ホームドラマ

2020年05月02日

久しぶりに再見しました。泣く子も黙る名作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。今回は最後のほうで『ラストエンペラー』を想起するなど、ちょいと新しい発見がありました。

『PARTⅠ』の感想はこちら⇒『ゴッドファーザー』(父親を乗り越えられなかった息子の悲劇)


続編ではない続編?
世に続編映画は数あれど、ここまで完璧な続編はありません。というか、これは正確には続編ではないんですよね。マイケルのその後、マイアミのドン、ハイマン・ロスとの闘いなどより、それと対比された若き日のヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)を描くことが主眼ですから。だから今風に言えば、『エピソード0』ですかね。『PARTⅠ』の前日譚をやるのはこの『PARTⅡ』が嚆矢でしょう。すぐれた発明です。

と思っていたのは昨日まで。やはりこれは「続編」だと今回は思いました。若き日のヴィトーが主眼ではなく、現在のマイケルが主眼だと。

とはいえ、誰もが言うように、この『PARTⅡ』ではデ・ニーロの芝居が何といっても素晴らしい。


街のガン ファヌッチ
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ヴィトーはパン屋でまじめに働く好青年でしたが、ある日、街を牛耳るファヌッチというドンが甥っ子をこの店で雇ってくれとやってくる。店主はファヌッチにだけは逆らえない、逆らったら恐ろしい目に遭うということで、しょうがなくデ・ニーロをクビにします。

ファヌッチは街のガンでした。誰も彼もがファヌッチのために苦しんでいる。ひょんなことからすでに闇の稼業に手を染めていた、後年彼の右腕になるクレメンザと知り合ったヴィトーは、同じく将来の右腕テシオと3人で裏の商売を始めます。が、ファヌッチから法外な金を要求される。ヴィトーは誠心誠意をこめてもう少し負けてはくれまいかと頭を下げますが、金の亡者ファヌッチはビタ一文負けるわけにはいかないと去る。

そこでヴィトーは決心します。ファヌッチを殺そうと。あいつを殺さなければ街のみんなは誰も幸せになれない。


マイケルのために初めて人を殺す
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そして、あの名場面です。祭りで賑わう街をよそにヴィトーはファヌッチを見事に殺します。ヴィトーにとって初めての殺人です。そして、拳銃をバラバラにして始末したあと自分の家に帰ります。家の前の階段に座っていたのは他でもない、幼少時のマイケルでした。ヴィトーは「マイケル、マイケル」と声をかけ、おまえのために俺はやってきたぞ、という感じで抱き上げます。

ヴィトーは金の亡者であるファヌッチを殺して新たなドンとして街を支配しますが、決してファヌッチのように法外な金を要求したりしません。払えない人の願いでもちゃんと聞いてあげる。PARTⅠで金のことばかり言う葬儀屋を叱責するのは、俺はファヌッチのようにはならないと誓ったからでしょう。

でもヴィトーは悪人です。暴力で問題を解決する以上しょせん薄汚れた悪人にすぎない。ヴィトーはそれをよくわかっています。だから『PARTⅠ』で「マイケル、おまえにだけはこんな仕事はさせたくなかった」と言うのです。

俺は薄汚れた悪人だ、でも俺のような悪人がいなければ苦しまねばならない人がいる。とヴィトーは汚れ役を買って出る。

街のみんなのために、家族のために、かわいい三男坊マイケルのために初めてヴィトーは人を殺します。

『PARTⅠ』でマイケルも中盤で初めて人を殺します。マイケルは戦争の英雄ですから、すでにたくさんの人を殺してるはずです。だから初めての人殺しではないものの、非合法の人殺しはあの場面が初めてです。

ヴィトーはマイケルのために、マイケルはヴィトーのために初めて人を殺すのですが、それを契機にヴィトーとマイケルの運命は真逆の方向へ変わっていきます。ヴィトーが誰からも敬愛されるドンになっていくのに対し、マイケルは誰からも愛されない、金しか信用できない孤独なドンに成り下がっていきます。

マイケルのために金の亡者ファヌッチを殺したのに、そのマイケルがファヌッチと同じ金の亡者になってしまった。

壮大にして完璧な悲劇です。ここまで完璧な悲劇は映画では他にないんじゃないでしょうか。

『PARTⅠ』で描いた「父親を乗り越えられなかった息子」の物語を、父親の若き日を描くことでその悲劇性をさらに高める。『PARTⅠ』と『PARTⅡ』ではほとんど同じことを語っているんですが、『PARTⅡ』でより深化してるんですね。Ⅱのほうが好きという人が多いのもうなずける出来栄えです。


兄をめぐって
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『PARTⅡ』はまた「兄」をめぐる物語でもあります。

マイケルの最大の罪、兄のフレドー殺しが描かれるだけでなく、それとカットバックして描かれるのが、フランク(マイケル・V・ガッツォ)というヴィトーの右腕だった男の自殺です。

フランクはマイケル襲撃の陰謀を企てたと殺されかかりますが偶然通りかかった警察官のおかげで一命を取り留め、FBIに保護されます。そして公聴会の重要証人として召喚されます。

が、このとき、マイケルが一人の男を連れてきます。フランクのお兄さん。ずっと本国イタリアで暮らしていて英語がわからない。でもフランクはそのせいで証言を拒否する。

FBIの証人保護施設か何かにトム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)が訪ねてきて言います。

「君は歴史が好きだったな。ヒトラーのこともいろいろ教えてもらった。……昔のマフィアはファミリーを組織化しようとした。ローマ皇帝とその兵隊のように。皇帝に謀反を起こした者でも処刑されるまでは猶予を与えられた。家族を守る猶予を」

兄貴を殺されたくなかったら自決しろという、ものすごく遠回しな脅迫ですが、フランクは唯々諾々と従って兄を守るために自殺します。それと並行して描かれるマイケルのフレドー殺し。

自分の兄は裏切り者だからと殺し(それも母親が死ぬのを待ってからという巧妙というか卑劣というか)別の裏切り者には兄を守るために死ねという。

皇帝マイケルは兵隊たちにどこまでも横暴です。


「皇帝」と「兵隊」
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『PARTⅡ』の最後には、まだ大学生だったマイケルが海軍に入隊したと言ってソニーから殴られそうになる回想シーンがあります。

もともとの台本にはないシーンであとから付け足したらしいですが、いままでずっとこのシーンがなぜ必要なのかわからなかったんです。

今回初めてわかりました。

マイケルは国のために戦う「兵隊」になります。ソニーは「何が国のためだ」と言いますが、本心は「おまえが仕えるべき相手はアメリカの大統領ではなく、ファミリーの皇帝たる親父ではないのか」ということだったはずです。そして「おまえだって皇帝の血を引いた男じゃないか。それがなぜ兵隊なんかに」とも。

マイケルは英雄として帰ってきますが、なぜか「兵隊」として働くのはいやになったと考えられます。皇帝に仕える兵隊ではなく、兵隊を顎で使う皇帝になりたい。

だから『PARTⅠ』でヴィトーが撃たれたとき、血相を変えて帰省し、家族のために力になりたいと殺人まで犯したんだと思います。でなければずっと堅気だった男があそこまでしないはず。

でも、それがそもそもの間違いだったのでしょう。

ヴィトーは「おまえにだけはこんな仕事をさせたくなかった」と言っていました。最初から堅気の人間として育てたはずですが、それはマイケル自身の望みでもあったはずです。

周りがやくざな連中ばかりなのに自分一人だけなぜ、とは思わず、おとなしく大学に入ってひとかどの人物になろうとしていたわけですから、堅気の人間のほうがいいと思っていたのでしょう。だから国のために軍隊にも入った。一兵卒として働いて生きていくというごく普通の将来像があった。

しかし戦場で何を見たのかはわかりませんが、「兵隊」に嫌気が差し「皇帝」になろうとした。そんな器じゃないのに。

『ラストエンペラー』のジョン・ローンに似たものを感じます。

皇帝として生まれながら、辛亥革命によって皇帝の座から引きずり降ろされ紫禁城に軟禁される。そして日本が満州国を建国するとき、皇帝になってほしいという依頼に胸を躍らせます。ただの操り人形だと妻は諭しますが彼の耳には少しも聞こえていない。

「もう一度皇帝になれる!」

その喜びが勝ってしまい、もう何も見えない聞こえない。

マイケルもソニーが殺されたとき、同じような思いをもったのかもしれません。

「ソニーは死んだ。フレドーは能無し。じゃあ俺が次期皇帝だ!」

皇帝の器じゃないのに皇帝になろうとした男の悲劇。その根っこには「裏切り」があった。ヴィトー襲撃もシチリアの妻殺しもすべては裏切り。テシオもカルロも裏切った。今度はフレドーまで。

マイケルはもしかしたら戦場で「国家の裏切り」に遭ったのかもしれない、という思いも芽生えてきました。だから「兵隊」がいやになったのかも……。

それについては『PARTⅡ』までではまったく描かれていませんが、もしかして『PARTⅢ』を見たらわかるのかしらん。あれ、あんまり好きじゃないから見る気が起こらないけど、久しぶりに見てみようかな。







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久しぶりに見ました。不朽の名作『ゴッドファーザー』。


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主人公は誰か
よく、「『ゴッドファーザー』の主人公はマイケル(アル・パチーノ)だ」というと、「ヴィトー(マーロン・ブランド)だろう」と言い返されるんですが、それは明らかな間違いです。

この映画は何よりもマイケル・コルレオーネの「顔の変化」を骨格としています。


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この場面はマイケルが「俺がソロッツォを殺す」と息巻くところですが、まだまだあどけなさが残っています。

それが、最後のほうになると……

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冷徹きわまりない顔になってしまう。

『ゴッドファーザー』はあくまでも父親ヴィトーが撃たれてことをきっかけに堅気だったマイケルがファミリーの仕事に手を染め、下劣なゴッドファーザーに成り下がる映画です。それを筋としてだけでなく、顔の変化という視覚に訴えるやり方で描写しているところが素晴らしい。


クライマックスはどの場面か
一番の見せ場は洗礼式と五大ファミリー殲滅を交錯させたシークエンスですが、やはりこの映画のクライマックスは、マイケルが妹コニーの旦那を平気で殺す冷酷非情なゴッドファーザーになった場面です。

正確には、妻のケイ(ダイアン・キートン)に「ほんとにコニーの旦那さんを殺したの?」と聞かれて「ノー」と答える場面。ファーストシークエンスではあどけない若者として登場したマイケルが最終的に最愛の妻にさえ平気で嘘をつく男になってしまう。

ヴィトーはクライマックスのはるか前に死んでしまうのだから主人公であるはずがありません。


ホームドラマ
この記事には「ホームドラマ」のタグを付けていますが、「『ゴッドファーザー』はホームドラマだ」というと、これにも異議を唱える人がいるんですよね。確かに「マフィア映画」でもあるけれど、それ以上に「ホームドラマ」の側面が大きい。

マイケルが裏の稼業に手を染めるのは父ヴィトーが撃たれ少しでも家族の役に立ちたいと思ったからですが、なぜヴィトーが撃たれたかというと、タッタリア・ファミリーからの「俺たちと組んで麻薬取引をやらないか」という申し出を断ったからです。なぜ断ったか。「麻薬は家族を滅ぼすから」です。

長男ソニー(ジェームズ・カーン)が殺されたのは、コニーが旦那から暴力を振るわれていて助けに行こうとしたからです。

すべての登場人物が「家族のために」行動しているのに、それがすべて裏目に出てしまい家族がバラバラになってしまう物語なのだからホームドラマでなくて何なのでしょう?

ヴィトーは、かわいい三男坊のマイケルにだけは暴力で人を動かす汚れた稼業に手を染めてほしくないと思っていました。それが、マイケルが跡目を継いだばかりか、義理・人情を重んじるヴィトーとは対照的に、マイケルは金しか信じない極悪人になってしまう。ヴィトーの思いをことごとく裏切り、偉大なる父ヴィトー・コルレオーネとは似ても似つかぬゴッドファーザーに成り下がってしまいます。


金では動かない男ヴィトー
「アメリカはいい国です」から始まる印象的なファーストシークエンスで、葬儀屋は娘をレイプした男たちを殺してほしいとヴィトーに依頼に来ます。
「おまえの娘は殺されたわけじゃないから痛めつけるだけで充分だ」
「私は殺してほしいと頼んでいるんです。いったいいくら払えばいいんですか!」
「俺はそんなに情けない男か⁉ おまえが俺を常日頃からゴッドファーザーと呼んで友情を誓っていれば頼まれなくたってそんな奴らは痛めつけてやる」
葬儀屋がかしずいて「ゴッドファーザー」とヴィトーの手にキスをすると、
「これでおまえは友人だ。頼みを聞いてやる」

一方で、ヴィトーが撃たれる直前にソロッツォに殺されるルカ・ブラジという男は、殺し屋としては優秀らしいですが、とても口下手で、コニーの結婚式では「ドン・コルレオーネ、このたびはお招きにあずかりありがとうございます」と口上の練習をしている。

そして練習通りに棒読みでヴィトーに感謝の意を伝えるのですが、ヴィトーはじっくり聞いてやる。「忙しいときに何だ」と直前には言っていたのに、ルカ・ブラジのどうしてもお礼を言いたいという気持ちを汲む度量がヴィトーにはある。ヴィトーにとって大事なのは「気持ち」であって「金」ではない。

そういえば、ずっと以前、山口組の組長がインタビューで「一番恐いものは何ですか?」という質問に「金では絶対に動かない男」と答えてましたっけ。


パン屋がもってくる「ささやかな花束」
撃たれたヴィトーが入院している病院をマイケルが訪れたとき、パン屋が来ますよね。このままでは殺されるからと看護婦と一緒にヴィトーのベッドを廊下の奥に移動させたら足音がして、殺し屋かと思ったら「いつもお世話になってるパン屋です」と。あのパン屋がもってきた「ささやかな花束」もまたヴィトーという男を象徴していると思います。

パン屋だって豪勢な花束を買いたかったはずなんですよ。でも貧しいから小さいのしか買えない。でもヴィトーは何よりも相手の気持ちを汲む男です。金なんてどうでもいい、見舞いに来てくれたことがうれしいと喜んで受け取る男なのでしょう。

しかし!

殺し屋が来たとき「胸元に手を入れて拳銃をもっているふりをしろ」とパン屋に命じるマイケルは、その花束を奪い取って捨てます。別に胸元に隠してたっていいじゃないですか。それを捨ててしまうというのは、マイケルがもしヴィトーと同じ目に遭えば、あんなささやかな花束を受け取らない男だということです。父と子の器の違いが顕わになっています。


フレドーについて口を閉ざすヴィトー
マイケルの次兄はフレドーという能無しの男ですが、そのフレドーについてヴィトーは何も語りません。腹の中では能無しと思っているんでしょうがそれだけは決して口にしない。それを口にしたら終わりだという良識をヴィトーという男はもっていました。薄汚れた仕事に手を染めながらも、人としての矜持を失わない男でした。

しかし、マイケルはドンになった途端、次兄のトム(ロバート・デュバル)を相談役から降ろすと非情な宣告をします。ヴィトーが「わしからそう言ったんだ」と取りなそうとしますが、「力になれる」というトムにマイケルは「無理だ」の一言で片づけてしまう。


Vito and Michael Corleone

主人公はあくまでもマイケルですが、マイケルを通してヴィトーという男の偉大さがどんどん浮き彫りになっていきます。

だから「主役はヴィトーだ」と勘違いしている人が多いのかな、とも感じた次第。


マイケルの悲哀
ただ、マイケルもかわいそうな男なんですよね。もともと極悪人だったわけじゃないから。ヴィトーが撃たれる日、ケイとクリスマスを祝うシーンなどではごく普通の善良な男です。

それがなぜ冷酷非情なゴッドファーザーに成り下がってしまったのか。

それはやはり「裏切り」でしょうね。

ヴィトーが撃たれたのは運転手兼ボディガードのポーリという男が裏切って仮病を使ったためですし、ソロッツォを殺したあとに逃れたシチリアで出逢った女と結婚しますが、彼女もまた裏切り者のせいで爆死してしまう。

だから、コニーの旦那も親父さんの昔からの仲間だったテシオですら裏切った以上は死んでもらう。

『仁義なき戦い』を書いた笠原和夫さんの「骨法十箇条」の要諦は「枷」で、「主人公の心のあり方にこそ求めること」と書かれています。

裏切り者のせいで家族が不幸になった。だから裏切り者は全員根絶やしにしてやる。
それがマイケルを縛る「枷」です。その枷のせいでマイケル自身がどんどん不幸になってしまう。


おまえにだけはこんな仕事はさせたくなかった。おまえにだけは普通の幸せを手にしてほしかったという父親の願いもむなしく……


続き
『ゴッドファーザーPARTⅡ』(『ラストエンペラー』に通底するもの)


ゴッド・ファーザー (字幕版)
マーロン・ブランド
2013-11-26









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2019年12月03日

Netflix製作ながらアカデミー賞に絡むということで一週間限定公開のノア・バームバック監督最新作『マリッジ・ストーリー』。(以下ネタバレあります)


監督の仕事とは?
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いやぁ、実に素晴らしかったですね。

いまは仕事で疲弊しているので寝てしまいそうな予感がしましたが、とにかく脚本の出来がいいのも当然ながらあるけれども、とにかく主役二人の芝居がとんでもなく素晴らしく、眠気が完全に吹き飛びました。

スカーレット・ヨハンソンもアダム・ドライバーも芸達者な俳優であることは周知の事実でしょうが、この『マリッジ・ストーリー』は二人のこれまでのベストでしょう。あれだけの超絶演技を引き出したノア・バームバック監督の手腕が光る一作ですね。

そういえば、映画の専門学校時代、中国語圏の映画で監督のクレジットがなぜ「導演」なのか、という人がいて、「監督の一番の仕事は俳優から演技を導き出すことだからじゃないか」と答えると「あ!」といまさら気づいたかのような顔をしていました、監督した経験がある人ですよ。

別の監督経験のある友人も「誰それが演技賞を総なめしたのは監督の功績と言ってたけど、違うよな」と言ってきたので「何で」と答えると「ウソーー!」と飛び上がらんばかりに驚いていました。監督の一番の仕事は演技指導なのに。

溝口健二みたいに、芝居だけつけてどう撮るかは宮川一夫に任せても大丈夫。
ポール・バーホーベンみたいに「僕は編集はしないんだ。撮影が終わったら素材を編集マンに渡して出来上がりを待つ」と編集にまったく口出ししなくても大丈夫。

でも、演技指導を他の人に任せてしまったら、その監督は監督でなくなってしまう。演技指導する人が本当の監督。以上のような認識を映画作りを目指す人間がもっていないことに愕然となったものですが、それはまた別の話。

とにかく、この『マリッジ・ストーリー』でのノア・バームバック監督の演技指導は素晴らしかったと思います。

ただ……


芝居場でなぜカットを割るのか
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主役の二人が最後のほうで口喧嘩をはじめ、アダム・ドライバーが泣き崩れる素晴らしいシーンがあります。

二人の超絶演技の絶頂場面ですが、私は素晴らしいと思うと同時に、かなりの疑問を感じました。

それは撮り方。正しくは見せ方。

なぜ何度もカットを割ってしまったんでしょう?

アダム・ドライバーが泣き崩れるまで二人のエモーションが高まり続ける場面なわけだから、ワンカットで見せないといけないんじゃないですか?

二人のクロースアップなんかいらない。もっと引いた画でかつては愛し合った男女が男が号泣するまで激しい口論をするその様を「まさにいま目の前で起こっているかのように」見せてほしかった。そのためにはカットを割るべきではなかった。

『once ダブリンの街角で』という映画がありました。

あの映画でも、いままさに歌が生まれる瞬間をカットを割って見せていましたよね。なぜワンカットで見せてくれないのかと再見するたびに思います。

先述のとおり、この映画では不必要なクロースアップが多いと思いました。最後にアダム・ドライバーが息子と会話して落涙する場面だって、もっと引いた画でワンカットで見せてほしかった。役者の芝居を一番重視して抜群の演技指導を施しているのに、それを十全に楽しめる形で見せてくれない。

文句ばかり書きましたが、私はこの映画にアカデミー監督賞、主演男優賞、主演女優賞、助演女優賞、脚本賞を取ってもらいたいと切に思います。(脚本賞の受賞はほぼ当確のような気がしますが。少なくとも脚本家組合賞は取るかと)

なぜ作品賞は応援しないのかって?

やっぱりホームドラマが作品賞って違うと思うんですよね。『クレイマー、クレイマー』あたりからこじんまりした人間ドラマが作品賞を取ることが増えましたけど、アカデミー賞というお祭りにそういう映画はふさわしくないんじゃないかというのが個人的な意見です。


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