聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

サスペンス

『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(この新作は必要だったのか)

いまごろ見てるのかとか言われそうですが、ようやく見てきました。トム・クルーズの新作『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』。週刊文春の星取表で信頼する芝山幹郎さんが満点をつけていたので期待は高まるばかりでしたが……


Mission-Impossible-Fallout1

うーん、、、ちょっと私には退屈な映画でした。
そりゃ手に汗握ったシーンもありましたよ。芝山さんは「肉体と空間の共振が~」とアクションを絶賛しています。


Mission-Impossible-Fallout

そりゃこのシークエンスなんかは鳥肌ものでしたし、ビルの屋上を疾走してそのまま隣のビルに飛び移るのをカットを割らずに見せる場面など「映画の醍醐味とはこれよ!」と56歳とは思えないアクションを見せてくれましたが、それでも、クライマックスの「爆弾のタイムリミット」とか、それを解決する手段とか見せ方とか、あまりに独創性がなくて白けました。

それにジェレミー・レナーが出てこないのはなぜなんだろう、というか、ここからが本題です。

その前に、できればこちらの記事をお読みください。3年前の『ローグ・ネイション』を見たときに書いた記事です。


①私情で動くスパイたち
②ポーラ・ワグナーとの訣別
③最新作『ローグ・ネイション』でわかったトム・クルーズ真の狙い


私は上記の日記で「映画版『ミッション:インポッシブル』は、テレビ版『スパイ大作戦』に対する、20年の歳月をかけた壮大にして絶妙な批評だった」と結論しました。
自分たちを使い捨てにする組織を自分たちで再生する。それが『ローグ・ネイション』の物語の眼目であり、そこにこそトム・クルーズがこだわった「真にプロフェッショナルなスパイ」が描かれていると。

しかし、今度の『フォールアウト』では同じ悪役ソロモン・レーンが出てきて「国家はおまえたちを使い捨てにするだけだぞ」と言います。これについての答えはもう前作で出ているので、あまりに愚問ですね。ソロモン・レーンの言葉として矛盾はありませんが、前作までを見ている観客からすれば「いまごろ何を言ってるの?」ってなもんです。

『ローグ・ネイション』では、国家に使い捨てにされたことで復讐心を燃やすソロモン・レーンと、復讐など考えず粛々と組織の再生に力を合わせるトムたちの友情が描かれました。そのはざまで揺れ動く、ソロモン・レーンと同じ元MI6のスパイ、レベッカ・ファーガソン。
この構図は今回も変わりません。同じ設定、同じ悪役、主役たちにも変わりがなく、はざまで揺れ動く人物も同じ事情で揺れ動いている。これでは「いったい何のために巨額の製作費を注ぎ込んで映画を作ったのか」まったくわかりません。

やはり『ローグ・ネイション』で『ミッション:インポッシブル』はいったん終わったのです。新しい物語を語らなくてはならないはずなのに、アクションだけ盛大になって肝心要の物語は同工同曲というのでは、この3年間はいったい何だったんだろうと悲しくなります。

トム・クルーズもまだ元気とはいえ、次回作の頃には60歳近くですし、ここらで打ち止めにするのがいいんじゃないでしょうか。

奥さんミシェル・モナハンのかなり長い登場シーンもあったし、もういいのでは? もし次回作を作るとしたらトム・クルーズはもう60歳。いくら何でもあれ以上のアクションは無理でしょう。

嗚呼、こんなことなら『ローグ・ネイション』が完結編だったどんなによかったか。




許せない映画④『ゴーストドッグ』

①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』

に続く「許せない映画」シリーズ第4弾はジム・ジャームッシュ監督『ゴースト・ドッグ』。

繰り返しますが、「許せない映画」とは、面白い映画なのに面白さを上回る「残念さ」をもってしまった映画のことです。だからいくら許せないといっても『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな単につまらない映画はこの範疇には入りません。

では、ヘンリー・シルヴァやクリフ・ゴーマンの登場がやたらうれしい『ゴースト・ドッグ』の何がそんなに残念だったかというと……




『葉隠』の思想にはまってしまった殺し屋という設定はとてもいいですね。まぁ私が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という冒頭の一節にいまだにしびれまくっている、ということもあるのでしょうけど。

劇中、何度も『葉隠』の一節が出てきますが、それ自体はいいんですよ。そして静かに殺しを実行していくところもいいし、ライフルのスコープにアゲハチョウが止まって……という場面なんか詩情豊かじゃないですか。

許せないのは「主人公が『葉隠』の思想に殉じてしまうところ」です。


GhostDog

何だかんだの末に、忠義をもって使えてきた男を殺さねばならなくなる。しかし、忠義を重んじる『葉隠』はそのような行為を許していない。どこまでも主君に忠実たれと謳っている。

ということで、主人公は殺すのではなく殺されることを選ぶのですが、ここがもうとにかく許せない。

かつて自作脚本を長谷川和彦監督に読んでもらったとき、
「君はファーストシーンとラストシーンを思いついたときに『できた!』と思ってしまったんだな」
と指摘されてグウの音も出なかったことがあります。

『ゴースト・ドッグ』もまさにそれでしょう。
「葉隠の思想に心酔する殺し屋がその思想に殉じていく」という物語を思いついたとき、ジャームッシュはおそらく「できた!」と思ってしまったのだと推察します。

その思いつき自体は素晴らしいですが、いったん主人公が生き始めたら作者の思惑などどうでもよく、ただただその人物がどう動きたいか、あるいはどう動くのがふさわしいか、それだけで考えていかねばなりません。

主人公はいくら『葉隠』に書いていることがすべてだと最初は思っていたとしても、殺し屋として数々の仕事を遂行していくうちに「自分の哲学」を築いているはずなんですよね。だから『葉隠』の思想に心酔していた主人公が最後の最後で『葉隠』を脱却するところを見たかったのです。

なのに書物に書いてあることを絶対視して死んでいくなんて私にはただのアホにしか見えませんでした。別に『葉隠』を否定せよと言っているわけではありません。主人公の哲学は何かを見せてほしかった。もちろん映画なのだからアクション=行動としてその哲学を描写するということです。トリュフォーが「クライマックスとは意味のあるアクションでなければならない」と言ってましたよね。

そういえば長谷川和彦監督はこうも言っていました。

「君はたぶんシナリオとは物語のことだと思ってるんだろうが違うんだ。物語と哲学なんだよ」



『幸色のワンルーム』(SNS時代の連続ドラマ作りの難しさ)

製作元のABCテレビは普通に放送したのに、親分のテレビ朝日はビビッて放送を自粛してしまったという、いわくつきの『幸色のワンルーム』第1話を見てみました。

私は、放送の是非よりも、SNS全盛時代におけるドラマ作りの難しさを痛感しました。

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放送自粛の是非
冒頭はギョッとなりましたね。誘拐されたという14歳の少女が、誘拐犯が盗撮した自分の写真で埋め尽くされた部屋の壁を見て「こんなに私のことを好きになってくれる人なんだから」と言うので。

さすがにその時点では、「これはちょっとまずいというか、リアリティがなさすぎでは?」と思いましたが、物語が進行するうちに、少女は親からひどい虐待を受けており、学校でもいじめられ、自殺していたところを青年に助けられた。つまり、「誘拐」ではないんですね。力ずくで無理やり誘拐したのかと思っていたら「保護」しただけだった。

なるほど。それならわかる。

警察をはじめ「誘拐」と考えている世間と、「保護」されてついには逃げ切れたら「結婚」しようとなる当の二人との「ずれ」がこの作品の面白さなのだから、未成年を誘拐する話だから不適切だ、犯罪を助長するという言説は的外れというか過剰反応というか。

だったら、巷にあふれる殺人事件を題材にしたドラマや映画はどうなるんでしょうか。そもそも無理やり誘拐した末にストックホルム症候群に陥る映画に『完全なる飼育』がありますが、あれはいいんでしょうか。実話なんですが。


SNS全盛時代のドラマ作りの難しさ
私は前述のとおり放送の是非よりも、SNS全盛のこのご時世において、この手のドラマを作るときの難しさのほうが気になりました。

親に虐待を受けている。
学校でいじめを受けている。
(次回の予告編を見るかぎり)担任教師から猥褻行為を受けている。

ここまで周囲を悪人だらけにしないといけないのか、と。

いじめているクラスメイトは主人公が行方不明になってるのにそれを喜んでいるというのはリアリティに欠けると思いました。普通は怖がるんじゃないですか? 

逆に言うと、冒頭で「逃げ切れたら結婚しよう」と言わせないと読者や視聴者からのクレームがつく。だから極悪人に虐げられている主人公という設定が必要だったのかもしれません。だからポリティカリー・コレクトネスがドラマ作りを歪めてしまったということも言えるかもしれません。

『完全なる飼育』は普通に誘拐から始まって、無理やりレイプしたりという描写があったあと、徐々に恋愛関係に傾いていくわけですが、SNSでクレームが拡散する現代においては、そのような悠長なことはやってられないのかな、と思いました。

『万引き家族』と比較する文章を読みました。あの映画も世間的には「誘拐」、主人公たちにとっては「保護」を描いていましたが、なぜあれが上映自粛になったり観客からクレームがつかないかといえば、それは「劇場映画だから」ということに尽きるでしょう。
上映中にSNSで実況して悪評が拡散することもないし、それに何より2時間で終わりますから。終わるころには多くの観客が主人公たちに共感している。

でも『幸色のワンルーム』は「連続ドラマ」ですからね。誘拐(保護)から始まって徐々に少女と青年に共感するように仕向けることができない。それをやったらひどいバッシングを受けて打ち切りも覚悟せねばならない。だから冒頭で納得させるために周囲の人物をリアリティに欠けるほどの極悪人に設定しないといけない。

とても難しい問題です。できることなら、そういうことを恐れない作品が出てきてほしいとは思っていますが。


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