聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

サスペンス

『正義のセ』①第2話で見えた作者たちの狙い

吉高由里子が新米検事を演じる『正義のセ』。

先週の第1話は、あまりに青臭さが前面に出すぎてて、「青臭さを失ったら人間おしまい」と思っている当方としてはうれしい反面、ちょっと戸惑いもありました。

だって、、、


危惧
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この人、検事に見えないでしょ? 窮地で抜群の頭の良さを発揮したりしますが、本当に司法試験に合格した人間なんだろうか、と。

でも、そこは吉高由里子。持ち前の天然キャラを最大限に活かして、そのような不自然さをギリギリで回避しています。これからのお約束になりそうな「トイレでの頭がんがん絶叫」もこの人らしくて面白い。

ただ、第1話を見たかぎりでは、このまま「新米検事のお仕事ウロウロ奮闘記」でずっと行くとしたらきついな、見るのやめてしまうんじゃなかろうか、と危惧していました。

しかしそれは昨日の第2話で雲散霧消しましたね。

第1話ではパワハラ上司の傷害事件という比較的軽い事件でしたが、第2話は「もう?」と思いたくなる殺人事件。ここで殺人事件をもってきたということで凡百のお仕事ドラマにはしないぞ、という作者たちの意気込みが見えた気がします。


絶妙なプロットポイントⅠ
全10話と仮定した場合、もし最後まで純粋なお仕事ドラマで行くなら、第2話はもうちょっと重めの事件にして、第3話でいよいよ殺人事件ということになるのが普通でしょう。三幕構成で言うところのプロットポイントⅠで大きな事件を扱う、つまり、新米検事が飛躍するきっかけとして殺人事件が扱われることになったであろうと思われます。

しかし、第2話で主人公に突きつけられた殺人事件が「家族」に関するものだったことでこのシリーズ全体の行方ががらりと変わったように思います。彼氏との遠距離恋愛に悩み、未婚であることを気に病んでいるアラサー女性である主人公が、事件を解明していく過程で「家族とは」「夫婦とは」ということを考えざるをえなくなる。そのための殺人事件。検事として飛躍するためのエピソードではなく、一人の独身アラサー女性にとって考えさせられる事件となっていました。

寄生している実家の豆腐屋を妹の広瀬アリスが継ぐと言い出して親子喧嘩になったり、そしてこの人も家族のことで悩んでいる。


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安田顕があまりにいい味出しすぎで、いっそこの人を主役にしたスピンオフドラマを見たいとすら思わせる名演ですが、この小姑みたいな事務官も家族のことで悩んでいる。

つまり、『正義のセ』と謳っている以上、あくまでも表面上は「新米検事のお仕事ウロウロ奮闘記」で行くんでしょうけど、それと同じ比率で家族や結婚といったテレビドラマらしい身の回りの小さなお話が描かれるんじゃないか。もしかしたらそっちのほうがメインプロットかも、と。

映画でそういうせせこましい話は好きじゃないですが、テレビドラマではそういう「小さいけど大事なこと」を語ってほしいと常々思っている私としては、第2話を見てものすごくうれしくなり、これは最後まで見られそうだと安堵した次第です。わざわざ広瀬アリスを配しているんだから、あの妹の話もまだまだ絡んできそうだし。(ただそれが見えてしまうキャスティングはいかがなものか、とは思うものの)

来週は結婚詐欺師の話らしいから、「主人公の結婚」が全体のプロットポイントⅠになるようです。

そうこなくっちゃ!

『死刑執行人もまた死す』(原題が複数形の理由は?)

脳科学者・中野信子さんによる『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)を読みました。

誰かがちょっと失敗したときに感じる喜びの感情のことをドイツ語で「シャーデンフロイデ」というらしいですが、この本は「嫉妬」や「妬み」(この二語は心理学上は厳密に区別されるとか)に関する内容がいつの間にやら、「愛」や「正義」を盾に世の中を良くしようとするあまり、他者に対して残虐になるごく普通の人たちの恐ろしさを説いて終わります。

それを踏まえたうえで、フリッツ・ラングが戦時中にアメリカで撮った傑作『死刑執行人もまた死す』を見ると、いままでとは違った感慨がありました。「手に汗握る痛快無比なサスペンス」と思っていましたが、こちらの心をグサリと刺してくる「自己言及映画」がその正体でした。


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ナチスに占領されたチェコを舞台に、「死刑執行人」と恐れられたラインハルト・ハイドリッヒ暗殺事件という史実を基に練り上げられた物語です。

もちろんのこと、ナチスとナチスに与する者が「悪」として描かれています。

しかし、それにしても、原題は「HANGMEN ALSO DIE!」で、ハイドリッヒは一人だけなのになぜ「HANGMAN」ではなく「HANGMEN」と複数形なのかずっと不思議でした。それが今日やっと解けました。


国家のためのロボット
ハイドリッヒ暗殺犯ブライアン・ドンレビーは、チェコを愛するがゆえにハイドリッヒを殺しました。が、ナチスは民衆に密告を奨励し、暗殺犯が捕まらないかぎりは無辜の市民を処刑すると脅して無関係の人間を人質として連行します。暗殺犯は「自分が自首すれば誰も殺されないですむ」と懊悩しますが、「君はナチスが亡びたあと祖国再建のために必要な人間だ」と説得され、自首しないことを選びます。

妙です。
確かに暗殺犯ドンレビーは懊悩しています。同胞に説得される結構長いシーンは野田高悟ふうに言えば「演じられなければならない場面」です。ですが、ひとたび説得されるや、自分のせいで人質としていつ処刑されるかわからない身になったウォルター・ブレナンや彼の娘である主人公(はたして本当に彼女が主人公なのかどうかはいまは措きます)の苦しみなどないかのように、盗聴している敵の裏をかいたり、まるでロボットのように粛々とナチスとの戦いを遂行していきます。

主人公の女ですら妙です。
最初は父親が人質になったので暗殺犯ドンレビーをゲシュタポに売ろうとします。その心情は理解できます。が、馬車の御者らが妨害し、さらに「ゲシュタポに行くつもりだった」という声を聞いた路上の民衆に囲まれて密告を断念します。
そのあとはまるで密告という行為がこの世に存在しないかのようにブライアン・ドンレビーを売ることが少しも頭をよぎらないようです。ちょっとはそういうことを口走ったりしてもおかしくないのに。
しかも最後は父親が殺されるんですよね。暗殺犯である英雄ブライアン・ドンレビーのせいで。なのに彼女の悲しみやドンレビーへの恨みを描くことなく映画は終わります。

この映画では一人一人のキャラクターが「人間」ではなく「国家のためのロボット」ように描かれています。ドイツ人もチェコ人も同じです。


売国奴チャカをめぐって
後半の主眼は、ドンレビーが暗殺犯だと悟られないことと、同胞をナチスに売っていた売国奴チャカを成敗することが同時に進行します。結局、チェコ人たちは売国奴チャカを暗殺犯に仕立て上げることに成功し、正義は勝つ!みたいな凱歌を高らかに歌い上げる歌声がオーバーラップして幕を閉じますが、『シャーデンフロイデ』を読んだ私にはとてもハッピーエンドには見えませんでした。

手に汗握るサスペンスであることは変わらないし、裏切り者チャカが殺されるシーンなど痛快無比ですが、しかし、結局この映画はチャカを告発して成敗しておきながら、チャカを告発し断罪するこの映画そのものを告発しています。

国家のためにならない者は排除する。それはナチスが党是としたものです。チャカを許せないと思い、彼が殺されるシーンでカタルシスを感じる観客もまたナチスと同根なのでは? というラディカルな問いかけ。

だから、「HANGMEN」とは私たち民衆のことなのでしょう。複数形である理由がやっとわかった次第です。あのラストの凱歌は決して勝利の歌ではなく「新たなる全体主義の歌」なのだと思います。

ナチスは確かに悪の権化である。しかし人間である以上、誰しもナチスなのだ、誰もがヒトラーなのだという過激なメッセージは、監督や脚本家がドイツ人だからこそできたことなのかもしれません。




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『15時17分、パリ行き』(SF的発想をしてほしかった)

ようやく見てきました。クリント・イーストウッド最新作『15時17分、パリ行き』。

おまえのようなイーストウッド信奉者が封切から3週間もたってから見にいくなんてどういうことだ。
という声も聞こえてきそうですが、正直言いまして怖かったのです。『グラン・トリノ』で俳優を引退してからというもの前作の『ハドソン川の奇跡』を除いてどれもこれも愚にもつかない作品ばかりでしたから。

でも、結果的に『ハドソン川の奇跡』と同じくらい楽しめる作品で安堵しました。ただし「傑作」だとは思いません。「佳作」といったところでしょう。なぜか。


本人が自分の役を演じるという「情報」
この映画では公開前から、実際に起きた事件を、主役3人だけでなく実際にあの列車に乗り合わせた人たちをできるだけ集めて本人たちに自分の役を演じさせた、という情報が出回っていました。

その「事前情報」が観客に与える影響はかなり大きいと思います。

実際、ド素人が演じている割にかなりうまい。それは監督自身が役者であり、それもあまり器用ではない役者だった(←過去形で言わないといけないところが悲しい)ということで、監督経験しかない監督よりもかなりいいアドバイスができたんじゃないでしょうか。

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映画を見ていると、↑こういう光景が目に浮かぶんですよね。イーストウッドはどんなふうに素人俳優を演出したのか。それも自分自身の役というプロですら難しい役なのに。

という思いが「先入観」として観客の心を支配したはず。この映画の高評価の背景には「素人を使ってよくやった」みたいなところが多分にあるのでは?


セリフつなぎ
演技そのものもいいですが、セリフの途中でカットを割って繋ぐ、いわゆる「セリフつなぎ」が多用されてましたよね。
よくアクション映画などで、アクションがあまり上手でない俳優を使う場合、アクションの途中でカットを割るアクションつなぎが多用されます。
一昔前によくテレビでやってた武富士のCMがそうですよね。めちゃくちゃダンスがうまいように見えて、実は編集でごまかしてるだけという。


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列車に乗る前のこのシーンが最も顕著でしたが、3人が喋りまくるこのシーンではセリフつなぎばかりでした。素人の芝居を少しでもうまく見せるための工夫だったのでしょう。


実話=主演作
なぜか最近のイーストウッドは実話ばかり。
俳優引退前も「硫黄島2部作」と『チェンジリング』があり、引退後は『インビクタス』『J・エドガー』『ジャージー・ボーイズ』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』、そして本作。他にも『バード』や『真夜中のサバナ』。

ん? 自分が出てない映画ばかり。なるほど。そういうことか!



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例えば『ガントレット』。
クライマックスで10万発の銃弾を浴びますが、誰もイーストウッドが殺されるかも、なんて思わないでしょう? そんなの『白い肌の異常な夜』みたいな珍品だけで、大スターたる彼は決して死なない。ある意味安心して見ていられる。それと俳優引退後の実話ばかりというのはつながっていると思います。

だって、実話なら結末があらかじめわかってますから。「イーストウッドは殺されたりしない」というのと「この映画はテロリストを倒した英雄を描いている」というのは結末があらかじめわかっているという意味では同じです。

だから、学校の先生に心ない言葉を投げられても、軍に入隊して負傷兵への対処の仕方でバカにされても、「彼らは最後は英雄になるのだから」と安心して見ていられる。

でも、素人にしてはうまい、とか、実話ならではの面白さとか、そういうところばかり楽しめるというのは映画としていかがなものか。


マシンガン不発
だって、映画の一番の見せ場である「主人公がテロリストめがけてタックルする場面」。あそこでテロリストがマシンガンの引き金を引きますがなぜか不発。首尾よくタックルが成功して彼らは英雄になれたわけですが、あそこでもし撃たれていたらどうなっていたか。

そこをもっと突っ込まないといけないと思う。

もし不発じゃなかったら彼らの家族は周りから何と言われたか。教師たちは「だからあのとき薬を飲んでおけばよかったのよ」とでも言ったか。軍の上官たちは「ほら、言わんこっちゃない。そもそもあいつは軍人に向いてなかった」とでも言われたか。それとも、英雄になり損ねた悲劇の小市民として悼まれたか。
マスコミの反応はどうだったか。マシンガンを構えているテロリストに丸腰で肉弾戦を挑むなど愚の骨頂だと非難されなかっただろうか。

などなど、SF的な想像力をめぐらして、もしあのとき不発じゃなかったら、という物語を作ることもできたはずなんですよね。

英雄になれなかった、ありえたかもしれないもうひとつの物語

それを現実に英雄になれた本人たちが演じる。そのほうが「事件の当事者を起用する」ことの意味も意義もあったんじゃないか。

この映画は私は楽しめました。それは本人たちが出演しているとか最近のイーストウッドは実話の映画化が多いとかの事前情報と、それなりに映画を見てきたからセリフつなぎが多いことに気づけたとか、あくまでもそういう理由によるものであって、決して子どもの頃に『ガントレット』を見たときのような「映画そのものの力」に感動したわけじゃない。

実際、本人たちが出演していると知らなかったうちの両親はあまり楽しめなかったそうです。


『JFK』(公文書は太陽光線と同じ)

オリバー・ストーン監督の1991年作品『JFK』。

森友学園問題での公文書改竄が世間を賑わせていますが、「公文書といえば、ケネディ暗殺の公式資料が確か去年トランプが公開を承認するも一部は非公開にしたことがあったっけ」と思って久しぶりに見てみようと。

この映画、暗殺事件の唯一の訴追者である主人公の地方検事ジム・ギャリソンの手記を原作としていますが、原作はもうひとつあり、さらにオリバー・ストーンと脚本家ザカリー・スクラーのかなり主観的な思いも入っているので「事実を捏造している」という批判もありました。

映画の内容についてはいまは措きます。次の4枚の画像をご覧ください。


奇妙な光線

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撮影監督ロバート・リチャードソンにアカデミー賞が与えられた照明ですが、どう見ても光の加減が変です。

すべて室内なのに光が強すぎる。室内灯の灯りならもっと室内全体が明るくないといけないのにどれも薄暗い。薄暗いのに人物にだけ細い強烈な光が当たっています。強さから考えたら日光でないとおかしいですが(一枚目は月光でしょうが)窓から入り込んだ日光が部屋全体を照らすことなく人物にだけ降り注いでいるというのはどう考えてもおかしい。

これはリアリズムの見地からすると「ありえない照明」ということになります。光源が何なのか、どこから来ているのか、すべて謎です。
ケネディ暗殺の真相が謎だから光源も謎でいいと考えたのかどうかは知りません。しかし、そうでも考えないとこの光の当て方はあまりに不自然です。

ケネディ暗殺事件の「真相」が書かれたとされる「ウォーレン委員会報告書」は公文書です。大半は一般公開されたようですが、一部のみ国家機密として秘匿されています。その他の資料も極秘扱い。トランプは各方面からの声を鑑みて「一部のみ公開。あとは非公開のまま」と決定したそうですが、あの品性下劣なトランプですら公開を延期しただけで改竄などやっていません。


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公文書=物理法則
翻って日本では、先週辞任させられた佐川国税庁長官の国会答弁に合うように公文書が書き換えられました。本来なら公文書の記述に沿った答弁をしないといけないはずなのに、逆になっている。忖度か誰かの指示かはわかりませんが、あの答弁は佐川長官の「主観的な言葉」にすぎません。『JFK』におけるオリバー・ストーンたちの主張と同じです。
もし、このたびの公文書改竄が「大した問題ではない」のなら、『JFK』の主張に合うようにウォーレン委員会報告書を書き換えたってかまわないことになります。もっといえば、劇中のあまりに不自然な光に合うように太陽光線をねじ曲げてもいいということになります。

そんなことができますか? 神でない人間にできるわけがないし、してはならない。

公文書というのは、そういうものです。100%客観的な事実だけを記してあると決裁されたものなのですから、それは太陽光線をも司る物理法則と同じく、どこまでも厳密なものです。

だから公文書改竄は「神をも恐れぬ所業」と言って過言ではないと思います。人間には許されていないことをやってしまった。「この問題は適当に済ませていま手薄になっている外交にもっと力を」と昨日ある番組で一般市民がインタビューで答えてましたが、「???」でした。

いま国際社会における日本の信用は地に堕ちました。こんな状態でいくら外交努力をしたところですべて無駄です。まずこの問題を徹底究明して断罪されるべき者を断罪し、それからまたコツコツと信用を築き上げていかないと。

何十年もかかるでしょう。神をも恐れぬ所業をやってしまったのですから。



『丑三つの村』(本当の愛国心とは何か)

おととい、私になりすました怪ツイート事件なるものが発生しました。フォロワーさんに不快なツイートを送ってすぐ消えたそうです。

事情はだいたいわかります。先週こんな記事を書きました。⇒『映画秘宝』創刊者・町山智浩の問題発言について 
おそらく、この記事に反感をもった人の犯行でしょう。他に反感を抱かれるような記事は書いてないし。犯人は町山智浩を批判するなんて許せない、と思ったのでしょうが、私がかねてから町山本を愛読している人間だということを知らないらしい。過去記事か過去ツイートを遡って確かめてほしいもんです。

それはともかく、ずっと前から思っていることですけど、誰かを批判するとその人のことが嫌いだと思う人が世の大半を占めていることは絶対におかしい。「嫌いだから批判する」と思っている。

そんなバカな。「好きだから批判する」んですよ!


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『丑三つの村』と何の関係もないこんな話から始めたのは、この映画が「本当の愛国心とは何か」をテーマとしているからです。


反日=愛国
ドキュメンタリー作家の松江哲明監督が、『靖国』が国会議員の検閲を受けた問題が起こったとき、「もっと反日映画が作られるべきだ」とコメントしていてオオオオと感動したものです。なぜなら、「もっと反日映画を」という言葉こそ真の愛国心の顕れですから。

日本が好きだからこそ、この国のダメなところを挙げて批判をする。それこそが「この国をよりよくしていこう」というムーブメントを起こせる。松江監督の発言にはそういう思いがあったはずです。


「ストーリーフォーカス」と「大きな物語」
『クリエイティヴ脚本術』という本には、焦点が当てられた物語(ストーリーフォーカス)がその背景にある「大きな物語」と密接なかかわりをもたないかぎりその物語は力をもちえない、ということが説かれています。




『丑三つの村』のストーリーフォーカスはもちろん「津山三十人殺し」ですが、背景にある大きな物語はというと、「大日本帝国の物語」ということになります。

古尾谷雅人演じる主人公は、秀才で陸軍師範学校に入るための勉強に明け暮れ、いずれは帝国軍人としてお国のために戦いたいと切望していますが、肺結核と診断され夢は途絶えます。それを根っことして村人を皆殺しにする事件が起きるわけですが、いままで私はこの映画を見て主人公の「戦争」ということをあまり考えていませんでした。ラストの大殺戮シーンがやたら凄惨なうえに感動的なのでね。呆気にとられていたというか。


しかし今回見直してみて初めて気づきました。彼は外敵と戦えなくなった結果、内なる敵と戦争するのですね。あの村が大日本帝国の縮図であることは明らかです。

お国のために産めよ殖やせよじゃ! と叫ぶ絵沢萌子や、お国のために働けんようになったくせにと主人公を傷つける大場久美子らは、二言目には「お国のため」と言いますが、あれは嘘ですよね。みんなそう言ってるしそう言っておけば安全だという自己保身でしょう。最後に殺される池波志乃が、夫の軍服(大日本帝国の象徴)を主人公に向かって投げ捨てながら逃げるシーンがすべてを物語っています。

「美しい国へ」とか「愛国心を」などと言っていた安倍某が実は私腹を肥やすことしか考えていなかったことと相似形をなしています。「村のため」と言いながら人殺しを指揮している夏八木勲が、官僚に公文書改竄を指示した誰かさんにしか見えませんでした。


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彼らは愛国心を利用しているだけ。本当に国のために戦いたかった古尾谷雅人は、ニセ愛国者の彼らを殲滅することが自分の使命だと行動に打って出ます。

ストーリーフォーカスの次元では「個人的な怨念」で行動を起こす主人公ですが、大きな物語の次元では「世直し」なのですね。そしてその世直しのために主人公は「鬼」になることを決意します。


お婆やん殺害
これまでは、主人公の絶対的な庇護者であったお婆やんを殺すのは、劇中で語られる通り「惨劇を起こしたことで悲しませたくないからだ」と思っていました。確かにストーリーフォーカスの次元ではそうでしょう。しかし大きな物語の次元では「鬼」になるためだと初めて知りました。

まだ太平洋戦争が起こる前ですから「鬼畜米英」という言葉はなかったかもしれませんが、外敵を「鬼」と称する精神構造はおそらくあったはずです。主人公は内部の敵をやっつける「鬼」だと自らを規定しました。田中美佐子に「鬼!」となじられた彼は「鬼で何が悪い!」と返しますが、あれは開き直りではないと思います。その証拠にすべての殺戮を終えてもう一度田中美佐子の元に戻ってきた主人公は「鬼が鬼退治しただけじゃ」と呟いて去っていきます。

「鬼」と「神」
それはともかく、ちょっと他の人と違うだけで非国民として主人公を排斥する村人たちは、いまのネット右翼と完全に重なります。公文書偽造が明らかになりネット右翼は鳴りを潜めているらしいですが、権力者が国家の土台を崩そうとしているのだから本当に国を愛しているのなら批判するべきなのです。いま政府を批判する人こそ愛国者であり、批判しない人は愛国者の仮面をかぶった売国奴です。

だから、「鬼が鬼退治しただけじゃ」の前者の「鬼」と後者の「鬼」は意味が違います。「夜叉」という言葉も出てきますが、後者の「鬼」は前者のような本当の鬼を殲滅する「神」のようなものでしょう。

どの宗教でも「神」は鬼のように恐ろしい存在です。でも基本的に「愛」に溢れている。ラスト20分の陰惨きわまりない殺戮シーンがあんなにも感動的なのは、「村のため」ひいては「お国のため」という「本当の愛」に溢れているからだと思います。

完全に蛇足ですが、朝日新聞のスクープ記事が出た時点では政府を擁護していた人たちが、財務省が事実と認めた途端、素早く手の平を返している姿は、大日本帝国バンザイから民主主義バンザイへ手の平返しをした当時のニセ愛国者たちとまったく同じではないでしょうか?


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