ホラー

2019年10月15日

いっぺんに見てはもったいないと少しずつ見てきた『妖怪人間ベム』も全26話のうち第20話「鉄塔の鬼火」まで見ました。

しかしどうも妙です。このシリーズには決定的な瑕疵があるような気がしていたんです。これは第3話「死びとの町」で感じていたことではあるんですが、気にすまいと思ってきました。だって幼少の頃から大好きな作品に重大な瑕疵があるなんて認めなくないじゃないですか。

でも、私が感じる「妙なもの」とは瑕疵ではなく、作者たちが意識的に仕掛けたものではないかと思えてきました。


前回までの記事
「階段を這う手首」(有神論と無神論の対立)
「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)

前回までは主に、ベムたち3人を「宗教」の側面から考察してきましたが、私の感じる妙なものとは「科学」の問題です。しかしここでいう科学とは「邪教」と言ってもいいものなんですが。。。

その前に私が「死びとの町」から感じている「妙なもの」から説明しましょう。


なぜベムたちは人間を懲らしめないのか
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「死びとの町」では、子どもを人身御供として悪魔に差し出さねばならないという母親たちの悲痛な叫びにベラが共鳴し、自分が棺桶に入って古井戸に投げ込まれると、何とそこでいままで差し出したはずの子どもたちが父親たちと楽しく遊んでいる。

実は、かつて死にかけた女がこの町にやってきて命乞いをしたとき、母親たちは家の戸を閉め冷酷にもその女を見殺しにした。その女の霊が母親たちに憑りつき、満月の夜に悪鬼と化すようになった。父親たちは妻たちから子どもを守るために人身御供として子どもをさらっていた、というなかなかアクロバティックな作劇がいまも新しいんですが、それはともかく、ベムたちは悪鬼と化した女の霊を懲らしめるけれども、そのおかげで人間に戻れた母親たちを懲らしめないのはなぜなんでしょう?

どう考えても、母親たちが女を見殺しにしたのが悪の根源ですよね。それがなければ女が悪鬼と化すこともなかった。なのに被害者も同然の女だけやっつけて加害者の母親たちはお咎めなしっておかしいのでは?

私が「瑕疵」と感じたのはここです。

「悪を倒して一日も早く人間になりたい」と言っているベムたちが「本当の悪」を倒さないのはなぜなのか。確かに母親たちには子どもや夫がいる。でも再び同じことをしでかさないとはかぎらない。少なくとも言葉で彼女たちの非を咎めてもいいのでは?

それは第16話「山荘の妖鬼」や第19話「古井戸の呪い」でも感じました。

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「山荘の妖鬼」では、狼の化身が人間を殺して仲間の狼に食べさせてやっているのですが、それは人間が山奥に山荘を建てたために餌が激減し、その復讐として人間を殺している。でもベムは狼たちだけを殺して山荘を建てた人間(登場しませんが)の悪事は不問に付します。


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「古井戸の呪い」では、古井戸の中の悪霊がガスコン家の娘に憑りつき、周りの人間を次々に殺していきます。悪霊は言います。「私の先祖はガスコン家の先祖の手でこの古井戸に投げ込まれた。だから私はガスコン家の人間を次々にこの古井戸の中に葬ってやった」と。

そう、悪いのはガスコン家の人間です。この回の冒頭、ひどい暴風雨のためベムたちが雨宿りだけでもと懇願してもガスコン家の家長である爺さんは「ダメだ!」の一点張り。ベロを気に入った孫が口を利いてくれたおかげで馬屋で何とか一夜しのげることになったものの、あの爺さんの物言いはひどい。

おそらく、ガスコン家の人間は代々あのような他人をいたわることのないわからず屋ばかりだったのでしょう。それを恨まれたのだから自業自得です。でも、ベムがやっつけるのは被害者も同然の悪霊だけ。そして加害者も同然のガスコン家の爺さんには「こういうことは早く忘れたほうがいい」とだけ言い残して去っていく。

そしてきわめつけが第20話「鉄塔の鬼火」です。

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世界でも五指に入る372メートルの鉄塔の建設にかかわったもの全員が殺されていくのが物語のあらましで、実は、この鉄塔の足場はかつて墓地だった。墓地を荒らしたということで、眠りから無理やり醒めさせられた亡霊たちが設計士や建設作業員を呪い殺していく。だからこれも「霊なんてコンクリートで固めてしまえばいい」という人間のほうが絶対的に悪い。

でもベムは霊だけをやっつけて人間たちの悪行は不問に付すのです。

ベムたちの「正義」はいったいどこにあるのでしょうか?


第10話「墓場の妖怪博士」
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ここで思い出されるのが第10話「墓場の妖怪博士です。このマンストール博士というのが実はベム、ベラ、ベロを生み出した人なのです。

ゴーレムという悪人からベラの写真を渡され「この女と同じ姿かたちで、悪いことしかしない人間を作ってほしい」と依頼され、まさにそのような女を作り出します。ベムたちは彼らをやっつけたあと「俺たちもあの家(博士の家)で生まれたのかもしれない」というだけで、劇中ではマンストール博士が彼らの生みの親とは明かされませんが、今回発売されたDVDの特典ブックレットによると、50年前のパイロット版がそういう内容だったそうです。

そのパイロット版が収録されていないのが歯痒いのですが、それはともかく、悪いことしかしない人間を作ろうとしてまさしくそのような人間を作れるマンストール博士がベムたちを作ったとすると、これは完全な想像ですが、

「人間に悪さをする悪鬼羅刹の類だけを懲らしめ、人間自身には決して手出ししない妖怪人間」

それがマンストール博士自身の狙いなのか、他の誰かからの依頼なのかはまったくわかりませんが、ベムたちは「そのようにプログラムされた生き物」と考えればすべてに合点がいきます。

前回までの記事で、ベムは「正しいことをしていればいつかきっと人間になれる」という「宗教」を信仰していると言いましたが、それももしかするとマンストール博士による「プログラム」なのかも……。

ベムたちは妖怪人間ではなく、正しくは「人造人間」であり、もっといえば「悪鬼羅刹の類を懲らしめ、人間にだけは手を出さない」とプログラミングムされた「ロボット」のようなものなのでしょうか。

でも、第18話「謎の彫刻家」では人間である彫刻家を殺しますよね。ただ、あれは正確には勢いあまった彫刻家が自分から窯の中に飛び込んで死んでしまったのだし、自分は芸術家だと豪語し「芸術のために」人殺しを重ねていた彫刻家に対し「このほうがあいつも安らかに眠れるだろう」と言いますから、ベムにとっては悪鬼羅刹の類だったのかもしれません。

『妖怪人間ベム』最大の謎は、最終回でベムたち3人がどこへ行ったのか、死んだのか、それとも……というところなんですが、この観点で見ていくと新しい発見があるような気がします。もったいないとか言わずに一気に最後まで見てみようかな。







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2019年09月04日

先日、廉価版DVDが発売された往年の名作アニメ『妖怪人間ベム』。

第2話の感想としてこんなものを書きました。

「階段を這う手首」(有神論と無神論の対立)

ベムが言う「悪いやつを懲らしめていいことをしていれば俺たちはいつかきっと人間になれる」というのは「宗教」だという主旨でした。

そして今日見た第9話の「すすり泣く鬼婆」。ここでも宗教というか「信仰」の問題が語られます。


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強烈なラストシーン
この「すすり泣く鬼婆」のあらすじは、

土砂降りの中を走る馬車があり、ベロが中に入れてもらう。まだ若い母親と盲目の息子。彼らは一夜の宿を求めて山奥の山荘に入れてもらう。が、そこの女主人に不穏なにおいを嗅ぎつけたベロが忍び込むと、女主人の正体はとんでもない鬼婆だった。ベロはベムに助けを求めて一件落着。

というものです。

いやいや、それじゃ片手落ちだよ! という声が聞こえてきそうです。

そう、この「すすり泣く鬼婆」で一番強烈な場面はラストです。

母子のために骨を折り、絶体絶命のベムを助けて鬼婆を助けたのはベロなのに、指が三本しかないのを咎められ、鬼婆の仲間だったと誤解を受け、号泣するのです。(しかしこのDVDでは「その坊主には指が三本しかないんだぞ」というセリフがカットされてるじゃないですか。「完全版」を謳っておきながら……

それはともかく、私も昔はこのラストが強烈なインパクトをもっていると思っていました。それは今日でも変わりはありませんが、ベムの「いつか人間になれる」という信仰という観点から見ると、別の場面が妙に気になるのです。


鬼婆の信仰(神と悪魔の違いとは?)
鬼婆は牛の生首か何かを祭壇に祀り、次のような祈りを捧げます。

「おお、サタン様、いつになったら私に若い美しい女の顔をくださるのでしょうか。私はこれまで96人の人間を捧げてきました。今日も3人の人間を捧げます」

この鬼婆もまた敬虔な「信者」です。ベムの信仰対象は「神」であり、鬼婆のそれは「悪魔」という違いはあります。しかし、悪魔というのは鬼婆にとっては「神」ですよね? 神を信じる者からすれば悪魔に感じられるだけの話であって、鬼婆の主観ではサタンというのは神です。(そもそもサタンはルシファーという名の元天使)

ベムたちも醜い妖怪人間から普通の人間になりたがっている。
鬼婆も醜い鬼から若くて美しい女になりたがっている。

どこが違うというのでしょう? 

ただ、そのための手段が「無辜の者を殺す」か「そんな悪い奴を懲らしめて弱い者を助ける」かの違いだけ。

その違いは確かに大きすぎるほど大きい。でも、「信じる」という点では何も違いがありません。


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キリスト教徒から見ればイスラム教徒は「テロリスト」にしか見えないのかもしれませんが、彼らのほとんどはごく普通の人間です。しかし、「あいつらは悪魔を信仰している」と偏見の目で見ている人もいるのでしょう。

結局、人間は自分が信じたいものを信じているだけ。アリストテレスの「人間の目には自分の見たいものしか見えない」というのと根っこは同じでしょう。

ベムたちは神を信じたいが、鬼婆は悪魔を信じたい。だから生贄として殺す。


「すすり泣く鬼婆」のテーマ
この「すすり泣く鬼婆」のテーマがようやくわかってきました。

ベロの号泣で幕を閉じるこの回で大事なのは、「それでもやっぱり信じる」ということなんですね。

指が三本しかない。たったそれだけで化け物扱いされ、自分が退治した鬼婆の仲間との誹りを受けたベロは、それがきっかけで人間に強い恨みをもち、悪魔信仰に流されてもおかしくありません。

でもベロにはベムがいます。徹底した有神論者のベムは「涙が涸れたとき、自分の行いが正しかったことを知るだろう」と断定します。

よくそんなこと言えるな、と笑ってしまいましたが、このウソのような信仰心の篤さによってベラもベロも正常でいられるのです。

そう、「信じる者は救われる」というのはこういうことだったのか、という感じですね。強い恨みがあっても、その恨みをポジティブな方向へ舵取りできる者が身近にいれば悪の道に迷い込むことはない。

なるほど、それがこの回のテーマか!


答えのない問題
しかし「正常」とは何でしょうか? 「ポジティブ」とは? はたまた「悪」とは? 「正義」とは?

うーん、わからない。『妖怪人間ベム』が50年たっても古くならないのは、おそらく人類滅亡の日まで答えの出ない問題に果敢に挑戦しているからでしょうか。


蛇足
変身して醜い体になると思っている人が多いですが、醜い体が彼らの正体で、変身して人間の姿になっているんです。だってオープニングの生まれてすぐの彼らは醜い体だったじゃないですか。あれが正体です。もし人間の姿が正体ならなぜ「早く人間になりたい!」のか。もうなってるじゃん。


続きの記事
「墓場の妖怪博士」(ベムたちは妖怪人間ではなくロボットなのか⁉)







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2019年07月20日

昔懐かしい『妖怪人間ベム』。10年前の再放送以来の再見です。

第1話「恐怖の貨物列車」はまだ軽いジャブ程度でしたが、この第2話でもう核心部分へ切り込んでいくんですね。何度も見てるのにあまり憶えてない私。何しろ幼い頃は毎週泣きじゃくりながら見てたので、いまも恐怖に耐えるので精いっぱいなのかも。


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さて、この「階段を這う手首」の骨子は、継母が継子を殺し財産を独り占めしようとするのをベムたちが防ぐ、というものです。

雨宿りした廃屋に殺し屋たちが偶然入ってきてその企みを知るんですが、ここでこの『妖怪人間ベム』を貫く重要な主題について語られます。


ベラ「あー、早く人間になりたいよ」
ベム「ベラ、焦るな。俺たちはいつかきっと人間になれる」
ベラ「あたしゃもう待ちくたびれたんだよ」
ベム「その日が来るのを信じるんだ」



このアニメではオープニングの主題歌で「早く人間になりたい!」という有名なフレーズがありますし、ベムが上のようなことをこの回だけでなく再三再四言うので、

「妖怪人間として生まれた三人が人間として生まれ変わることを願って世直しをする物語」

というのは誰の目にも明らかです。そして、妖怪人間のほうがよっぽど真人間であり、人間のほうが妖怪や悪魔のような悪い心をもっている、という逆説も。

ただ、子どもの頃からずっと不思議なのです。ベムはなぜ「悪い人間を懲らしめ、善い人間を助ければ人間になれる」と思っているのか。最終回がどういうものかを知っている者にとっては「早く人間になりたい」「いつか人間になれる」という言葉はとても悲痛なものです。でも、その根拠はいったいどこに?


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上記のベラとのやりとりでも「信じるんだ」と言っている。だから誰かから聞いたわけではない。確証は何もない。はっきり言って「思い込み」です。

最初、殺し屋たちを成敗しようと三人は合意しますが、ベラだけ合点がいかなかったようです。

「あいつらをやっつけるのが、あたしらの目的とどう関わってくるのかねぇ」

ベラはベムの思い込みに否定的です。いい行いをするかしないかなんて、あたしたちが人間になれるかどうかとは関係ないわよ、と。

何だかんだの末にベラが継母の悪事を防ぎ、気を失わせます。ベラはとどめを刺すべきだと主張しますが、ベムが止めます。悪を根絶するのではなく、悪を善に戻すことが俺たちの役割であり、その役割をまっとうしてこそ人間になれるのだ、と言います。継母に殺されかけた子どもは彼女を本当の母親だと思っており、彼女を傷つけたベロに「嫌いだ!」といいます。

仲良くなった男の子に嫌われるベロという、このあとお約束のようになる結末ですが、このときベムが大事なことを言います。

「おまえのやったことはいいことだ。たとえあの子にどう思われようと、おまえのやったことはいいことなんだ」

お天道様はみていてくれる、というやつですね。

ベムが「神」という存在を想定していることが明らかになりました。「全知全能で造物主である神は俺たちの行いを見て必ず人間にしてくれる」

ベムの「いつかきっと人間になれる日が来る」というのは、だから「宗教」なんですね。

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逆に、とどめを刺しちまいなよ、と言ったベラにベムは平手打ちを食らわせるんですが、そのあとくだんの男の子がベロに嫌いだと言うので高笑いします。しょせん人間なんてそんなもんよ、と。ベラは神などいないと主張する無神論者のようです。

しかし、冒頭にも紹介したように、この第2話で真っ先に「早く人間になりたい」と言うのはベラなのです。

ここに、登場人物たちの願いとは別に、作者たちの思想が表れている気がします。

私はかねてから「無神論者なんかいない」と思っています。「神なんか信じてない」という人間にかぎって困ったことがあると決まって神頼みするのをたくさん見てきましたから。

『妖怪人間ベム』の作者たちも同じ思いだったのではないでしょうか。

有神論者ベムと無神論者ベラの対立葛藤を礎にドラマが組まれていますが、ベラも心のどこかで神を信じている。

いや、「信じなきゃやってられない」という気持ちなんでしょう。妖怪人間という異形として生まれてきた者どもの哀しみに彩られた全26話の大河ドラマ。

続きも存分に楽しみたいと思います。


続きの記事
「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)
「墓場の妖怪博士」(ベムたちは妖怪人間ではなくロボット⁉)






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