サスペンス

2019年09月22日

遠藤憲一さんのスケジュールが空くまで1年も撮影を待ったという『それぞれの断崖』もついに最終回。しかしこれがあまりにあんまりな最終回で、見た直後は憤懣やるかたなしという感じでした。

第4話までの感想
「もったいない脚本構成」


私の結論は『エヴァンゲリオン』のようにやるべきだったんじゃないか、というものですが、その前にまず最終回のどこが残念だったか。


よけいなシーン
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八巻満が少年院を退院して主人公と再会したのが前回。主人公は彼の父親になる決意をしている。八巻満は当然反発する。そして今日の最終回。あとたった1時間でどう話を落としどころに落とし込んでいくのかと思ったら……

なぜか満の実の父親が死亡したという知らせがあり、満が父親をまったく知らないことが明らかになります。ミュージシャンを目指していたが最近は刑務所を出たり入ったりだったと。

なぜそんな情報が必要なんでしょうか? 主人公が彼の父親になろうとしているから、実の父親を知らないのは好都合ということ?

さらに「あのおじさんと生活するのはいやだ」という満は「母さんを自分だけのものにしたい」と包丁を振りかざし、階段から転落させて大怪我を負わせます。

満がマザコンという設定なんか邪魔なだけだし、しかも入院が必要な怪我を負わせるという展開がなぜ必要なのでしょうか。田中美佐子と田中美里を再会させたかったという気持ちはわかります。でも、主題は「被害者の父親が加害者の父親になれるか」ということでしょう? それとは何の関係もないシーンが続くので辟易しました。


時間がない!
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前回の記事に書いたように、息子が殺されるところから始めたために、全8話しかないのに被害者の父親と加害者の母親が恋に落ちる禁断の展開がちょうど真ん中の第4話で起こります。そこから離婚をし、犯人の父親になる決意をし、会社を辞め、再会し、反発を受け……これを残り半分でやるというのはいくら何でも無理があります。

遠藤憲一さんのスケジュールが空くまで1年も待ったなら、なぜシナリオの見直しをしなかったんでしょうか。2000年にドラマ化されたときは全10話で、主人公と犯人の母親が恋に落ちるのが第8話だったらしく、それよりはまだしもですが、やっぱり最初のほうの無駄な時間の使い方が気になりました。

そしてこの人たち。


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主人公が加害者の母親と不倫関係と知ったときはものすごい非難の嵐だったのに、前回と今回、最後のほうになればなるほど理解を示すのはなぜ? 主人公を甘やかしてはいけない。

結局、田中美里は「これからちゃんと生きていく」と言い、遠藤憲一さんも「俺も一からやり直す」と言います。これは別れ話なんですか? はっきりわからなかった。ただその直後の田中美里の「生きていくってつらいけど、捨てたもんじゃないですね」というセリフは白けました。セリフで言わせないで視聴者に感じさせないと。

オーラスは農作業をする遠藤憲一さんのもとに八巻満がやってくるというもので、彼がどういう気持ちで来たのか少しもわからない。父親として受け容れるということですか? それはあまりに安直というか取ってつけたような結末。

そう、「取ってつけたような結末」というのがキーワードですね。


『エヴァンゲリオン』
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最終回を見ていままで一番怒ったのは『新世紀エヴァンゲリオン』です。

「すべてのチルドレンにおめでとう」っていったい何だと。あれだけ大風呂敷を広げておいてどうやって畳むのかと思ったらめちゃくちゃ意味不明な結末。使徒とはいったい何者だったのか。エヴァンゲリオンも使徒だったのか。何の答えも示さず終わったので見終えた直後は激怒しました。

が……

時間がたつにつれて、あれはあれで正直なやり方だったのかな、と思うようになりました。いや、むしろ、取ってつけたような結末を見せられるよりもよっぽど作り手の正直な思いが出ている気さえしてどんどん好感をもつようになりました。

初見から10年以上たって再見したら「これしかない!」とまでは思えないけれど、やはり好感をもちました。怒るなんてとんでもない。いまでは大好きな結末です。

『それぞれの断崖』はまさに私が嫌った「取ってつけたような結末」ですよね。しかも、八巻満が主人公を受け容れたのかどうかはっきりさせないで視聴者の想像にまかせるという、誠意の感じられない結末でした。

私の脚本のお師匠さんは「解決不能の問題には絶対手を出すな」といつも言っていました。

「いじめや差別には手を出さないほうがいい。現実に解決の芽がない問題をフィクションの中だけで解決させても空々しく見えるだけだ」

『それぞれの断崖』は現実にありえない問題を設定しています。それ自体は悪くも何ともないですが、いみじくも最終回で刑事が「被害者の父親が加害者の父親になれるものなんでしょうか」
と言うように、1年間かけた大河ドラマでやったとしてもなかなか視聴者の納得を得るのが難しい問題です。それをたった8話でやる、しかも問題が発生するのが第4話のラスト。いくら何でも無理です。

『それぞれの断崖』の物語で『エヴァンゲリオン』のような「正直で誠意ある結末」というのがどんなものか、具体的にはまったく見えてきません。

ただ、どうすればいいか主人公もわからない、周りもわからない、作り手自身もわからない、もうどうしていいかわからない。そんな「私たちには少しもわからないんです」という思いを見せてくれたら、傑作になったかどうかはわかりませんが、記憶に残る作品になったと思うし、やる価値はあったと思います。




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2019年09月15日

1996年に製作されてから今日まで新たなファンを獲得し続ける、鬼才デビッド・クローネンバーグ監督による変態映画の決定版『クラッシュ』。めちゃんこ久しぶりに再見して、またぞろ悶絶してしまいました。


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変態じゃない奴が変態である!
私はかねてから「変態じゃない奴が変態である」と唱えています。どういうことかというと、昔懐かしい岸田理論(『ものぐさ精神分析』)によると「人間は本能が壊れた動物」だから、人間の本性は変態だということ。変態こそ人間の真の姿であって「俺は/私は変態じゃない」とのたまう奴こそが真の変態だという逆説。

実は、かつてこの映画を(まだVHSの頃)親父と一緒に見たことがあって、「あー、少しも理解できない。この変態どもはいったいなんだ⁉」と言っていて、そうなんですよ、あなたみたいな人が本当の変態なんですよ、と声に出さずに言ったものです。

私のあばら骨のあたりはかなり皮膚が固くなって色が変わってるんですが、それは、そのあたりを爪でひっかくと肘にピピピと電気が走って得も言われぬ快感があるからなんです。ひっかきすぎて皮膚が固くなってしまったんですね。


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そのピピピという電気はやや痛みに近いものなので、この映画の痛みに快感を覚えるというのはわかる気がするんです。いや、わからない奴こそが変態なのだ!

「そこだけ何で色変わってるんですか? え、マジで⁉ ウッソー! 信じられない。いったいどこまで変態なんですか!」

などと懇切丁寧に説明した挙げ句、嫌がられます。そういう人間にかぎって「自分は変態じゃない」ときっぱり言えるらしい。そういう人間にこの『クラッシュ』の目くるめく陶酔は永久にわからない。

だからこそ私は主張してるんですよ。「変態じゃない奴こそが変態なんだ」と。

変態人間を差別する真の変態人間も嫌いだし、変態映画を毛嫌いする人間も嫌い。そういう人間たちとの闘争が私の人生そのものと言っても過言じゃない。

しかし、事態はそう単純でもないのです。


同じ変態を描いても……
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この『クラッシュ』はピーター・サシツキーの光と影を巧みに捉えた美しい映像も相俟って「芸術映画」という括りをされています。しかもジェームズ・スペイダー(まだこの頃はイケメンですね)、デボラ・カーラ・アンガー、ロザンナ・アークエット、イライアス・コーティーズなどの一癖も二癖もある役者に真面目で思わせぶりな芝居をさせているので、何だかものすごい高尚な映画の衣をまとっています。変態性欲を真面目に描くとその筋からは「芸術」というお墨つきを得られる。

だから『クラッシュ』はまだいいほうなんです。

例えば、連続殺人鬼を描いた映画なら『サイコ』とか『ヘンリー』とかは「これぞ映画芸術の粋だ!」みたいな言われ方をするのに、同じ連続殺人鬼でもジョン・ウォーターズ老師の『シリアル・ママ』みたいにコメディにしちゃうと途端に総スカンを食らっちゃう。

あの映画、私は最初から最後まで笑いどおしだったので4回も見に行ってしまいました。で、母親からオススメ映画を教えてくれと言われたので薦めたんですよ。そしたら帰ってきた母親は「あんなのをどうして薦めるの!」とものすごいお冠。「万人向けだと思ったんだけど」「あんたみたいな若者にはいいんでしょうけど、私らみたいな50代のオバサンには理解できない」と。

私は「歳の問題ではない」と思った。実際、つい最近60代の人に薦めたけど面白がってましたもん。

結局は「変態じゃない奴が変態である」というまっとうな人間精神をもった人間なら楽しめるんですよ。いくら若くても「自分は変態じゃない」と凝り固まってる人間には永久にわからない。


一番難しい人たち
しかし世の中には『クラッシュ』も『シリアル・ママ』も楽しめるけど「自分だけは変態じゃない」と豪語する輩もいて、うーん、そういう人間が一番難しいんですよね。フィクションの変態は認めるけどリアルな変態は認めない、みたいな。

変態映画をともに楽しんで「同志」だとばかり思っていたら「自分だけは変態じゃない」と言い出す。

あれよりひどい裏切り行為はこの世にない。


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『スキャナーズ』(顔と芝居に賭けたクローネンバーグ)







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2019年08月25日

遠藤憲一さんの主演最新作『それぞれの断崖』。昨日で全8話のうちの4話、ちょうど半分の折り返し地点だったわけですが、ちょいと違和感を覚えました。(以下ネタバレあります)


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何と、主人公が加害者の母親と恋に落ちてしまう! そのような物語とは少しも知らなかった私は仰天しました。原作は結構有名らしく、2000年にもドラマ化されてるそうなので視聴者の中では知ってる人のほうが多いんでしょうか。シナリオは洞澤美恵子という方。


もったいない構成
しかしながら、この展開であるなら、息子が殺されるとか、犯人は少年法で守られるとか、そういうのはメインプロットの前段でしかないわけで、ちょうど真ん中のいわゆるミッドポイントに二人が恋に落ちる場面をもってくるのはもったいないと思いました。

だって、殺人犯が少年法で守られて被害者遺族は少しも守られないどころかマスコミと世間の好奇の目に晒され、娘の縁談は破談になり、父親は窓際に追いやられる、というのは、犯人が14歳未満の人間なら通常こうなるという展開ですよね。人権派を気取る弁護士などもありきたりな感じ。2000年の時点でもやや古かったような気がしないでもないですが、酒鬼薔薇事件から22年もたった今日、少年犯罪が起こればドラマと同じく「なぜ加害者の少年は守られるのか」「なぜ被害者が苦しまねばならないのか」という展開になるのは必至でしょう。でも、だからといってそれをそのまま見せるのは私は違うような気がする。

遠藤憲一さんの大ファンで尊敬しているので前回までの決まりきった展開を乗り切れましたが「何だ、ありきたいな少年犯罪モノじゃないか」と思って見るのをやめてしまった視聴者も少なからず存在するはずです。少なくとも私は主演が遠藤憲一さんじゃなかったら見るのをやめていました。


恋に落ちたところから始める
近代劇の祖、イプセンは、それまでの芝居の第5幕から始めたと言われています。充分ドラマが煮えたぎったところから始めて、第4幕までの情報を第5幕の中にぶち込むわけです。

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私はこの二人が恋に落ちたところから始めたらよかったんじゃないかと思います。妻や娘はいったい何を考えているのかと激昂する(来週がこの展開ですね)、視聴者は最初なぜ責められるのかわからない。そのうち、息子が殺された、加害者は少年、その少年の母親と恋に落ちているという情報が明らかになる。えー、ウッソー! というふうに引っ張っていけば、ありきたりな少年犯罪モノにならず、同時に被害者遺族と加害者家族の恋愛というメインプロットも面白く見れたように思います。

ただ、これはあくまでも途中までしか見てない人間の感じたことで、もしかすると、結末まで見たらこの構成で納得するのかもしれません。ただ、前回までに失われた視聴者がもったいない。

とはいえ、仮にこの構成でいいとしても、ちょっとだけ昨日の肉体関係まで行く展開は唐突だったかな、とは思いましたね。

左遷された、妻は実家へ帰った、友人が自殺した、いろいろあったうえで、加害者の母親も自分と同じようにのたうち回って苦しんでいる、だから……というのは理屈ではわからなくはないんですが、腹に落ちてこないんです。

次回は妻や娘からものすごい攻撃を受けるようで、攻めの芝居も受けの芝居もうますぎる遠藤憲一さん、楽しみです。





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