ミュージカル

2020年08月02日

T-レックスの歌声にのせた予告編を見て、見る気満々だったロシア・フランス合作の2018年作品『LETO -レト-』を見てきました。

が、これが残念ながらがっかり拍子抜けでした。


視覚的・聴覚的には……
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舞台は1980年代前半、つまり東西冷戦時代のレニングラード。国から禁止されている西側の音楽=ロックをこよなく愛し、アンダーグラウンドの世界で演奏をし、アルバムを売買している世界。

映画の感想を書くたびに同じことばかり言ってますが、意味のない手持ちカメラには辟易しましたが、基本的に白黒が好きなので視覚的には楽しめましたね。逆光の捉え方もうまいし、編集のリズムもいい。それに何よりナターシャというヒロインを演じる女優さんがかわいいので最後まで見れました。

音楽も、一番フィーチャーされたのがイギー・ポップの『パッセンジャー』ということで、イギー好きにはたまらなかった。

しかし……


なぜいま「80年代」なのか
いまロシアではプーチンが独裁政治を敷いていて、監督自身も軟禁状態らしく、大衆は自由を奪われている。そこで、同じように自由を奪われていたソ連時代に想いを託したのでしょう。それはわかります。(ロシア以外でもアメリカのトランプや中国の習近平など、ならず者が大国の指揮を執っている時代だからこそ、ということなのでしょう)

1917年のロシア革命で皇帝を処刑し、自由を獲得した。が、スターリンの台頭で全体主義がソ連全土を覆い尽くし、体制側の思想に染まらないはみ出し者は「粛清」された。自由を求めて革命を起こしたはずが、もっと不自由になり、圧政に苦しむことになった。

というのが、ソビエト社会主義共和国連邦の鬱屈だったはずですが、この『LETO -レト-』に登場する若者たちは、そのような鬱屈とは無縁のようです。愛する音楽を禁止する自国への恨みだったり、そういう国に生まれたことへのやりきれなさとか、そんなことをおくびにも出さない。

でも、それが一見不自然に見えないのも事実。しかしながら、不自然に見えない一番の理由は「政治権力が介入してこない」からですよね。

彼らのライブは当局が統制しているみたいな描き方をしていましたが、実際にはそうだったんでしょうけど、会場に警察が踏み込んできて逮捕されたりしてもよかったのでは? 史実を基にしているといっても半分くらいは脚色していると最後にテロップで出たし、実際に逮捕されなくても逮捕されそうになったり、逮捕されたけど脱獄するとか、それぐらいのことは見せてほしかった。


大きな物語=東西冷戦
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マイクというバンドリーダーとナターシャの二人に、ヴィクトルというアジア系(?)の若者が介入してきて……という恋愛物語は面白かったけど、やっぱりロックを題材にするからには「恋と政治と革命」じゃないといけないのでは?

前景で描かれる物語が「ロックを愛する若者たちのウロウロ」なのはいいけれど、後景には東西冷戦という「大きな物語」があるはずなのに、少しもそれが感じられない。冒頭で「80年代前半のレニングラード」というテロップが出なかったらいつの時代かわからなかった。

逮捕されたりするのはさすがにやりすぎかもですが、彼らが少しも政治的発言をしないのはなぜなんだろう? 政治のせいで当局の監視下でないとライブができないわけでしょう?

彼らを大きく支配しているのは後景の大きな物語なのだから、それと前景との関わりを少しも描かないというのは大いに不満でした。

もしかして……

「音楽に政治をもちこむな」
「映画に政治をもちこむな」

ということなんでしょうか。

そういえば、当ブログの読者さんにも映画の感想しか読まない人がいます。テレビドラマの感想しか読まない人もいるし、社会批評にカテゴライズしたものしか読まない人もいる。

こういうのは日本だけの現象かと思ってましたが、ヨーロッパでも「タコ壺化」が進んでいるのかしらん? 

などと思った梅雨明け直後の夕暮れでした。



Leto (Official Soundtrack)
Первое Музыкальное Издательство
2018-08-24




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2019年08月26日

遅まきながら見てきました。矢口史靖脚本・監督最新作『ダンスウィズミー』。これが実に素晴らしかった!(以下ネタバレあり)

いや、確かにミュージカルとしてはどうかと思います。そもそも三吉彩花はほんとに歌ってるんですかね? 吹き替えじゃなくて? サントラにはアーティスト名に「三吉彩花」とあるので歌っているのかな。でも普通のミュージカルと違って録音と編集がよくないので、歌のシーンになると効果音があったり消えたり統一感がないし、口パクにしか見えないのもどうかと。声も何だか別人のよう。

しかしながら、詳しくは後述しますが、多くのミュージカルファンはこの映画の歌とダンスがダメだからと批判していますが、私は歌とダンスがうまいからこそよくないのだと思うのです。

この『ダンスウィズミー』を「神話」の観点から見つめると、そのようなことが見えてきます。




かつてユング心理学とジョーゼフ・キャンベルの比較神話学を援用したシナリオメソッドを勉強しましたが、この『ダンスウィズミー』は神話的世界観に彩られていて、そこが素晴らしい。

神話とは何か。英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーです。この映画でヒーローとは誰か。主人公・三吉彩花です。しかし最初は「アンチヒーロー」として登場します。ヒーローが暗黒面に堕ちたのがアンチヒーロー。アナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちてダースベイダーになるのと同じですね。


アンチヒーロー三吉彩花
小学校時代は歌と踊りのレッスンに一生懸命だった彼女は学芸会のミュージカルで主役の座を射止める。が、風邪のために舞台上で嘔吐して笑われる。それがトラウマとなって歌いたい・踊りたいという欲求を抑圧し、勉強を頑張って誰もがうらやむ一流企業に就職する。

この「本心を抑圧する」という主人公の特性は、例えば、誰もが憧れる会社の上役・三浦貴大に対する態度にも表れています。同僚たちは三浦へのあこがれを隠さないのに、三吉彩花だけは本心を隠し「何か計算してる感じ」といやそうに言うくせに、自分だけ仕事を頼まれると「ラッキー」と。冒頭の彼女は友人を欺いて自分だけ得することを考える見事なアンチヒーローとしてキャラが立っています。

物語は、三吉彩花がどうやってその抑圧から解放されて本心を解き放つか、その道程となります。


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アンチヒーローがヒーローとして返り咲くためには、「心理」「感情」「身体」のそれぞれの物語において、「正」のアーキタイプの助力を得て「負」のアーキタイプに勝利することが肝要だそうです。

では、三吉彩花にとっての「心理」「感情」「身体」の物語とはどういうものでしょうか。そしてそれぞれのアーキタイプとは?

この映画で一番大事なのは「心理」であるのは誰の目にも明らかですが、それは大事であるからこそ後回しにして……


「感情」と「身体」の物語
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なぜこの二つを一緒にしたかというと、歌って踊って楽しくなるという映画の性質上、感情と身体は同一レベルの問題だからです。

三吉彩花は催眠術の効果によって音楽を聴くと歌って踊らざるをえなくなる。

ここで、先述した、ミュージカルファンの「ミュージカルなのに歌と踊りがぜんぜんダメ」との批判の話になりますが、三吉彩花の歌と踊りがうまいのが問題なのです。

そりゃ往年のミュージカルと比べたら歌も踊りもペケです。でも一般市民のレベルなら普通にうまいじゃないですか。ウディ・アレンの『世界中がアイ・ラヴ・ユー』もこれと同レベルだったと思うけど、あれはヘタウマと褒められたのに。と、それはまた別の話ですな。

歌で感情を表現する。踊りで身体の表現をする。三吉彩花はそれができています。

幼少時は歌と踊りのレッスンを受けていたと電話だったかで母親が言っていましたから、当時はかなりのものだったのでしょう。だから選挙で主役に選ばれた。

でも、あれから完全に踊りを封印していたのだから普通に踊れるほうがおかしいのでは? そりゃ、踊りたくないのに踊ってしまう話なのに、そこでちゃんと踊れなかった映画が成立しないのはわかります。

しかし、最初から「感情」と「身体」の物語が解決されているとなると、話はもう「心理」しかなくなってしまう。後述する「心理」の物語が豊穣だから良しとするか、「感情」と「身体」の物語に何か一味あったほうがもっと面白くなったのにと思うかは人それぞれでしょう。

ただ、少なくとも三吉彩花の歌と踊りがダメだと批判するのは、私は的を射ていないと思います。


「心理」の物語
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さて、いよいよ本丸です。

三吉彩花が歌いたい欲求を抑圧して勝ち組OLを演じていることから解放され、生きたいように生きる決意をするまでの物語、つまり映画全体の物語です。

ここで大事なのは、心理における「正」と「負」のアーキタイプです。

「負」は明らかでしょう。舞台上で嘔吐したのを見て笑った級友たちと、彼女の苦悩を思いやれなかった家族です。そして彼らを見て自らの心に蓋をした三吉彩花自身です。

では「正」は?

これはいろンな人がいて、例えば一番最初は何といっても催眠術で踊らざるをえないきっかけを作る宝田明でしょう。

かつてはほんとに催眠術を掛けられたが、寄る年波のせいかいまじゃサクラなしではやっていけないイカサマ手品師に成り下がっている人物が最大の(ユング心理学でいえば)老賢者(『スターウォーズ』のオビワン・ケノービですね)なのがコメディらしい趣向です。そしてこれは彼自身の自信回復の物語でもあるというところがまたオツ。

しかし一番素晴らしいのは、宝田明は「正」でも「負」でもある、というところです。

催眠術によって心理の解決のきっかけを作る。これが「正」としての宝田明。
もうひとつは、催眠術を解いて彼女が会社に帰る手助けをする「負」としての宝田明。

逆に言うと、ヒーローズ・ジャーニーを生きている三吉彩花は、実は「解決に向かって動いていない」のです。彼女の目標は月曜日までに会社へ帰ることですが、それは本心を抑圧する以前の自分に戻るということ。

宝田明に催眠術にかけられた瞬間に彼女のヒーローズ・ジャーニーは実は終わっているのです。しかし彼女はそれが「解決」ではなく「問題」と誤解しているから、ヒーローに返り咲いたにもかかわらずアンチヒーローに退行しようと必死になっている。この「さかさま神話」「さかさまヒーローズ・ジャーニー」がこの『ダンスウィズミー』の肝でしょう。

主人公を助けるものと主人公を危機に陥れるものが同じ催眠術。ここがこの『ダンス・ウィズ・ミー』の物語の力強さです。『ロード・オブ・ザ・リング』の指輪も、主人公や世界全体にとって助けにもなれば一番危険な代物でもある。こういう物語は強い。

さて、心理の「正」のアーキタイプの続きです。

己の欲求のままに生きるお手本のようなやしろ優(いい女優さんですね)もそうだろうし、かつての恋人と「プリンセス&プリンス」というデュエットを組んでいたのに他の女と結婚する相手の結婚式に乗り込んで好き放題しまくるchayという歌手。みんな三吉彩花のヒーローズ・ジャーニーのいい導き手です。嫌味な役の三浦貴大も「正」のアーキタイプですよ。

え、なぜ? 

だって、三吉彩花が好き勝手に踊っても急に一週間の有休と言い出しても「君ってほんと面白いね」の一言で済ませてしまうからです。彼の鷹揚さがなければ三吉彩花のヒーローズ・ジャーニーは貫徹しなかったでしょう。そりゃ根底には下心があるわけですけど、しかし、下心とは「本心」のことであって本心の解放を謳うこの物語にはとてもふさわしい味付けです。

ただ、ラストで彼女自身が解放され、過去の自分の手を取って一緒に歌い踊るというのは幸福の極致ですが、彼女のトラウマの原因を作った家族と和解しなくていいのかな、とは思いました。姪っ子の貯金をイタダキに行ったりするわけだし、そこで「心理」の解決のきっかけがあってもよかった。


やっぱりこれはミュージカル!
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歌とダンスがうまいからよくないとか、まるでこの映画をミュージカルとして見てはいけないと言っているみたいですが、とんでもない! これは堂々たるミュージカルです。神話とミュージカルの幸福な結婚です。

だって、主人公自身も言うし巷の映画ファンもよく言う「ミュージカルって突然歌い出すから不自然」というアレ。

でも突然歌い出したくなるときってあるじゃないですか。私たちはそういう無意識の欲求を抑圧して生きている。ミュージカルはそういう抑圧を解き放つジャンルだったと思うんですよ。

この映画は、歌い踊る主人公を神話的世界観で肯定する物語を紡ぎあげ、同時にそのことによってミュージカルというジャンルを肯定しているわけです。

だから、なぜミュージカルファンを自認する人たちが非難するのか、私には理解できないのです。


ダンスウィズミー
オリジナル・サウンドトラック 音楽:Gentle Forest Jaz Band/野村卓史
ワーナーミュージック・ジャパン
2019-08-14




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2019年06月13日

このところ、『さよならくちびる』『アナと世界の終わり』など音楽映画・ミュージカル映画と縁が深く、どちらも大いに楽しみましたが、またも音楽映画の傑作と出逢いました。

ブレット・ヘイリー監督『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』


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さりげない描写
父と娘の「バンドではないバンド活動」を描くこの映画は、何より「さりげない描写」がいいと思いました。

・人種
亡妻は黒人。だから娘は白人と黒人の混血。でもそのことに少しも触れない。映画なんだから見ればこういう家族とわかるだろう、ということでしょう。

・娘の同性愛
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娘は学校のある女の子と同性愛の関係にあるんですが、そのことにも声高に触れない。父親に「彼女がいる」と告白してもショックを受けるでも怒るでもなく、「そうか」という素っ気ないリアクション。あの素っ気なさが素敵。

・省略
最後の省略が顕著ですかね。
バンドを組んで動画が人気になったりもするけれど、さらなるバンド活動に乗り気の父親に対し娘はあくまでも医者志望。でも最後の店でのライブを経て「私が残りたいと言ったら?」という娘を父親はただ厳しく見返すだけで、次のシーンには遠くへ引っ越した娘とメッセージのやり取りをしている。「残っちゃだめだ」「どうして⁉」とか何だかんだの愁嘆場みたいなのをやってもいいでしょう。むしろ、大事なところを逃げていると偉い脚本家の先生は怒るかもしれません。でも私はあれでいいと思う。この映画はあくまで歌が主役。人間同士のセリフのやり取りなど邪魔になるだけ。そんなのは省略してすぐ次の歌に移ったほうがいい。


『ナタリーの朝』とは似て非なる
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かつて『ナタリーの朝』という映画がありました。家を飛び出したナタリーという少女が、一人暮らしを始め、そこで出逢った階下に住む男性と恋に落ち……という物語。

『ナタリーの朝』の要諦は、恋愛関係、つまり心理的に水平関係にある二人を、階上と階下に住むという物理的に上下関係に置いたことにあります。こうすることで映画内世界が立体的になっていました。

『ハーツ・ビート・ラウド』ではどうだったか。『ナタリーの朝』のような物理的な上下・水平関係というのはありません。(やはり『ナタリーの朝』はひとつの発明をした一大傑作だったのか)

その代わり、二人はバンドメンバーとしては対等だから心理的に水平関係ですが、親子なので同時に上下関係でもありますよね。ただ、ここで肝要なのは、普通なら上であるはずの父親のほうがほとんど下に位置していることです。娘のほうがしっかりしていて、父親は子どもみたい。いつまでも亡妻のことが忘れられず過去に囚われている父親に対し、娘は未来を見据えている。

かと思えば、最後のライブでろくに練習してない歌をやろうと父親が言い出すと、まだ若く失敗を恐れる娘は物怖じする。「思い切って行くぞ」と娘の尻を叩く父親は、ここでは完全に上です。前述の「残りたいと言ったら?」というときも上から諭したのだろうし、この親子は、どちらが上かはっきりしない、流動的関係にあります。そこが面白い。

『once ダブリンの街角で』なんかは、主役の男女が恋仲になるからか(恋仲といっても単純じゃないんですが)ずっと水平関係に位置していたように思います。(←うろ憶え)

『ハーツ・ビート・ラウド』は主役の二人を常に上下関係として捉えるんですが、どちらが上位かはその都度変わる。娘は思春期だから揺れ動くのはわかりますが、父親をも揺れ動く子どものようなキャラクターに設定して描写しきった脚本チームの勝利でしょう。役者さんもよかった。芝居もいいけど、面構えがいいし、あのひげが何とも言えない味わい。

素晴らしい映画でした。(それにしてもテッド・ダンソン、歳食いましたね)


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