ミステリ

2019年05月03日

日本映画専門チャンネルで再放送された『古畑任三郎』シリーズ。

私はかねてからこのシリーズが好きじゃありませんので、印象的な回だけ再見しました。

中森明菜、木の実ナナ、鹿賀丈史、桃井かおり、菅原文太の回を見ましたが、うーん、どれもこれもつまらなかった。どれも謎解きになってないというか、初見のときにあれほど印象的だった鹿賀丈史の新幹線のリクライニングシートを倒すか倒さないかという回にしても、あの実験に鹿賀丈史が協力してくれなかったらどうするつもりだったのか。それ以前に、あの後ろにいたヤクザっぽい男に面通しを頼めば済む話では?
菅原文太の回にしたって、ホテルの管理人・梶原善が偶然ボヤを起こしてなかったらどうだったのか。それでもアリバイは崩せるとは思うけれど、ではボヤ⇒腐ったリンゴの流れは必要ないようにも思う。それに全般的に自白に頼りすぎでしょう。

なぜ昔はこんなものを面白がったんだろう、と思うものばかりでしたが、唯一いま見てもかなり面白かったものがあります。それが最高傑作との誉れ高い、第2シーズン第7話(通算第20話)『動機の鑑定』。


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骨董屋の犯人・春峯堂は、業界ではあまりにあくどいと最低の評判をもつ男。現代最高の陶芸家で人間国宝でもある川北百漢が焼いた壺を本物の「慶長の壺」と鑑定した男。なぜ百漢が贋作を作ったかというと、春峯堂を陥れるため。すでに本物の慶長の壺を手に入れており、これを公表すれば春峯堂の評判は地に堕ちる。

というわけで春峯堂は金づるの美術館長・角野卓造と共謀して百漢を殺害。そのあと「もうあんたとは手を切りたい」という角野をも殺害する。そのときに凶器として使ったのが他でもない慶長の壺。しかも鑑定の結果、凶器に使われたのが本物で、残されたのが贋作。贋作で殺したのならかなりの目利きが犯人、つまり春峯堂だと古畑は睨んでいたのですべての目算が崩れてしまう。

というのが、解決篇までのあらまし。

結果として、別の側面から春峯堂のアリバイを崩した古畑の勝ちとなるんですが、なぜ春峯堂が本物で殺したのかについては「とっさのことであなたにもどちらが本物かおわかりにならなかったようですね」としか言えない。

神妙に自供に応じる春峯堂は言います。(あんな簡単に自供に応じるのはご都合主義だとは思うけれど)

「本物は言ってみればただの古い壺です。しかしこちらはあの人間国宝が私一人のために焼いた壺。私一人を陥れるために。ならばどちらを犠牲にするかは……。古畑さん、物の価値とはそういうものなんですよ」

なるほど、「主観的な価値」と「客観的な価値」ということですね。あるいは「市場的な価値」と「個人的な価値」と言い換えてもいい。

警察の鑑定は約400年前の土が使われているから本物だという科学的な鑑定でした。それは「客観的な価値」に基づいてのものであって、審美眼に基づいたものではない。古畑は常に論理的に犯人のボロを崩していくことを商売にしているから、論理に基づかないものは理解できない。


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この『動機の鑑定』が素晴らしいのは、「美」という論理派・古畑任三郎には絶対に解けない謎を提示したことにあります。何を美しいと思うかは極私的な問題であり、客観的な論理というものが入る余地がない。

もしかすると、春峯堂はそれを言いたくて自供に応じたのかもしれません。論理だけを手掛かりに刑事をやってきた男に「論理だけでは人の気持ちは理解できないよ」ときついしっぺ返しを食らわしたかったのかも。

ならば……

もっとこの問題を突き詰めてほしかったという思いもあります。

目撃者は「美人」だというけれど、それはその人にとって魅力的な女性だっただけで、古畑の目には魅力的じゃないから誤算が生じるとか。

『古畑任三郎』だけでなく推理物全般に言えるのは、犯人がインテリだということ。探偵役もインテリ。インテリは理屈でものを考えやすい。だから理屈では割り切れない「美」とかそういうことを話の主軸に据えたものをもっと見たかったというのが正直なところ。

逆に言うと「完全犯罪」とはそういうところにしか生まれないのかもしれませんね。

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「価値」とは何か(フィギュアを箱から出さない人の心性について)


古畑任三郎 2nd season DVD-BOX
田村正和
フジテレビジョン
2004-04-21





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2019年03月31日

昨年末に『戻り川心中』を読んではまってしまった連城ミステリ。先日読んだ『夕萩心中』はどれも乗れないものばかりでしたが、『戻り川心中』に勝るとも劣らない短編集と言われる『宵待草夜情』、大変美味でございました。


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いや、最初はね、『夕萩心中』みたいな感じかな、と思ったんですよ。冒頭の「能師の妻」なんかは『戻り川心中』所収の佳編「桐の柩」と同じトリックだし、続く「野辺の露」、表題作の「宵待草夜情」どちらも好きなタイプの作品ではなかった。

はっきり申し上げて、ここで読むのやめようかと思いました。『戻り川心中』で熱狂したものの、『夕萩心中』が同じ「花葬シリーズ」なのにえらくレベルが違ったということもあり、『戻り川心中』だけの人なのかな、と高をくくってしまいそうになりました。

ところが! ちょいと間を開けて読み進めることにしました。すると……

第四編の「花虐の賦」に完全にやられてしまいました。

このお話は、「後追い自殺」をモチーフとしています。ある劇作家であり演出家でもある男が突然自殺してしまう。彼に名女優として育てられた女が、男の四十九日の法要を済ませた日に自殺する。誰もが「女が死んだ男の後を追って自殺した」と思う。

しかし事態は逆で、男のほうが女の後を追って自殺したんですね。

ええっ!? 先に死んだほうが後追い自殺??? 

ここがこの「花虐の賦」の素晴らしさです。

いや、本当の素晴らしさはそこではない。先に死んだほうが後追いだったというトリックに隠された、その男の狂おしいまでの女を想う気持ちこそが素晴らしい。言ってしまえば「くだらない男のプライド」なんですが、そのくだらなさを、くだらないがゆえに納得してしまう人間という存在の不思議。先に死ぬことで後追い自殺を成立させる男のあまりに手の込んだやり方が「本格ミステリ」と呼ばれる所以なのでしょうが、解説で泡坂妻夫さんがいみじくも言っている通り、「普通なら探偵小説の『小説』よりも『探偵』のほうに重きを置くけれども、連城さんは『探偵』と『小説』の両方を重んじ、どちらをも成立させてしまうところが非凡だ」ということになりましょうか。

決してトリックが素晴らしいのではなく、そのトリックを支える人間という生き物のどうしようもない哀しさが浮かび上がってくるところにこの「花虐の賦」の素晴らしさがあります。

そして最終編「未完の盛装」。

手の込み方ではこちらのほうが断然上でしょう。何しろ15年前の殺人、去年の殺人、さらにそこから第三、第四の殺人が起こる。
15年前の殺人の時効をめぐるサスペンスも読ませるし、時効が成立したところで明らかになるあと三つの殺人。それらが時効を成立させるためのあまりに手の込んだトリックと見せかけて、実は……という内容。

私は実は「本格ミステリ」というのが苦手でして、何かこう、トリックのためにキャラクターが利用されてるような感じが好きになれないんですが、「花虐の賦」もこの「未完の盛装」も手が込みすぎているのにそれを不自然と感じさせない男と女の狂おしいまでの愛憎が浮かび上がってくるのが素晴らしい。

何しろ「未完の盛装」では共犯関係にある男と女が、実は別々の目的で動いていたというだから驚きです。だから「共犯」ではなく一方が一方を騙していたんですけど、なぜ騙さなくてはいけなかったのか、なぜそんな手の込んだことをするのか、というところに理があるから感動するほかない。

手の込んだトリックを弄する作中人物のリアリティが、読んでいる自分に跳ね返ってくる快感があります。もし自分が彼あるいは彼女でも同じことをするかもしれないと思わせられる。

お見事! 途中でやめなくて本当によかったです。


【新装版】宵待草夜情 (ハルキ文庫)
連城三紀彦
角川春樹事務所
2015-05-15





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2019年01月15日

「週刊文春エンタ!」で徹夜必至と紹介されていた井上ひさしさんの『十二人の手紙』(中公文庫)を読みました。(できれば作品を未読の方は以下の感想は読まないでください。特にネタバレはしてませんが読まないほうが楽しめるかと)

徹夜はしなかったというか、もう徹夜なんかできる歳じゃないだけで、徹夜するほど面白いという惹句に嘘はないでしょう。13の手紙や書簡から成る短編集なのにひとつの話が終わってもすぐ次が読みたくなる。もうページをめくる手が止まらない。

ミステリと紹介されてましたが、謎解きとかそういうものではなく、正確にはサスペンスでしょうね。シリアスなサスペンスもあればコミカルなものもあり、ほとんどホラーじゃないかと思えるものもあったりするなど多種多彩。

手紙なのですべて一人称で書かれています。どうも去年、二人称の小説を書いたからか、小説における「人称」というものにこだわってしまうのですが、この一人称しかありえない書簡体小説において、プロローグ「悪魔」というのは純粋な一人称小説ですが、他のものはすべて「複数の一人称小説」になっています。

つまり、手紙の書き手が複数いるということです。手紙なんだから当然ですよね。書けば返事が来るのだから「悪魔」のような形が特別で、他の作品が普通のあり方でしょう。

で、その複数の手紙の書き手によって、ウソが暴かれたりする。そのウソも意図的で悪いウソもあれば、微笑ましいウソもあり、さらには書き手すらウソとわかってない無意識のウソもある。この無意識のウソを扱ったものが私には一番面白かったですね。タイトルを挙げれば「隣からの声」「シンデレラの死」というところ。こわい。

あとは「鍵」なんていう本格ミステリかと思わせておいて喜劇として収束するものも面白いし、「里親」みたいにダジャレがカギになっているのも悪くない。「葬送歌」の底意地の悪さも面白い。たぶん井上ひさしさんの周りにこういう「悪い小説家」がいたのでしょう。

とか言いながら、解説でも書いてありましたが、「赤い手」と題された作品が一番この短編集の精髄のような気もします。

これは手紙ではなく、出生届や死亡届、死亡診断書、転入届、転籍届、欠席届、洗礼証明書、誓約書、起訴状など公的文書だけを使って、私生児として産まれ修道院に引き取られた不幸な身の上の少女が、キャバレーのホステスに身をやつし、そして車に轢き殺されるまでの悲劇を語り尽くしてしまうのです。

これには唸らされました。もう40年も前にこんな斬新な作品が書かれていたのかと。もっと早く読みたかったと後悔しています。「赤い手」の最後2ページほどだけがその少女の手紙になっていて、これが泣かせるんです。

エピローグでは、プロローグ「悪魔」で悪役だった男に復讐しようと、無残にも愛人の子を殺してしまった女の弟がホテルに立てこもる事件を扱っているんですが、何とそれまでの12の作品の登場人物がそのホテルに泊まっているという設定で人質に取られるんですね。

最後の短編の終わり方が難しいんじゃないかと思って読み進めていたんですが、そう来たか、と。

天才としか言いようがないですね。井上ひさしさんの作品はこれまで1冊しか読んだことなかったんですが、これからもっと読んでいこうと思います。
いやぁほんと、こんなド傑作をこの歳になるまで読んでいなかったとは不覚のうえにも不覚ですわ。


十二人の手紙 (中公文庫)
井上 ひさし
中央公論新社
2009-01-25




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