ミュージカル

2019年06月13日

このところ、『さよならくちびる』『アナと世界の終わり』など音楽映画・ミュージカル映画と縁が深く、どちらも大いに楽しみましたが、またも音楽映画の傑作と出逢いました。

ブレット・ヘイリー監督『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』


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さりげない描写
父と娘の「バンドではないバンド活動」を描くこの映画は、何より「さりげない描写」がいいと思いました。

・人種
亡妻は黒人。だから娘は白人と黒人の混血。でもそのことに少しも触れない。映画なんだから見ればこういう家族とわかるだろう、ということでしょう。

・娘の同性愛
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娘は学校のある女の子と同性愛の関係にあるんですが、そのことにも声高に触れない。父親に「彼女がいる」と告白してもショックを受けるでも怒るでもなく、「そうか」という素っ気ないリアクション。あの素っ気なさが素敵。

・省略
最後の省略が顕著ですかね。
バンドを組んで動画が人気になったりもするけれど、さらなるバンド活動に乗り気の父親に対し娘はあくまでも医者志望。でも最後の店でのライブを経て「私が残りたいと言ったら?」という娘を父親はただ厳しく見返すだけで、次のシーンには遠くへ引っ越した娘とメッセージのやり取りをしている。「残っちゃだめだ」「どうして⁉」とか何だかんだの愁嘆場みたいなのをやってもいいでしょう。むしろ、大事なところを逃げていると偉い脚本家の先生は怒るかもしれません。でも私はあれでいいと思う。この映画はあくまで歌が主役。人間同士のセリフのやり取りなど邪魔になるだけ。そんなのは省略してすぐ次の歌に移ったほうがいい。


『ナタリーの朝』とは似て非なる
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かつて『ナタリーの朝』という映画がありました。家を飛び出したナタリーという少女が、一人暮らしを始め、そこで出逢った階下に住む男性と恋に落ち……という物語。

『ナタリーの朝』の要諦は、恋愛関係、つまり心理的に水平関係にある二人を、階上と階下に住むという物理的に上下関係に置いたことにあります。こうすることで映画内世界が立体的になっていました。

『ハーツ・ビート・ラウド』ではどうだったか。『ナタリーの朝』のような物理的な上下・水平関係というのはありません。(やはり『ナタリーの朝』はひとつの発明をした一大傑作だったのか)

その代わり、二人はバンドメンバーとしては対等だから心理的に水平関係ですが、親子なので同時に上下関係でもありますよね。ただ、ここで肝要なのは、普通なら上であるはずの父親のほうがほとんど下に位置していることです。娘のほうがしっかりしていて、父親は子どもみたい。いつまでも亡妻のことが忘れられず過去に囚われている父親に対し、娘は未来を見据えている。

かと思えば、最後のライブでろくに練習してない歌をやろうと父親が言い出すと、まだ若く失敗を恐れる娘は物怖じする。「思い切って行くぞ」と娘の尻を叩く父親は、ここでは完全に上です。前述の「残りたいと言ったら?」というときも上から諭したのだろうし、この親子は、どちらが上かはっきりしない、流動的関係にあります。そこが面白い。

『once ダブリンの街角で』なんかは、主役の男女が恋仲になるからか(恋仲といっても単純じゃないんですが)ずっと水平関係に位置していたように思います。(←うろ憶え)

『ハーツ・ビート・ラウド』は主役の二人を常に上下関係として捉えるんですが、どちらが上位かはその都度変わる。娘は思春期だから揺れ動くのはわかりますが、父親をも揺れ動く子どものようなキャラクターに設定して描写しきった脚本チームの勝利でしょう。役者さんもよかった。芝居もいいけど、面構えがいいし、あのひげが何とも言えない味わい。

素晴らしい映画でした。(それにしてもテッド・ダンソン、歳食いましたね)


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『さよならくちびる』(自分たちのためだけに歌うハルレオ)




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2019年06月03日

見てきました。小松菜奈と門脇麦がギターデュオを演じる塩田明彦監督最新作『さよならくちびる』。

これが実に素晴らしかった! 予告編を見たときすでに傑作の予感がしていましたが、期待にたがわぬ作品でした。

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女の子二人のバンドを小松菜奈と門脇麦でやる、という時点で勝ったも同然という感じですが、塩田監督自身による脚本がまず素晴らしいですよね。


脚本
正直、時系列が複雑であまり理解できませんでした。毎晩どこかで開かれる解散ツアーと解散に至るまでの3人のウロウロが描かれるんですが、小松菜奈の男の家に入って決闘する成田凌は少なくとも数日入院していたみたいなので解散ツアーの前の出来事みたいだけど、どれぐらい前のことなのか判然としないし、問題のこのシーン、、、


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これも時系列のどこらへんなのかがわかりませんでした。でも、それもこれもあまり大事なことではないような。大事なのは、このキスシーンをツアー最終地である函館の直前にもってきたことですよね。「さよならくちびる」という歌が真に胸に迫ってくるのはキスシーンの時系列上の位置ではなく、脚本上の位置から来ると思うので。

作詞も作曲も天才的なハル(門脇麦)と、ハルが誘ってだけ、見た目がいいだけのレオ(小松菜奈)の葛藤劇。プラス、成田凌演じるシマという元バンドマンのマネージャーとの三角関係。

しかし、「なぜ私なんか誘ったの」というレオの問いに対し、「歌いたそうな目をしてた」というハルの返事が素晴らしい。それ自体がひとつの「詩」になってる。

必要なセリフしかないのも素晴らしい。目の表情や動きだけでわかるなら何も言わせない。基本ですけど基本だからこそ難しいんですよね。基本は奥義ですから。

逆に、何度も出てくるセリフ「バカで何が悪い」はこの映画のテーマなのでしょう。テーマをセリフで言わせちゃダメなのもまた基本ですが、ここは基本を踏み外してるのが逆にいいと思いました。お行儀をよくすることが目的になってどうするの、もっとバカになろうよ、人間はみんなバカなんだから。という人間讃歌。昨今の不倫だの何だの不祥事を起こしたらすぐ叩きまくる風潮に対するアンチテーゼのようにも感じました。映画で描かれるスキャンダルも男女関係のもつればかりだし。


演出
しかし、私が一番瞠目したのは脚本よりも演出です。

まず、オッと思ったのは、冒頭、車に乗り込んだ3人を3つのアングルでしか捉えていないこと。運転席の成田凌と助手席の門脇麦は真横から。後部座席の小松菜奈は斜め前から。他のアングルのあってよさそうなのにまったくなし。車内だからどうしても限られるというのもあるでしょうが、その昔、ロジャー・コーマン製作の『戦慄! プルトニウム人間』(監督:バート・I・ゴードン)という映画があって、巨人が出てくる場面は全部スクリーンプロセスなんですけど、低予算だからアングルが二つしかないんです。コーマン印ということで笑って許せてしまうんですが、普通そういうのは退屈。この『さよならくちびる』でアングルを限定しているのは、昨今のカットが目まぐるしく割られる多くの映画に対するアンチテーゼのようで好感をもちました。役者の芝居だけで行くよ、という。

かつて監督志望だった友人が撮り方のことばかり云々するので、「一般の観客は役者を見ている。カメラワークとかエッジの効いた編集とか、そんなの見てない」と言っても、あまりピンと来てないようでした。


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この映画では役者の芝居をとても大事にしてますよね。門脇麦に誘われてギターの弾き方を習い、二人で一緒にカレーを食べるシーン。孤独だった小松菜奈はあまりにうれしくて(←この感情も説明なし。私がそう感じただけ)思わず泣いてしまって門脇麦の肩に頭をのせるんですが、いっさいカットを割らず、ワンカットで見せてくれたのはたまらなくよかった。カメラが微妙に寄るんですけど、あそこはフィックスでよかったんじゃないかしら。寄りたくなる気持ちはわかるけど。

あとは成田凌と小松菜奈が林の中で会話するシーンとか、成田凌が門脇麦に無理やりキスするシーンとか、基本的にワンカットで見せる演出手法がたまらなく素晴らしかった。

何だかんだで函館に着き最後のライブを迎えるのですが、ここがちょっと特異な構造になっていると感じました。


誰に向かって歌っているのか
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この映画で一番の肝はこの二人のような気がする。ハルレオがまだ解散なんか考えていなかったころ、音楽番組のインタビューで「ハルレオのどこが好き?」と訊かれて左の子が突然ハルレオの歌を歌い出すんですよね。で、恋仲のもう一人の子と涙を浮かべあって抱き合う。この子らは函館にも来ていて、画像のシーンが函館の前か後かわかりませんが、時系列は重要ではない。二人でハルレオの動画を見ながら歌うシーンの瑞々しさ!

かつてソン・イルゴンという監督の『マジシャンズ』という映画がありました。バンドメンバーが自殺してしまい、解散したメンバーが久しぶりに集まり、最後は死んだ仲間へ向かって合唱するんですが、たった一人に向かって歌われる歌はこんなにも力強いのかと感動しました。

最後に歌われる「さよならくちびる」は、ハルはレオに向かって、レオはハルに向かって歌っているのは明白ですが、熱烈なファンに向かっても歌っているわけで、あの女の子二人を出す出さないではぜんぜん違う。あの子たちがいなかったら、バンド内のいざこざを描いただけになってしまうし、何よりあの子たちは「ハルレオは自分たちのためだけに歌っている」という幻想に浸っているわけでしょう?

映画だって観客はみんな「これは自分だけに作られた映画なのだ」という幻想に浸って見るというか、そう思える映画こそが心に残るわけだし、プロットに何らかかわりのない端役のファンを出す、それも短いシーン3つだけというのは瞠目すべきことと思いました。ひとつの発明ですね。

だからやっぱり一番感心したのは脚本ということでしょうか。(笑)

もう一度見に行ければ行きたいですね。

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『ハーツ・ビート・ラウド』(『ナタリーの朝』とは似て非なる)


さよならくちびる
ハルレオ
ユニバーサル ミュージック
2019-05-22





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2019年02月16日

まずは以下の動画を見てください。
全部で8分ちょっとありますが、私が言及したいのはちょうど3分後からです。




このダンスシーン、いいと思います? 私は少しもいいと思えないんです。

『シカゴ』でもそうだったと思うんですが(うろ憶え)このロブ・マーシャルという監督はなぜあんなにダンスシーンでカットを割るのでしょうか。もっとこのカットを見ていたいと思うと必ずそこで割られてしまうんです。ほとんど編集でごまかしてると言ってもいいほど。

昔のMGMミュージカルはフレッド・アステアやジーン・ケリーというダンサーの芸をできるだけ長く見せることに腐心してましたよね。最近のだって『ラ・ラ・ランド』みたいな良質なミュージカルではダンスシーンというミュージカルの肝になる場面ではできるだけ役者の芸を意図的に長く見せています。

なのにこの『メリー・ポピンズ・リターンズ』は何? ミュージカルをここまで愚弄されたら怒り狂うしかありません。
ミュージカル以外でも、もう10年以上前の作品ですが『ボーン・アルティメイタム』という映画では細切れの映像ばかり見せられ辟易しました。変に画的に凝らず、もっと役者の芸をちゃんと見せてほしい。


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色づかいはとてもいいんですけどね。近々発表されるアカデミー賞では美術賞や衣裳デザイン賞を取ってほしいとさえ思います。

でも肝心要のダンスシーンがあれでは……


バンド・ワゴン(字幕版)
フレッド・アステア
2013-11-26




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