ホームドラマ

2019年12月03日

Netflix製作ながらアカデミー賞に絡むということで一週間限定公開のノア・バームバック監督最新作『マリッジ・ストーリー』。(以下ネタバレあります)


監督の仕事とは?
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いやぁ、実に素晴らしかったですね。

いまは仕事で疲弊しているので寝てしまいそうな予感がしましたが、とにかく脚本の出来がいいのも当然ながらあるけれども、とにかく主役二人の芝居がとんでもなく素晴らしく、眠気が完全に吹き飛びました。

スカーレット・ヨハンソンもアダム・ドライバーも芸達者な俳優であることは周知の事実でしょうが、この『マリッジ・ストーリー』は二人のこれまでのベストでしょう。あれだけの超絶演技を引き出したノア・バームバック監督の手腕が光る一作ですね。

そういえば、映画の専門学校時代、中国語圏の映画で監督のクレジットがなぜ「導演」なのか、という人がいて、「監督の一番の仕事は俳優から演技を導き出すことだからじゃないか」と答えると「あ!」といまさら気づいたかのような顔をしていました、監督した経験がある人ですよ。

別の監督経験のある友人も「誰それが演技賞を総なめしたのは監督の功績と言ってたけど、違うよな」と言ってきたので「何で」と答えると「ウソーー!」と飛び上がらんばかりに驚いていました。監督の一番の仕事は演技指導なのに。

溝口健二みたいに、芝居だけつけてどう撮るかは宮川一夫に任せても大丈夫。
ポール・バーホーベンみたいに「僕は編集はしないんだ。撮影が終わったら素材を編集マンに渡して出来上がりを待つ」と編集にまったく口出ししなくても大丈夫。

でも、演技指導を他の人に任せてしまったら、その監督は監督でなくなってしまう。演技指導する人が本当の監督。以上のような認識を映画作りを目指す人間がもっていないことに愕然となったものですが、それはまた別の話。

とにかく、この『マリッジ・ストーリー』でのノア・バームバック監督の演技指導は素晴らしかったと思います。

ただ……


芝居場でなぜカットを割るのか
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主役の二人が最後のほうで口喧嘩をはじめ、アダム・ドライバーが泣き崩れる素晴らしいシーンがあります。

二人の超絶演技の絶頂場面ですが、私は素晴らしいと思うと同時に、かなりの疑問を感じました。

それは撮り方。正しくは見せ方。

なぜ何度もカットを割ってしまったんでしょう?

アダム・ドライバーが泣き崩れるまで二人のエモーションが高まり続ける場面なわけだから、ワンカットで見せないといけないんじゃないですか?

二人のクロースアップなんかいらない。もっと引いた画でかつては愛し合った男女が男が号泣するまで激しい口論をするその様を「まさにいま目の前で起こっているかのように」見せてほしかった。そのためにはカットを割るべきではなかった。

『once ダブリンの街角で』という映画がありました。

あの映画でも、いままさに歌が生まれる瞬間をカットを割って見せていましたよね。なぜワンカットで見せてくれないのかと再見するたびに思います。

先述のとおり、この映画では不必要なクロースアップが多いと思いました。最後にアダム・ドライバーが息子と会話して落涙する場面だって、もっと引いた画でワンカットで見せてほしかった。役者の芝居を一番重視して抜群の演技指導を施しているのに、それを十全に楽しめる形で見せてくれない。

文句ばかり書きましたが、私はこの映画にアカデミー監督賞、主演男優賞、主演女優賞、助演女優賞、脚本賞を取ってもらいたいと切に思います。(脚本賞の受賞はほぼ当確のような気がしますが。少なくとも脚本家組合賞は取るかと)

なぜ作品賞は応援しないのかって?

やっぱりホームドラマが作品賞って違うと思うんですよね。『クレイマー、クレイマー』あたりからこじんまりした人間ドラマが作品賞を取ることが増えましたけど、アカデミー賞というお祭りにそういう映画はふさわしくないんじゃないかというのが個人的な意見です。


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2019年11月15日

私は自分の父親に対して「絶対に許せないこと」があります。

すぐ怒鳴るとか独善的とか子供じみてるとかいろいろ問題のある人ですが、ひとつのことを除いて他はどうでもいいです。

もう8年前になりますが、シナリオコンクールで受賞し、東京の授賞式に行って帰ってきた晩、泊めてくれた友人の悪口を言い始めたので文句を言うと、あれこれ愚痴を言った末に、

「そんなくだらない賞はいますぐ東京へ戻って返上してこい!」

と言いました。私はあれだけは未来永劫絶対に許しません。

ということを今日の今日まで忘れていました。思い出したきっかけは、NHK‐BSプレミアムで再放送された、向田邦子原作、ジェームス三木脚色の『父の詫び状』。


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1986年の作品ですから、映画狂になる前に見ていたんですね。あれ以来33年ぶりの再見。

この作品は向田邦子さんが自分の父親について書いたエッセイがもとになっているのですが、この父親が絵に描いたような「昭和のカミナリ親父」で、すぐ怒鳴る、小言ばかり言う、女房を家政婦としか思ってない、などなどさまざまな問題を抱えている。でも、語り部である長女は最後に「すべてを許そうと思った」というんですね。

父親の母が死に、会社の社長が弔問に来た。すると家では威張り散らしている父親が、平身低頭している。

「父は、こういう卑屈ともいえるお辞儀で外の世界では闘っていたのだ」

それがすべてを許そうと思った理由なのですが、私には「すべてを許す」理由が見当たらない。そもそも「父の詫び状」というものを読んだことがない。

そういえば、あるとき手紙を渡されました。いい成績を取れ、いい大学に入れ、とばかり言われていた私はあるとき突然いやになり進学を拒否。映画の専門学校に行ったのですが、その頃です。

「まず係長、その次に課長、課長の次に営業部長、営業部長から事業部長、あわよくば重役、そして社長。そういうふうに人生を一本のレールとしか考えていなかったのが私の落とし穴だったのかもしれない」

と書かれていました。母に話してみると、

「お父さんはあなたのおかげでいろいろ自分の人生を見つめ直しているのよ。そういう人生もあったのかって」

それを聞いたとき「勝った!」と思わなかったといえば嘘になる。けれど、だから許すとまではいかない。

いや、許してはいるんですよ。

小学校3年のとき、父の日をすっかり忘れていた私は友だちと遅くまで遊び惚け、日が暮れてから帰ってくると兄貴二人はタバコと酒(ワインだったか)を買っていて「おまえ、どうするんだ」とニヤニヤしている。もう店は閉まっている時間だから必死でクレヨンで父の似顔絵を描き、「お父さん、毎日僕たちのために働いてくれてありがとう」と添え書きして、接待ゴルフから帰ってきた父に渡した。

すると、父はそれを見るなりビリビリに破り裂いた。

「プレゼントというものはお金を出して買ってくるものだ。こんなものはプレゼントじゃない!」

私がカネというものにまるで執着心がなく、カネ儲けと聞いただけでいやになるのはこのときのことが原因なんだろうと思う。しかし、ま、それはそれで「カネは汚らわしい」と思い込ませる教育効果はあったのかもしれない。だから許す。

こんなこともあった。

何歳の頃かは忘れたけれど、ある晩のおかずがトンカツだった。いまと違ってトンカツが月に一度しか食べられない結構なごちそうの頃だからおそらく小学生の頃かな。

何よりの大好物なのでむしゃむしゃ食べていると、父が横から箸を出してきて私のトンカツをひとつつまんで食べた。文句を言うと、

「このトンカツはお父さんが働いた給料で買ったものだ。だからお父さんには食べる権利がある」

そりゃ、あんたの金で買ったものには違いないが「食べる権利がある」というのはどう考えても間違い。すべてが父の物ならなぜ母は別々の皿に盛りつけたのだろうか。しかし、ま、こういうことも「自分が親になったら絶対にすまい」という反面教師の役割を果たしてくれるだろうから、許そう。

でも、

「そんなくだらない賞はいますぐ東京へ戻って返上してこい!」

これだけは許せる理由がない。おそらく自分が「こんなくだらないものを書くな」と難じたものが栄誉を受けたので恥ずかしかったんでしょう。何よりも体面を重んじる人だから(ゆえに中身がない)「見る目がない」と思われてるんじゃないか、という恐怖もあったのでしょう。

あそこで「俺はあんなシナリオが受賞に値するとは少しも思わない」と言っていれば「骨がある」と思っていただろうけれど、常に多数派でいないと安心できない人だからそんなことが言えるはずもない。

だからといって「そんなくだらない賞はいますぐ返上してこい!」などと言っていいわけではない。

最近は歳も歳なので、体も脳味噌もだいぶガタが来ており、それなりに心配はしているけれど、はっきり申し上げて「どうでもいい」のである。昔は「早く死んでほしい」と思っていたけれど、いまはそれすら思わない。どうでもいい。

とはいえ、よく似た父親が出てくるテレビドラマの感想と称してこんな文章を書いているわけだから、向田さんと同じく「すべてを許す」という気持ちがどこかにあるのかもしれない。本当にどうでもよければ、こんな日記すら書かない。『父の詫び状』を見ても自分の父親のことが頭に浮かぶことすらない。

私がこれまで書いたシナリオで、母親が大きな位置を占める作品はほとんどない。受賞作も含め、父と子の関係が軸になっていることが多い。やはりどこかで父親をずっと意識して生きてきた(いまも)からだろうか。

でも、それは幼少の頃に貪り読んだ『巨人の星』の強い影響かもしれず、本当のところはよくわからない。

確かなのは、私はちょっと前から「父親になりたい」という気持ちがものすごく強くなっていること。「結婚したい」という気持ちももちろん強くあるけれど、それ以上に、父親になりたい。


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新装版 父の詫び状 (文春文庫)
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文藝春秋
2005-08-03




2019年09月22日

遠藤憲一さんのスケジュールが空くまで1年も撮影を待ったという『それぞれの断崖』もついに最終回。しかしこれがあまりにあんまりな最終回で、見た直後は憤懣やるかたなしという感じでした。

第4話までの感想
「もったいない脚本構成」


私の結論は『エヴァンゲリオン』のようにやるべきだったんじゃないか、というものですが、その前にまず最終回のどこが残念だったか。


よけいなシーン
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八巻満が少年院を退院して主人公と再会したのが前回。主人公は彼の父親になる決意をしている。八巻満は当然反発する。そして今日の最終回。あとたった1時間でどう話を落としどころに落とし込んでいくのかと思ったら……

なぜか満の実の父親が死亡したという知らせがあり、満が父親をまったく知らないことが明らかになります。ミュージシャンを目指していたが最近は刑務所を出たり入ったりだったと。

なぜそんな情報が必要なんでしょうか? 主人公が彼の父親になろうとしているから、実の父親を知らないのは好都合ということ?

さらに「あのおじさんと生活するのはいやだ」という満は「母さんを自分だけのものにしたい」と包丁を振りかざし、階段から転落させて大怪我を負わせます。

満がマザコンという設定なんか邪魔なだけだし、しかも入院が必要な怪我を負わせるという展開がなぜ必要なのでしょうか。田中美佐子と田中美里を再会させたかったという気持ちはわかります。でも、主題は「被害者の父親が加害者の父親になれるか」ということでしょう? それとは何の関係もないシーンが続くので辟易しました。


時間がない!
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前回の記事に書いたように、息子が殺されるところから始めたために、全8話しかないのに被害者の父親と加害者の母親が恋に落ちる禁断の展開がちょうど真ん中の第4話で起こります。そこから離婚をし、犯人の父親になる決意をし、会社を辞め、再会し、反発を受け……これを残り半分でやるというのはいくら何でも無理があります。

遠藤憲一さんのスケジュールが空くまで1年も待ったなら、なぜシナリオの見直しをしなかったんでしょうか。2000年にドラマ化されたときは全10話で、主人公と犯人の母親が恋に落ちるのが第8話だったらしく、それよりはまだしもですが、やっぱり最初のほうの無駄な時間の使い方が気になりました。

そしてこの人たち。


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主人公が加害者の母親と不倫関係と知ったときはものすごい非難の嵐だったのに、前回と今回、最後のほうになればなるほど理解を示すのはなぜ? 主人公を甘やかしてはいけない。

結局、田中美里は「これからちゃんと生きていく」と言い、遠藤憲一さんも「俺も一からやり直す」と言います。これは別れ話なんですか? はっきりわからなかった。ただその直後の田中美里の「生きていくってつらいけど、捨てたもんじゃないですね」というセリフは白けました。セリフで言わせないで視聴者に感じさせないと。

オーラスは農作業をする遠藤憲一さんのもとに八巻満がやってくるというもので、彼がどういう気持ちで来たのか少しもわからない。父親として受け容れるということですか? それはあまりに安直というか取ってつけたような結末。

そう、「取ってつけたような結末」というのがキーワードですね。


『エヴァンゲリオン』
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最終回を見ていままで一番怒ったのは『新世紀エヴァンゲリオン』です。

「すべてのチルドレンにおめでとう」っていったい何だと。あれだけ大風呂敷を広げておいてどうやって畳むのかと思ったらめちゃくちゃ意味不明な結末。使徒とはいったい何者だったのか。エヴァンゲリオンも使徒だったのか。何の答えも示さず終わったので見終えた直後は激怒しました。

が……

時間がたつにつれて、あれはあれで正直なやり方だったのかな、と思うようになりました。いや、むしろ、取ってつけたような結末を見せられるよりもよっぽど作り手の正直な思いが出ている気さえしてどんどん好感をもつようになりました。

初見から10年以上たって再見したら「これしかない!」とまでは思えないけれど、やはり好感をもちました。怒るなんてとんでもない。いまでは大好きな結末です。

『それぞれの断崖』はまさに私が嫌った「取ってつけたような結末」ですよね。しかも、八巻満が主人公を受け容れたのかどうかはっきりさせないで視聴者の想像にまかせるという、誠意の感じられない結末でした。

私の脚本のお師匠さんは「解決不能の問題には絶対手を出すな」といつも言っていました。

「いじめや差別には手を出さないほうがいい。現実に解決の芽がない問題をフィクションの中だけで解決させても空々しく見えるだけだ」

『それぞれの断崖』は現実にありえない問題を設定しています。それ自体は悪くも何ともないですが、いみじくも最終回で刑事が「被害者の父親が加害者の父親になれるものなんでしょうか」
と言うように、1年間かけた大河ドラマでやったとしてもなかなか視聴者の納得を得るのが難しい問題です。それをたった8話でやる、しかも問題が発生するのが第4話のラスト。いくら何でも無理です。

『それぞれの断崖』の物語で『エヴァンゲリオン』のような「正直で誠意ある結末」というのがどんなものか、具体的にはまったく見えてきません。

ただ、どうすればいいか主人公もわからない、周りもわからない、作り手自身もわからない、もうどうしていいかわからない。そんな「私たちには少しもわからないんです」という思いを見せてくれたら、傑作になったかどうかはわかりませんが、記憶に残る作品になったと思うし、やる価値はあったと思います。