サスペンス

2020年04月11日

久しぶりに再見しました。ラリー・コーエン&クリス・モーガン脚本、デビッド・R・エリス監督による『セルラー』。

主人公ジェシカ・マーティンは平和な生活を営む教師で、良き妻であり一児の良き母。
そんな彼女の家に暴漢が侵入し、誘拐され、どこかわからない一室に閉じ込められます。備え付けの電話も壊されますが、必死に回路をつないで…


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ある若い男、ライアンにつながるのですね。彼は巨乳女とやることしか考えてないチャラ男なんですが、このライアンがジェシカが本当に誘拐されて監禁されていることを知り、彼女を助けるために奔走します。

そして、警官ボブの助けもあって、首領である汚職警官イーサンを殺して一件落着というのが物語のあらまし。何の変哲もないサスペンス・アクションのストーリーですが、これを「神話」として読み解いていくといろいろ面白い発見がありました。


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この映画では、「二人のヒーロー」がいます。もちろん、若造ライアンと警官ボブです。二人は「ヒーロー」などとは縁もゆかりもない生活を送っています。ライアンは女のことしか頭になく、ボブは職務そっちのけで副業で奥さんとスパを経営することしか頭にありません。どちらも「汚職警官ライアンをやっつける」ことなど映画が始まるまで少しも考えていません。

ここがまずミソですね。ヒーローとしての心の準備ができていない。それどころかそんなのどうでもいいと思っている。そんな二人が会ったこともない人間のために命を懸けてヒーローになっていく物語です。

この二人の英雄が悪を懲らしめるためにもっている「武器」は何でしょうか。

まず、ライアンにとってのそれはジェシカと通じる携帯電話です。これが最後に活躍することは見ずともわかるわけですが、問題はボブの武器である「拳銃」です。拳銃は、悪役イーサンももっています。
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しかも二人とも同じ警察官。もとは二人とも正義を下すために拳銃をもったのでした。それがいまやイーサンは悪事のために使っており、ボブはただ腰にぶら下げているだけ。しかし、このボブの拳銃が最終的にすべてを解決します。

主人公ジェシカを恐怖のどん底に陥れたのも拳銃なら、彼女の危機を救うのも拳銃です。しかし、その拳銃が別々の人間のものであるところが少し弱いところでしょうか。

『ロード・オブ・ザ・リング』では、暗黒面に堕ちた者の武器も指輪なら、正義を下す者の武器も同じ指輪でした。ひとつの指輪がどちらの手に入るかでこの世界の命運がかかっていました。『ロード・オブ・ザ・リング』の神話的世界はまことに強固なものだったと言えるでしょう。

しかしながら、この『セルラー』でも似たようなことが言えます。ジェシカを襲うのも警官なら救うのも警官だからです。最初は正義に燃えて警察官を志したはずなのに、暗黒面に堕ちてしまったイーサンと、ぎりぎり正義感を忘れていなかったボブとの対照。『セルラー』もまた『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ神話的世界を形作っています。

この頃はまだそれほどメジャーな俳優ではなかったとはいえ、この2年前に『トランスポーター』シリーズでヒーロー役をやっているジェイソン・ステイサムを悪役に配したのは、ヒーローであるボブとは対照的に暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーロー(元ヒーロー)として、すでにヒーロー役をやっていたステイサムが必要だったのでしょう。

だから、この映画の最も神話的なところは、過ぎし日には同じ正義感に燃える若者だったボブとイーサンの警察官の関係です。そしてその二人が「脇役でしかない」ところがこの映画のユニークなところです。

この映画の主人公はジェシカです。そしてジェシカが最初に助けを求めるライアンが準主役です。しかしながら、この映画の神話的世界に的を絞ると、彼らはただの脇役にすぎません。ライアンは「英雄ボブと悪の化身イーサンの神話」における援助役にすぎません。ジェシカにいたってはただの被害者です。

この映画では、被害者の「視点」から物語を紡いでいるわけですね。被害者ジェシカから援助役ライアンの登場、そして英雄ボブの登場と神話世界の外から中へ話を進めているのがうまい構成だと思います。

この文章の最初のほうで「ボブがライアンを助ける」みたいなことを書きましたが、神話的世界から見ればまったく逆なのですね。ボブがヒーローとして屹立するための援助をライアンがするわけです(だから「二人のヒーローがいる」と書いたのも実は間違いです。ヒーローはボブただ一人)。映画のプロットとそこに隠された神話の構成は完全に「さかさま」なのです。ヒーローとはまったく違う視点から物語を紡いでいるわけだから当たり前といえば当たり前ですが、とても面白いと思います。

ボブを主人公にしても物語は成り立ちます。しかし、それではあまりに教条的な映画になったことでしょう。

いきなり暴漢に襲われる、被害者が会ったこともない男に電話で助けを求める、その男がさらに助けを求めたやる気のない警官が登場し、暴漢たちが実は彼と同じ警官であることが判明し…

という感じで、小気味いいサスペンス・アクションの物語進行とともに神話的世界観が少しずつあらわになっていき、「真の英雄」が誰かは最後にわかる。

比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルが見たら大喜びするだろうと思われる「さかさま神話」の傑作だと思います。


セルラー(字幕版)
キム・ベイシンガー
2015-03-1









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2020年03月25日

いまだにこの映画がカンヌでもオスカーでも『パラサイト』に負けたというのが信じられない2019年フランス映画『レ・ミゼラブル』。(以下ネタバレあります)


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つい先日、ブライアン・デ・パルマの8年ぶりの新作『ドミノ 復讐の咆哮』というのを見ましたけど、この『レ・ミゼラブル』のほうがよっぽど「ドミノ」だと感じたのは私だけではないでしょう。

お話の転がし方にも工夫がありますが、私はやはりラジ・リという監督さんの演出力に驚嘆しました。

これは何度も言っていることですが、京都の専門学校に行っていた頃、監督を目指す友人たちは「どう撮るか」ばかり考えていました。

カメラをどう動かすか。
どうつなぐか。
光をどこに当ててどこに当てないか。

などなど。

それも大事でしょうが、役者への演技指導が監督の一番の仕事じゃないの? というのが私のスタンスでした。


荒井晴彦さんの誤解
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脚本家の荒井晴彦さんがよく映画芸術誌上で言っています。「どう撮るか」は監督の仕事だが「何を撮るか」は脚本家の仕事だ、と。

本当にそうでしょうか?

脚本を書いていた者の感覚からすると、脚本にだって「どう」はあると思うんですよね。この題材を映画にする場合、どういう切り口で語るべきか、というのは「どう」の範疇でしょ?

逆に、できあがった脚本に「何を撮るか」はふんだんに盛り込まれているとはいえ、やはり実際の現場に行って実際の役者がそれぞれの役を演じるとなると、そこには「何を見せるか」という問題が出てきます。

つまり演技指導です。脚本には小説と違って必要最小限のことしか書かれてないから同じセリフでもどう抑揚をつけるかとか、喋りながら動くのか、あるいは、立ち止まって喋るのか。脚本にもある程度動きが書かれているとはいえ、そこは役者の生理や全体のバランスを考えて変えていかねばなりません。

セットや衣裳のデザインや光の塩梅なども「何を」のうちに入るのでしょうけど、一番はやはり「役者」ですよね。役者が「何」を担当する。その「何」を演出するのは監督の役目です。

脚本家も「何を撮るか」を書くけれど、監督も現場で「何を撮るか」を形作る。

荒井さんは監督もやってるのになぜそんな大きな誤解をしているのだろうと不思議です。


『レ・ミゼラブル』
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『レ・ミゼラブル』では役者が輝きまくっていました。

私の中の「映画史上最高の演技」は『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマンなんですけど、あれに勝るとも劣らない「まるで目の前に実際に存在しているかのような」芝居が繰り広げらていました。

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子どもたちへの演出はもっとよい。この子どもたちはこの映画でかなり重要な役柄を背負っていますけど、物語上重要だからというより、やはり現場での演技指導が卓越していたから印象に残るのでしょう。彼らもジーン・ハックマン並みの芝居を見せてくれます。ラストシーンのあの表情!

とはいえ、ラストははっきりあの火炎瓶を投げて大炎上し、警官が子どもを撃ち殺して……というカタストロフをちゃんと見せ切ってほしかったという思いもあります。あそこで幕というのはちょっと手抜きな気がしないでもない。

カメラも最近の映画特有の手持ちカメラが多く、最初はぐらぐら揺れるカメラに「またか」と辟易しましたが、映画があまりに充実しているので気にならなくなりました。

ただ、ここは手持ち、ここはフィックスという分け方に意味がなかったような……? 「何」を担当する役者があれだけ魅力的なら全編手持ちカメラで撮ってもよかったように思います。(個人的には全編フィックスのほうがいいけど)

とにかく、今年見た映画の中では、臨場感という点では『1917』より素晴らしく、映画全体としても『フォードvsフェラーリ』より上を行くとんでもないものを見たという感じです。

いまはお腹いっぱいで他の映画を見る気になれません。時間と財布が許してくれたらもう一度見に行きたいくらい。


演技指導論草案 (青空文庫POD(大活字版))
伊丹万作
青空文庫POD[NextPublishing]
2014-10-31





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2020年03月21日

星川清司脚本、増村保造監督の名作『陸軍中野学校』を再見しました。(以下ネタバレあります)



やはり素晴らしいですね。まったく色褪せない。

しかしながら何となく変なのはこの映画、戦争を題材にしているうえに、主人公が自分の恋人がスパイと知って殺すという哀しい運命を描いているにもかかわらず、少しも「反戦」というメッセージがないことですね。

脚本家も監督も、主人公たちスパイとして養成された者たちに一片の同情も感じていません。かわいそうだとか「もし自分だったら…」などという感傷とはまったく無縁なんですよね。そこが素晴らしい。


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中野学校創設者を演じる加東大介は、陸軍から「これは」と目をつけた男たちを一堂に集めて、これからは本名も捨ててもらう、スパイとして国に尽くしてもらう、と半ば強制的にスパイとして養成されることを受け容れさせます。

そして、養成の過程で神経衰弱になった男が自殺します。市川雷蔵はじめ他の者すべてが「俺もスパイなんて嫌だ」と言い出す。ここで加東大介がスパイとして国に尽くすことの意義を説き、全員が前言撤回して「俺はやります」と口々に言うんですが、冷静に考えると、このシーン、とても変です。加東大介の説得がうまいからといって、えらくみんな簡単に気持ちを覆しすぎじゃないかと。

この次のトピックは、女に溺れて盗みを犯した者(女体に関する授業があるというのが面白い)を生徒全員で恫喝まがいの説得をして腹を切らせる場面。ここも、本気でスパイになろうとしているからといって、あまりに仲間を殺すことにためらいがなさすぎる。

そう、ためらいがないんですよ。この映画では登場人物が大きな決断をする場面が多々あるにもかかわらず、ためらったり言いよどんだりすることがまったくない。ほとんどないんじゃなくてまったくありません。心の中では様々な葛藤があるんでしょうが、映画の作り手たちはそんなものには少しも興味がないようです。

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最後、婚約者が英国のスパイだと知った主人公が彼女を毒殺するんですが、ここでの市川雷蔵もあまりにためらいがない。加東大介に「おまえが殺せ」と言われても悩むということがない。

淡々と会話をし、淡々と酒に毒を盛り、淡々と飲ませ、淡々と遺書を偽造し、何事もなかったかのように去っていく。

「スパイとして養成された男が、恋人が他国のスパイと知って殺す物語」において、そこに潜む複雑な感情を捨象しすぎじゃないか、と思うのですが、これはおそらく、そういう愁嘆場の多い日本映画が嫌いだった増村保造監督の要請だったのでしょうね。主人公が泣きながら恋人を殺すような映画にだけはしたくない、という。

この映画は異様なまでにハードボイルドです。ヘミングウェイやハメットがペンで映画を書いたらこういう湿り気のない乾いた映画になるんじゃないかと思われるぐらい、どこまでも感傷を排した、それゆえに異様なまでに物事が淡々と進む映画になっています。

だから、主人公がひどいとも、そういう運命を与えた戦争に対して怒りを感じる、ということもありません。中野学校に批判的だった参謀本部の待田京介が女に機密を漏らしていたことを理由に最前線で死んでこいと命令されても、見てるこちらは快哉を叫ぶことがない。ただ粛々と命令を受け容れる待田京介の姿を呆然と見るほかありません。

ただ素朴に「行動」だけを描く。これがこの映画の哲学です。

これは真似しようと思っても簡単にできるものではありません。
人間と時代を見つめる冷静すぎる目(いや、冷酷な目と言っていいかもしれない)が作り手に備わっていなければ絶対に作れない傑作だと思いました。


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陸軍中野学校
市川雷蔵
2015-09-21





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