サスペンス

2020年03月25日

いまだにこの映画がカンヌでもオスカーでも『パラサイト』に負けたというのが信じられない2019年フランス映画『レ・ミゼラブル』。(以下ネタバレあります)


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つい先日、ブライアン・デ・パルマの8年ぶりの新作『ドミノ 復讐の咆哮』というのを見ましたけど、この『レ・ミゼラブル』のほうがよっぽど「ドミノ」だと感じたのは私だけではないでしょう。

お話の転がし方にも工夫がありますが、私はやはりラジ・リという監督さんの演出力に驚嘆しました。

これは何度も言っていることですが、京都の専門学校に行っていた頃、監督を目指す友人たちは「どう撮るか」ばかり考えていました。

カメラをどう動かすか。
どうつなぐか。
光をどこに当ててどこに当てないか。

などなど。

それも大事でしょうが、役者への演技指導が監督の一番の仕事じゃないの? というのが私のスタンスでした。


荒井晴彦さんの誤解
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脚本家の荒井晴彦さんがよく映画芸術誌上で言っています。「どう撮るか」は監督の仕事だが「何を撮るか」は脚本家の仕事だ、と。

本当にそうでしょうか?

脚本を書いていた者の感覚からすると、脚本にだって「どう」はあると思うんですよね。この題材を映画にする場合、どういう切り口で語るべきか、というのは「どう」の範疇でしょ?

逆に、できあがった脚本に「何を撮るか」はふんだんに盛り込まれているとはいえ、やはり実際の現場に行って実際の役者がそれぞれの役を演じるとなると、そこには「何を見せるか」という問題が出てきます。

つまり演技指導です。脚本には小説と違って必要最小限のことしか書かれてないから同じセリフでもどう抑揚をつけるかとか、喋りながら動くのか、あるいは、立ち止まって喋るのか。脚本にもある程度動きが書かれているとはいえ、そこは役者の生理や全体のバランスを考えて変えていかねばなりません。

セットや衣裳のデザインや光の塩梅なども「何を」のうちに入るのでしょうけど、一番はやはり「役者」ですよね。役者が「何」を担当する。その「何」を演出するのは監督の役目です。

脚本家も「何を撮るか」を書くけれど、監督も現場で「何を撮るか」を形作る。

荒井さんは監督もやってるのになぜそんな大きな誤解をしているのだろうと不思議です。


『レ・ミゼラブル』
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『レ・ミゼラブル』では役者が輝きまくっていました。

私の中の「映画史上最高の演技」は『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマンなんですけど、あれに勝るとも劣らない「まるで目の前に実際に存在しているかのような」芝居が繰り広げらていました。

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子どもたちへの演出はもっとよい。この子どもたちはこの映画でかなり重要な役柄を背負っていますけど、物語上重要だからというより、やはり現場での演技指導が卓越していたから印象に残るのでしょう。彼らもジーン・ハックマン並みの芝居を見せてくれます。ラストシーンのあの表情!

とはいえ、ラストははっきりあの火炎瓶を投げて大炎上し、警官が子どもを撃ち殺して……というカタストロフをちゃんと見せ切ってほしかったという思いもあります。あそこで幕というのはちょっと手抜きな気がしないでもない。

カメラも最近の映画特有の手持ちカメラが多く、最初はぐらぐら揺れるカメラに「またか」と辟易しましたが、映画があまりに充実しているので気にならなくなりました。

ただ、ここは手持ち、ここはフィックスという分け方に意味がなかったような……? 「何」を担当する役者があれだけ魅力的なら全編手持ちカメラで撮ってもよかったように思います。(個人的には全編フィックスのほうがいいけど)

とにかく、今年見た映画の中では、臨場感という点では『1917』より素晴らしく、映画全体としても『フォードvsフェラーリ』より上を行くとんでもないものを見たという感じです。

いまはお腹いっぱいで他の映画を見る気になれません。時間と財布が許してくれたらもう一度見に行きたいくらい。


演技指導論草案 (青空文庫POD(大活字版))
伊丹万作
青空文庫POD[NextPublishing]
2014-10-31





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2020年03月21日

星川清司脚本、増村保造監督の名作『陸軍中野学校』を再見しました。(以下ネタバレあります)



やはり素晴らしいですね。まったく色褪せない。

しかしながら何となく変なのはこの映画、戦争を題材にしているうえに、主人公が自分の恋人がスパイと知って殺すという哀しい運命を描いているにもかかわらず、少しも「反戦」というメッセージがないことですね。

脚本家も監督も、主人公たちスパイとして養成された者たちに一片の同情も感じていません。かわいそうだとか「もし自分だったら…」などという感傷とはまったく無縁なんですよね。そこが素晴らしい。


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中野学校創設者を演じる加東大介は、陸軍から「これは」と目をつけた男たちを一堂に集めて、これからは本名も捨ててもらう、スパイとして国に尽くしてもらう、と半ば強制的にスパイとして養成されることを受け容れさせます。

そして、養成の過程で神経衰弱になった男が自殺します。市川雷蔵はじめ他の者すべてが「俺もスパイなんて嫌だ」と言い出す。ここで加東大介がスパイとして国に尽くすことの意義を説き、全員が前言撤回して「俺はやります」と口々に言うんですが、冷静に考えると、このシーン、とても変です。加東大介の説得がうまいからといって、えらくみんな簡単に気持ちを覆しすぎじゃないかと。

この次のトピックは、女に溺れて盗みを犯した者(女体に関する授業があるというのが面白い)を生徒全員で恫喝まがいの説得をして腹を切らせる場面。ここも、本気でスパイになろうとしているからといって、あまりに仲間を殺すことにためらいがなさすぎる。

そう、ためらいがないんですよ。この映画では登場人物が大きな決断をする場面が多々あるにもかかわらず、ためらったり言いよどんだりすることがまったくない。ほとんどないんじゃなくてまったくありません。心の中では様々な葛藤があるんでしょうが、映画の作り手たちはそんなものには少しも興味がないようです。


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最後、婚約者が英国のスパイだと知った主人公が彼女を毒殺するんですが、ここでの市川雷蔵もあまりにためらいがない。加東大介に「おまえが殺せ」と言われても悩むということがない。

淡々と会話をし、淡々と酒に毒を盛り、淡々と飲ませ、淡々と遺書を偽造し、何事もなかったかのように去っていく。

「スパイとして養成された男が、恋人が他国のスパイと知って殺す物語」において、そこに潜む複雑な感情を捨象しすぎじゃないか、と思うのですが、これはおそらく、そういう愁嘆場の多い日本映画が嫌いだった増村保造監督の要請だったのでしょうね。主人公が泣きながら恋人を殺すような映画にだけはしたくない、という。

この映画は異様なまでにハードボイルドです。ヘミングウェイやハメットがペンで映画を書いたらこういう湿り気のない乾いた映画になるんじゃないかと思われるぐらい、どこまでも感傷を排した、それゆえに異様なまでに物事が淡々と進む映画になっています。

だから、主人公がひどいとも、そういう運命を与えた戦争に対して怒りを感じる、ということもありません。中野学校に批判的だった参謀本部の待田京介が女に機密を漏らしていたことを理由に最前線で死んでこいと命令されても、見てるこちらは快哉を叫ぶことがない。ただ粛々と命令を受け容れる待田京介の姿を呆然と見るほかありません。

ただ素朴に「行動」だけを描く。これがこの映画の哲学です。

これは真似しようと思っても簡単にできるものではありません。
人間と時代を見つめる冷静すぎる目(いや、冷酷な目と言っていいかもしれない)が作り手に備わっていなければ絶対に作れない傑作だと思いました。


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陸軍中野学校
市川雷蔵
2015-09-21





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2019年11月11日

2019年の『カメ止め!』と言われるほどの話題作と聞いた『メランコリック』を見てきました。(以下ネタバレあります)

「殺しの場としてやくざに貸し出しされている銭湯」という設定がやたら面白そうでしたが、うーん、『カメ止め!』が面白いという人の感覚はわからなくはないけど、この映画の面白さは少しもわかりませんでした。設定を活かしきれていないというか。


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カメラマンは何をしていたのか
いまや手持ちカメラばかりでグラグラゆれてばかりという映画はとても多いので、ちゃんと三脚立てろよ! と思うことはあっても驚くことはなくなりました。

しかし、この『メランコリック』のカメラには驚きました。いくら手持ちでもゆれすぎ。

ゆれるうえに、意図的に動かすところでも動かしすぎ。例えば銭湯の店長がやくざの田中の事務所でオムライスを食べる場面。店長の顔や手の動きに合わせてパンダウンしてまたパンアップするんですが、あんなせわしない見せ方をするくらいなら、最初から引いた画にしてフィックスで撮ればいいだけでは? 

この監督やカメラマンはカメラを動かさないと安心できないんでしょうか。ピン送りのショットでもピントがぼけたり、何であんなのにOK出してるんだろう。ありえない。以前、うちの父親が写真スクールに通っていましたが、いくらいい素材、いいアングル、いい光具合で撮っても、ピントが合ってなければその時点でアウトだそうです。映像にとってピントを合わせることは大前提中の大前提。金をとって見せる作品でピントが合ってないなんて話にならない。金返せと言いたい。


彼女の使い方
・「東大卒」という設定がなぜ必要なのかわからない。
・いきなり殺人現場を目撃して大ピンチの主人公を店長は「殺すな」といって掃除を手伝ってもらうことにするが、雇ったばかりの人間をなぜ信用できるのか。
・いくら破格の報酬をもらったとはいえ、死体を燃やしたり、生々しい血を洗い流したりしたあとで安眠できる主人公に共感できるわけがない。
・警察に行こうかどうしようか悩む場面がまったくないので、ただの「変な人」になってしまっているのではないか。
・殺しの仕事をしてきた松本君が、ぜんぜんそんなふうに見えない。逆にそれが「リアル」ということ? しかし殺しの仕事をしている人間を知ってる観客なんかいないんだし、そんなところにリアリティを求められてもこちらには伝わらない。

などなど、いろいろとわからないことやつまらないことがあるんですが、私は「彼女の使い方」が一番の疑問でした。

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主人公を銭湯のバイトに誘って、殺しの現場として貸し出されていると主人公が知ってからはまったく風呂に入りに来ないから、この女の子は実は店長とグルなのか、もしや田中ともグルなのかと思いましたが、ぜんぜんそんなことはなし。

それなら、彼女が銭湯に来るが「ここの風呂に入っちゃダメ」と主人公が止める。理由を聞いても答えられない。それで彼女もこっそり探って殺しの現場を目撃してしまい、小寺君か松本君に殺される、という展開はどうでしょうか。

主人公は、彼女が自分のせいで死んでしまった、だから田中を殺す! というふうに、松本君に誘われて殺しに行くんじゃなくて、逆に自分から松本君を巻き込んだほうがよっぽどドラマが高まったんじゃないかと思いました。

最後に、彼女が頻繁に銭湯に来ていたのは水、電気、風呂のいずれかが止められていたから、と言いますが、ということは、主人公がやばい仕事に手を染めてからは滞納してなかったから来てなかったってことですよね。でもそれは完全に「作者の都合」です。


やっぱりカメラが……
実家の場面は全部食事シーンで同じアングル、同じ人物配置。違うのは献立だけ。早撮りのためにはいい方法ですが、それなら銭湯や田中の事務所でも同じアングルで撮ってルックを統一してもよかったんじゃないですかね?

限られたアングルだけで淡々と語られるほうが、物語の異常さ、怖さがより伝わったんじゃないでしょうか。

やはりカメラを動かしすぎなんですよ。


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