまず「人間との恋愛」を描かないといけないのでは? 愛し合っているごく普通の男がいる。「私には彼しかいない」と思っている。でも何らかの問題のために二人の関係が破綻してしまう。だから怪獣しかいない! となればグッと乗れたと思うんですが、そうなっていません。だから、この映画は完全にご都合主義で作られていると思うわけです。


ご都合主義
ご都合主義といえば、クライマックス前のマイケル・シャノンもそうですよね。

同僚がソ連のスパイだとわかり、「あの掃除婦が……」というのを聞いて彼はオクタヴィア・スペンサーの家に行くんですが、なぜサリー・ホーキンスの家じゃないんでしょうか。

怪獣がいなくなったときはまだサリー・ホーキンスが怪しいとは思われていなかったようで全員のタイムカードを調べていましたが、あのとき、サリー・ホーキンスは指で「ファックユー」とやりますよね。マイケル・シャノンにははっきり意味がわからなかったようですが、サリー・ホーキンスが自分によからぬ思いを抱いているのはわかったはずで、「掃除婦」と聞いて真っ先にオクタヴィア・スペンサーを思い浮かべるのはどう考えても不自然です。サムソンとデリラの逸話を喋りたかったから? まさか!

もしあそこで真っ先にサリー・ホーキンスの家に急行していたらあの美しいラストシーンはなかったわけですから、完全なご都合主義です。登場人物が作者の操り人形でしかない。

セットや衣装の色づかいが目に心地よく、照明もとても繊細でヴィジュアル的にはとても楽しめる映画でしたが、お話にまったく乗れなかったのでお金返してほしい。

これでアカデミー賞最有力候補??? 信じられません。昨日見た『ビッグ・シック』のほうがよっぽど面白かったですよ。

『ビッグ・シック』(直球と変化球のほどよい按配)

もうじき発表されるアカデミー賞で脚本賞にノミネートされている『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』を見てきたんですが、これがめちゃんこ面白かった!!!


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予告編を見たかぎりでは、
「熱烈に愛し合ったパキスタン人の男とアメリカ人の女が宗教の壁を乗り越える」という現代版『ロミオとジュリエット』だと思っていました。でもぜんぜん違うんですね。

2年前に『マジカル・ガール』という映画がありました。芝山幹郎さんが「ナックルボールの連投」という独特の言い回しで批判していましたが、この『ビッグ・シック』にはナックルボールはありません。かといって『ロミオとジュリエット』のような剛速球でもない。直球にほどよくカーブやフォークなどありふれた変化球を織り交ぜたナイスピッチングな一品に仕上がっています。


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この二人のラブストーリーには違いないし、違う国、違う宗教という壁が立ちはだかるというのも確かにその通りなんですけど、予想と違ったのは、まず、この二人がそれほど熱烈に愛し合っているわけではない、ということです。

主人公クメイルはコメディアン志望の男で、厳格なイスラム教の家庭で育った人間ですが、アッラーに祈りを捧げるふりをしてゲームをするような不信心者です。パキスタンでは親が見つけてきた相手と見合い結婚するのが習わしで母親が何人もの女を連れてきますが、クメイルは見合い結婚なんかハナからする気がない。

舞台を見に来たエミリーという女とすぐベッドインしてしまうんですが、このエミリーも「いまは誰ともつきあう気がない」という女で、実はバツイチ。それを隠していたくせにクメイルが何度も見合いしていることを知ると激怒して別れるハメに。

愛し合った男女に壁が立ちはだかるんじゃなくて、男が女にそっぽを向かれてしまう話なんですね。イスラム教徒とキリスト教徒。アメリカ人と移民の子。という現代的な仕掛けを施しておきながら、実はメインプロットに宗教や政治はさほど関係してこないのが一番の変化球。

クメイルが他の女と寝ていると電話がかかってきて「エミリーが重病でERにいる」と。ここからエミリーの両親が出てきて、9・11の話で険悪な空気になったりするんですが、クメイルの舞台を見に行くと「アイシスに入れ!」と叫ぶ不届きな客がいて、エミリーの両親は彼と大喧嘩し、一気にクメイルとの距離が縮まります。

ここはちょいと残念でした。宗教や政治が障害になるのならいいんですが、逆に主人公にとって都合のいいアイテムと化してしまっています。

でもそれはこの映画にとって小さな瑕疵です。

ここからエミリーの意識が戻り、縒りを戻し、クメイルの両親も彼らの結婚を祝福する。という流れだろうと予想したら、また裏切られます。

エミリーの両親と話をし、意識の戻らないエミリーを見つめているとクメイルは次第にエミリーを心から愛していることに気づきます。そしてエミリーの意識が戻ります。でも、クメイルのことが許せず「出てって!」と言うばかり。
しかも見合い結婚をする気もなく礼拝もせず白人女とデキていたと知った両親は激怒し、コメディアンとして大成するためにニューヨークへ行くというクメイルに対して、父親は涙ぐみながらも「最後の別れだ」と言い残し、クメイルのことを決して許さず目も合わせようとしない母親と一緒に去っていきます。

何と! 主人公と両親は和解しないのでした。イスラム教徒がキリスト教徒を絶対に受け容れないというなかなか過激な展開ですね。これもなかなかの変化球。

で、ニューヨークで舞台に立つクメイルの前に再度観客としてエミリーが現れ、ボーイ・ミーツ・ガールの物語は幕を閉じます。これが実話と知って驚きました。別に実話だからといって映画の価値が高まるわけではないし、完全なフィクションだからといって映画の価値が下がるわけでもないですが、神を信じていないイスラム教徒とか、キリスト教徒との結婚を絶対に許さないイスラム教徒とか、そういうなかなか(映画としては)発想しづらい「変化球」は実話だから可能だったのですね。なるほど。

『マジカル・ガール』のナックルボールは確かにしっくり来ませんでした。『スリー・ビルボード』のような大リーグボール級の変化球も好きになれません。

でも、この『ビッグ・シック』のような、ボーイ・ミーツ・ガールという古典的な直球にほどよい変化球が織り交ぜられたのが自分の好みということをいまさらながら再確認させてもらったのでした。

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