聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ヨーロッパ映画

『はじまりのボーイ・ミーツ・ガール』(「夢は素晴らしい」というイデオロギー)

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今年の映画初めは『はじまりのボーイ・ミーツ・ガール』。
しかしこれがいきなり今年のワースト候補。とにかくイデオロギー的にまったく納得できません。(以下ネタバレあります)

何よりも、失明の危機にあるヒロインが治療を拒否しているということに納得いきません。チェリストの夢を優先するために治療せずに音楽院に行くと言い張るのですが、え、何で? と。音楽が夢だから聴覚異常なら治療するけど視覚異常は治療しないってことでしょうか。そんなバカな。彼女はまだ若すぎるほど若い。治療してから音楽院に行ってもいいんじゃないの?

この映画の根底には、「夢を追いかけるのはとっても素敵なこと」というイデオロギーが流れていますが、私は健康より夢を優先させる考え方には同意できません。

彼女が主人公の男の子に近づくのが、好きとかそういうことじゃなくて自分の目の代わりになってもらおうとした、というのは面白かったです。

でも、いま「主人公」といいましたが、夢を取るか治療を取るかという葛藤の狭間にいる女の子じゃなくて、彼女に恋する男の子が主人公というのがこの映画のすべてを象徴している気がします。

最終的に健康よりも夢を優先させること自体は悪いことだとは思いません。

が、そこに何の葛藤もないのが問題なのです。普通なら、目を取るか夢を取るかで葛藤する女の子が主人公でしょう。そうじゃないのは、作者たちが「夢のためなら視覚なんか捨ててもかまわない」と何の葛藤もなく信じているということです。その悩みのなさに腹が立ちました。

二人の登場のさせ方も悪い。

オープニングクレジットはとても素敵で「これは新年早々いい映画が見られそうだ」と思ったんですが、次のカットでいきなり女の子のアップ。

そして、彼女の目が悪いらしいという描写があって、登校の途中で主人公がいきなり登場。彼女を陰から見ています。彼女は彼のいつもの行動に微笑むんですが、主人公の日常も少しだけ描いてから尾行のシーンに行くべきだと思います。登場のさせ方に何も工夫がない。

それに、最初にヒロインの目が悪いとわかる描写をしてしまっていいのでしょうか。
主人公が一方的にヒロインを尾行したり教室でチラ見したりしていると、いきなり彼女から勉強を教えてくれたり手をつないできたりドキドキしてたら実は利用されていた。観客も主人公と一緒に驚き、彼女を責める主人公に肩入れする。

でも、「目が見えなくなるの」というヒロインの言葉にまた観客も主人公と一緒に驚愕する、という構成にしたほうが絶対いいと思います。あくまで、彼を主人公にするなら、ということですが。

とにかく、作者が思想的にも演出的にも何も考えていないことがはっきりわかったのでイライラさせられっぱなしでした。



『女神の見えざる手』(現代アメリカ映画の深い闇)

一部で熱狂的に迎えられているジョン・マッデン監督、ジェスカ・チャステイン主演による『女神の見えざる手』を見てきました。


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うーん、、、なんというか、銃規制法案に反対する者を完全に「悪」として捉えているのが白けますね。まぁジェシカ・チャステインも相当汚い手を使っているわけだから「どっちもどっち」かもしれませんが、銃規制に賛成の人間を主人公に据えて、彼女が最終的に勝つわけだから、作者たちの政治的立場がどちらに軸足を置いているかは簡単に察しがつきます。

政治的に中立な人間なんかいないわけだから、政治信条そのものにいいも悪いもありません。が、それを映画とかフィクションに仕立てる場合には、主人公が信じていることにも弱点があり、敵対者たちの言い分にもそれなりの理がある、というふうにしないと、最近アメリカ映画に多い、アメコミ原作のヒーローものとどう違うというのでしょう。

乱射事件の被害に遭い生き延びた女性が再び銃を突きつけられるも、合法的に拳銃を所持していた民間人に助けられる場面をもっと掘り下げたら面白くなったと思うんですが、主人公が勝つか負けるかというところにばかり気を取られて、挙句の果てに敵失で勝利というのは「金返せ!」と言いたくなります。

この映画は正確にはフランスとアメリカの合作ですが、フランス側はあのリュック・ベッソンが設立した「ヨーロッパ・コープ」が関わっており、その精神においてはアメリカ映画のようなものです。それも悪い意味で。


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先日、デビッド・フィンチャーがこんな発言をしました。

「でも、いまのアメリカ映画界ではキャラクター・ドラマというものができない。だから活動の場を連続テレビドラマに移そうと思う」

フィンチャーといえば、『明日に向って撃て!』を200回見たことが有名ですが、『明日に向って撃て!』のようなキャラクター・ドラマは最近のアメリカ映画ではほとんど見られなくなりました。

ちょっと前に『明日に向って撃て!』と同じポール・ニューマン主演、監督はシドニー・ポラックによる名作『スクープ/悪意の不在』を再見したんですが、『女神の見えざる手』と同じ社会派ドラマなのに、何と手触りの違うことか。


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上の画像の、奥にメインキャラクターがいるとすると、手前の通り過ぎる人はただのエキストラで「シャッター」と呼ばれます。

最近のアメリカ映画で主人公の事務所とかが舞台になるとこのシャッターがものすごく多いと思いませんか?

『スクープ』でも、大新聞社のオフィスのシーンが何度もありますが、シャッターなんかほとんどなかったですよ。

シャッターが多いと確かに人が多いなかでスリリングな場面が演じられているという「臨場感」を出すにはもってこいの手法なんでしょうが、あまり落ち着いて見られない。クライマックスみたいな場面ばかりのアメコミ映画とほとんど同じです。デビッド・フィンチャーが嫌気がさしたのもわかります。

『女神の見えざる手』では公聴会のシーンが非常に重要なカギを握っていますが、全体を捉えるマスターショットもあり、それぞれを正面から捉えたバストショットもあり、ある人物の見た目を望遠で捉えた主観ショットもあり、切り返しがあり、移動撮影があり、バラエティに富んでいますが、例えば同じ公聴会の場面のある『ゴッドファーザーPARTⅡ』のように落ち着いて見ていられるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。『ゴッドファーザーPARTⅡ』の公聴会は、ある一方からのアングルしかなかった。


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昔は、テレビカメラを一方にしか置けなかったからでしょうか。最近の公聴会の様子を見ると、結構アングルがいろいろあります。

そういう事情を反映しているのならある程度しょうがありませんが、しかし、いずれにしても、最近のアメリカ映画は、シャッターが多く、かつ編集が目まぐるしい。落ち着いて見られない。

落ち着いて見られないからキャラクターのドラマとして不出来なのか、キャラクターが描けていないから目まぐるしい映像テクニックでごまかそうとしているだけなのか。

どっちにしろ、またまた「現代アメリカ映画の奥深い闇」を見てしまった思いです。

『ゾンビ』(「妊婦」のコードを破ってみせたロメロ)

ジョージ・A・ロメロ監督追悼第2弾としてリビングデッド・シリーズ第2弾の『ゾンビ』を再見しました。(当然のことながらダリオ・アルジェント監修版です)

追悼第1弾記事
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)


この『ゾンビ』も何度見ても面白い映画ですが、新しい発見がありました。

いままで、カッティングがあまりにうまいとか、動きはのろいのに大量に襲ってくると異常なまでに恐ろしいゾンビの動きを発明したのはやはり天才だとか、そういうところしか見ていませんでした。

いままで知っていたはずなのにスルーしていたことがあったんですね。


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このヒロインが「妊娠」していることです。

最後のほうでゾンビになってしまう男の恋人で、中盤あたりで妊娠していることが明かされます。

しかも、ショッピングモールに強盗団が侵入してくる直前にはかなりお腹が大きくなっている。いままでまったく気づきませんでした。

私はこれまでずっと映画やテレビドラマを見ていて不満というほどではないですが、自分ならこうする、という実力を棚に上げた野心を抱いたことがありました。

それは、「妊婦に出産も流産もさせない」ということなんです。

フィクションに出てくる妊婦って必ずクライマックス近辺で出産か流産をしますよね。映画において妊婦というのは、クライシスを喚起したり、愁嘆場を盛り上げるための存在なわけです。

ところが、この『ゾンビ』の妊婦は出産も流産もしない。もう40年前の映画が私の野心を先取りしていたのでした。妊婦として登場し妊婦として幕切れを迎える、というのは何とも斬新です。

しかも彼女は子どもの父親がゾンビとして射殺される場面を目撃しているというのに、お腹の中の子どものために絶対に逃げ延びるとかそのような決意もしないし、「ゾンビが支配したこんな世の中に子供を産んでもかわいそうなだけだ」と堕ろすことを考えもしない。
妊婦だから動きが悪く足手まといになって仲間たちに迷惑をかけることもありません。それどころか結構な戦力として活躍します。

つまり、ロメロは、「映画における妊婦のコード」を破って見せたのですね。妊婦は出産なり流産なりしてクライマックスを盛り上げるコードを背負ってきました。クライマックス以外でも、つわりのような肉体的な反応や、マタニティ・ブルーなど精神的な反応によって意外性をもたせたり、物語を新しい方向へ転回させたりするコード。

つまりすべての映画において妊婦は「役割」でしかなかった。

ロメロは、妊婦のコードを破ることで、妊婦を「役割」から解放し、一人の「人格」として扱いました。

これを言葉の真の意味で「フェミニズム」というのだと思います。

『ゾンビ』以外に妊婦のコードを破った作品を私は知らない。



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ジョージ・A・ロメロ。
やはりスゴイ男です。




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