サスペンス

2019年07月20日

昔懐かしい『妖怪人間ベム』。10年前の再放送以来の再見です。

第1話「恐怖の貨物列車」はまだ軽いジャブ程度でしたが、この第2話でもう核心部分へ切り込んでいくんですね。何度も見てるのにあまり憶えてない私。何しろ幼い頃は毎週泣きじゃくりながら見てたので、いまも恐怖に耐えるので精いっぱいなのかも。


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さて、この「階段を這う手首」の骨子は、継母が継子を殺し財産を独り占めしようとするのをベムたちが防ぐ、というものです。

雨宿りした廃屋に殺し屋たちが偶然入ってきてその企みを知るんですが、ここでこの『妖怪人間ベム』を貫く重要な主題について語られます。


ベラ「あー、早く人間になりたいよ」
ベム「ベラ、焦るな。俺たちはいつかきっと人間になれる」
ベラ「あたしゃもう待ちくたびれたんだよ」
ベム「その日が来るのを信じるんだ」



このアニメではオープニングの主題歌で「早く人間になりたい!」という有名なフレーズがありますし、ベムが上のようなことをこの回だけでなく再三再四言うので、

「妖怪人間として生まれた三人が人間として生まれ変わることを願って世直しをする物語」

というのは誰の目にも明らかです。そして、妖怪人間のほうがよっぽど真人間であり、人間のほうが妖怪や悪魔のような悪い心をもっている、という逆説も。

ただ、子どもの頃からずっと不思議なのです。ベムはなぜ「悪い人間を懲らしめ、善い人間を助ければ人間になれる」と思っているのか。最終回がどういうものかを知っている者にとっては「早く人間になりたい」「いつか人間になれる」という言葉はとても悲痛なものです。でも、その根拠はいったいどこに?


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上記のベラとのやりとりでも「信じるんだ」と言っている。だから誰かから聞いたわけではない。確証は何もない。はっきり言って「思い込み」です。

最初、殺し屋たちを成敗しようと三人は合意しますが、ベラだけ合点がいかなかったようです。

「あいつらをやっつけるのが、あたしらの目的とどう関わってくるのかねぇ」

ベラはベムの思い込みに否定的です。いい行いをするかしないかなんて、あたしたちが人間になれるかどうかとは関係ないわよ、と。

何だかんだの末にベラが継母の悪事を防ぎ、気を失わせます。ベラはとどめを刺すべきだと主張しますが、ベムが止めます。悪を根絶するのではなく、悪を善に戻すことが俺たちの役割であり、その役割をまっとうしてこそ人間になれるのだ、と言います。継母に殺されかけた子どもは彼女を本当の母親だと思っており、彼女を傷つけたベロに「嫌いだ!」といいます。

仲良くなった男の子に嫌われるベロという、このあとお約束のようになる結末ですが、このときベムが大事なことを言います。

「おまえのやったことはいいことだ。たとえあの子にどう思われようと、おまえのやったことはいいことなんだ」

お天道様はみていてくれる、というやつですね。

ベムが「神」という存在を想定していることが明らかになりました。「全知全能で造物主である神は俺たちの行いを見て必ず人間にしてくれる」

ベムの「いつかきっと人間になれる日が来る」というのは、だから「宗教」なんですね。

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逆に、とどめを刺しちまいなよ、と言ったベラにベムは平手打ちを食らわせるんですが、そのあとくだんの男の子がベロに嫌いだと言うので高笑いします。しょせん人間なんてそんなもんよ、と。ベラは神などいないと主張する無神論者のようです。

しかし、冒頭にも紹介したように、この第2話で真っ先に「早く人間になりたい」と言うのはベラなのです。

ここに、登場人物たちの願いとは別に、作者たちの思想が表れている気がします。

私はかねてから「無神論者なんかいない」と思っています。「神なんか信じてない」という人間にかぎって困ったことがあると決まって神頼みするのをたくさん見てきましたから。

『妖怪人間ベム』の作者たちも同じ思いだったのではないでしょうか。

有神論者ベムと無神論者ベラの対立葛藤を礎にドラマが組まれていますが、ベラも心のどこかで神を信じている。

いや、「信じなきゃやってられない」という気持ちなんでしょう。妖怪人間という異形として生まれてきた者どもの哀しみに彩られた全26話の大河ドラマ。

続きも存分に楽しみたいと思います。


続きの記事
「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)
「墓場の妖怪博士」(ベムたちは妖怪人間ではなくロボット⁉)
「博物館の妖奇」(妖怪人間は「心」の問題)
「亡者の洞穴」(あの結末が意味するもの)






2019年06月24日

サミュエル・フラー監督の1963年作品『ショック集団』を約25年ぶりに再見しました。初見時はそれほど面白いと思わなかったんですが、今回は異常なまでに面白く、若かりし頃の不明を恥じたくなるほどでした。

とはいえ、この映画は何とも奇妙なんですね。脚本構成がものすごく変というか、いや変だからダメだというんじゃなくて変だからこそ傑作になったと思うのです。(以下ネタバレあります)


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「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

これが物語のあらましですが、これは「あらすじ」ですね。「プロット」ではない。プロットというのは「運び」のことで、観客が知る情報を順に出していかねばならない。


脚本にひそむ大いなる矛盾
上記のあらすじがプロットと決定的に違うのは「ジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために」というところです。彼がなぜ精神病院に潜入するのか、素晴らしい記事を書いてピューリッツァ―賞を受賞するためと語られますが、「何を調べるのか」については伏せられています。詳細を忘れていた私は「精神病院の内情を告発する記事を書くつもりなのかな?」と思ったほど。

実際に入院してから「殺人事件があった」「スローンという人間が殺された」「目撃者がいる」という情報が小出しにされます。しかし、スローンという人間が患者なのか、看護人なのか、医者なのか、はっきり説明されません。最後に患者だとわかりますが、それまではどういう人が殺されたのかわからない。いつ(朝か昼か夜か)どこで(病室か治療室かトイレか廊下か)殺されたのかについては最後まで何の説明もありません。


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(このショットの独特の触感!)

最終的に、新聞記者をペテン師だと言って目の敵にしているロイドという看護人ではなく、いつも柔和な笑顔で人畜無害な印象を与えるウィルクスという看護人が犯人であることが判明します。「ウィルクスが殺した。あいつは知能障害の女を慰み者にしていた」という証言を得て、主人公はウィルクスに暴行し、白状させます。

これ、すごく変ですよね? 
だって、主人公自身がウィルクスが犯人と聞いたあとに記憶をなくし、「俺が犯人だ」「いや院長だ」「いやキャシーだ」と言ってわけがわからなくなる。だから「ウィルクスが犯人だ」という証言だってまったくの妄想かもしれないわけです。なのに主人公はそれを100%信じて自白を得る。


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この映画は主人公が狂っていく過程を丁寧に追っていきます。中には黒人なのに白人至上主義者だと言って他の黒人にリンチを加える患者もいる。患者の言うことは信用ならないというのを基調にしながら、こと殺人事件の証言だけは100%真実であるという立場を取っています。

もう一度言いますが、だからダメな映画だと言いたいわけではありません。このような矛盾した立場を採用した結果、『ショック集団』という映画は傑作サスペンスになったと考えます。

では、なぜサミュエル・フラーはこのような変な考え方で脚本を書いたのでしょうか?


メインプロットのネタバレ
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もう一度、上記のあらすじを記しましょう。

「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

殺人事件の真相はサブプロットであり、あくまでもメインプロットは「狂人のふりをした主人公が本当に狂ってしまう」という、典型的な「ミイラ取りがミイラになる」物語です。

恋人のキャシーは、最初からこの計画に反対します。彼がほんとに狂ったらどうするのかと。

つまり、メインプロットのオチは最初からばらされているわけですね。「最終的に主人公はほんとに狂っちゃうんですよ。この映画はミイラ取りがミイラになるお話ですよ」とファーストシーンでばらしている。

だから、メインプロットの興味は結末ではなく、過程にこそあります。その過程には何があるかと言えば、「犯人は誰か」というサブプロットです。

メインプロットのオチはばらしているからサブプロットの謎で引っ張ろうという計算なわけですね。

ただ、メインプロットの過程、つまり「どのように狂っていくか」というのをみっちり描写するためには、他の患者たちの狂っている様を入念に描かなくてはいけない。サブプロットも大事ですが、メインプロットの過程そのものを入念に描くことのほうがよっぽど大事。犯人捜しを入念にやるとメインプロットがメインプロットでなくなってしまうという危惧があったのでしょう。

だからサミュエル・フラーは「もしかすると患者の証言は妄想かもしれない」「だから裏付けを取らなければ」「でもその裏付けも妄想だったら……?」という「世界の原理」が入ってくると、映画全体が煩雑でわかりにくくなってしまうと考えたのだと思います。

「患者は嘘ばかり言っている。でも事件に関する証言だけは真実である」という「映画の原理」を採用した。この決断はすごいと思います。だって完全に矛盾してますから。でも矛盾していていいんだ、矛盾を解消しようとすれば冗長な映画になってしまうから。

この勇気ある決断のおかげで、精神病院の内実や、患者たちの生活が詳細に描写され、そんなところにいたら正常な人間も狂ってしまうというメインプロットに説得力が与えられます。一方でサブプロットの殺人事件の謎はいとも簡単に解決され、100分というちょうどいい上映時間で幕を閉じることができたわけです。

こういう「映画の原理」を勇気をもって採用できるからこそサミュエル・フラーは「B級映画の巨匠」と呼ばれるんだな、と認識を新たにした次第です。


ショック集団(字幕版)
ピーター・ブレック
2017-09-06









2019年03月09日

我が永遠のアイドル、クリント・イーストウッド6年ぶりの主演作品『運び屋』を見てきました。公開2日目の土曜日の日中、しかも今日は結構あたたかい。花粉症の人は外に出づらいかもしれないが(私も今日は今季一番ひどい症状)それにしても空席が目立っていたのはとても淋しい。


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実在した高齢の麻薬の運び屋を霊感源として、イーストウッドの実人生と重なる部分も少なくないこの映画、私は少しも面白くありませんでした。

最も敬愛する人だからこそイーストウッド作品はできるだけ批判的な目で見ることにしていますが、ごく普通に見てもこの映画はつまらない。どうせ世間は絶賛一色だろうと思って検索したらやっぱり! ここは「世界一のイーストウッド・ファン」を自認する私が文句を言わねばならないという使命感から筆を執りました。


第1幕の流れが不自然
冒頭、「2005年」というテロップが出て、娘の結婚式に出ず、農園で育てた花のコンテスト会場に行っていた主人公。このあとすぐ「2017年」になります。2005年のシークエンスはほんの5分ほど。娘が12年も口を利いてくれない理由を示したかったのかもしれませんが、オフで充分でしょう。なぜたったあれだけのシーンをオンで描く必要があるのか理解できません。

近代劇の祖、ノルウェーの劇作家イプセンは「それまでの演劇の第5幕から始めた」と言われています。『人形の家』『ヘッダー・ガーブラー』『ロスメルスホルム』などなど、すべてそうなっています。第4幕までの情報を第5幕の中(のセリフ)にぶちこんで、どこを切っても煮えたぎる血が流れ出すドラマ形式が確立されたのは19世紀のことです。

『運び屋』は21世紀の映画なのに。。。

2017年の「ネット花屋のせいで」農園が閉鎖に追い込まれたところから始めたほうがよかったと思います。2005年の娘や妻とのいざこざ、孫娘は主人公を好いていること、そういった情報は孫娘の結婚式を訪ねたときに娘の態度や妻のセリフなどで匂わせればOK。

しかし第1幕にはもっと大きな問題が……

ある男から「車の運転さえできれば可能な仕事がある」と紹介されたところへ行くと、ショットガンをもった男たちが出迎える。主人公が車を止めたときの小さい窓から大きな目だけが覗くカットは素晴らしかった。何とも言えない不気味な肌触りがあって。でもすぐに首をかしげざるをえなくなります。

いきなりショットガンをもった男が出迎えたら気後れするでしょう。いくら朝鮮戦争を経験しているとはいえ退役したあとは農園をやっていただけの普通の老人なのだから。

これを運んでくれと鞄をトランクに積みこまれても、何が入っているのかを訊かないのもおかしいですよね? 「1回目」「2回目」そして「3回目」で初めて麻薬を運ばされていると知りますが、そこからいきなり「5回目」に飛ぶのもおかしいでしょう。なぜメキシコ人たちを問い詰めないのか。金になるからということ? それならそれでそういうシーンを入れないと。


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初めて大金を得るシーンはもっと後でした。

どうもこの映画は主人公のリアクションが変です。

車さえ運転できれば可能な仕事がある。やばそうだ。でも金がほしい。行ってみるとショットガンをもった男たち。やっぱり。俺は何を運ばされているのか。麻薬だった。やばい。もうやめよう。というか、おまえら何で俺にこんな真似をさせる。でも大金をくれた。またやろう。久しぶりに女も抱けた。こりゃいい。

というのがごく普通の流れだと思うんですが、「やばそうだ。でも金がほしい」とか「やっぱり」とか「やばい。もうやめよう」というような当たり前のリアクション=感情が描かれないからぜんぜん乗れないのです。


メインプロットとサブプロット
宣伝文句には「ごく普通の老人が麻薬の運び屋をやることを通じて家族への贖罪をする物語」みたいなことが書かれてましたが、「麻薬の運び屋をやることを通じて」というところが何もないじゃないですか。運び屋をやることと家族への贖罪が別個にしか描かれていない。メインプロットとサブプロットが何ら有機的に結びついていないのです。

ブラッドリー・クーパーとのやりとりに感動した人もいるようですが、確かにいいシーンではあるものの、1回だけの遭遇というのはどうなんでしょう? もっと何度もレストランでコーヒー飲みながらいろいろ説教じみたことを言う(ちなみに私はイーストウッドがコーヒーすする顔を斜め45度から捉えたショットが何よりも好き!)。そのときに彼こそ運び屋だとわかることを口走ってしまうのに、クーパーは彼が白人だからまったく気づかない。ということにすれば、人種問題ももっと色濃く出せたように思います。ビリングで1番目の役者と2番目の役者が遭遇するのが逮捕のシーンを含めて2回だけというのはもったいなすぎます。

もっといえば、娘と疎遠になるんじゃなくて「息子」と疎遠になるべきではなかったでしょうか。ブラッドリー・クーパーを息子に見立てて説教じみたことを言ったり、逆に喋っているうちに許してほしい気持ちが募ってしまい、何の関係もないクーパーに謝ってしまうとか。

そういう描写があれば、法廷で家族と抱き合う主人公を見つめるクーパーの胸にいろいろなことが迫ってきたはずです。それはつまり観客の心にいろいろな感情が生まれるということ。でも実際の映画はぜんぜんそうなっていない。

去年の『15時17分、パリ行き』の感想で「イーストウッドは肝心要のシナリオを読む力がなくなっているんじゃないか」と書きましたが、やはりあれは間違いではなかった。こんな不出来な脚本で行けると踏んだイーストウッドはやはり老いたのでしょうか。

それとも、彼は監督である前にまず「俳優」だから、「またカメラの前に立つことができる」という歓びが目を霞ませてしまったのでしょうか。

いずれにしろ残念です。今年でもう89歳。まだまだ撮り続けるはずですが、最低『ハドソン川の奇跡』ぐらいのものは見せてほしいというのが正直な気持ちです。


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