聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

サスペンス

黒澤明『天国と地獄』の疑問点

久しぶりに黒澤明監督『天国と地獄』を見ました。



最初がVHS、次が劇場、次がテレビで今回もテレビ。この映画については面白かったりそうでもなかったり、そのときによって見方がえらく変わるんですが、今回初めて感じた疑問点を記します。


「持つ者」と「持たざる者」
この映画の肝は、黒澤自身が言っていたように、

「脅迫対象者の子どもでなく、別の子どもを誘拐したとしても脅迫は成立する」

ということでしょう。そこから次の本当の肝が出てきます。

「三船敏郎演じる権藤常務は、いま使わなければ意味のない大金を身代金として支払ってしまい、会社を追放される」

最終的に身代金はほぼ全額返ってきますが、時すでに遅し。権藤は会社を追放され、邸宅は競売にかけられることが決定しています。

誘拐して脅迫するのは医学生の山崎努ですが、彼は夏は暑くて眠れない、冬は寒くて眠れないところに住み、丘の上の冷暖房完備の豪邸を見て憎しみを募らせて犯行に及んだと最後に明かされます。つまりこれは「持つ者」と「持たざる者」との葛藤劇なんですよね。

なのに、その持つ者が他人の子どものために身代金を払うような情に厚い人間に設定していいのだろうか、という疑問が湧きます。

tengokutojigoku2

三船は最初は「身代金は絶対払わない」と断言しますよね。出資者から募った5千万で頑固者の社長やろくでもない靴を作って儲ければそれでいいと考える最低な重役たちから会社を守らなくてはならない。町工場の東野英治郎の言葉にあるように、三船は厳しいけれど一生懸命働く従業員のことをちゃんと見る目をもった人間で、株の買い占めをひそかに進めていたマキャベリスト的な側面もあるけれども、基本的に頑丈な靴とファッショナブルな靴は両立しうると考えるロマンチストであり、それを実行する力も技術もある。

三船はとてもいい人なのです。だから結局、情にほだされて身代金を払ってしまう。重役たちみたいに悪い奴じゃないし、三橋達也のように常にどちらにつくほうが得かを考える卑劣な性格でもない。一本気すぎるから敵が多いだけ。

だから、持たざる者・山崎努はなぜ三船の子どもを狙ったのか少しもわからない。運転手の子どもを誘拐してしまったとわかっても「権藤さん、あんたは払うよ」と自信満々に言う。ということは三船が基本的にいい人であることを調査済みなわけですよね。重役連中だって同じぐらいの金はもっているわけだし、連中の誰かを狙ったほうがよかったのでは?

ただ、卑劣な重役たちがもし「運転手の子どもだから」という理由で身代金の支払いを拒否したら誰も被害者に感情移入しなくなります。だから脅迫された側が誰であろうと身代金を払うのは致し方ない。でもそうなると持つ者と持たざる者の葛藤劇というテーマが薄まってしまう。

だから、運転手の子どもを間違って誘拐してしまうという原作にもある基本アイデアが誤りなんじゃないかと思うんです。自分の子どもであれば他の重役たちでも身代金は払うでしょう。自分かわいさだけの被害者と、そういう金持ちを憎む貧乏人という設定のほうがよかったように思います。エド・マクベインの「間違った子供を誘拐しても脅迫は成立する」という斬新なアイデアにこだわりすぎたんじゃないでしょうか。


後半はすべてオフにすべきではなかったか
tengokutojigoku3

今回この映画を見ていて一番痛烈に感じたのは、刑事たちが大活躍する後半をまるまるカットすべきじゃないか、ということです。刑事たちと犯人の駆け引き合戦は見応えがありますが、持つ者と持たざる者との葛藤劇というメインテーマと何の関係もないですよね。


tengokutojigoku1

しかもですよ、山崎努は共犯者の麻薬中毒者を殺したり、警察の罠にはまってまた別の中毒者を殺しますが、彼はドヤ街の中毒者たちからすれば「持つ者」ですよね。持たざる者として持つ者へ天誅を下そうとした人間が自ら持つ者として持たざる者を殺害する。それはないでしょう。いったいこの映画のテーマは何なのでしょうか。

だから刑事の活躍はすべてオフにする。だって彼らは二人のドラマに何の関係もないから。

そんなことより、三船が山崎努と同じように丘の下から自分の家を見上げる場面が必要だったのではないか。

自分が金持ちだから狙われた。しかし悪いことをやって稼いできたわけではない。と激昂するも、丘の下から自分の豪邸を見上げてみると、確かに醜悪な気がしないでもない。だからといって人の子どもを誘拐していいわけではない。とはいえ、自分も幼い頃は貧しかった。貧乏人の気持ちはわかる。しかし……というふうに三船のゆれる心情を丁寧に追っていったほうがよかったように思います。

そのうえでラストの山崎努の絶叫に言葉を失う三船の背中を見せられたら本当の感動があったと思うのです。


『ゼイリブ』(アメリカ映画を告発するアメリカ映画)

まだまだ来年のことらしいですが、神戸は元町映画館でジョン・カーペンターの名作『ゼイリブ』が上映されると知り、矢も楯もたまらず見てしまいました。




あまりに映画的なアイデア
「宇宙人の正体が見えるサングラス」というのは実に映画的なアイデアですよね。だって、おのずとこうなりますから。↓


theylive3 (1)
theylive4

「見る者」と「見られる者」をカットバックする。いわゆる切り返しショットが多用されることになります。そして、この「見る/見られる」が「撃つ/撃たれる」に変奏されます。


theylive2 (1)
お見事ですね。ジョン・カーペンターはただこういうことがやりたいだけでこの映画を作ったのだろうかと最初は思ったほどです。しかしながらこの『ゼイリブ』は実に風刺に富んだ告発をやってのけた映画だと思います。

告発といっても劇中で描かれる大量消費社会とか、格差の拡大とかそういうことではありません。いや、それもあるんですけど、それはたぶん口実で、カーペンターは同じアメリカの映画人を告発していると思うのです。


異様に長い殴り合い
theylive1
この二人がこうなるまでに、6分もの殴り合いが行われます。「サングラスをかけろ」「かけない」という争いに6分も。全体が正味90分ほどなのに。なぜか。

おそらく「釣り合い」を取ろうとしたのでしょう。
最初に主人公がサングラスをかけるのって単なるご都合主義ですよね。何か金目のものかと思ったらただのサングラスでごみ箱に捨ててしまう。でも手にひとつだけ残ったサングラスを何の必要もないのにかける。あそこはサングラスをかけないと話が始まらないからあれでいいんですが、キース・デビッドが「かけろ」と言われてその通りにするようではあまりに都合がよすぎるし、何より「服従しろ」「何も考えるな」という宇宙人の洗脳にキース・デビッドまで毒されていることになってしまい、それこそ都合が悪い。そこであそこまで執拗な殴り合いが必要だったのだと思われます。

ただ、ここで大事なのは、それまでキース・デビッドは主役ロディ・パイパーにドヤ街を教えてやったり世話を焼く。でも完全に信頼関係になってるわけではないですよね。キース・デビッドは最初から大量消費社会やエリートばかりが優遇される社会に疑問を投げかけていますが、ロディ・パイパーは「もっと気楽に生きようや」というまさに宇宙人に洗脳された地球人の代表でした。

だからこの二人は、「地球人⇔宇宙人」という対立関係と同じく、切り返しの構図で捉えられます。2ショットもあるけど切り返しもある。特に「サングラスをかけろ」「かけない」のところはこれでもかといわんばかりのカットバックです。

それが長い殴り合いを経てロディ・パイパーの真意をキース・デビッドが理解したとき(↑画像のカット)からラストまで、この二人は一度も切り返しで捉えられることがありません。


ホリーという女
その殴り合いの前に、ロディ・パイパーはテレビ局勤めのホリーという女と出逢います。銃で脅して彼女の家まで行き、宇宙人の謀略を説きますが、当然彼女は信じません。それどころか一瞬のすきをついて彼を殴り、家の外へ突き落とします。

theylive5 (1)
最初はこのように2ショットで捉えられていた二人が、ロディ・パイパーが宇宙人がどうのこうのと言い出すところから切り返しになります。すべてを知った者と何も知らない者との対立の構図。

かと思いきや、宇宙人の侵略から地球を守るゲリラ組織にホリーがやってきて、テレビ局は何も心配ないから安心してと言います。何だ仲間だったのか、とロディ・パイパーは歩み寄り、「あたし、あたし……」と言葉を選んでいるホリーが「見る/見られる」としてカットバックされます。

キース・デビッドとは仲間になったら見つめあう場面も2ショットなのに、男と女は気持ちが通い合ってもカットバックなの? それって演出意図が一貫してないのでは?

と思っていると……


最後のカットバック
実は、地球人の中にすでに裏切り者がおり、ドヤ街で知り合った男ギルバードもそうだし、ホリーもそうだった。ギルバートは言います。

「寄らば大樹の陰っていうじゃないか。楽して大金が入るほうがいいだろ?」

まさに冒頭の主人公と同じです。「考えるな」という宇宙人の洗脳が見事に成功しています。ホリーも同じように洗脳されている。

theylive6
それが判明した瞬間、再び男と女は切り返しで捉えられ、カットバックによって「見る/見られる」の関係だった二人がまたしても「撃つ/撃たれる」の関係に変奏されて映画は幕を閉じます。

つまり、この『ゼイリブ』では、宇宙人の正体が見えるサングラスというアイデアを手掛かりに、対立する者同士を徹頭徹尾カットバックで見せるという演出手法が貫かれているわけです。


結局、カーペンターは何を言いたかったのか
ここからは私の推測です。何しろ画面に映ってないことばかりですから。

観客は上記のような映画監督の演出意図なんてまるで気にせずに見ますよね。

でも、だからといって何も考えずに撮っちゃっていいの? という同じ業界人に向けた異議申し立てなんじゃないか。

70年代の半ばからアメリカ映画は少しずつ魅力をなくしていきます。古典的ハリウッド映画の作法などまるでなかったかのような雑な作りの映画が横行する。カーペンターはそれに我慢ならななかったのでしょう。古典的ハリウッド映画に通暁した映画インテリですから。

人々が何も考えずに享楽をむさぼる時代を撃つように見せかけて、カーペンターはハリウッドを告発したのだと思います。いくら観客が気づかなくてもちゃんと演出意図をもって撮れ。もっと考えろ。適当に撮った映画で大儲けして恥ずかしくないのか。

『ゼイリブ』を発表した80年代末以降、90年代まではコンスタントに作品を発表していたカーペンターも、21世紀に入るとほとんど映画を作れていません。カーペンターのように真摯に映画を向き合い、自分の頭でちゃんと考えて撮る映画監督が生きにくい時代なのでしょう。

ジョン・カーペンターをハリウッドから排斥した連中、彼らこそゼイリブのTHEYなのだと思います。



いじめやDVで作劇する際に重要なこと(『dele/ディーリー』第6話をめぐって)

ある高名な脚本家が、

「いじめとかDVとか、そういうのなしで話を作ることは無理なのかな?」

と言っていました。

なぜダメなんですかと訊いたら、

「だっていまはそういういやなニュースであふれてるじゃないか。三面記事に載るようなネタをわざわざ映画で見たいとは思わない」

私はこの答えは嘘だったと思います。あの人が自分の好みで「そんな作劇の仕方はダメだ」なんて言うはずがない。答えは自分で考えろ、というメッセージに違いないと。

私のいまのところの結論は「善と善の対立にならない」というものです。

いじめやDVという一方的な暴力は「悪」というものを設定しやすい。設定しやすいけれども、簡単に対立構造を作れるので「善と悪」の対立だけで終わってしまう。その高名な脚本家は常に「善と善」の対立にしなさいと言っていましたから。

現在、絶賛放映中の『dele/ディーリー』でも神回と言われる第3話や先週の第5話などはちゃんと「善と善」の対立になっていましたよね。どちらが一方的に悪いわけではないし、どちらの言い分も理解できる。(ここで言う「善」「悪」というのは「善人」「悪人」という意味ではありません。その人の言い分に納得できるかどうか。『太陽を盗んだ男』で言えば、最終的に原爆で自分もろとも東京を消滅させる悪人・沢田研二の言い分にはみんな納得できるから「善」です。もちろん文太刑事も「善」。逆に『ダイ・ハード』の悪役の言い分にはまったく納得できないからあれは「悪」です)


dele6-1

昨日の第6話はまるで『ツイン・ピークス』のように「美しい死体」の登場で幕を開けます。

この純子という子がひどいいじめを受けていたのではないかとの両親の依頼を受けて、本来の仕事とは違う調査を主役の二人が行っていくのですが、私は最初、ほんとにいじめの現場を捉えた動画が出てきたときは「『dele/ディーリー』よ、おまえもか」と思ってしまいました。「善と善」の対立で話を作ってきたのに、ここにきて「善と悪」の対立に堕してしまうのか、と。

しかし、それはやはり杞憂でした。
彼女はいじめられていたのではなく、現在いじめっ子になってしまった子たちにとって天使のような存在だった。彼女が自殺したために「世界のバランスが崩れた」のだと。

そういえば……


253e340f

もう5年ほど前ですが『ホンマでっか!? TV』で心理学者の植木先生がこんなことを言っていました。

「実はいじめられる子よりもいじめる子のほうが心を深く傷つけられているんです。いじめているときは楽しくてやっているんだけれども実は知らず知らず心が傷ついていて、その傷が少しずつ少しずつ大きくなって40代や50代になってから突然うつ病になる。本人も周囲もなぜ鬱になるのかまったくわからない。わからないまま自殺に至るケースって実はものすごく多いんです」

いじめている人間もまた「弱い人間」だということですね。いじめっ子を悪に設定するのではなく「弱いがゆえにいじめるのだ」という思想が根底にないといけない。ということをあの高名な脚本家は言いたかったのではないか。それができれば「善と善」の対立になる、と。

dele6-2

だから、この子もいじめたくていじめていたわけではなく、自分の弱い心を天使のような純子が癒してくれていたのにそれがなくなったから弱い心が表に出ていじめをしている、というわけですね。なるほど。

ただ、それを「汚いんじゃないんだ。弱いだけなんだよ」と菅田将暉のセリフで言わせてしまうのは、テレビドラマならではの弱さですね。それと1時間という時間の制約もあるかな。言葉で言うんじゃなくて感じさせてくれないと。

それはともかく、純子が自殺した本当の理由は、彼女にSNSを使って「この世の汚さを見せてあげる」と言って、友人たちの悪口や両親の不倫を暴露した奴がいた(彼女は天使のような存在だったのに悪口を言っていたというのは理解できませんが……?)。そして彼もまた、妻や娘に捨てられたのが原因でそういうことをやっている弱い人間だという結末に至ります。

この「本当の悪人」への突っ込みがやや浅いのと、最後に両親が登場する前にパソコンやスマホの情報をすべて消去してしまうのはどうかと思いました。すべて学校のせいにしようとしていた両親に、娘が自分たちの不貞行為を知っていたことを突きつけないといけないのでは? 

しかしながら、底なしの悪意を扱っていながら「善と悪」の対立に逃げなかった『dele/ディーリー』製作陣の心意気には感動しました。



最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード