聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ホームドラマ

『クワイエット・プレイス』(足りないあの手この手)

登場人物と同様に息もできないほど恐くて面白いと評判の『クワイエット・プレイス』を見てきました。(以下ネタバレあります)


QuietPlace2

「驚喜するもの」に関する疑問
『クリエイティヴ脚本術』という本では、最終的に問題を解決する小道具を「驚喜するもの」と表現しています。『ジョーズ』なら酸素ボンベ、『ガントレット』なら一発の銃弾ですね。

で、この『クワイエット・プレイス』では視力はないものの異常な聴力をもつ異星生物を殲滅する小道具が、主人公夫妻の聴覚障害の娘がもつ人工内耳。異常に不快指数の高い音で弱ったところをショットガンでズドン!と。で、その音でやってきた他のエイリアンたちをやっつけるべく、エミリー・ブラントが娘と目を合わせながらショットガンの新しい弾丸を装填するところで幕切れ。恰好いいといえば恰好いいけど、疑問が残ります。

世界中の軍が束になっても殲滅できなかったという設定ですが、いったい軍はどうやって戦ってたんでしょうか。聴力が異常に発達している。でも短所は長所の近くにあると普通に考えればわかるはずですが。え、これで終わり? んなアホな!? と思ってしまいました。


出産に関する疑問
予告編を見たときにゲゲッとなったのがエミリー・ブラントが妊娠してるってことなんですよね。絶対に物音を立ててはいけないところでどうやって出産するのか。自分が声を挙げなくても赤ちゃんは絶対泣くし、泣かなかったら死んじゃうし。

と思ったら実際の映画ではえらくあっさり処理してませんでした? というか、エミリー・ブラントも叫び声をあげるし、赤ん坊も結構泣いてるのに何で奴らは襲ってこないんでしょう?

それよりも、冒頭で「400何日目」って出るから、妊娠したのはエイリアン襲来のあとなんですよね。なら「産むべきか堕ろすべきか」という議論が夫婦の間でなされていたはずですが、それは野田高悟ふうに言えば「演じられなければならない場面」ですよね。仮に産むことで合意したとしても、お腹が大きくなってきたら夫が「やっぱり堕ろすべきだ」「いやよ!」みたいな芝居はあるのが普通だし、この映画はそこから逃げていると思います。


でも上記のようなことは些末なこと。もっと気になるのは以下の点。


可聴領域
人工内耳を使えば勝てると気づく直前、新聞記事か何かで「可聴領域」がどうのこうのという文字が出ますよね。私はそのとき初めてこの映画がものすごくもったいないことをしていると気づきました。

同じ地球生物でも、人間と犬や猫では可聴領域は異なります。犬は人間より長い周波数の音と短い手端数の音を聞き取ることができる。なのに異星生物は人間と同じ可聴領域という設定はもったいないでしょう。

奴らのほうが可聴領域が広いといくら何でも不利すぎますから、逆に人間のほうが可聴領域が広いという設定にすればよかったのではないでしょうか。可聴領域は広いけど平凡な聴力しかない人間と、可聴領域は狭いけど異常な聴力を備えたエイリアンとの死闘! ならもっといろんな手が使えたような気がします。

例えば、人間のソプラノぐらいの音が奴らには聞こえない。という設定にしてはどうだったでしょうか。
人間たちはとにかく高い音でしゃべります。女の人や子どもは得ですよね。普通に喋ればいいから。でもあのお父さんは声が裏返るほど高い声を出さないといけない。そんなことをしたらコメディになる? いやいや、この映画に足りないのはまさにコメディの要素だと思う。


笑いのシーンがない
別にお父さんが一生懸命高い声を出すとかでなくてもいいんです。家族とか気心の知れた仲間と一緒にいると何でもないことがえらく可笑しいことってありますよね。この映画では映画自体がシリアスだからなのかシリアスなシーンしかないのがこれまたもったいない。

何でもないことがきっかけでみんな笑いそうになるけど笑ったら殺される。だから必死にこらえる。こらえるとよけい可笑しいからよけい危険が迫る。というふうに、笑いと命の危険が隣り合わせという描写があるほうが映画が豊かになったと思います。

冒頭、おもちゃの飛行機を飛ばそうとした末っ子をたしなめて電池を抜き取りますよね。なのになぜかそのあと末っ子は飛行機を飛ばして奴らの餌食になってしまいますが、あれ、なぜああなったのか少しもわかりませんでした。あれだけ注意したのに? それなら思わず笑っちゃって餌食のほうが絶対よかった。


というわけで、「これはおかしいのでは?」と思うことよりも「もったいない!」と思うことのほうが多かったです。基本アイデアはいいのに観客を楽しませる「あの手この手」が足りないというのが正直な感想です。



『ワンダー 君は太陽』(脚本構成の妙とは)

激賞する人が絶えない話題の映画『ワンダー 君は太陽』があさってで終わると知り、滑り込みで見てきました。

wonder1

顔に障碍を抱えた少年オギーとその家族の物語。と聞くと、何やら私の苦手な「人は見た目じゃない」というテーゼを打ち出す映画かと思っていました。そんな当たり前のことを聞きたくて映画館に行っているわけではないのに。と思っていたら、この映画はちょっとひねってるんですね。

いや、人は見た目じゃないというテーゼはそのままです。そこにはいささか鼻白むところがないではない。だって、少年はひどいいじめを受けるけれども「失恋」が描かれませんよね。この先の長い人生を考えるなら、顔のせいで振られるという手ひどい経験を描かないと本当のハッピーエンドではないと思いました。

しかし……

やはりこの映画にはそんな小賢しい言葉をうっちゃる魅力と奥行きがあります。


wonder3

姉ヴィアの描写の素晴らしさ
何といっても白眉はこのヴィアというお姉ちゃんの描写ですね。弟が顔のせいでいじけたりいじめられたり辛いのは痛いほどわかる。でもそのせいで両親はいつも弟の心配をしてばかり。自分のほうを見てくれない。と、こちらもだいぶいじけている。障碍者本人だけでなくその家族も間接的に被害を受けていることをちゃんと押さえています。

ヴィアの章ではヴィアのナレーションで語られ、ヴィアの友人ミランダの章ではミランダのナレーションで語られます。章ごとで語り手が違うんですね。これが面白いと思いました。オギーという主人公を中心に据えた単純な構成だと、差別はいけませんよ、障碍者にはやさしくしましょうという通俗的な映画に堕していた可能性が高い。章ごとに語り手を変えることで物語に奥行きが出ています。

ただ、ヴィアの章がすべてヴィアを主人公にした構成になっているかというとそうではなく、章の最初だけその人の語りで始まりますが、途中から誰目線なのかわからなくなるくらい語りが混乱してしまっています。そこは確かに瑕疵でしょうが、それでも私はこの映画の「構成」の工夫の仕方が気に入りました。


構成の鬼・橋本忍
先日亡くなった橋本忍さんは私の最も嫌いな脚本家でした。弟子の山田洋次監督などいろんな映画人から「構成の鬼」と評されていましたが、私の目には「構成病」にかかった人に思えます。

『砂の器』は普通にうまいと思いましたが(でも好きな映画ではありません)もっと高評価の『切腹』になるともういけません。淀川長治が「頭だけで作った映画」と批判していましたが、まさにその通りと膝を打ったものです。

時間軸をいじりすぎなのです。映画作りとは「時間と空間を組織する」ということに他ならず、脚本家の仕事は特に時間構成を担いますが(空間も少しはね)橋本さんは時間を行ったり来たりすることにこだわりすぎなのです。『生きる』なんかでも。ああいう時間をいじった映画の最たる例がクリストファー・ノーランの『メメント』でしょう。

東陽一監督の講義を受けたとき「構成の勉強をしたかったら『パルプ・フィクション』を見て」と言われました。あれも時間軸をいじっていますが、不思議と気にならない。気にならないどころかやたら面白い。おそらく時間軸をいじることによってプロットを前進させるという「計算」が働いていないからでしょう。だからやっぱりタランティーノは天才だということになりますが、それはともかく。


構成の妙
姉のヴィアをはじめ、ミランダ、ヴィアの恋人のジャスティン、オギーの友人ジャックとサマーなどの描写を通してオギーだけに焦点が当たらないようにしたこの映画の脚本構成は高く評価すべきと思います。さまざまな光が乱反射してオギーの顔を照らす工夫のように感じられました。

オギーがいわれなき迫害を受ける→周囲の手助け→一件落着、という一直線の物語にせず、直線もあれば曲線もあり、アップダウンもある物語構成。こういうのを本当の「構成の妙」というんだと思います。

ただ、それならそれで父親の章、母親の章もあってしかるべきでは? とも思いましたがね。だから結果的には失敗作なのかもしれませんが、私はこの映画の作者たちの野心を高く買いたいと思っています。

満員御礼で不特定多数の人と一緒に映画を見る醍醐味を久しぶりに満喫しましたが、あれだけ入るのなら1日1回の上映でもうしばらく続けられるんじゃないでしょうか。いい映画だし評判もいいのだから興行主にはもう少し考えもらいたいもんです。



『義母と娘のブルース』①(論理と感情のはざまで)

綾瀬はるかがほとんどアンドロイドのような元エリートサラリーマンで現主婦を演じる『義母と娘のブルース』。昨日の第3話からエンジン全開になってきました。


gibotomusumenobruce
前回で会社を辞めた綾瀬はるかがPTAの一員として運動会で誰が何をやるかという議論に参加するところから物語は始まります。
元ロボット部長らしく、エビデンスなどの用語を使ってそれまで当たり前だった会長・奥貫薫のやり方に反旗を翻します。徹底して理詰めで追い込んでいくところなどは痛快であり、同時に鼻白む部分もあります。だって「理屈」だから。どういう生い立ちかいまのところまったく明らかにされていませんが(ガリ勉でいじめられていたという説明はあったけど)人間的な感情などまるでもちあわせていない綾瀬はるかは「論理」だけで物事を解決しようとします。まるで「すべての物事は数学的に解決できる」と考えているAI信奉者のようです。

奥貫薫は悪役らしく微笑みで返すだけですが(あの笑みはかなり怖い)誰よりもそんな綾瀬はるかに反対するのは夫の竹野内豊です。


gibotomusumenobruce1
「何か違うと思うんですよね」と。そして、さらに竹野内豊はこう言います。

「僕はあなたのやり方に反対だけど、味方ですよ」

綾瀬はるかにはその意味が理解できない。AIと同じですね。論理学の土台は排中律(Aまたは非Aのどちらかだけでその中間を認めない)ですから、「反対だけど味方」がわからないのも無理はない。

綾瀬はるかは奥貫薫が支配するPTA廃止を訴え、運動会を一人で切り盛りすることを提案しますが、はたしてうまく行くのかどうか。
と思っていたら、やっぱりうまく行くんですね。独りで四苦八苦している彼女を見て、いろんな人が手助けしてくれる。「あたしたちも何かやろうよ」という人が出てくることは綾瀬コンピュータの計算外だったでしょう。それもそのはず、それは人間ならではの「感情」のなせる業だからです。


gibotomusumenobruce2 (1)
奥貫薫は結果的に綾瀬はるかとママ友になりますが、彼女はかつて綾瀬はるかのようなキャリアウーマンを目指していたのに夫に無理やり仕事を辞めさせられた過去があり、学校を舞台にエリートサラリーマンをやっていたことがわかります。
会社でできなかったことを学校でやる。人間には簡単にわかりますが、そこにはどす暗い感情が横たわっており、ロボット綾瀬に理解できたかどうか。コンピュータはつまるところ「計算機」であり、計算機にできることは「四則演算」だけですから。

とはいえ、排中律を土台に四則演算しかできない綾瀬コンピュータが見事な解答をはじき出すのが第3話の素晴らしさです。

助けてくれる人がいたから何とかなった。
去年まではこんなんじゃなかったという人がたくさんいた。
だから奥貫一派を筆頭とするPTAは必要だ。

論理だけで弾き出した解答によって、悪役・奥貫薫の心(感情)を変えてしまう。お見事

竹野内豊と娘の二人三脚の写真を撮れなかったと嘆く綾瀬はるかのもとに奥貫から「代わりに撮ってあげた。私も去年まで自分のこの写真を撮れなかったから」と写真が届きます。

ここで竹野内豊の言う「奇跡はわりとよく起きる」というのがこの作品を貫くキーワードになりそうですが、奇跡は人間にしか起こせませんよね。論理を推し進めるだけでは奇跡(飛躍)は起こりません。が、徹底して論理を推し進めた末に奇跡が訪れるというのが第3話の要諦でしょう。


さて、おそらく竹野内豊は不治の病に侵されており、それが結婚の理由なのでしょうが、はたして綾瀬はるかのほうの動機は何なのか。そして↓この男はいったい何者なのか。


gibotomusumenobruce3

がぜん目が離せなくなってきました。


続きの記事
②残念な転回


ギャラリー
  • 『ボヘミアン・ラプソディ』(ボロ泣き!)
  • ETV特集『キャメラマンMIYAGAWAの奇跡』を見て痛感した「遊び心」の重要性
  • 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(禍々しさと可笑しさと)
  • 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(禍々しさと可笑しさと)
  • 許せない映画⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』
  • 許せない映画⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード