サスペンス

2020年03月21日

星川清司脚本、増村保造監督の名作『陸軍中野学校』を再見しました。(以下ネタバレあります)



やはり素晴らしいですね。まったく色褪せない。

しかしながら何となく変なのはこの映画、戦争を題材にしているうえに、主人公が自分の恋人がスパイと知って殺すという哀しい運命を描いているにもかかわらず、少しも「反戦」というメッセージがないことですね。

脚本家も監督も、主人公たちスパイとして養成された者たちに一片の同情も感じていません。かわいそうだとか「もし自分だったら…」などという感傷とはまったく無縁なんですよね。そこが素晴らしい。


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中野学校創設者を演じる加東大介は、陸軍から「これは」と目をつけた男たちを一堂に集めて、これからは本名も捨ててもらう、スパイとして国に尽くしてもらう、と半ば強制的にスパイとして養成されることを受け容れさせます。

そして、養成の過程で神経衰弱になった男が自殺します。市川雷蔵はじめ他の者すべてが「俺もスパイなんて嫌だ」と言い出す。ここで加東大介がスパイとして国に尽くすことの意義を説き、全員が前言撤回して「俺はやります」と口々に言うんですが、冷静に考えると、このシーン、とても変です。加東大介の説得がうまいからといって、えらくみんな簡単に気持ちを覆しすぎじゃないかと。

この次のトピックは、女に溺れて盗みを犯した者(女体に関する授業があるというのが面白い)を生徒全員で恫喝まがいの説得をして腹を切らせる場面。ここも、本気でスパイになろうとしているからといって、あまりに仲間を殺すことにためらいがなさすぎる。

そう、ためらいがないんですよ。この映画では登場人物が大きな決断をする場面が多々あるにもかかわらず、ためらったり言いよどんだりすることがまったくない。ほとんどないんじゃなくてまったくありません。心の中では様々な葛藤があるんでしょうが、映画の作り手たちはそんなものには少しも興味がないようです。

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最後、婚約者が英国のスパイだと知った主人公が彼女を毒殺するんですが、ここでの市川雷蔵もあまりにためらいがない。加東大介に「おまえが殺せ」と言われても悩むということがない。

淡々と会話をし、淡々と酒に毒を盛り、淡々と飲ませ、淡々と遺書を偽造し、何事もなかったかのように去っていく。

「スパイとして養成された男が、恋人が他国のスパイと知って殺す物語」において、そこに潜む複雑な感情を捨象しすぎじゃないか、と思うのですが、これはおそらく、そういう愁嘆場の多い日本映画が嫌いだった増村保造監督の要請だったのでしょうね。主人公が泣きながら恋人を殺すような映画にだけはしたくない、という。

この映画は異様なまでにハードボイルドです。ヘミングウェイやハメットがペンで映画を書いたらこういう湿り気のない乾いた映画になるんじゃないかと思われるぐらい、どこまでも感傷を排した、それゆえに異様なまでに物事が淡々と進む映画になっています。

だから、主人公がひどいとも、そういう運命を与えた戦争に対して怒りを感じる、ということもありません。中野学校に批判的だった参謀本部の待田京介が女に機密を漏らしていたことを理由に最前線で死んでこいと命令されても、見てるこちらは快哉を叫ぶことがない。ただ粛々と命令を受け容れる待田京介の姿を呆然と見るほかありません。

ただ素朴に「行動」だけを描く。これがこの映画の哲学です。

これは真似しようと思っても簡単にできるものではありません。
人間と時代を見つめる冷静すぎる目(いや、冷酷な目と言っていいかもしれない)が作り手に備わっていなければ絶対に作れない傑作だと思いました。


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陸軍中野学校
市川雷蔵
2015-09-21





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2019年11月11日

2019年の『カメ止め!』と言われるほどの話題作と聞いた『メランコリック』を見てきました。(以下ネタバレあります)

「殺しの場としてやくざに貸し出しされている銭湯」という設定がやたら面白そうでしたが、うーん、『カメ止め!』が面白いという人の感覚はわからなくはないけど、この映画の面白さは少しもわかりませんでした。設定を活かしきれていないというか。


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カメラマンは何をしていたのか
いまや手持ちカメラばかりでグラグラゆれてばかりという映画はとても多いので、ちゃんと三脚立てろよ! と思うことはあっても驚くことはなくなりました。

しかし、この『メランコリック』のカメラには驚きました。いくら手持ちでもゆれすぎ。

ゆれるうえに、意図的に動かすところでも動かしすぎ。例えば銭湯の店長がやくざの田中の事務所でオムライスを食べる場面。店長の顔や手の動きに合わせてパンダウンしてまたパンアップするんですが、あんなせわしない見せ方をするくらいなら、最初から引いた画にしてフィックスで撮ればいいだけでは? 

この監督やカメラマンはカメラを動かさないと安心できないんでしょうか。ピン送りのショットでもピントがぼけたり、何であんなのにOK出してるんだろう。ありえない。以前、うちの父親が写真スクールに通っていましたが、いくらいい素材、いいアングル、いい光具合で撮っても、ピントが合ってなければその時点でアウトだそうです。映像にとってピントを合わせることは大前提中の大前提。金をとって見せる作品でピントが合ってないなんて話にならない。金返せと言いたい。


彼女の使い方
・「東大卒」という設定がなぜ必要なのかわからない。
・いきなり殺人現場を目撃して大ピンチの主人公を店長は「殺すな」といって掃除を手伝ってもらうことにするが、雇ったばかりの人間をなぜ信用できるのか。
・いくら破格の報酬をもらったとはいえ、死体を燃やしたり、生々しい血を洗い流したりしたあとで安眠できる主人公に共感できるわけがない。
・警察に行こうかどうしようか悩む場面がまったくないので、ただの「変な人」になってしまっているのではないか。
・殺しの仕事をしてきた松本君が、ぜんぜんそんなふうに見えない。逆にそれが「リアル」ということ? しかし殺しの仕事をしている人間を知ってる観客なんかいないんだし、そんなところにリアリティを求められてもこちらには伝わらない。

などなど、いろいろとわからないことやつまらないことがあるんですが、私は「彼女の使い方」が一番の疑問でした。

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主人公を銭湯のバイトに誘って、殺しの現場として貸し出されていると主人公が知ってからはまったく風呂に入りに来ないから、この女の子は実は店長とグルなのか、もしや田中ともグルなのかと思いましたが、ぜんぜんそんなことはなし。

それなら、彼女が銭湯に来るが「ここの風呂に入っちゃダメ」と主人公が止める。理由を聞いても答えられない。それで彼女もこっそり探って殺しの現場を目撃してしまい、小寺君か松本君に殺される、という展開はどうでしょうか。

主人公は、彼女が自分のせいで死んでしまった、だから田中を殺す! というふうに、松本君に誘われて殺しに行くんじゃなくて、逆に自分から松本君を巻き込んだほうがよっぽどドラマが高まったんじゃないかと思いました。

最後に、彼女が頻繁に銭湯に来ていたのは水、電気、風呂のいずれかが止められていたから、と言いますが、ということは、主人公がやばい仕事に手を染めてからは滞納してなかったから来てなかったってことですよね。でもそれは完全に「作者の都合」です。


やっぱりカメラが……
実家の場面は全部食事シーンで同じアングル、同じ人物配置。違うのは献立だけ。早撮りのためにはいい方法ですが、それなら銭湯や田中の事務所でも同じアングルで撮ってルックを統一してもよかったんじゃないですかね?

限られたアングルだけで淡々と語られるほうが、物語の異常さ、怖さがより伝わったんじゃないでしょうか。

やはりカメラを動かしすぎなんですよ。


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2019年09月22日

遠藤憲一さんのスケジュールが空くまで1年も撮影を待ったという『それぞれの断崖』もついに最終回。しかしこれがあまりにあんまりな最終回で、見た直後は憤懣やるかたなしという感じでした。

第4話までの感想
「もったいない脚本構成」


私の結論は『エヴァンゲリオン』のようにやるべきだったんじゃないか、というものですが、その前にまず最終回のどこが残念だったか。


よけいなシーン
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八巻満が少年院を退院して主人公と再会したのが前回。主人公は彼の父親になる決意をしている。八巻満は当然反発する。そして今日の最終回。あとたった1時間でどう話を落としどころに落とし込んでいくのかと思ったら……

なぜか満の実の父親が死亡したという知らせがあり、満が父親をまったく知らないことが明らかになります。ミュージシャンを目指していたが最近は刑務所を出たり入ったりだったと。

なぜそんな情報が必要なんでしょうか? 主人公が彼の父親になろうとしているから、実の父親を知らないのは好都合ということ?

さらに「あのおじさんと生活するのはいやだ」という満は「母さんを自分だけのものにしたい」と包丁を振りかざし、階段から転落させて大怪我を負わせます。

満がマザコンという設定なんか邪魔なだけだし、しかも入院が必要な怪我を負わせるという展開がなぜ必要なのでしょうか。田中美佐子と田中美里を再会させたかったという気持ちはわかります。でも、主題は「被害者の父親が加害者の父親になれるか」ということでしょう? それとは何の関係もないシーンが続くので辟易しました。


時間がない!
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前回の記事に書いたように、息子が殺されるところから始めたために、全8話しかないのに被害者の父親と加害者の母親が恋に落ちる禁断の展開がちょうど真ん中の第4話で起こります。そこから離婚をし、犯人の父親になる決意をし、会社を辞め、再会し、反発を受け……これを残り半分でやるというのはいくら何でも無理があります。

遠藤憲一さんのスケジュールが空くまで1年も待ったなら、なぜシナリオの見直しをしなかったんでしょうか。2000年にドラマ化されたときは全10話で、主人公と犯人の母親が恋に落ちるのが第8話だったらしく、それよりはまだしもですが、やっぱり最初のほうの無駄な時間の使い方が気になりました。

そしてこの人たち。


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主人公が加害者の母親と不倫関係と知ったときはものすごい非難の嵐だったのに、前回と今回、最後のほうになればなるほど理解を示すのはなぜ? 主人公を甘やかしてはいけない。

結局、田中美里は「これからちゃんと生きていく」と言い、遠藤憲一さんも「俺も一からやり直す」と言います。これは別れ話なんですか? はっきりわからなかった。ただその直後の田中美里の「生きていくってつらいけど、捨てたもんじゃないですね」というセリフは白けました。セリフで言わせないで視聴者に感じさせないと。

オーラスは農作業をする遠藤憲一さんのもとに八巻満がやってくるというもので、彼がどういう気持ちで来たのか少しもわからない。父親として受け容れるということですか? それはあまりに安直というか取ってつけたような結末。

そう、「取ってつけたような結末」というのがキーワードですね。


『エヴァンゲリオン』
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最終回を見ていままで一番怒ったのは『新世紀エヴァンゲリオン』です。

「すべてのチルドレンにおめでとう」っていったい何だと。あれだけ大風呂敷を広げておいてどうやって畳むのかと思ったらめちゃくちゃ意味不明な結末。使徒とはいったい何者だったのか。エヴァンゲリオンも使徒だったのか。何の答えも示さず終わったので見終えた直後は激怒しました。

が……

時間がたつにつれて、あれはあれで正直なやり方だったのかな、と思うようになりました。いや、むしろ、取ってつけたような結末を見せられるよりもよっぽど作り手の正直な思いが出ている気さえしてどんどん好感をもつようになりました。

初見から10年以上たって再見したら「これしかない!」とまでは思えないけれど、やはり好感をもちました。怒るなんてとんでもない。いまでは大好きな結末です。

『それぞれの断崖』はまさに私が嫌った「取ってつけたような結末」ですよね。しかも、八巻満が主人公を受け容れたのかどうかはっきりさせないで視聴者の想像にまかせるという、誠意の感じられない結末でした。

私の脚本のお師匠さんは「解決不能の問題には絶対手を出すな」といつも言っていました。

「いじめや差別には手を出さないほうがいい。現実に解決の芽がない問題をフィクションの中だけで解決させても空々しく見えるだけだ」

『それぞれの断崖』は現実にありえない問題を設定しています。それ自体は悪くも何ともないですが、いみじくも最終回で刑事が「被害者の父親が加害者の父親になれるものなんでしょうか」
と言うように、1年間かけた大河ドラマでやったとしてもなかなか視聴者の納得を得るのが難しい問題です。それをたった8話でやる、しかも問題が発生するのが第4話のラスト。いくら何でも無理です。

『それぞれの断崖』の物語で『エヴァンゲリオン』のような「正直で誠意ある結末」というのがどんなものか、具体的にはまったく見えてきません。

ただ、どうすればいいか主人公もわからない、周りもわからない、作り手自身もわからない、もうどうしていいかわからない。そんな「私たちには少しもわからないんです」という思いを見せてくれたら、傑作になったかどうかはわかりませんが、記憶に残る作品になったと思うし、やる価値はあったと思います。




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