ヨーロッパ文学

2019年05月11日

カズオ・イシグロを初めて読みました。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』。長兄から深いぞ読めと強く勧められたもので。しかしいまをときめくノーベル賞作家の代表作が150円とはちょっと異常な安値。それはともかく、この小説の「どんでん返し」には瞠目しました。


TheRemainsofTheDay

大邸宅で長らく執事を務めていた主人公スティーブンスが、新しい主人のアメリカ人から旅行を勧められ、旅先で過去を回想するのが全体のあらまし。

スティーブンスが何度も語るのが、執事にとっての「品格」とは何か、という問題で、同じく執事だった父親の雇主に対する敬意と、雇主を貶める発言をする輩にどういう態度を取ったかなどが語られます。

また、下僕と女中がデキてしまい突然書き置きだけ残していなくなってしまうというエピソードが何度も語られます。ときによっては執事と女中頭というケースもあり、スティーブンスはそのような人たちに理解を示しつつも、あまりに無責任ではないかと批判的でもあります。

雇主への敬意と同僚の女性とデキてしまうことへの嫌悪。

この二本柱で行けると作者は踏んだのでしょう。
実際、この『日の名残り』は、主人公スティーブンスがだいぶ前に辞めた女中頭ミス・ケントンとの再会がクライマックスになることが読者の誰にも明らかなように書かれています。そこでスティーブンスの胸中に何が湧き起こるか、これも誰の目にも明らかなのですが、その直前に描写されるのが、雇主であるダーリントン卿の身に起こる悲劇。

主人に対する敬意と忠誠心を「品格」の中心に据えて一生を生きてきた執事が、それゆえに主人の悲劇を止められなかった。何という皮肉。

そして、ミス・ケントンからは「ずっとあなたが好きだった」みたいなことを言われ(もちろん、そのような直截的な表現はしませんが)スティーブンスは沈みゆく夕日を眺め、日の名残りに身をゆだねながら涙を流す。

品格を何よりも重んじ、自分の心を押し殺すことを重視して生きてきた男が、結局は主人の本当の姿を見誤り、一番身近にいた女性の気持ち・女性への気持ちに対してあまりに盲目だったことを思い知らされる。

しかし、これで終わりならよくある話でしかないし、なぜ一人称で書かれているのかもわからない。

この物語には痛烈なオチがあって、自分のバカさ加減に泣いたスティーブンスは、後ろ向きになってはいけない、新しいご主人様のために前向きにならねば、と思うのはいいんですが、何とあろうことに、

「いままでの自分は真面目すぎた。もっと冗談を言うのが必要ではないか。ジョークの練習をしてご主人様をびっくりさせよう」

という意味の独白で幕を閉じるんですが、このラスト1ページで悲劇が喜劇に変わってしまうところがこの『日の名残り』の勘所でしょう。

いや、そういう問題じゃないでしょ、と突っ込みたくなるというか、これからはジョークが必要とされている、充分練習しよう。って、そういう真面目さが悲劇を生んだことにこの主人公はまったく気づいていない。
そう、彼は何も学んでいないのです。長年の執事人生のために、主人を喜ばせることしか見えていない。ジョークを蔑視していたのに、その気持ちを押し殺して主人を喜ばせるためにジョークの練習をするという。

まったくお笑い草です。というか、それまでスティーブンスの語りに感情移入し、彼と一緒になって喜怒哀楽を共にしてきた読者が、ラスト1ページで一転、スティーブンスのバカさ加減を笑うしかない、ものすごいどんでん返し。

一人称で書かれていた理由がわかりました。

谷崎潤一郎の傑作中編に『神童』があります。あれも、悲劇街道まっしぐらの主人公が一人称で語るんですが、主人公にとっては少しも悲劇ではなく、これから上昇志向だ! みたいな語りで終わるんですが、それを読んでいる読者は何もわかっていない主人公を笑うしかない構造になっていました。

この『日の名残り』も同様でしょう。いや、『神童』が悲劇でもあり同時に喜劇でもあることを匂わせながら物語を進めていたのに対し、最後の1ページでどんでん返しをやってのけた『日の名残り』のほうが一枚上手なのかもしれません。

カズオ・イシグロの主人公への冷徹きわまりない「目」に感動しました。











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2016年05月05日

光文社古典新訳文庫からプラトンの著作が刊行され始めてからもうだいぶ経つというのに、いままで一冊も読んでなかった。不勉強を恥じます。

さて、まず最初に読んだのは『メノン 徳(アレテー)について』という、プラトン初期の著作です。



「徳(アレテー)は教えることができるか」と問う若造メノンに対して、「無知の知」の看板を掲げるソクラテスが「そもそも徳(アレテー)とは何か」と問い返すところからこの問答は始まります。

というか、メノンとソクラテスが最終的にどういうところへ着地するかは、プラトンの本文と、翻訳者・渡辺邦夫さんの懇切丁寧な解説、つまり280ページ余の本書を通読すればそれなりにわかります。

というか、ここで語られていることを私が解説したり、感想を述べたりできるものではありません。あまりに深すぎるから。それ以前に難しいし。

ただ、どうしても言っておきたいのは、「探求のパラドクス」に関してソクラテスが返す言葉についてなんですね。

メノンは、そもそも最初から知らないものを探求などできはしない、とパラドクスを投げかけるんですが、それに対するソクラテスの返答が「想起説」なるもの。

これは、私たち人間は生まれる前からこの世のあらゆる知識をもって生まれてくる。しかし、生まれた瞬間に忘れてしまう。だから学ぶということは、生まれる前の記憶を想起することなのだ、というものなんです。

これ、何かに似てるなぁ、と思っていたら、アレでした。

仏像の彫り師が、木の塊から仏像を彫るとき、「仏像はこの木の塊の中に既に存在している。私の仕事はその周りの余分なものを払いのけるだけだ」と。

つまり、木を彫って仏像を作り上げるのではなく、仏像という作品は既に存在していて、その存在を「発見」してやるだけだ、ということですね。創造とはそういうものなのだ、というとても奥深く、ありがたいお話。

ソクラテスの「想起説」というのも同じだと思うんです。探求すべき知識はすでに全部もっている。内なる知識を発見するだけだ、と。

古代の哲学者と、いつの時代か知りませんが仏像の彫り師がまったく同じことを言っていることに大いに感動した次第です。

おそらく、これは人生におけるあらゆることに通じるオールマイティな考え方なのかもしれません。

プラトンの他の著作も読んでさらに勉強を深めたいと思います。





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