聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ファンタジー

『シェイプ・オブ・ウォーター』(単純につまらない)

賞レースを席巻している『シェイプ・オブ・ウォーター』を見てきましたが、これが心の底からつまらない映画でした。


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「悪」の創出
昨日、たまたま『イングロリアス・バスターズ』を再見しまして、こんなツイートをしました。

「ナチスを『絶対悪』として利用するだけの作劇は作家的怠慢だと思う。『独創的な悪』の創出は作家的使命のはずなのにタランティーノはそこから逃げている」


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『シェイプ・オブ・ウォーター』は悪を造形することから逃げてはいませんが失敗してますよね。マイケル・シャノン演じる極秘研究所のボスみたいな男(中間管理職?)は汚い言葉を吐き暴力を振るうだけで、少しも独創的でもなければ魅力的でもない役です。

まだしも『イングロリアス・バスターズ』のクリストフ・ヴァルツのほうが残忍さをエレガントな衣で隠していて面白いですが、彼にしたところで「総統の命令を粛々と遂行しているだけ」で本当のところ悪い奴なのかどうかは最後までわかりません。ブラピに頭の皮をはがれるときの子どもみたいな恐がり方から察するに「ただの小役人」だった可能性が高い。

ところで、『シェイプ・オブ・ウォーター』では結末が途中でわかりますよね。悪役が暴力しか振るわないんだからああなる他ありません。


わからない行動原理
それよりも、主人公サリー・ホーキンスが怪獣を家にこっそり連れ帰る動機がまったくわかりません。


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喋れないために誰も理解してくれない。怪獣も喋れないからお互い理解しあえる。というのはわからないではありませんが、彼女にはリチャード・ジェンキンスという孤独を分かち合う隣人がいるし、職場にはオクタヴィア・スペンサーという彼女の面倒を見てくれる心やさしい同僚がいます。

だから少しも孤独じゃない。「私には怪獣しかいない」というところまで追いつめられていません。

男がほしかった? 確かにオナニーシーンがあるし、後半は怪獣とセックスしまくってました。しかしですね、主人公の周りにはまともな男が出てきません。リチャード・ジェンキンスはゲイだし、マイケル・シャノンは女を暴力的に扱うことしか考えていない。ソ連のスパイは諜報戦のことしか頭にない。

怪獣との恋愛を描く。
それはドラマ作りとして志が高い。ハードルが高すぎるほど高いですから。
しかし、それならば、前段としてまず「人間との恋愛」を描かないといけないのでは? 愛し合っているごく普通の男がいる。「私には彼しかいない」と思っている。でも何らかの問題のために二人の関係が破綻してしまう。だから怪獣しかいない! となればグッと乗れたと思うんですが、そうなっていません。だから、この映画は完全にご都合主義で作られていると思うわけです。


ご都合主義
ご都合主義といえば、クライマックス前のマイケル・シャノンもそうですよね。

同僚がソ連のスパイだとわかり、「あの掃除婦が……」というのを聞いて彼はオクタヴィア・スペンサーの家に行くんですが、なぜサリー・ホーキンスの家じゃないんでしょうか。

怪獣がいなくなったときはまだサリー・ホーキンスが怪しいとは思われていなかったようで全員のタイムカードを調べていましたが、あのとき、サリー・ホーキンスは指で「ファックユー」とやりますよね。マイケル・シャノンにははっきり意味がわからなかったようですが、サリー・ホーキンスが自分によからぬ思いを抱いているのはわかったはずで、「掃除婦」と聞いて真っ先にオクタヴィア・スペンサーを思い浮かべるのはどう考えても不自然です。サムソンとデリラの逸話を喋りたかったから? まさか!

もしあそこで真っ先にサリー・ホーキンスの家に急行していたらあの美しいラストシーンはなかったわけですから、完全なご都合主義です。登場人物が作者の操り人形でしかない。

セットや衣装の色づかいが目に心地よく、照明もとても繊細でヴィジュアル的にはとても楽しめる映画でしたが、お話にまったく乗れなかったのでお金返してほしい。

これでアカデミー賞最有力候補??? 信じられません。昨日見た『ビッグ・シック』のほうがよっぽど面白かったですよ。

『ワンダーウーマン』(もっとドラマチックにできたはず)

アメコミ映画史上初のアカデミー作品賞ノミネートなるか、みたいな記事を見たのでやたら期待値が高くなっていた『ワンダーウーマン』を見てきました。




うーん、ガル・ガドットは予告編よりもさらにきれいで「美しく、ぶっ飛ばす」というコピー通りの映画でしたが、面白いとは思えなかった。

というか、クローネンバーグの『ザ・フライ』みたいにしたらもっと盛り上がったのに、と思うんです。

『ザ・フライ』の物語を要約すると、「愛する男をこの手で射殺しなければならなくなった女の悲劇」ですよね。

だから、ガル・ガドットがクリス・パインを殺す、という物語にすればよかったんじゃないか、と。

そう、クリス・パインこそ軍神アレスだった、ということにするわけです。映画では、いかにも怪しいデビッド・シューリスがやっぱりか、という感じでアレスを演じていました。それに加えて、ガル・ガドット演じるダイアナは実はゼウスの子で、アレスを倒すために産み落とされたのだと。ゴッドキラーとは剣のことだと思っていたのに、実は自分自身がゴッドキラーだった、となるんですが、あまり面白い展開とは思えません。


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ダイアナにとって、生まれて初めて出逢った男、生まれてただ一人愛した男をこの手で殺さなければならない、というほうがよっぽどドラマチックだったと思うんですよね。

そのためには、クリス・パインをドイツ軍の二重スパイか何かに設定し直す必要がありますが、それは簡単にできます。
それ以上に、「それまで男を見たことがなかった女が初めて愛した男を殺す」という物語のもつ盛り上がりのほうが多でしょう。「男を殺したアマゾネス」ということで、ダイアナをめぐる第2章、つまり続編の作り甲斐もあったんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。

他にもいろいろケチをつけ始めたらきりがないほどツッコミどころ満載の映画でしたが、これ以上は何も言わないことにします。




アニメ『君の名は。』をめぐるバカバカしい言説について

大ヒット街道驀進中の新海誠監督の『君の名は。』ですが、私はこういう感想を書きました。→ご都合主義アニメ『君の名は。』(現実らしさを追求する方向が違うのでは?)

映画には共感できませんでしたが、あの映画をめぐる言説にはもっと共感できません。

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談のことです。
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1472797135219.html


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私はいままで『ほしのこえ』『雲の向こう、約束の場所』『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』など数本しか見てませんが、一度も面白いと思ったことはありません。

しかし、そんなことはこの際どうでもいいことです。

飯田さんと藤田さんの対談を読むと、

「あのエンディングは新海監督が自ら過去のフィルモグラフィを否定している」

と批判しているんですね。これは大いなる問題だと思います。

かつてこんな日記を書きました。→自分自身をジャンル分けする愚かさについて

人間は絶えず変化します。生きるとは変化することです。昨日の自分と今日の自分は別人です。だから当然10年前の自分と現在の自分と10年後の自分はすべて違う人間です。それを「矛盾」とはいいません。

だから「首尾一貫した自分」を前提するのは「幻想」にすぎないのです。新海監督のフィルモグラフィが一貫してなくたって少しも問題じゃない。逆に変わらないほうがおかしい。

『怒りのデス・ロード』で変節してしまったジョージ・ミラーのように、明らかにつまらなくなったのなら批判してもいいでしょうが、あの対談の評論家たちは「面白かったけど」とか「震災から5年たったいまだからこそ描けた作品」みたいな感じである程度の価値を認めながら、過去の作品とはテイストが違うから受け入れられないという。

かつてこんな日記も書きました。→ジャンル分け主義の映画ファン=差別主義者トランプ

飯田さんと藤田さんは、『君の名は。』という一本の映画そのものではなく、「新海誠監督作品というジャンル」について語っているんですよね。

こんな過去作を否定する映画を作られたら、「新海誠監督作品」ジャンルを愛せなくなってしまう。というふうにしか聞こえません。

いろいろほめてる以上は、仮に、『君の名は。』の監督名を伏せて観賞したら素晴らしいと絶賛するんでしょう。でも監督が新海誠とわかったらその途端に否定するんでしょうか? これこそ「矛盾」ですよね。

飯田さんと藤田さんにとって、新海監督の変節が「誰でも知ってる作家になりたい」という欲望から発したものであることがかなり大きいのでしょうが、誰だって名誉欲とか金銭欲はある。

そりゃ、作家性より興行収入のほうが大事なのか、と言いたい気持ちは理解できます。

しかし、だからといって「私はあなたというジャンルが好きだったのにあなたは変わってしまった」と非難するのは完全なお門違いです。

俎上に載せられるべきは「作品」です。決して「作者」ではありません。

作家は評論家のために作品を作っているわけではありません。あくまでも一般のお客さんのために作っているのです。そして一般の観客は『君の名は。』という一本の映画を見に来ているのです。決して「新海誠監督作品というジャンル」を見に来ているわけではありません。

でも評論家って自分たちに向けて作られているという幻想から抜けられないみたいですね。その証拠に「作家論」なんて山のようにありますから。



ご都合主義アニメ『君の名は。』(現実らしさを追求する方向が違うのでは?)

新海誠監督の映画はもう金輪際見ないと誓ったはずなのに、超大ヒットと聞いて駆けつけてしまった『君の名は。』。

期待した私がバカでした。金返せと言いたくなるしかない映画でした。(以下ネタバレあります)



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男子高校生と女子高校生の体が入れ替わるというよくある仕掛けですが、これ自体は少しも悪いと思いません。

ただ、単に入れ替わるのは新味がないと思ったのかどうかは知りませんが、この二人は生きている時間が違うんですね。実は女の子のほうが3年前を生きている。

つまり、体が入れ替わるだけでなく、タイムトラベルもしているんです。

これ自体も別に悪いわけではありません。

問題は、その事実に二人とも気づかないことです。

ある日を境に入れ替わりがなくなって、女のことが気になってしょうがない男が、わざわざ東京から飛騨高山まで逢いに行くんです。

ここで驚愕の事実判明!!!

何と、女の子は3年前に彗星群の衝突により死亡していた。そこで初めて違う時間軸を生きていたことがわかるんですが、これっておかしくないですか?

だって3年前/3年後の世界に行くんですよ。ニュース見たりクラスメイトと喋ったりしてたらいくら何でも自分がもともと生きてる時間と違うことに気づきますよね。

それとも入れ替わりは夢の中の出来事だから別にいいってことなんでしょうか? しかし、「これは知ってもらわないと困る事実」と「これは知ってもらっては困る事実」とを作者が選別してませんかね? ご都合主義です。

このへんからアホらしくて見る気を失ってしまいましたが、冒頭からすごく気になっていたのが、新宿や代々木の街並みをものすごく正確に再現していることなんですよね。

四ツ谷は一度しか降りたことないからよく知らんのですが、少なくとも新宿西口のヤマダ電機とか山手線の駅ホームの描写とか、ほぼ現実どおり。

でも、あそこまで現実と同じにする必要がどこにあるんでしょう? アニメなんだから架空の「こんな街あったら面白いだろうな」っていう感じのものにしてもいいんじゃないかと。

別に絵が現実と寸分変わらぬ精緻な絵でもかまいません。が、現実らしさ、もっともらしさをもっと内容に向かって追求してほしいんですよね。

あそこまで絵に現実どおりのものを追求するなら、なぜ筋立てにもっと現実らしさを盛り込まないのか、と。

神は細部に宿るという言葉があるのだから、もうちょっとこだわってほしかった。

というのが正直な気持ちです。



『バットマンvsスーパーマン』(「一」でも「多」でもなく「二」であるからには…)

見ようかどうしようか、クリストファー・ノーランが関わってからの『バットマン』は好かんし、『スーパーマン』は元からあまり興味ないし。

とか何とか言いながら、やはりそこはハリウッド娯楽大作好きなので、全米で『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』を超える歴代トップの超大ヒットスタートを切ったらしい『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』を見てきました。

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画像からわかるようにこの映画、大変暗いです。内容が、じゃなくて、いえ、内容もですけど、画面がものすごく暗い。いったい何が起こってるのかわからないシーンも少なくなかった。3Dで見て「ところどころ3D眼鏡を外して何が起こっているか確認した」なんて言ってる人もいました。せめて何が起こってるかぐらいわからせて!

とはいえ、本題はそんな些末なところにないのです。

この映画を見ていてずっと頭をよぎっていたのは、子どもの頃に読んだマンガでした。タイトルも作者も内容も何もかも憶えてないので調べようがないんですが、設定だけ鮮明に憶えています。「太陽が二つある惑星が舞台」というものです。

その頃は「太陽が二つあったらどうなるんだろう」とボケーッと考える程度でしたが、長じるにつれて「そんな惑星に人類が生まれたら人々はどういう哲学、思想、そして宗教をもつのだろうか」と考えるようになりました。

そう、宗教です、一番大きな問題は。

太陽崇拝は地球上のどこにでも見られる風習です。その太陽がひとつしかないからこそ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの一神教(もとは同じですが)が生まれたのだと思います。

だから、「太陽が二つある惑星に人類が生まれたら、彼らはどういう宗教を生み出すのか」と考えると、自然と、

二神教

という言葉が浮かびます。それが具体的にどういう教義をもつのか、二人の神の関係性などはまったく想像もつきませんが、生まれたときから太陽が二つあったら、少なくとも一神教を生み出すことはないと思います。

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そういえば、『スターウォーズ』ってまさにそういう惑星が舞台でしたよね。なのに彼らは地球の欧米人と同じ行動原理で生きている。まったく別種の「こいつらこんなこと考えてんのか!?」と驚愕するような哲学、思想をもっているようには少しも描かれていません。

だから私は『スターウォーズ』はSFじゃないと思うのです。サイエンス・フィクション、空想科学小説というのは「科学」という言葉が入っている以上、「太陽が二つある星に棲む人間が生み出す宗教はどんなものか」という科学的想像力を働かせないといけないのにそうなってないから。あれは「宇宙が舞台の戦争映画」です。

それはともかく、今回の『バットマンvsスーパーマン』では、スーパーヒーローが二人出てきますが、これがバットマンだけ、スーパーマンだけが活躍する架空の世界ならいいんですよ。実際の地球には太陽がひとつしかないから神のごとき全知全能のスーパーヒーローがたった一人なら科学的想像力を働かせずとも物語は作れるし、当然のようにその物語を享受することができます。

また、『アベンジャーズ』みたいなスーパーヒーローが多数出てくるのもありなんですよね。なぜなら実際に多神教というものがあるから。欧米だってナザレのイエス誕生以前はギリシア神話に出てくる数多くの神々を崇拝していたわけでしょ。だから「一」または「多」なら科学的想像力を働かせる必要はありません。

しかし、「二」となると話は別です。三角形が多角形と呼ばれるように、「三」なら「多」として扱ってもいいかもしれませんが、「二」は「一」と「多」の間です。我々地球人には想像がつかないのです。だから科学的想像力が必要になってきます。

なのに、この映画の製作者たちは少しもそこのところを考えていません。無敵のスーパーヒーローが二人いる。どちらも正義の味方。だとすれば、なぜどちらかだけでなく、どちらも存在するのか。とか。

もし太陽が二つあったら、なぜ太陽が二つあるのか、古代人たちはもっともらしい創世神話を紡ぎ出すはずです。

それと同じで、スーパーヒーローが二人いたら、人々はもっと考え込まないといけないのでは? 

この映画には「大衆」がいません。二人の主人公に近しい人物は出てきても「一般大衆」が出てきません。彼らがバットマンとスーパーマン、二人のスーパーヒーローが存在する世界をどう見ているのか、それがないから「有名なヒーローを二人出して儲けるための映画」に見えてしまうんです。

動機はそれでいいと思います。動機に純も不純もないから。

でも、いくら動機でが不純であったとしても、やるとなったら本気で科学的想像力を働かせてほしい。

「一」でも「多」でもなく、「二」を選んだからには。



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