ホームドラマ

2018年10月10日

登場人物と同様に息もできないほど恐くて面白いと評判の『クワイエット・プレイス』を見てきました。(以下ネタバレあります)


QuietPlace2


「驚喜するもの」に関する疑問
『クリエイティヴ脚本術』という本では、最終的に問題を解決する小道具を「驚喜するもの」と表現しています。『ジョーズ』なら酸素ボンベ、『ガントレット』なら一発の銃弾ですね。

で、この『クワイエット・プレイス』では視力はないものの異常な聴力をもつ異星生物を殲滅する小道具が、主人公夫妻の聴覚障害の娘がもつ人工内耳。異常に不快指数の高い音で弱ったところをショットガンでズドン!と。で、その音でやってきた他のエイリアンたちをやっつけるべく、エミリー・ブラントが娘と目を合わせながらショットガンの新しい弾丸を装填するところで幕切れ。恰好いいといえば恰好いいけど、疑問が残ります。

世界中の軍が束になっても殲滅できなかったという設定ですが、いったい軍はどうやって戦ってたんでしょうか。聴力が異常に発達している。でも短所は長所の近くにあると普通に考えればわかるはずですが。え、これで終わり? んなアホな!? と思ってしまいました。


出産に関する疑問
予告編を見たときにゲゲッとなったのがエミリー・ブラントが妊娠してるってことなんですよね。絶対に物音を立ててはいけないところでどうやって出産するのか。自分が声を挙げなくても赤ちゃんは絶対泣くし、泣かなかったら死んじゃうし。

と思ったら実際の映画ではえらくあっさり処理してませんでした? というか、エミリー・ブラントも叫び声をあげるし、赤ん坊も結構泣いてるのに何で奴らは襲ってこないんでしょう?

それよりも、冒頭で「400何日目」って出るから、妊娠したのはエイリアン襲来のあとなんですよね。なら「産むべきか堕ろすべきか」という議論が夫婦の間でなされていたはずですが、それは野田高悟ふうに言えば「演じられなければならない場面」ですよね。仮に産むことで合意したとしても、お腹が大きくなってきたら夫が「やっぱり堕ろすべきだ」「いやよ!」みたいな芝居はあるのが普通だし、この映画はそこから逃げていると思います。(そもそもセックスするときだって音を立ててはいけないのだから気持ちいいんだか何なんだか(笑))


でも上記のようなことは些末なこと。もっと気になるのは以下の点。


可聴領域
人工内耳を使えば勝てると気づく直前、新聞記事か何かで「可聴領域」がどうのこうのという文字が出ますよね。私はそのとき初めてこの映画がものすごくもったいないことをしていると気づきました。

同じ地球生物でも、人間と犬や猫では可聴領域は異なります。犬は人間より長い周波数の音と短い周波数の音を聞き取ることができる。なのに異星生物は人間と同じ可聴領域という設定はもったいなくないですか?

奴らのほうが可聴領域が広いといくら何でも不利すぎますから、逆に人間のほうが可聴領域が広いという設定にすればよかったのではないでしょうか。可聴領域は広いけど平凡な聴力しかない人間と、可聴領域は狭いけど異常な聴力を備えたエイリアンとの死闘! ならもっといろんな手が使えたような気がします。

例えば、人間のソプラノぐらいの音が奴らには聞こえない。という設定にしてはどうだったでしょうか。
人間たちはとにかく高い音でしゃべります。女の人や子どもは得ですよね。普通に喋ればいいから。でもあのお父さんは声が裏返るほど高い声を出さないといけない。そんなことをしたらコメディになる? いやいや、この映画に足りないのはまさにコメディの要素だと思う。


笑いのシーンがない
別にお父さんが一生懸命高い声を出すとかでなくてもいいんです。家族とか気心の知れた仲間と一緒にいると何でもないことがやたら可笑しいことってありますよね。この映画では映画自体がシリアスだからなのかシリアスなシーンしかないのがすごくもったいない。

何でもないことがきっかけでみんな笑いそうになるけど笑ったら殺される。だから必死にこらえる。こらえるとよけい可笑しいからよけい危険が迫る。というふうに、笑いと命の危険が隣り合わせという描写があるほうが映画が豊かになったと思います。

冒頭、おもちゃの飛行機を飛ばそうとした末っ子をたしなめて電池を抜き取りますよね。なのになぜかそのあと末っ子は飛行機を飛ばして奴らの餌食になってしまいますが、あれ、なぜああなったのか少しもわかりませんでした。あれだけ注意したのに? それなら思わず笑ってしまって餌食になるほうが絶対よかった。

というわけで、「これはおかしいのでは?」と思うことよりも「もったいない!」と思うことのほうが多かったです。基本アイデアはいいのに観客を楽しませる「あの手この手」が足りないというのが正直な感想です。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年08月15日

前回までかなり面白かった『義母と娘のブルース』。昨日の第6話から夫の竹野内豊が死んで、本当に「義母と娘」の物語となったわけですが、これが非常に残念な転回でした。

gibotomusumeno

「義母と娘のブルース」にあらず
9年のときがたち、二人の間に何か新しい葛藤が芽生えるのかと思ったら何もなし。
「趣味なし、男なし、休みなしのキャリアウーマンの貯金」とデイトレーダーを片手間にやって稼いだ金だけで義理の娘を育て上げた綾瀬はるかの悩みは、娘の進学と自分の仕事のことだけ。母親の背中を見て育った娘は「デイトレーダーになりたい」というけれど、やはりそんな虚業に手を染めてほしくはないらしく、きっぱりと株はやめてアンパンのうまいパン屋の売り上げを伸ばすことに精を出すことになります。

一方、娘のほうは、父親の死後すぐに転校してしまった幼馴染がイケメン(とは思わなかったけど)として再び姿を現し、いきなり告白される。戸惑うあまり別にいやでもないのに「ごめんなさい!」と振ってしまった形となる。

というわけで、次回の予告を見ても、母親はパン屋で奮闘し、娘は受験と恋にゆれる、と。

でも、これって少しも「義母と娘」の話じゃないですよね。


ファースト・ガンダムとエヴァンゲリオン
やっぱり、竹野内豊が死ぬのであれば第1話で死なないといけなかったんじゃないでしょうか。つまり、娘との葛藤が解消する前に。

あくまでも「義母と娘」の話をやりたいわけでしょう? それなら父親は早く退場するべきだった。最初は竹野内豊が不治の病に侵されているとは思ってなかったのであまり気にしてませんでしたし、前回は病を克服するかに見えたので楽しんで見ましたが、結局死ぬのであれば中盤で死なずに、冒頭で死ぬべきでしょう。

娘一人だけ遺すのは忍びない、だから契約結婚をする。プロポーズして何とか説得して娘は認めてくれないけど無理やり結婚して死んでしまう。

このほうがよくなかったでしょうか?

緩衝材だった父親がいないぶん、二人の間の緊張と葛藤は高まる一方で面白いドラマになったと思うのですが。

『機動戦士ガンダム』でも『新世紀エヴァンゲリオン』でも、主人公がロボットに乗り込むまでを第1話で描いています。碇シンジはエヴァ初号機のパイロットとして招聘されたのだから乗り込ませるのはあまり難しくなかったと思いますが、アムロはガンダムとは何の関係もないし地球連邦軍の兵士ですらない。ただの機械いじりの好きな少年が自分の意思でガンダムに乗り込みシャア以外のザクをすべて倒す。これをたった30分(正味22,3分)でやっているわけです。奇跡。

だからこの『義母と娘のブルース』も竹野内豊が死ぬまでを第1話でやるべきだったと思います。そこからが本格的な物語の始まりだと思うので。

そしてこの男。

gibotomusumenobruce3

いったいどういう奴かと思っていたら第2章でパン屋として登場するためにこれまでチョイ役で出ていたんですね。しかしそれならいままでの彼の登場シーンはすべていらないのでは?

佐藤健はともかく、肝心の母と娘の葛藤が何もないのではドラマにならないじゃないですか。母はパン屋との葛藤を演じ、娘は幼馴染や受験という見えない壁と葛藤を演じる。それぞれが別々の葛藤を演じるのでは「義母と娘」の物語じゃない。


新しい葛藤を待望!
百歩譲って竹野内豊が中盤で死ぬのを良しとしても、それなら何か新しい葛藤がないと面白くない。ぜんぜんいい例じゃないですが、娘がぐれるとか、そういう「義母と娘」を引き裂く「何か」がないと『義母と娘のブルース』にはならないんじゃないでしょうか。

第4話から第5話まで、綾瀬はるかの「初恋」と竹野内豊の「最後の恋」が描かれてとても楽しく、同時に切なかっただけに、この転回は非常に残念です。


関連記事
『義母と娘のブルース』①論理と感情のはざまで





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年07月29日

激賞する人が絶えない話題の映画『ワンダー 君は太陽』があさってで終わると知り、滑り込みで見てきました。

wonder1

顔に障害を抱えた少年オギーとその家族の物語。と聞くと、何やら私の苦手な「人は見た目じゃない」というテーゼを打ち出す映画かと思っていました。そんな当たり前のことを聞きたくて映画館に行っているわけではないのに。と思っていたら、この映画はちょっとひねってるんですね。

いや、人は見た目じゃないというテーゼはそのままです。そこにはいささか鼻白むところがないではない。だって、少年はひどいいじめを受けるけれども「失恋」が描かれませんよね。この先の長い人生を考えるなら、顔のせいで振られるという手ひどい経験を描かないと本当のハッピーエンドではないと思いました。

しかし……

やはりこの映画にはそんな小賢しい言葉をうっちゃる魅力と奥行きがあります。


wonder3

姉ヴィアの描写の素晴らしさ
何といっても白眉はこのヴィアというお姉ちゃんの描写ですね。弟が顔のせいでいじけたりいじめられたり辛いのは痛いほどわかる。でもそのせいで両親はいつも弟の心配をしてばかり。自分のほうを見てくれない。と、こちらもだいぶいじけている。障害者本人だけでなくその家族も間接的に被害を受けていることをちゃんと押さえています。

ヴィアの章ではヴィアのナレーションで語られ、ヴィアの友人ミランダの章ではミランダのナレーションで語られます。章ごとで語り手が違うんですね。これが面白いと思いました。オギーという主人公を中心に据えた単純な構成だと、差別はいけませんよ、障害者にはやさしくしましょうという通俗的な映画に堕していた可能性が高い。章ごとに語り手を変えることで物語に奥行きが出ています。

ただ、ヴィアの章がすべてヴィアを主人公にした構成になっているかというとそうではなく、章の最初だけその人の語りで始まりますが、途中から誰目線なのかわからなくなるくらい語りが混乱してしまっています。そこは確かに瑕疵でしょうが、それでも私はこの映画の「構成」の工夫の仕方が気に入りました。


構成の鬼・橋本忍
先日亡くなった橋本忍さんは私の最も嫌いな脚本家でした。弟子の山田洋次監督などいろんな映画人から「構成の鬼」と評されていましたが、私の目には「構成病」にかかった人に思えます。

『砂の器』は普通にうまいと思いましたが(でも好きな映画ではありません)もっと高評価の『切腹』になるともういけません。淀川長治が「頭だけで作った映画」と批判していましたが、まさにその通りと膝を打ったものです。

時間軸をいじりすぎなのです。映画作りとは「時間と空間を組織する」ということに他ならず、脚本家の仕事は特に時間構成を担いますが(空間も少しはね)橋本さんは時間を行ったり来たりすることにこだわりすぎなのです。『生きる』なんかでも。ああいう時間をいじった映画の最たる例がクリストファー・ノーランの『メメント』でしょう。

東陽一監督の講義を受けたとき「構成の勉強をしたかったら『パルプ・フィクション』を見て」と言われました。あれも時間軸をいじっていますが、不思議と気にならない。気にならないどころかやたら面白い。おそらく時間軸をいじることによってプロットを前進させるという「計算」が働いていないからでしょう。だからやっぱりタランティーノは天才だということになりますが、それはともかく。


構成の妙
姉のヴィアをはじめ、ミランダ、ヴィアの恋人のジャスティン、オギーの友人ジャックとサマーなどの描写を通してオギーだけに焦点が当たらないようにしたこの映画の脚本構成は高く評価すべきと思います。さまざまな光が乱反射してオギーの顔を照らす工夫のように感じられました。

オギーがいわれなき迫害を受ける→周囲の手助け→一件落着、という一直線の物語にせず、直線もあれば曲線もあり、アップダウンもある物語構成。こういうのを本当の「構成の妙」というんだと思います。

ただ、それならそれで父親の章、母親の章もあってしかるべきでは? とも思いましたが。だから結果的には失敗作なのかもしれませんが、私はこの映画の作者たちの野心を高く買いたいと思っています。

満員御礼で不特定多数の人と一緒に映画を見る醍醐味を久しぶりに満喫しましたが、あれだけ入るのなら1日1回の上映でもうしばらく続けられるんじゃないでしょうか。いい映画だし評判もいいのだから興行主にはもう少し考えもらいたいものです。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加