サスペンス

2019年06月24日

サミュエル・フラー監督の1963年作品『ショック集団』を約30年ぶりに再見しました。初見時はそれほど面白いと思わなかったんですが、今回は異常なまでに面白く、若かりし頃の不明を恥じたくなるほどでした。

とはいえ、この映画は何とも奇妙なんですね。脚本構成がものすごく変というか、いや変だからダメだというんじゃなくて変だからこそ傑作になったと思うのです。(以下ネタバレあります)


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「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

これが物語のあらましですが、これは「あらすじ」ですね。「プロット」ではない。プロットというのは「運び」のことで、観客が知る情報を順に出していかねばならない。


脚本にひそむ大いなる矛盾
上記のあらすじがプロットと決定的に違うのは、「ジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために」というところです。彼がなぜ精神病院に潜入するのか、素晴らしい記事を書いてピューリッツァ―賞を受賞するためと語られますが、「何を調べるのか」については観客には伏せられています。詳細を忘れていた私は「精神病院の内情を告発する記事を書くつもりなのかな?」と思ったほど。

実際に入院してから、「殺人事件があった」「スローンという人間が殺された」「目撃者がいる」という情報が小出しにされます。しかし、スローンという人間が患者なのか、看護人なのか、医者なのか、はっきり説明されません。最後に患者だとわかりますが、それまではどういう人が殺されたのかわからない。いつ(朝か昼か夜か)どこで(病室か診察室か治療室かトイレか廊下か)殺されたのかについては最後まで何の説明もありません。

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(このショットの独特の触感!)

最終的に、新聞記者をペテン師だと言って目の敵にしているロイドという看護人ではなく、いつも柔和な笑顔で人畜無害な印象を与えるウィルクスという看護人が犯人であることが判明します。「ウィルクスが殺した。あいつは知能障害の女を慰み者にしていた」という証言を得て、主人公はウィルクスに暴行し、白状させます。

これ、すごく変ですよね? 
だって、主人公自身がウィルクスが犯人と聞いたあとに記憶をなくし、「俺が犯人だ」「いや院長だ」「いやキャシーだ」と言ってわけがわからなくなる。だから「ウィルクスが犯人だ」という証言だってまったくの妄想かもしれないわけです。なのに主人公はそれを100%信じて自白を得る。

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この映画は主人公が狂っていく過程を丁寧に追っていきます。中には黒人なのに白人至上主義者だと言って他の黒人にリンチを加える患者もいる。患者の言うことは信用ならないというのを基調にしながら、こと殺人事件の証言だけは100%真実であるという立場を取っています。

もう一度言いますが、だからダメな映画だと言いたいわけではありません。このような矛盾した立場を採用した結果、『ショック集団』という映画は100分前後のちょうどいい傑作サスペンスになったと考えます。

では、なぜサミュエル・フラーはこのような変な考え方で脚本を書いたのでしょうか?


メインプロットのネタバレ
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もう一度、上記のあらすじを記しましょう。

「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

殺人事件の真相はサブプロットであり、あくまでもメインプロットは「狂人のふりをした主人公が本当に狂ってしまう」という、典型的な「ミイラ取りがミイラになる」物語です。

恋人のキャシーは、最初からこの計画に反対します。彼がほんとに狂ったらどうするのかと。

つまり、メインプロットのオチは最初からばらされているわけですね。「最終的に主人公はほんとに狂っちゃうんですよ。この映画はミイラ取りがミイラになるお話ですよ」とファーストシーンでばらしている。

だから、メインプロットの興味は結末ではなく、過程にこそあります。その過程には何があるかと言えば、「犯人は誰か」というサブプロットです。

メインプロットのオチはばらしているからサブプロットの謎で引っ張ろうという計算なわけですね。

ただ、メインプロットの過程、つまり「どのように狂っていくか」というのをみっちり描写するためには、他の患者たちの狂っている様を入念に描かなくてはいけない。サブプロットも大事ですが、メインプロットの過程そのものを入念に描くことのほうがよっぽど大事。犯人捜しを入念にやるとメインプロットがメインプロットではなくなってしまうという危惧があったのでしょう。

だからサミュエル・フラーは、もし「患者の証言は妄想かもしれない」という「世界の原理」が入ってくると、映画全体が煩雑でわかりにくくなってしまうと考えたのだと思います。

「患者は嘘ばかり言っている。でも事件に関する証言だけは真実である」という「映画の原理」を採用した。この決断はすごいと思います。だって完全に矛盾してますから。でも矛盾してていいんだ、矛盾を解消しようとすれば冗長な映画になってしまうから。

この勇気ある決断のおかげで、精神病院の内実や、患者たちの生活が詳細に描写され、そんなところにいたら正常な人間も狂ってしまうというメインプロットに説得力が与えられます。一方でサブプロットの殺人事件の謎はいとも簡単に解決され、100分というちょうどいい上映時間で幕を閉じることができたわけです。

こういう「映画の原理」を勇気をもって採用できるからこそサミュエル・フラーは「B級映画の巨匠」と呼ばれるんだな、と認識を新たにした次第です。


ショック集団(字幕版)
ピーター・ブレック
2017-09-06









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2019年03月09日

我が永遠のアイドル、クリント・イーストウッド6年ぶりの主演作品『運び屋』を見てきました。公開2日目の土曜日の日中、しかも今日は結構あたたかい。花粉症の人は外に出づらいかもしれないが(私も今日は今季一番ひどい症状)それにしても空席が目立っていたのはとても淋しい。


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実在した高齢の麻薬の運び屋を霊感源として、イーストウッドの実人生と重なる部分も少なくないこの映画、私は少しも面白くありませんでした。

最も敬愛する人だからこそイーストウッド作品はできるだけ批判的な目で見ることにしていますが、ごく普通に見てもこの映画はつまらない。どうせ世間は絶賛一色だろうと思って検索したらやっぱり! ここは「世界一のイーストウッド・ファン」を自認する私が文句を言わねばならないという使命感から筆を執りました。


第1幕の流れが不自然
冒頭、「2005年」というテロップが出て、娘の結婚式に出ず、農園で育てた花のコンテスト会場に行っていた主人公。このあとすぐ「2017年」になります。2005年のシークエンスはほんの5分ほど。娘が12年も口を利いてくれない理由を示したかったのかもしれませんが、オフで充分でしょう。なぜたったあれだけのシーンをオンで描く必要があるのか理解できません。

近代劇の祖、ノルウェーの劇作家イプセンは「それまでの演劇の第5幕から始めた」と言われています。『人形の家』『ヘッダー・ガーブラー』『ロスメルスホルム』などなど、すべてそうなっています。第4幕までの情報を第5幕の中(のセリフ)にぶちこんで、どこを切っても煮えたぎる血が流れ出すドラマ形式が確立されたのは19世紀のことです。

『運び屋』は21世紀の映画なのに。。。

2017年の「ネット花屋のせいで」農園が閉鎖に追い込まれたところから始めたほうがよかったと思います。2005年の娘や妻とのいざこざ、孫娘は主人公を好いていること、そういった情報は孫娘の結婚式を訪ねたときに娘の態度や妻のセリフなどで匂わせればOK。

しかし第1幕にはもっと大きな問題が……

ある男から「車の運転さえできれば可能な仕事がある」と紹介されたところへ行くと、ショットガンをもった男たちが出迎える。主人公が車を止めたときの小さい窓から大きな目だけが覗くカットは素晴らしかった。何とも言えない不気味な肌触りがあって。でもすぐに首をかしげざるをえなくなります。

いきなりショットガンをもった男が出迎えたら気後れするでしょう。いくら朝鮮戦争を経験しているとはいえ退役したあとは農園をやっていただけの普通の老人なのだから。

これを運んでくれと鞄をトランクに積みこまれても、何が入っているのかを訊かないのもおかしいですよね? 「1回目」「2回目」そして「3回目」で初めて麻薬を運ばされていると知りますが、そこからいきなり「5回目」に飛ぶのもおかしいでしょう。なぜメキシコ人たちを問い詰めないのか。金になるからということ? それならそれでそういうシーンを入れないと。


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初めて大金を得るシーンはもっと後でした。

どうもこの映画は主人公のリアクションが変です。

車さえ運転できれば可能な仕事がある。やばそうだ。でも金がほしい。行ってみるとショットガンをもった男たち。やっぱり。俺は何を運ばされているのか。麻薬だった。やばい。もうやめよう。というか、おまえら何で俺にこんな真似をさせる。でも大金をくれた。またやろう。久しぶりに女も抱けた。こりゃいい。

というのがごく普通の流れだと思うんですが、「やばそうだ。でも金がほしい」とか「やっぱり」とか「やばい。もうやめよう」というような当たり前のリアクション=感情が描かれないからぜんぜん乗れないのです。


メインプロットとサブプロット
宣伝文句には「ごく普通の老人が麻薬の運び屋をやることを通じて家族への贖罪をする物語」みたいなことが書かれてましたが、「麻薬の運び屋をやることを通じて」というところが何もないじゃないですか。運び屋をやることと家族への贖罪が別個にしか描かれていない。メインプロットとサブプロットが何ら有機的に結びついていないのです。

ブラッドリー・クーパーとのやりとりに感動した人もいるようですが、確かにいいシーンではあるものの、1回だけの遭遇というのはどうなんでしょう? もっと何度もレストランでコーヒー飲みながらいろいろ説教じみたことを言う(ちなみに私はイーストウッドがコーヒーすする顔を斜め45度から捉えたショットが何よりも好き!)。そのときに彼こそ運び屋だとわかることを口走ってしまうのに、クーパーは彼が白人だからまったく気づかない。ということにすれば、人種問題ももっと色濃く出せたように思います。ビリングで1番目の役者と2番目の役者が遭遇するのが逮捕のシーンを含めて2回だけというのはもったいなすぎます。

もっといえば、娘と疎遠になるんじゃなくて「息子」と疎遠になるべきではなかったでしょうか。ブラッドリー・クーパーを息子に見立てて説教じみたことを言ったり、逆に喋っているうちに許してほしい気持ちが募ってしまい、何の関係もないクーパーに謝ってしまうとか。

そういう描写があれば、法廷で家族と抱き合う主人公を見つめるクーパーの胸にいろいろなことが迫ってきたはずです。それはつまり観客の心にいろいろな感情が生まれるということ。でも実際の映画はぜんぜんそうなっていない。

去年の『15時17分、パリ行き』の感想で「イーストウッドは肝心要のシナリオを読む力がなくなっているんじゃないか」と書きましたが、やはりあれは間違いではなかった。こんな不出来な脚本で行けると踏んだイーストウッドはやはり老いたのでしょうか。

それとも、彼は監督である前にまず「俳優」だから、「またカメラの前に立つことができる」という歓びが目を霞ませてしまったのでしょうか。

いずれにしろ残念です。今年でもう89歳。まだまだ撮り続けるはずですが、最低『ハドソン川の奇跡』ぐらいのものは見せてほしいというのが正直な気持ちです。


関連記事
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『ハドソン川の奇跡』(「人的要因」に賭ける!)



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2019年02月05日

すでに3話を終えた真木よう子復活作の『よつば銀行 原島浩美がモノ申す! ~この女に賭けろ~』。

ちょっとタイトルが長すぎますね。原作タイトルは『この女に賭けろ』らしいですが、『よつば銀行 原島浩美がモノ申す!』だけでいいと思うし、主人公の名前をタイトルに冠するならもっとインパクトのある名前に変えたほうがよかった。

とはいえ、内容はとても面白い。

私は、真木よう子の喋り方にその秘密があると思います。


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あまりに高いハードル
この物語で原島浩美が跳ぶように設定されたハードルはあまりに高い。頭取を追い落とそうとする副頭取と過去の因縁があって会社を追い出されそうになっているという設定。頭取だって別に味方じゃないし、敵の敵は味方というだけで第2話では援護射撃してくれましたが、結局それだけの関係でしかない。

副頭取の横槍は威力絶大だし、支店長も誰も味方しれくれない。孤立無援の主人公はほとんど「偶然」で勝利を手にしてきました。

第1話では、ある会社の社長子息が原島浩美と同様、美術に造詣が深いというのが功を奏しただけですし、第2話では頭取派の矢島健一が柳葉を撃ち落とそうと頭取に入れ知恵してくれなかったらあの時点で話は終わり。

昨日の第3話では菅原大吉が自腹を切ってくれなかったら、奥さんがさばけた人じゃなかったらジ・エンドでした。

やはりハードルが高すぎるのだと思います。

じゃあ、つまらないのかと問われたら「面白い!」と答えます。
それはまず西田征史さんの作劇のうまさですね。最後は絶対勝つとわかってるんだけど、そこに至るまでの構成が手堅いのでまったく退屈しない。プロの技だと思います。さすがは『半分の月がのぼる空』『ガチ☆ボーイ』『小野寺の弟・小野寺の姉』を手がけた方だと感服します。

でも、私が考えるこのドラマの勝因は下記です。


ゆっくり喋る真木よう子
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丸山隆平がお約束通りいつも原島浩美の手伝いをさせられますが、彼だって半分以上自発的に手伝っている。菅原大吉だってそうでしょう。

確か第1話でしたか、丸山隆平が「あの人には人を巻き込む力がある」みたいなことを言ってましたが、それは本当に感じます。

なぜそう感じるか。

その理由こそ、真木よう子のゆっくりした喋り方なのではないかと。

キャピキャピした女の子が周りを巻き込んでもあまり面白くないですよね。特に「ドラマBiz」というサラリーマン向けの枠でやるような主人公の設定ではない。

真木よう子はもともと滑舌のいい役者だから早口でもはっきり発音できるんですが、このドラマでは完全に意図的にゆっくり喋っています。

ずっと前の『ホンマでっか!? TV』で言ってましたが、

「滔々とよどみなく喋る人は信用されない。訥々と喋る人のほうがかえって信用される」

そう。真木よう子は実際には訥々とは喋っていないけれども、とてもゆっくりなので訥々した感じに聞こえる。それで周りからの信用を得ているのでしょう。この人なら巻き込まれてもいい、いや、自分から何か手伝おうと思わせるものがある。

周りが手を貸すから原島浩美は連戦連勝なわけですが、その理由が理屈じゃなく腹に落ちてくるものだから面白いのでしょう。

脚本内に設定されたハードルを脚本家が簡単に跳べるよう細工したらまったく面白くありませんが、脚本とは関係ないところで跳べる工夫をしてるんですね。だから高すぎるハードルを楽々と跳び越えても面白い。

あの異様なまでにゆっくりした喋り方は、西田征史さんが台本にあらかじめ書いたものなのか、それとも原作に書いてあるのか、現場で監督がそういう芝居をつけたのか、はたまた真木よう子の発案によるものか。

気になりますが、それは大きな問題ではないのでしょう。

第2話で原島浩美が言っていたように「誰の手柄でも同じではありませんか?」。ドラマ作りはチームワークですから!







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