聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ホラー

『カメラを止めるな!』(マギー司郎とジャンルの不統一)



ついに見てきました。話題沸騰中の『カメラを止めるな!』。見る直前に盗作騒動などがあって、ほんの少しだけ水を差された形にはなりましたが、私は「ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが現れるが撮影を続行する」という基本アイデアしか知らない状態で見に行けたので何も影響はありませんでした。ちなみに、盗作疑惑についての私の意見はこちら→「パクリ、盗作、芸のうち!」

以下の感想を一言で言ってしまえば、「マギー司郎の芸を映画化すること自体はいいとしても、方向性が違うのではないか」です。


素晴らしすぎる劇中ゾンビ映画!
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どんだけすごいのかとちょっと構えて見始めてしまいましたが、始まったらそんなのはすぐどこかへ吹っ飛びました。それぐらい劇中ゾンビ映画は素晴らしかった。とはいえ、最初はこのままこの禍々しいゾンビ映画が95分続くのか、と思っていたら、カメラのレンズについた血糊をカメラマンが手で拭き取りますよね。あそこで「あ、カメラマンは作中人物なのか」と誰でも気づいてしまう。ということは……ということで、劇中映画は40分ほどで終わって「1か月前」とテロップが出たときにちょいとテンションが下がりました。そこからまた上げてくれたらよかったんですが……


DVDの特典映像
ロバート・レッドフォードはDVDの特典映像で見られるメイキング映像にかなり否定的だそうです。「映画のマジックが失われるから」と。私は脚本作りの参考にさせてもらったりしてるし重宝してますが、確かにレッドフォードの言い分もわからないではない。

『カメラを止めるな!』は前半が完成した映画で後半がメイキングですよね。で、あのとき舞台裏では実はこうなっていたと種明かしがされる。思わず笑ったシーンもあったし、基本的に最後まで退屈せずに見ることができました。

が、映画全体に満足したかと訊かれたらぜんぜんそんなことはありません。前述のとおり劇中映画にはかなり感動しましたから、あそこで終わってくれたらよかったというのがウソ偽りのない正直な気持ちです。

劇中映画でいろいろ「あれ?」と思うことがありますよね。
カメラマンの手もそうだし、
護身術指南の場面でドアがゴーンと鳴ったり、
なぜか録音マンがゾンビのいる外へ出ていこうとして犠牲になったり、
勝間和代似の監督の奥さんが斧で絶命したはずなのに「あれ何?」と立ち上がったり、
ヒロインが密室で息をひそめているとゾンビの足が近づいてきて……でも去っていく。

などなど、これらの種明かしが後半に々となされるわけですが、それがそんなに面白いとは思えないんです。

逆に、種明かしがないほうが面白くないですか? つまり劇中のゾンビ映画だけで勝負するということ。あの禍々しさはトビー・フーパーの再来かと思ったほどですから。


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結局この映画は家族の再生物語だったんでしょうか。父親を「あいつ」呼ばわりする娘が一仕事やり終えた父親を見直し、父親は失われた父性を回復すると。そのテーマ自体が悪いとは思いませんが、あれだけ素晴らしい劇中ゾンビ映画がそのテーマを表現するための出汁にすぎなかったというのはいただけません。


マギー司郎との決定的な違い
この映画は、前半で素晴らしいマジックを見せておいて、後半はそれ以上の時間を使って延々と種明かしをしていたわけですよね。それがそんなに面白いですか? ただの答え合わせじゃないですか。

たまにテレビでマジックショーを見ますけど、種明かしなんかしないでしょ。種明かしをするのはマギー司郎みたいな人だけです。

マギー司郎は私も好きですが、この映画はマギー司郎と同じく、種明かしのほうに比重を置いています。しかしながら、マギー司郎の場合、マジックそのものがものすごくしょうもなくて笑えますよね。で、種明かしで「やっぱり!」という笑いになる。笑いの相乗効果があるんですよ。

しかし『カメラを止めるな!』では前半がホラーで種明かしがコメディだから面白さが相殺されているように感じられました。冒頭で言った「方向性が違う」というのはそういうことです。無理やり真逆のジャンルを混ぜようとしたから、父と娘のドラマという別のテーマを入れざるをえなくなったんじゃないでしょうか。

だから、マギー司郎の芸と同じく劇中映画もコメディにするべきだったと思います。あんな本気モードのゾンビ映画じゃなくて、脱力系のゾンビ映画。それなら劇中映画そのものの面白さも損なわれないし、種明かしのほうでもよけい笑える相乗効果が期待できたはずです。これはかなり残念。


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こんな素晴らしい顔の役者さんを見つけてくるくらいだから、上田慎一郎という監督さんは相当な目利きだと思います。40分ワンカットの技はかなりのものだったと思うし、もっといい脚本で撮ってほしかったというのが正直な感想です。


『新感染 ファイナル・エクスプレス』(ロメロの遺志を継承した大傑作!)

これはゾンビ映画というより正確には吸血鬼映画なのかもしれませんが(だって死なないのに感染してるもの)先日亡くなったゾンビ映画の創始者ジョージ・A・ロメロに対するいい供養になってますね。大傑作だと思います。(以下ネタバレあります)


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ロメロの追悼として、先月こんな日記を書きました。⇒「妊婦」のコードを破ってみせたロメロ

『ゾンビ』では、妊婦として登場した女性が、そのまま流産も出産もすることなく妊婦のまま物語から退場したことは画期的だった、という主旨です。

驚くべきことに、ロメロが死んだ今年に登場したこの『新感染 ファイナル・エクスプレス』でも妊婦が登場します。

上の画像の先頭の強そうなおっさん(この役者が実にいい!)の奥さんがそうです。


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お腹押さえて走ってますよね。
そしてさらに驚くべきことに、この妊婦さん、最後まで流産も出産もしないんです。破水してクライシスを招くとか、咬まれたあとにひそかに出産して、その赤ちゃんが半ゾンビとして(『アイアムアヒーロー』の有村架純みたく)物語に新しい転回をもたらすとか、いろいろ手はあっただろうに、この映画のつくり手たちはそのどの手も使わなかった。

私としては、最後、生き残った主人公の娘と妊婦さんに射殺命令が下ったとき(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のうまいパクリでしたね!)妊婦さんが横向いて、出っ張ったお腹を見た狙撃兵が「妊娠してるようですよ」「撃つな!」みたいな幕切れを期待したんですけどね。子どもの歌というのはちょっとがっかりしました。

というか、妊婦を「記号」から解放し、一個の「人格」として扱ったロメロに倣うなら、その前のシーン、咬まれた主人公が別れの前に「おそらくこれがブレーキだ」と教えるじゃないですか。あのセリフをなぜ活かさなかったんだと。

つまり、機関車がもう前へ進めないとなったときに、運転席に座っている妊婦が主人公の思いが託されたブレーキを引いて、機関車を止めると同時に物語自体を終わらせる。物語を盛り上げる役目を担っていた妊婦が、物語を終息させる。それぐらいのことをして初めて「ロメロのパロディ」から「ロメロからの脱皮」へ昇華できたんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。



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何にしても、「妊婦のコードを破る」というロメロと同じ手を使ったこの映画は、ロメロが亡くなった2017年にふさわしい傑作だと思います。(製作されたのは去年のようですが、まぁ固いことはやめましょ)





『ゾンビ』(「妊婦」のコードを破ってみせたロメロ)

ジョージ・A・ロメロ監督追悼第2弾としてリビングデッド・シリーズ第2弾の『ゾンビ』を再見しました。(当然のことながらダリオ・アルジェント監修版です)

追悼第1弾記事
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)


この『ゾンビ』も何度見ても面白い映画ですが、新しい発見がありました。

いままで、カッティングがあまりにうまいとか、動きはのろいのに大量に襲ってくると異常なまでに恐ろしいゾンビの動きを発明したのはやはり天才だとか、そういうところしか見ていませんでした。

いままで知っていたはずなのにスルーしていたことがあったんですね。


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このヒロインが「妊娠」していることです。

最後のほうでゾンビになってしまう男の恋人で、中盤あたりで妊娠していることが明かされます。

しかも、ショッピングモールに強盗団が侵入してくる直前にはかなりお腹が大きくなっている。いままでまったく気づきませんでした。

私はこれまでずっと映画やテレビドラマを見ていて不満というほどではないですが、自分ならこうする、という実力を棚に上げた野心を抱いたことがありました。

それは、「妊婦に出産も流産もさせない」ということなんです。

フィクションに出てくる妊婦って必ずクライマックス近辺で出産か流産をしますよね。映画において妊婦というのは、クライシスを喚起したり、愁嘆場を盛り上げるための存在なわけです。

ところが、この『ゾンビ』の妊婦は出産も流産もしない。もう40年前の映画が私の野心を先取りしていたのでした。妊婦として登場し妊婦として幕切れを迎える、というのは何とも斬新です。

しかも彼女は子どもの父親がゾンビとして射殺される場面を目撃しているというのに、お腹の中の子どものために絶対に逃げ延びるとかそのような決意もしないし、「ゾンビが支配したこんな世の中に子供を産んでもかわいそうなだけだ」と堕ろすことを考えもしない。
妊婦だから動きが悪く足手まといになって仲間たちに迷惑をかけることもありません。それどころか結構な戦力として活躍します。

つまり、ロメロは、「映画における妊婦のコード」を破って見せたのですね。妊婦は出産なり流産なりしてクライマックスを盛り上げるコードを背負ってきました。クライマックス以外でも、つわりのような肉体的な反応や、マタニティ・ブルーなど精神的な反応によって意外性をもたせたり、物語を新しい方向へ転回させたりするコード。

つまりすべての映画において妊婦は「役割」でしかなかった。

ロメロは、妊婦のコードを破ることで、妊婦を「役割」から解放し、一人の「人格」として扱いました。

これを言葉の真の意味で「フェミニズム」というのだと思います。

『ゾンビ』以外に妊婦のコードを破った作品を私は知らない。



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ジョージ・A・ロメロ。
やはりスゴイ男です。




『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)



ジョージ・A・ロメロ監督が亡くなったので、追悼の意味をこめてデビュー作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を再見しました。


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やはりこの映画の肝は「主人公の入れ替わり」にあると思うんですよね。

最初に登場する兄妹のうち兄のほうがゾンビに殺されて物語が幕を開けるんですが、この時点では逃げ延びた妹バーバラが主人公なんですね。そんなに仲良くなかったような兄ですが、ゾンビに殺されてしまい、バーバラは以後ほとんどを放心状態でおろおろするばかり。観客はそんなバーバラに感情移入してしまいます。

で、バーバラが農家の母屋にたどり着くと誰もいず、周りはゾンビに取り囲まれている。上の階に上がろうとしたら悲惨な死体があり、外に飛び出そうとするとちょうどトラックでやってきた黒人ベンと出会います。

実はこのベンと「主人公の入れ替わり」が行われるんですが、最初観客はベンにはあまり感情移入できません。

なぜなら、彼は「いろんなことを知っているから」です。
ゾンビが死肉を食らうことも知っているし、戦い方もある程度知っている。

だいたい映画の主人公というものは、観客と同じかそれより少ない情報しか知らないというのが普通です。バーバラに感情移入できたのは、突然兄を殺されたことへの同情もあるでしょうが、彼女がゾンビについて何も知らないことが自分たち観客と同じだからです。自分たちより多くの情報量を知っている人物は頼りには感じられても共感はしにくい。

さて、この映画は1968年の作品ですが、その8年前に「主人公の入れ替わり」という前代未聞の手法をやってのけた名作があります。天才ヒッチコックによる『サイコ』。


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最初は会社の金4万ドルをくすねたマリオンに感情移入してしまうんですよね。これからどうなるんだろう。捕まるんだろうか。あの警官がどこまでも追ってくるんじゃないか。

と思っていたら、あるモーテルに着き、そこの支配人ノーマン・ベイツと出会う。このノーマン・ベイツと主人公の入れ替わりが行われるんですが、ヒッチコックがどういう手を使ったかというと、何と「物量作戦」なんですね。

二人が出会ってから会話するシーンが長い。特にマリオンがサンドイッチを食べながらノーマン・ベイツの母親の話を聞く場面などめちゃ長い。さらにマリオンが殺されてその死体の処理をするシーンも異常に長い。

観客は、いったいあの母親は何者なのか。息子への嫉妬で殺したんだろうか。しかし主人公と思っていたマリオンが死んでこれから映画はどこへ向かうのか。

という、前代未聞の疑問をもちながら死体処理シーンを見るので最初はあまり長さを感じないはずです。

逆にあの場面にじっくりねちねちと時間をかけたからこそ「主人公の入れ替わり」は成功したと言えます。

ただ、マリオンは殺されることで物語から強制的に退場させられるから、ノーマン・ベイツへの主人公の入れ替わりはそこまで時間をかけなくても、という気もします。

ただ、ここで問題になるのが「情報量」です。

マリオンの情報量と観客の情報量は完全に一致していましたが、ノーマン・ベイツは母親について観客よりもたくさんのことを知ってるじゃないですか。(実際は彼自身すら知らないことがたくさんあるわけですが、それは最後になって初めてわかることです)

つまり、マリオンが死んだ時点でノーマン・ベイツには主人公の資格がないんですよね。だから充分に時間をかけて、粘着気質らしき母親に困らされている哀れな息子を描かねばならなかったのでしょう。(極めつけは車を沼に沈めるシーンですね。いったん車が沈まなくてノーマン・ベイツが慌てそうになるところで観客は「沈んでくれ!」とハラハラしますから。あそこでノーマン・ベイツは主人公になったと言っていいでしょう)


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この二人の場合はどうでしょうか。

入れ替わりにかかる時間はほとんど数分です。いや数分もかかっていないかも。

ヒッチコックより巧みな戦術が取られているんですよね。
その戦術も「情報量」です。

バーバラよりもいろんなことを知っていたベンですが、地下室に何者かがいることは知らなかった。ここで観客の情報量とベンの情報量が一致し、ベンは主人公の資格を得ます。

『サイコ』ではマリオンが死ぬにも関わらず入れ替わりに多くの時間を要しましたが、この『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では、最初主人公と目されていたバーバラが死なないにも関わらず、入れ替わりがほとんど瞬時に行われてしまう。



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ジョージ・A・ロメロ。
一部分とはいえヒッチコックを超えてしまった男。

地獄でもいい映画を作ってください。


続きの追悼記事
『ゾンビ』(「妊婦」のコードを破って見せたロメロ)





『イット・フォローズ』(新しい「発明」をした大傑作ホラー)

東京から半年遅れでここ神戸でようやく公開された『イット・フォローズ』見てきました。

素晴らしかったですねぇ。あまりの面白さに昨日は幸せいっぱい胸いっぱいでしたよ。

これ、元ネタというか、霊感源はもちろんロメロの『ゾンビ』シリーズですよね。ゾンビじゃなくて、怪物というか何なのかよくわからりませんが。もしかしたらゾンビかもしれないですが、まぁ「イット」としか言えないものなんでしょう。でも、走らずのろのろ歩くだけだし頭を撃ちぬいたら死ぬからやっぱりゾンビ?

それはともかく、かつて「純粋映画」とか「絶対映画」ってありましたよね。大阪のシネマテークでそういう特集やってて見に行ったことありますが(あの頃はほんとああいうのに凝ってた。ああいうの以外は映画じゃないとまで思ってましたね。青かったです)いまだに言葉の定義を知らないんですが、この『イット・フォローズ』は純粋映画と言っていいんじゃないかと思いました。

まず、字幕がなくても充分楽しめる。
もちろんセリフはあります。が、何喋ってるかわからなくても面白いと思います。セックスして移さないとダメとかそういう細かい設定はわからなくなりますけど、そんなのこの映画の本質じゃないし。
それと、ヒロインはじめ少年少女たちはどうもみんな親との関係が悪いらしいんですが、そのへんの詳しい説明もまったくなく、とにかく親に頼るのは絶対いやみたいな表情だけですべて描写できてるんですよね。うまい演出だと思いました。
クライマックスでも、プールにイットたちをおびき寄せて感電死させる作戦を立てるんですが、どういう作戦かという説明セリフも一切なし。アクションだけで描写してしまう。脚本と演出の協同作業が素晴らしいと思いました。

では、この映画の「本質」に話を移しますと、やはり「見える/見えない」から生じる恐怖じゃないでしょうか。(当たり前すぎてすいません

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こういういかにもゾンビみたいな人が襲ってくるわけですが、これがイットを移された者にしか見えないというのが「発明」なんですよね。

いままでのゾンビ映画はすべての人間に見えてましたけど、この映画では一人か二人にしか見えない。で、最初はヒロインの目線で撮ってるから、ボーイフレンドの目に見えるイットが最初は映らない。が、セックスして感染すると見えるんですね。それからはずっと見えてる。見えてるというのは観客に見せている、映しているということ。

しかし、それはヒロインの目線に作り手が立っているからそうなだけであって、いつ何どきヒロインではなく他の友人たちの目線に切り替わるかわかりません。


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だからこういうシーンでもめちゃ恐いんですよね。もしかしたら見せてないだけで後ろにいるんじゃないの、みたいな。

そうすると、やっぱりクライマックスでは、観客にイットを見せなくなる。つまりヒロインには見えてるけど友人たちには見えない。彼らと観客を同化させるためにそういう作劇&演出になってるんですね。

で、どうやってイットを可視化するかというと、

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布をかぶせて、というものすごい古典的な手法。大枠は『ゾンビ』という古典だし、細かい芸も古典的。でも、だからこそ「ヒロインにだけ見えるゾンビ」という新しい発明が生きるのでしょう。

あとは「セックス」ですね。

通常ホラー映画では、セックスしてる男女が殺されたりしますよね。エロスとタナトスということなのか、だいたいそういうことになっています。

この映画ではそこをうまく利用しています。セックスすればイットを移すことができる、と。

だから、セックスシーンがとても痛々しいんです。


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このシーンは好きな男からキスされそうになって拒否するところ。うれしいけどいやなんですよね。移したくないから。

でも、他の男が「俺が何とかしてやる」とヒロインとやって、で、その男がすぐ殺される。殺されるとイットは元の人間に戻ってくるという設定なので、またヒロインが苦しむ。で、先のプールのシーンになるんですが、そういうわけでもう誰かに移すしかないとなって、上の画像の好きな男とセックスしちゃう。


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これはラストシーンですが、二人の間に小さく誰か歩いてきてますよね。あれがイットなのかどうか、これが「見える/見えない」の恐怖で押してきたこの映画の最大の見せ場ですね。

あれが、二人には見えるのか見えないのか。それがわからない。観客には見えるけど、作り手がイットに感染した側に立っているのか、それとも感染してない側に立ってるのか、一切わからないので。

なるほど、クライマックスのプールシーンで視点を切り替えたのは単に恐怖演出を盛り上げるためではなくて、このラストシーンのためだったのかと膝を打ちました。

やっぱりアメリカ映画は面白い! 最高の映画体験でしたぞ。



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