聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ヨーロッパ映画

『ゾンビ』(「妊婦」のコードを破ってみせたロメロ)

ジョージ・A・ロメロ監督追悼第2弾としてリビングデッド・シリーズ第2弾の『ゾンビ』を再見しました。(当然のことながらダリオ・アルジェント監修版です)

追悼第1弾記事
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)


この『ゾンビ』も何度見ても面白い映画ですが、新しい発見がありました。

いままで、カッティングがあまりにうまいとか、動きはのろいのに大量に襲ってくると異常なまでに恐ろしいゾンビの動きを発明したのはやはり天才だとか、そういうところしか見ていませんでした。

いままで知っていたはずなのにスルーしていたことがあったんですね。



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このヒロインが「妊娠」していることです。

最後のほうでゾンビになってしまう男の恋人で、中盤あたりで妊娠していることが明かされます。

しかも、ショッピングモールに強盗団が侵入してくる直前にはかなりお腹が大きくなっている。いままでまったく気づきませんでした。

私はこれまでずっと映画やテレビドラマを見ていて不満というほどではないですが、自分ならこうする、という実力を棚に上げた野心を抱いたことがありました。

それは、「妊婦に出産も流産もさせない」ということなんです。

フィクションに出てくる妊婦って必ずクライマックス近辺で出産か流産をしますよね。映画において妊婦というのは、クライシスを喚起したり、愁嘆場を盛り上げるための存在なわけです。

ところが、この『ゾンビ』の妊婦は出産も流産もしない。

もう40年前の映画が私の野心を先取りしていたのでした。

妊婦として登場し妊婦として幕切れを迎える、というのは何とも斬新です。

しかも彼女は子どもの父親がゾンビとして射殺される場面を目撃しているというのに、お腹の中の子どものために絶対に逃げ延びるとかそのような決意もしないし、「ゾンビが支配したこんな世の中に子供を産んでもかわいそうなだけだ」と堕ろすことを考えもしない。
妊婦だから動きが悪く足手まといになって仲間たちに迷惑をかけることもありません。それどころか結構な戦力として活躍します。

つまり、ロメロは、「映画における妊婦のコード」を破って見せたのですね。妊婦は出産なり流産なりしてクライマックスを盛り上げるコードを背負ってきました。クライマックス以外でも、つわりのような肉体的な反応や、マタニティ・ブルーなど精神的な反応によって意外性をもたせたり、物語を新しい方向へ転回させたりするコード。

つまりすべての映画において妊婦は「役割」でしかなかった。

ロメロは、妊婦のコードを破ることで、妊婦を「役割」から解放し、一人の「人格」として扱いました。

これを言葉の真の意味で「フェミニズム」というのだと思います。

『ゾンビ』以外に妊婦のコードを破った作品を私は知らない。







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ジョージ・A・ロメロ。
やはりスゴイ男です。




『ヒッチコック/トリュフォー』を見て思ったこと

今日はサービスデー。ということで、話題のドキュメンタリー『ヒッチコック/トリュフォー』を見てきました。

見ている間はとても楽しんだのですが、終わってみるとどうにも煮え切らない思いが湧き出してきました。



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『ヒッチコック/トリュフォー』といえば、『映画術』という大著のサブタイトルです。ヒッチコック映画に心酔してやまないフランソワ・トリュフォーが憧れの御大にインタビューして映画作りの秘訣を聞き出した本です。

この映画はその本というか、本のもとになったインタビュー音声をもとに構成されています。

ほとんどは『映画術』に書いてあることばかりなので、映画代の3倍のお金を払って『映画術』を買って読んだほうが映画監督志望者にとってはよっぽど有益なんじゃないだろうかとも思いましたが、問題はもっと他のところにありました。



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マーティン・スコセッシ
デビッド・フィンチャー
ウェス・アンダーソン
オリヴィエ・アサイヤス
黒沢清
ピーター・ボクダノヴィッチ
ポール・シュレイダー

などなど、現代映画の最先端を走る監督たちにもヒッチコック映画の真髄をインタビュー形式で聞き出してるんですが、これがこの映画の唯一にして最大の欠点だと思います。

いや、監督に話を聞くなと言っているのではありません。監督だけに話を聞いているのがよくないと思うんです。

『サイコ』のブルーレイの特典映像では、脚本家ジョゼフ・ステファノのインタビューがあって、「ヒッチコックとは絵コンテを書くようにしてワンショットごとに脚本を書いていった」みたいな証言がありました。他にも、よく憶えてませんが何か言われて激怒したみたいな証言も。 

例えば、ロバート・タウン、デビッド・コープ、スティーブン・ザイリアン、ブライアン・ヘルゲランド、トニー・ギルロイ、ケネス・ロナーガンなどなど現代映画を代表する脚本家たちに、

「ヒッチコックから脚本を依頼されたらどう思うか」
「ジョゼフ・ステファノと同じようなことをもしヒッチコックから言われたらどう思うか」
「『めまい』や『サイコ』をリメイクするとしたらどういうふうに脚色するか」

という質問をして面白い答えを引き出すのも一興だったでしょう。

この映画自身が言っているように「ヒッチコックは視覚的に考えていた」のだから、心理的に考えるのが得意な脚本家に「あなたの脚本の書き方は間違っているのではないか」と意地悪な質問を投げかけるのも一興だったかもしれません。

また、『映画術』で語られる有名な逸話、「俳優は家畜のように扱うべきだ」という発言に関して、いろんな俳優にどう思うか聞いてみるのも面白かったと思います。

『汚名』の長いキスシーンを演じてくれと依頼されたらどう思うか、とか。
モンゴメリー・クリフトの気持ちがわかるかどうか、とか。

あと、この映画では一切触れてませんでしたが、デビッド・O・セルズニックとの関係。

ヒッチコックは、『レベッカ』が最終編集権をもったセルズニックによって自分の思った通りの映画にできなかったことを教訓に、次の映画から自分の思い通りにしか編集できないような撮り方をしたと語っていました。

フランク・マーシャル、キャスリーン・ケネディ、ジェリー・ブラッカイマー、ブライアン・グレイザーといったハリウッドの超大物プロデューサーたちに、

「そういう撮り方をする監督をどう思うか」
「仮にその映画が大ヒットしてもいやか」

など本音を引き出すインタビューを敢行するのも一興だったでしょう。

あのプロデューサーはこう言っている、あの俳優はヒッチコックのような監督はいやだと言っている、と件の監督たちにぶつけて、彼らの反応を映し出すのも一興だったでしょう。

そうすれば、トリュフォーの単独インタビューが時を超えて映画史全体を照らし出したかもしれませんし、これからの未来の映画史を作りえたかもしれません(ヒッチコックが好き/嫌いということで意見の一致を見た人たちの出会いを促すという意味で)。

ヒッチコックが嫌いといえば、タランティーノは「ヒッチコック好きは無能な映画ファン」と公言していました。彼になぜインタビューしなかったんでしょう? 

とにかくこの映画は監督たちだけにインタビューしてるのがはっきりよくないし、無批判にヒッチコックを礼賛する内容にしかなっていません。

ヒッチコックを映画史のメインストリームに担ぎ出すために使われた「作家主義」という考え方の末路がこれとは、あまりにも悲しすぎるではありませんか。


 

『ルーム』(母子と父子、そして天窓)

ブリー・ラーソンがアカデミー主演女優賞に輝いた話題の映画『ルーム』を見てきました。
この映画、演技賞だけじゃなく、作品賞にも監督賞にも脚本賞にもノミネートされてたのでめちゃ期待してたんです。

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見てる間、ハラハラドキドキ、いったいどうなるの、どこへ着地するの、と思っていたら、思いがけないところへ行って見せてくれまして、ジーンと感動したんです。
普段はエンディングクレジットなんか見ない私が最後まで立てなかったんだから相当な感動だったはずです。

しかし…

劇場を出てしばらくたつと、何か急に釈然としなくなってる自分に気づいたんです。

「もしかして音楽に感動しただけでは…?」と。

私にとって『戦場のメリークリスマス』がまさにそういう映画で、あれは何度見ても映画に感動したのか音楽に感動してるだけなのかよくわからないのです。

『ルーム』もそういう映画にすぎなかったのかな、と思ったんですが、よくよく考えてみると、それは間違いだと気づきました。

だって、確かに最後の音楽はよかったけど、音楽が鳴り始める前、ブリー・ラーソンが声に出さずに「グッバイ、ルーム」と言うところでジーンときたんですよね。音楽はその感動を助長する役目を果たしているだけで、音楽が感動の原因ではない。

じゃあ、この釈然としない理由は何なのか。

まず、ラストに感動した理由ですが、あそこは母と子の和解ですよね? 和解というとちょっと語弊がありそうですが、いまだにあの部屋を愛している息子が、昔も今もあの部屋を憎み続けている母親に部屋との決別を促すと。
息子は部屋と訣別したことでこれからの明るく新しい未来を感じさせるし、母親は、あの声に出さない「グッバイ、ルーム」で苦難の7年間と本当の意味で訣別できました。息子が部屋の机や椅子ひとつひとつに別れを告げたからこそ母親は救われました。
自分が息子を守っている、自分以外に誰が守れるのか、この子には私しかいないんだから、と肩に力が入っていた母親が、その息子によって救われる。それも部屋という無機質な空間、それも自分たちを苦しめていた空間を仲介役にして救いがもたらされるという斬新な結末に感動したんですね。これは誰しも同じでしょう。
だから音楽の効果か? と思ったのはあまりに勘違いすぎる勘違いでした。

が、ここからが問題です。劇場を出た直後のあの釈然としない思いは何なのか。




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この『ルーム』は親子の話ですよね。でも、親子というのはブリー・ラーソンとその息子だけじゃなく、ウィリアム・H・メイシー&ジョーン・アレン夫婦とその娘ブリー・ラーソンの物語でもあるわけでしょう? 片方の葛藤は解消されたのに、もう片方は解消されていません。

メイシーとアレンはブリー・ラーソンが監禁されていた7年間に離婚していたことが判明しますが、警察の事情聴取などが終わって久しぶりの家族水入らずの場面で、メイシーは監禁犯の息子でもある孫の顔が見れないと言って家族の間に亀裂が入ります。「何であの男の子どもを産んだのか」とでも思っているのでしょうか。あるいは、孫の顔にあの監禁犯の面影がどうしてもちらつくのでしょうか。結局、メイシーとブリー・ラーソンは和解しないまま映画は終わります。

逆にジョーン・アレンにはそのような葛藤はないようで、ただ娘と孫への無条件の愛情が二人を温かく包み込みます。

この映画では「母親の子どもへの無条件の愛」が通奏低音として響いてますよね。ブリー・ラーソンは「息子は生物学的には監禁犯の子どもであってもつながりは一切ない。彼は私一人だけの子どもだ」とはっきり言います。
ジョーン・アレンも同じで、7年間監禁されて世間の好奇の目にさらされようと、憎き犯人の子どもを産もうと、この子は大事な娘、もう一人は大事な孫だと。

でも、そんな母親でも救えなかったブリー・ラーソンの苦悩を息子が部屋に訣別することで晴らしてあげる、というところがこの映画の独創なんですが、ウィリアム・H・メイシーとの葛藤は解消しないでいいの? という疑問が残ってしまうんです。

祖母、母、息子、この3人が幸せだからいい、私たち3人がつながっているからそれでいい。もしそうであるなら、父親はどうでもいいということになります。それは、ブリー・ラーソンが自分の息子について「この子の父親はいない」と言ったこととつながってしまいます。確かにあの男は卑劣な犯罪者だからそれでいいとしても、メイシーは普通の父親でしょう。

もしかして、「弁護士は断固戦うと言ったが断わった」とかいうセリフがありましたが、それでこの父親はこの家族にとって不要ということなのでしょうか。しかし、それでは「親子の結びつき」というこの映画のテーマに反してしまう気がします。

母親の無条件の愛情を受け、息子からも間接的に諭された主人公は父親と和解すべきだったと思います。でないと、メイシーはただ「孫の顔を見たくない」と言って「脱出後の主人公たちに二次被害をもたらす〝記号″」でしかありません。

脱出までの前半に比べて後半が短いんですよね。後半がメインなんだからもっと時間をかけて後半の葛藤劇をじっくり描くべきだったと思います。

それでは映画が長くなってしまうじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、前半をばっさりカットできると思うんです。



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この映画は「部屋を脱出する物語」ではありません。「部屋を脱出したあとの家族の葛藤劇」です。だから、監禁犯がクモ膜下出血か何かで倒れて急死、で、ドアの暗証番号がわかりませんから、天窓を割って脱出、ということにでもすれば、前半をかなり短くできます。

部屋だけが世界だった息子の外界へ出たいという無意識の欲求(というふうに私には見えました)は天窓を通してでした。その天窓を割って脱出してこそ、この映画における「本当の脱出劇」になったんじゃないでしょうか。

その上で父親とも和解し、声に出さない「グッバイ、ルーム」が来たら、もう無上の感動というか、幸せいっぱい胸いっぱいで帰路につくことができたと思います。

いい映画なのに惜しいと思います。あとちょっとで映画史に残る傑作になったのにと、とても残念です。


『サウルの息子』②(脚本上の問題について)

前回の日記は『サウルの息子』の 演出上の問題について でした。

問題といっても、読んでくださった方はおわかりと思いますが、明確な問題があってそれを批判しているわけではありません。「問題らしきもの」があるんだけど、本当にそれは問題なの? という、まぁ私にもよくわからないことなのです。

で、今回の「脚本上の問題」というのも同様です。何しろ私はこの『サウルの息子』を飽きることなく楽しんで見た人間なわけで、基本的にこの映画が好きなのです。が、何か引っかかてしまうことがあるんですね。間違ってるかもしれないけど、その引っかかったことを正直に言うと…

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この「ゾンダーコマンド」という役目のユダヤ人を主役にしたのは素晴らしいと思います。少なくとも私はアウシュビッツでそういう任務に就いていたユダヤ人がいたなんて知らなかったですもん。同胞をガス室に送り、そして自らも数か月後に処刑される。何という悲運な…。

主人公をゾンダーコマンドにしただけで、『サウルの息子』という映画の存在価値は高いとさえ思うんですが、問題は、主人公じゃなくて彼の敵、すなわちナチスのほうにあるような気がするんです。

これまでナチスを極悪人として設定した映画は数限りなくあります。そもそも歴史的事実として世界中の人たちが知っています。

別に『眼下の敵』みたいに、ナチス将校にもまともな神経をもっていた人がいただろうからそういう人物を描くべきだとか、ナチスだって同じ人間だなんていうつもりは毛頭ありません。

ただ、「ナチス=極悪組織」という世界中の人が知っている歴史的事実に、この『サウルの息子』は依拠しすぎではないか、と思うのです。

ヒトラー総統の号令のもと、ヨーロッパ各地からユダヤ人を連行してアウシュビッツ強制収容所に監禁したうえ、数百万人もの無辜の人々を毒ガスで死に至らしめた。だから極悪組織なのですが、それに依拠しすぎというのは、ナチスを「問答無用で悪い奴ら」という「記号」として扱っている、ということなのです。

『サウルの息子』で描かれるナチスに人間味など皆無です。『将軍たちの夜』のピーター・オトゥールや『シンドラーのリスト』のレイフ・ファインズみたいな「ユニークな悪人」は一人も出てきません。

これは演出の問題ともかかわってくることなのですが、徹頭徹尾カメラが主人公に張りついているため、ユニークなナチス将校を描きたくても描けない、ということもあるにはあったんでしょう。あの地獄絵図を主人公と一緒に観客に追体験してもらうためには、ナチスは記号でかまわない、という潔い決断をしたのかもしれません。

しかし、いずれにしても、それは「魅力的な悪の創出」という脚本執筆作業における一大トピックを自ら放棄していることになります。

とはいえ、わからないのです。

放棄したから、というか、カメラはずっと主人公だけを追い続ける、だからナチスは記号でいい、と判断したからこそ、あのような迫真性の高い映画が生まれ、私も楽しめたのかもしれません。ナチスを記号として処理したのは英断だったのかも。

でも、どうも腑に落ちないのです。本当にこれでいいのか、という思いを拭いきれないのです。

確かに、ゾンダーコマンドという「アウシュビッツものにおける新しい主人公」の創出はありました。でも、あの悲劇を生み出したナチスという極悪組織を記号として扱ってしまったら、「いまなぜアウシュビッツなのか」という映画製作のモチーフが薄まる結果になってはいないか。

もっと深読みするなら、全編長回しで主人公だけを追いかける前例のない映画を撮りたい、だから周りで起こっていることとその原因については誰もが知ってることを記号として扱えばいいと考えたのだとしたら、この『サウルの息子』を作った作者たちを私は決して許しません。それはあの惨劇で亡くなった人たちへの冒瀆以外の何物でもありませんから。

しかし、作者がどう考えてこの脚本、この演出に至ったのかわからないので何とも言えません。ただひとつ確かなことは、『サウルの息子』という映画を私は確かに楽しんだけれど、『将軍たちの夜』や『シンドラーのリスト』のほうがずっと好きだ、ということです。


『サウルの息子』①(演出上の問題について)

先日のアカデミー賞で見事最優秀外国語映画賞に輝いた『サウルの息子』を見てきました。

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「早くも今年のベストワン」という人もいれば、激しい嫌悪感を示す人もいたり、賛否両論みたいで、楽しめるのか途中退出したくなるのかどっちだろうとドキドキした状態で見始めましたが、すんなりと映画の世界に入り込め、最後まで楽しんでみることができました。(悲惨な戦争映画を「楽しむ」というのはいかがなものかという気もしますが、まぁそれはそれとして…)

ただ、この映画には大いなる問題があると思うんですよね。見ているときに感じたのはひとつだけでしたが、見終えてから二つに増えました。

というのも、この映画はずっと主人公サウルに密着して撮影されてるんですね。全編主人公だけを追い続けている。私はそこに何かちょっと奇をてらった感じを受けて「もうちょっと普通に撮っても良かったんじゃないか」みたいなことを友人に言ったところ、その友人は絶賛派で、

「普通、映画は主人公の言動を俯瞰的に見るんだけど、『サウルの息子』では主人公だけを追うことでその俯瞰的観賞をしにくい状況を生み出し、同時に主人公の体験を観客が追体験できる仕掛けになっている。しかも周りで起こることがアウシュビッツでの地獄絵図なのでまさに強烈な映画体験ができた」

みたいなことを言ってきたんですね。

うん、確かにそれはその通りでしょう。私も最初見ていて、ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』みたいだな、ぐらいに思っていたのが、いろんな迫真性の高い出来事が起こるので、そういう小賢しい映画知識が吹っ飛んでサウルの体験を疑似体験することができました。サウルだけを追うことでそれが可能になったことを否定しません。

しかし、私はその友人にこう反論しました。

「例えば、ヒッチコックが多用した、主人公の主観ショットとその主人公を捉えた客観ショットをカットバックしたほうが観客が主人公に同化しやすくなったんじゃないか」と。

つまり、「主人公を」撮るんじゃなくて、「主人公が」見たものを撮ったほうがいいんじゃないか、ということです。もちろん、「主人公を」撮ったショットとカットバックさせるわけですけど、主人公の目と観客の目を同一化させたほうがもっとその効果が出たんじゃないか。

ただ、ラストに出てきた少年(あれが一体誰なのかいまだによくわかりません。サウルが息子の幻影を見ているのかと思ったらどうも違うみたいだし)とのカットバックを印象づけるためにそれまでの100分近くをカットバックなしでやってきたのかな、という気もします。

結局、「よくわからん」のです。

私が古典的ハリウッド映画作法の信奉者だからそう思うだけかもしれないし、そうなると「好みの問題」ということになってしまう。でも芸術って結局好みの問題じゃないの、という気もします。

いったいどっちがいいんでしょうか。映画作りとは本当に難しい。

もうひとつの問題は脚本上のものですが、これについてはまた後ほど。

続きの記事
②脚本上の問題について


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