聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ヨーロッパ映画

『ボヘミアン・ラプソディ』(ボロ泣き!)

2000年にミレニアム記念として「過去1000年間に作られたイギリスの歌ベストテン」という催しがあって、誰もが1位だと思っていたジョン・レノンの「イマジン」は2位。1位に輝いたのがクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」でした。

当時、それを受けたドキュメンタリーがNHKで放送されて3日続けて見ました。それぐらいあのドキュメンタリーは印象深かった。それまでクイーンはバンド名とほんの何曲か知らず「ボヘミアン・ラプソディ」はタイトルすら聞いたことがなかった。すぐタワレコに走ってベストアルバムを買って聴きまくたのはとてもいい思い出です。




さて、公開から1か月たちますが3週目あたりから右肩上がりの異常な興行が続いているという映画『ボヘミアン・ラプソディ』をようやく見に行くことができました。これが何とも奇妙な映画でした。

史実と違うところがあると指摘する人がいるらしく、私もドキュメンタリーで見たのと違うところがあるな、とは思ったものの、まぁそんなの映画なんだからいいじゃないですか。あまり堅いことを言うのはよくない。

でも「映画」として、というか「フィクション」として見る者を納得させてくれないと困るんですが、この『ボヘミアン・ラプソディ』はいろんなところの突っ込みが浅い。箇条書きにすると、

・父親との確執
・ゾロアスター教徒としての思い
・セクシュアリティの問題
・バンド解散から再結成までの流れが完全にご都合主義
・肝心要の「ボヘミアン・ラプソディ」を完成、披露するまでが短すぎない?

インドでイスラム教徒の迫害を受けてイギリスに移住してきた父親とは最初は対立していますが、いつの間にか和解している感じで、クライマックスのライブ・エイドの直前には抱き合って涙を流す。「ファミリーネームまで捨てるのか」というシーンではもうちょっと二人の軋轢を突っ込んで描いてほしいと思ったし、そうしないとあの抱擁が感動的にならない。

ボヘミアンとはロマ、かつてジプシーと呼ばれた流浪の民ですが、フレディ・マーキュリーは宗教の問題で迫害された自分(と家族も?)とロマを重ねあわせて曲を作ったのだろうと前述のドキュメンタリーで語られていましたが、映画はついにそこには触れずじまい。歌詞にも確かイスラムの神の名前が出てきますよね。同性愛者ゆえの迫害もあったでしょう。それは映画でも少し触れらていましたが、触れている程度。もっと掘り下げてくれないと。


ママ、死にたくない
生まれてこなきゃよかった


このあたりの曲作りのシーンがありますが、「生まれこなきゃよかった」のところでフレディ・マーキュリーが動きを止めて虚空を見つめますよね。あれは何だったのか。映画は最後まで答えを出してくれませんでした。

「ボヘミアン・ラプソディ」を作る過程では他のメンバーからかなり強い反対があったらしく、マイク・マイヤーズ演じるプロデューサーが言っていたようなことをメンバーからも言われたらしい。ですが、曲作りでの不満はほんの少し触れる程度。曲ができたあとはメンバーが一枚岩となって「こんな歌はダメだ」というプロデューサーに噛みつきますよね。映画のタイトルにもなっている一番大事な曲なのにえらく粗雑な作りだな、と。しかもあのプロデューサーはピンク・フロイドの『狂気』を作った人なんでしょう? あのアルバムはもっと長い曲があるじゃないですか。なぜそこをもっと突っ込まないんだろう。

あとはもう省きますが、見ながらずっと不満でした。何でこんな不出来な映画が大ヒットしてるんだろうかと。

しかし、ウェンブリーでのライブ・エイドのシーンが始まったらそんな小賢しいことはどうでもよくなりました。

フレディ・マーキュリーがエイズで数年後に死ぬと知っているというのもあるでしょうが、「ママ、死にたくない」のところからもうボロ泣きでしたね。最後の「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」まで泣きっぱなし。

脚本の出来がどうとか、そんなのは最終的に映画の出来不出来には関係しないというか、少なくとも無邪気に映画を楽しみに来る映画ファンにとって大事なのはそういうことじゃない、と改めて痛感させられました。

映画じゃなくて音楽に感動しただけ?

違います。私が感動したのは……


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フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックという役者。彼の熱演に胸を打たれたのです。

『ベン・ハー』のチャールトン・ヘストン、『エイリアン2』のシガニー・ウィーバー、『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』のレオナルド・ディカプリオの系譜に連なる「この映画の屋台骨は自分一人で支えてみせる!」という主演俳優としての心意気。

役者を見せるのが映画。役者で魅せるのが映画。



『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(禍々しさと可笑しさと)

近くの劇場で急遽上映が決まったらしい『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』。監督はあのジョージ・パン・コスマトスの息子パノス・コスマトス。予告編を見て何とも言えぬ禍々しさが気になったので見に行きました。

いや、もうこれはニコラス・ケイジの新たな代表作というか、私にとっては『ワイルド・アット・ハート』に次いでケイジ兄貴がはじけた映画として記憶に刻まれそうです。


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ニコラス・ケイジって基本的に好きじゃないんです。この顔で主演スターを張ってるというのが私にはよくわからないんですよ。この顔なら普通脇役ばかりでしょ。叔父さんの七光りがなければ絶対スターになれてないと思う。

しかし、この『マンディ』は『ワイルド・アット・ハート』のようにニコラス・ケイジという特異な役者を活かしまくった稀有な映画だと思いました。

さて、マンディというのはニコラス・ケイジの奥さんの名前で、人里離れた山奥で木こりをやっているケイジに深く愛されているのですが、この奥さんがカルト集団みたいなのに惨殺されて、我らがケイジ兄貴が復讐の鬼と化すというのが『マンディ』のあらまし。

カルト集団の頭目も何が目的なのか少しもわからないし、何かヴェノムみたいな怪人も出てきますし(『ヴェノム』は未見ですが)はっきり言ってよくわからないこの映画。

最初はね、途中退席しようかと思ったんですよ。だって、マンディが惨殺されて復讐の鬼と化すまでに75分もかかるんですよ。全体は120分そこそこなのに。いくら何でも時間かかりすぎ。

でもね、そこまでを我慢すれば実に楽しい時間が待っています。

楽しい? 血みどろの復讐劇が? という声が聞こえてきそうですが、この映画は非常なる可笑しみに満ち溢れているのです。

ちょうど昨日、WOWOWでやっていた『マザー!』というのを見たんですけど、あれもよくわからない映画で、不条理なホラーを目指したのか何なのか。一番残念なのは可笑しみがないことなんですね。笑えない。不条理をやるならブニュエルみたいに笑わせてほしいんですけど、恐がらせようとするばかりで逆に白けました。

でもこの『マンディ』は笑えるんですよ。

まず、奥さんを目の前で惨殺されたケイジ兄貴がトイレで号泣するんですが、いつものようにトチ狂った芝居には定評のあるケイジ兄さんなので、このシーンが異常に笑えるんですね。

さらにヴェノムみたいな怪人をやっつけるところで、どうやってやっつけたのかよくわからないんですけど(この映画はわからないことだらけ!)ヴェノムが血をドバーッと吐くんですね。でニコラス・ケイジがその血を浴びるんですけど、その顔が笑える!

さらにここ。↓↓↓




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復讐を果たしたケイジ兄貴は車を運転して帰路につくんですが、いつもなら助手席に乗って微笑んでいる奥さんを夢想してこんなすごい目で笑うんです。このカットはもう爆笑もんでした。劇場で笑ってたのは私一人だけでしたが。www

とにかく、この映画は本当にわからないことが多すぎるし展開がのろいので、万人向きじゃないと思います。むしろ「何だこの映画は」と眉をひそめる向きのほうが多いんじゃないでしょうか。

でも私は大いに楽しみました。何より、ニコラス・ケイジという役者を使って面白い映画を作った監督はこれまであまりいませんから。

パノス・コスマトス。この先どういう映画を作るのか、目が離せません!
(ちなみにこの記事には「ヨーロッパ映画」というタグをつけていますがアメリカ映画じゃなくてベルギー映画なのでね。念のため)


血を吸うカメラ(KaoRiさんのアラーキー告発をめぐって)

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自分でも「天才」と称し、そういう振る舞いが「彼らしい」と称賛されることが少しも不思議ではなかったアラーキーこと荒木経惟が16年もの間モデルをしていた女性KaoRiさんから告発されて話題になっています。

ネット上では「アラーキーの写真はもう見ない」とか「アラーキーなんて死刑になるべきだ」などのバッシングも起こっているようです。彼は、ひどい嘘で騙して裸にしたり、脅迫したり、納得できない書面に強制的にサインさせたり、やりたい放題だったので断罪されてしかるべきでしょう。

でも、私自身はあまりそういうことに関心がありません。もっと構造的な問題のほうに興味が……。

と思っていたら、「これはアラーキー個人の問題ではなく、広く芸術一般の問題として捉えるべき」「『撮る/撮られる』『見る/見られる』という権力構造の問題だ」という冷静な卓見もあって、私はこちらに与したい。そして、参照すべきは1960年のイギリス映画『血を吸うカメラ』です。さまざまな工夫が施された映画ですが、一番のポイントは「盲人の目」でしょう。


『血を吸うカメラ』
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物語は、女性にナイフを突きつけ恐怖に歪む表情を撮影する男が、最終的に自分自身にナイフを突きつけ恐怖に歪む自分自身を撮影しながら自死するというもの。(ちなみに、この主人公は撮影所に勤務する映画監督志望の青年ですが、副業としてアラーキーのようなヌード写真も撮っています)

撮る人間が撮られる人間を殺すという、まさに「撮る/撮られる」という権力構造・支配構造ですね。

なぜ主人公がこのような凶行をするようになったかというと、幼い頃に精神科医だった父親が恐怖について研究するために、息子や妻など家族みんなの部屋に盗聴器を仕掛けて完全なる支配者として君臨していた。主人公は眠っているときに大きなトカゲをベッドに投げられ泣き叫ぶところを8ミリカメラで撮られたりするなど、かなりひどい心の傷を負いました。

彼は被支配者として未曽有の恐怖を感じさせられたために、長じてからは自分が支配者になることで傷を癒そうとしたのでしょう。

ところで、私は映画を撮ったことはありませんが、撮られたことはあります。
友人が監督する自主製作映画で俳優として出演しました。そのとき、監督があまり演技指導をしない主義で、「こうしたらどうか」と言うと、いつも「それでいい」という返事しか返ってこなかった。私はそのことがとても不満でしたが、津川雅彦さんも何かの番組で言っていました。「役者は演出されたいんだ」と。もっとああしてこうしてと言われることが快感であると。

だから撮る者は支配者なのだから当然快感を感じますよね。でも、撮られる者も快感を感じているはずなんですよ。KaoRiさんだって撮られることそのものには少なからず快感を感じていたはず。でなければ16年も被写体でいられたはずがありません。実際、告発文にも「撮られること自体が不快だった」とは一言も書かれていません。

『血を吸うカメラ』の主人公は最後、「恐怖は喜びなんだ」と叫んで自分の首を刺したあと、幼い頃の自分の声を思い出します。「おやすみパパ、手を握って」。

あれだけ恐怖を感じさせられた相手に手を握られると安心して眠りに落ちる。支配者と被支配者の間には何か甘美なものがあるのではないか。監督に何度もダメ出しを食らうとうれしくなる津川さんのような役者も同じ甘美さに酔っているのだと思います。だからといってもちろん、別にいいじゃないかと言いたいわけではありません。冒頭に記したとおり、アラーキーは断罪されてしかるべきです。

しかしながら、アラーキーとKaoRiさんが『血を吸うカメラ』の父子のように「共依存」の関係にあったことは間違いありません。まさにこの共依存こそ「写真」や「映画」に潜む構造的な問題じゃないでしょうか。

一方的に撮られ、撮る者だけが快感を感じるのなら作品を残すことなど不可能です。しかし撮られることそのものに快感を感じれば数多の作品が作られる。おそらく非凡な写真家・映画監督というのはモデル・俳優にそのような「撮られることの快感」を感じさせることに長けているのでしょう。

だから、写真芸術というものがあるかぎり、この「撮る/撮られる」の構造から抜け出ることは不可能です。

と思ったいたら、ある方が「『撮る/撮られる』という関係性から抜け出る手段として『自撮り』がある」と発言されていて、これも卓見だとは思ったものの、『血を吸うカメラ』のことを考えるとちょいと疑問です。あの映画には「撮る/撮られる」という権力構造とは別の仕掛けもあるからです。


自分自身に見られる恐怖
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この画像で最も大事なのはカメラでも三脚に仕込まれたナイフでもありません。カメラの横に大きな円いものがありますね。これは実はなのです。被害者は恐怖で歪む自分自身の顔を見ながら、つまり恐怖する自分に見つめられながら死ぬわけです。

殺人鬼や彼が回すカメラに見つめられる、そういう「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係だけでないところが肝要です。撮られている・見られている自分が「(自分自身を)見る/(自分自身に)見られる」という二重構造になっているわけです。

自撮りでは、自分で自分を見ながら撮るわけですよね。誰か別の人間には見られていなくとも、自分にだけは見られているわけです。これはもうアラーキーのセクハラ・パワハラから完全に離れて「写真」というものの本質の話です。

別の人間に撮られようと、自分で自分を撮ろうと、「自分は撮られている」という感覚からは絶対に逃れられないのではないでしょうか。


盲人に見られるということ
『血を吸うカメラ』にはもうひとつ仕掛けがありまして、それはヒロインの母親が「盲人」であることです。
盲人ならではの勘の鋭さで主人公が何かよからぬことをしていると見ぬくんですが、見ぬかれた主人公は何やら不気味で盲人の目を見られない。その目は何も見えていないのに、見えない目に恐怖する。
これはもしかしたら、主人公が父親に盗聴されていたことから来るものなのかもしれません。父親の目がなくても生活の一部始終を監視されていたのだから。フーコーの言うパノプティコンのようなものでしょうか。それを盲人の目に感じているのか。
いずれにしても、見えない目にも人は「見られている」という恐怖を感じる生き物だということが肝要です。

この盲人の目というのは、写真芸術で言えば「鑑賞者」ですよね。撮影現場にその「目」はないけれど、いずれ被写体を見るであろう「目」。パノプティコンのようにモデルを支配するはずです。もしかしたら自撮りであれば撮る者がいないぶんよけいにその「見えない目」を意識してしまうかもしれない。いや、意識しなければならない。なぜか。


「血を吸わないカメラ」は存在するか
展覧会などでお披露目される写真にしろ、SNSに載せるための写真にしろ、誰かに見てもらう以上は「撮る/撮られる」の両方を自分がやる、つまり写真芸術にまとわりつく支配構造から自由になったとしても、鑑賞者の「目」が最終的な権力として立ちはだかります。

撮る者の支配からは脱することは可能でしょう。でも、それが広く見てもらう芸術写真・商業写真である以上、見る者の支配からは逃れられない。見てもらわないかぎりは作品として成立しないのだから。それが芸術写真であれエロ写真であれ、誰かに見てもらうために写真を撮るとき、すべてのカメラは血を吸うカメラになるのだと思います。

「血を吸わないカメラ」というものがもしあるとすれば、撮った写真を自分だけで楽しむ、あるいは家族だけで楽しむ記念写真を撮るときだけではないでしょうか。

ただその場合でも、その写真を共有した人物がネットに上げてしまえば永久に鑑賞者の目に晒されます。つまり、撮る時点では血を吸わないカメラで撮った写真でも、事後的に血を吸うカメラで撮った写真に変容するということです。リベンジポルノなんてその最たる例でしょう。

だから、現代において「すべてのカメラは血を吸うカメラである」と言っていいと思います。

カメラマンはモデルの血を吸っている。
モデルはカメラマンに血を吸われている。

両者がこの事実をきちんと自覚していれば被害は最小限に食い止めることができるような気もしますが、構造的な問題である以上、我々人間にそのような芸当がはたして可能なのでしょうか。



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