聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ラブストーリー

『クレイジー・リッチ!』(少しも乗れない大ヒット映画)

アメリカで空前の大ヒットという話題の映画『クレイジー・リッチ!』を見てきたんですが、何でこんなのがヒットしてるの? と理解に苦しむ映画でした。

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まず、ファーストシーン。
1988年のロンドンから始まるのがわからない。ミシェル・ヨーが高級ホテルを買収するシーンがなぜ必要? しかもファーストシーンに。画像の二人が主役なのに。母親の若き日の買収劇なんか意味がない。

そして、すぐ現代のニューヨークになり、ポーカーでブタの役なのにブラフを仕掛けて勝ち、条件つき確率論のレポートを書くよう指示する主人公レイチェル・チュウが描かれます。なぜこんな登場のさせ方なのでしょう? 条件つき確率論というのが何か物語に関係するのかと思ったら何もなし。終盤、ミシェール・ヨーとの麻雀でそれが発揮されるのかと期待したんですがそれもなし。

この映画はあくまでも金持ちの御曹司ニックと恋仲になる女性レイチェルがその事実を知って戸惑う、という内容なのに、いくらレイチェルの職業がニューヨーク大学の教授だからといって、講義のシーンから始められても「え、何で?」と戸惑うばかり。

それからもっと大事なことは、彼氏が大金持ちの御曹司であることになぜレイチェルだけが気づかなかったのか、ということ。

やっとデートのシーンになったかと思ったら、すぐにまったく何の関係もない女の視点から二人が捉えられ、彼女が二人を写メに撮ってSNSに投稿。ネットでは誰もが「これニック・ヤンじゃない?」と話題になり、この女は誰だ!? となる。なのに恋人のレイチェルだけが彼の素姓を知らないなんてありえない。学友のペクですら「ニック・ヤン」という名前を聞いただけで「え、あの!?」と仰天するのに。レイチェルは貧しい家の生まれという設定ですが、いまは晴れてニューヨーク大学の教授という職を得た成功者なんだから彼女だけ知らないという設定はあまりに嘘くさい。

ニックは「君に金持ちだと知られたくなかった。ありのままの自分を見てほしかった」みたいなことを言いますが、その気持ちは理解できるにしても、あんな絵に描いたような大富豪の御曹司がジュース屋のポイント貯めたりしますかね? バスケはいつも古い体育館で、とも言ってたし。

貧しい家の娘が大富豪の御曹司と恋に落ちる。さまざまな妨害、誹謗中傷に遭うも最後は結ばれる。

という物語は新味はないものの幅広く支持を得られるものだから別にいいと思います。物語自体が常に斬新でなければいけないとは思いません。

しかし、物語を本当のことだと信じさせるにはそれなりの用意周到さが必要です。

この『クレイジー・リッチ!』は、物語の背景設定があまりにお粗末です。なぜ主人公だけが彼氏の素姓を知らなかったのか。そこに用意周到さがあれば信じることができる。

情報の提示の仕方にも疑問があります。
前述のとおり、主役二人のデート場面でニックが大金持ちの御曹司であることが観客にだけ提示されますが、これはあまりにもったいない。

主人公が「この人、ひょっとして実家が大金持ちなのでは……?」と疑問を抱くのと観客が同じ疑問を抱くタイミング、そしてその疑惑が事実だったことを主人公が知るのと観客が知るタイミングを同じにすべきです。でないと主人公に感情移入できません。

主人公がもっている情報量と観客がもっている情報量を同じにするか、いつどちらを大きくするかというのはとても大事なことですが、この映画の脚本家は何も考えていません。

だから、最初は誰が主人公なのかよくわからなかったのです。乗れなかったのはそういうわけです。



『女と男の観覧車』(もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいのでは?)

ウディ・アレンの新作『女と男の観覧車』。

冒頭のコニーアイランドで若い女が練り歩くシーンは明らかにダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』へのオマージュでしたね。
オマージュといえば、サークの50年代メロドラマを現代に蘇らせようとしているのがトッド・ヘインズ。2002年の『エデンより彼方に』がいまだに印象深いですが、そのトッド・ヘインズがマイケル・カーティスの『ミルドレット・ピアース/深夜の銃声』を連続ドラマとしてリメイクしたことはあまり知られていない。あの連ドラに主演したのがまさに『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットでした。
この映画の舞台も50年代だし、ダグラス・サーク→トッド・ヘインズ→ケイト・ウィンスレットという感じでつながっているのですね。


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さて、そのケイト・ウィンスレットのややオーバーアクション気味の芝居が鼻につくこの映画では、前作からアレン組の一員となったヴィットリオ・ストラーロが撮影監督の任についています。巷間ではストラーロの光の捉え方が絶賛されているようですが、私はまったくいいと思いませんでした。

いや、いいと思ったショットもたくさんあったんですよ。

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↑こういうのとか。

↓こういうのも。

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暖色系のアンバーが基調となっているこの映画の良さを表すいいショットですね。

しかし……

初めてケイト・ウィンスレットとジャスティン・ティンバーレイクが愛を交わす場面で、ケイト・ウィンスレットの顔がアンバー一色になり、かと思うとサァーっと寒色系のブルー一色になったりするのがどうにも好きになれません。同じようなライティングが義理の娘ともめる最後のほうのシーンでもありましたが、とにかくダサい。原色に近いくらいの強いフィルターを使って暖色と寒色をまぜこぜにするというのが、何の意図があるのかわからないし、これ見よがしな感じがしてまったく好きになれない。
それに、ケイト・ウィンスレットが登場するシーンとラストシーンで、顔が飛んでしまうくらい強い光を当てていますが、あれもダサい。あんなのストラーロじゃなくても撮れるでしょう。

ヴィットリオ・ストラーロが撮影した映画で私のお気に入りは、

『ディック・トレイシー』
『シェルタリング・スカイ』
『地獄の黙示録』

あたりですが、『女と男の観覧車』のような何の意図も感じられないライティングはなかったですよね。『ディック・トレイシー』は原色たっぷりでしたが、あれは原作のマンガの色をそのまま表現しようという意図があった。でも『女と男の観覧車』には何の意図もありません。ただ「こういう画を撮りたい」という欲望しか感じられない。監督の要望通りに撮っただけでしょうが、しかし、アレンは何ゆえにあのようなダサい画を求めたのか。

私にとって、ウディ・アレン作品の撮影監督といえばカルロ・ディ・パルマです。アレンといえばカルロ・ディ・パルマといってもいいくらい。しかし調べてみると、カルロ・ディ・パルマと組んでいたのは『ハンナとその姉妹』(1986)から『地球は女で回ってる』(1997)までのほんの10年ちょっとだけなんですね。おそらくそこで病に倒れたのでしょう。2004年に亡くなるまで何も撮っていません。

アレンはその後、

スヴェン・ニクヴィスト
ダリウス・コンジ
ヴィルモス・ジグモンド
ハリス・サヴィデス

といった錚々たる名前と一緒に仕事をしていますが、カルロ・ディ・パルマほど相性の合う人とは巡り合えていないようです。

カルロ・ディ・パルマが撮っていた頃はほぼワンシーン・ワンカットでした。アレンは自身が役者でもあるから芝居をとても大事にする。カルロ・ディ・パルマにはワンカットで撮る技術に長けていたからアレンは彼に頼りきりだったと推察します。
ただ、ワンカットで撮るためには美術監督がそのようなセットを組んでくれないといけない。アレンはずっとサント・ロカストという美術監督と組んでいますが、同じ人と組んでいるのになぜワンカットで撮れないセットにOK出したのか、まったくわかりません。

この『女と男の観覧車』はとにかくカットバックがものすごく多かったですよね。でも、イーストウッドみたいにカットバックを自家薬籠中のものにした監督とは違い、アレンは役者の芝居を細切れで見せる監督ではありません。だから編集の呼吸が悪い。イーストウッドならここぞというところでつなぐからため息が出るほど素晴らしいカットバックになるんですが、アレンにはそのような腕がないからどうにも見苦しい。

光や色に執拗にこだわるから役者への演技指導がおろそかになっている気がしました。私はケイト・ウィンスレットの大ファンですが、この映画の彼女のオーバーアクションには辟易させられました。単純に芝居が下手な女優にしか見えませんでした。

もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいと思います。


『幸色のワンルーム』(SNS時代の連続ドラマ作りの難しさ)

製作元のABCテレビは普通に放送したのに、親分のテレビ朝日はビビッて放送を自粛してしまったという、いわくつきの『幸色のワンルーム』第1話を見てみました。

私は、放送の是非よりも、SNS全盛時代におけるドラマ作りの難しさを痛感しました。

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放送自粛の是非
冒頭はギョッとなりましたね。誘拐されたという14歳の少女が、誘拐犯が盗撮した自分の写真で埋め尽くされた部屋の壁を見て「こんなに私のことを好きになってくれる人なんだから」と言うので。

さすがにその時点では、「これはちょっとまずいというか、リアリティがなさすぎでは?」と思いましたが、物語が進行するうちに、少女は親からひどい虐待を受けており、学校でもいじめられ、自殺していたところを青年に助けられた。つまり、「誘拐」ではないんですね。力ずくで無理やり誘拐したのかと思っていたら「保護」しただけだった。

なるほど。それならわかる。

警察をはじめ「誘拐」と考えている世間と、「保護」されてついには逃げ切れたら「結婚」しようとなる当の二人との「ずれ」がこの作品の面白さなのだから、未成年を誘拐する話だから不適切だ、犯罪を助長するという言説は的外れというか過剰反応というか。

だったら、巷にあふれる殺人事件を題材にしたドラマや映画はどうなるんでしょうか。そもそも無理やり誘拐した末にストックホルム症候群に陥る映画に『完全なる飼育』がありますが、あれはいいんでしょうか。実話なんですが。


SNS全盛時代のドラマ作りの難しさ
私は前述のとおり放送の是非よりも、SNS全盛のこのご時世において、この手のドラマを作るときの難しさのほうが気になりました。

親に虐待を受けている。
学校でいじめを受けている。
(次回の予告編を見るかぎり)担任教師から猥褻行為を受けている。

ここまで周囲を悪人だらけにしないといけないのか、と。

いじめているクラスメイトは主人公が行方不明になってるのにそれを喜んでいるというのはリアリティに欠けると思いました。普通は怖がるんじゃないですか? 

逆に言うと、冒頭で「逃げ切れたら結婚しよう」と言わせないと読者や視聴者からのクレームがつく。だから極悪人に虐げられている主人公という設定が必要だったのかもしれません。だからポリティカリー・コレクトネスがドラマ作りを歪めてしまったということも言えるかもしれません。

『完全なる飼育』は普通に誘拐から始まって、無理やりレイプしたりという描写があったあと、徐々に恋愛関係に傾いていくわけですが、SNSでクレームが拡散する現代においては、そのような悠長なことはやってられないのかな、と思いました。

『万引き家族』と比較する文章を読みました。あの映画も世間的には「誘拐」、主人公たちにとっては「保護」を描いていましたが、なぜあれが上映自粛になったり観客からクレームがつかないかといえば、それは「劇場映画だから」ということに尽きるでしょう。
上映中にSNSで実況して悪評が拡散することもないし、それに何より2時間で終わりますから。終わるころには多くの観客が主人公たちに共感している。

でも『幸色のワンルーム』は「連続ドラマ」ですからね。誘拐(保護)から始まって徐々に少女と青年に共感するように仕向けることができない。それをやったらひどいバッシングを受けて打ち切りも覚悟せねばならない。だから冒頭で納得させるために周囲の人物をリアリティに欠けるほどの極悪人に設定しないといけない。

とても難しい問題です。できることなら、そういうことを恐れない作品が出てきてほしいとは思っていますが。


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