コメディ

2020年05月21日

2016年にスマッシュヒットを飛ばした『逃げるは恥だが役に立つ』の「ムズキュン! 特別編」の放送が始まりました。

私は16年の初放送時は見逃してしまい、翌年のCS放送で見たんですが、なかなか斬新な切り口で面白かった。でも最後のほうは違和感も感じたんですよね。それをうまく言葉にできないまま3年近くたとうとしていますが、今回の「ムズキュン!」で違和感の正体をつかみたい、あるいは初見のときより楽しみたいと思って再見してみました。


『逃げ恥』の経済学
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(かわいいけど色気がないんだよな、この子は)

『「逃げ恥」にみる結婚の経済学』なんて本が出てるっていま初めて知りました。

劇中でも「主婦の家事労働は年収換算で304万円」と言ってましたが、私が言及したいこのドラマの「経済学」はそういうところにはありません。

労働を金銭に換算し、それを対価として払う。

まったく問題のないように思いますが、私はそれではダメだと思う。『逃げ恥』の第2話以降でどのような経済学が描かれるかあまり憶えていないんですが、少なくとも第1話では「原初の経済」が描かれていたのが興味深かった。

初見のときは気づきませんでしたが、あの二人は「沈黙交易」をやってますよね?


沈黙交易(贈与と返礼)
沈黙交易とは、言葉を交わさずに物々交換を行う人類黎明期の貿易です。

まず、ある部族が自分たちが作った作物で余りものが出ると、それを他の部族との境界線にそっと置いておく。他の部族がそれを気に入るともって帰り、お返しに自分たちの余りものを置いておく。

経済活動というと「まず需要があって、それを満たすための供給が始まる」と思いがちですが、事態はまったく逆です。まず供給するんです。贈与ですね。それに対して返礼が行われ、その返礼に対する返礼(新たな贈与)が行われ……

需要があるから供給が生まれるのではなく、供給するから需要が生まれる。

『逃げ恥』の物語を大きく駆動するのはガッキーの契約結婚の提案(供給)ですよね。それによって「結婚なんて一生縁のないこと」と思っていた星野源に初めて結婚の「需要」が生まれる。

あくまでも供給が先で需要は後。それが経済活動のあるべき姿です。(星野源だって「いつか俺だって結婚したい」と内心は思っていたはずですが、その無意識の欲求を顕現してくれたのはガッキーの思わず出た「じゃあ結婚しませんか⁉」だったはず)

主婦の家事労働が金銭に換算するといくらだ、という言説は、まず「夫に家事労働をしてほしい」という需要があって、それに対して妻が供給する。その供給に対して給料を支払え、と言っているわけですね。

でも、『逃げ恥』で描かれる家事労働と金銭の授受はそれとはちょっと違いますよね。ちょっとだけど大きな違い。


『逃げ恥』における「贈与と返礼」
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この二人は最初は星野源の「家事労働を外注したい」という需要に対してガッキーが労働力を供給したのでは?

と思う人もいるでしょう。私は違うと思う。

最初の出会いで、星野源は給料を前払いしますよね。「気に入らなかったらそれっきり会わないでいいから」と、この男らしいことを言いますが、この記事の論旨に照らし合わせると、星野源はまず前払いという形で「供給」をしているわけです。「贈与」です。

ガッキーはそれに対して一生懸命家事労働に精を出す。気に入ってもらえなかったらまた職探しせねばならない。何とかしてここの仕事を得る! という「需要」が発生しています。

この二人の間の経済活動は沈黙交易と同じように、まず星野源の供給があり、新垣結衣の需要という形で始まります。そしてその需要は「次からもよろしくお願いします」という事実上の採用メールによって満たされる。

そして、ここからが大事なんですが、ガッキーは「いつもひとつだけよけいな仕事をしている」と言いますね。

最たる例が「網戸を洗う」。そんなのは契約にない。契約にない労働力を今度はガッキーのほうが「供給」する。

土曜の朝に窓を開けたらいつもより明るかった。なぜだろうと思ったら網戸がきれいになっている。

と星野源は感激します。

彼は、おそらくガッキーの「よけいな仕事」に感動したから契約結婚という普通なら尻込みしてしまいそうな提案を受け入れたのでしょう。

そりゃ、劇中で星野源はいろんな試算結果を提示して「合理的に判断して」ガッキーの提案を受け入れたと言いますが、私は合理的なだけではあの契約結婚は成立しなかったと思う。

ガッキーの「無償の供給」に感動したから、という動機がなかったらこの作品はただの「計算ドラマ」になってしまいます。そんなものが面白いわけがない。


「必要がないものをわざわざ買う?」(大谷亮平)
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大谷亮平と石田ゆり子が初めてニアミスする場面で、彼は結婚を望む彼女に対し、「じゃあ君はさ、必要がないものをわざわざ買う?」という一言できっぱり別れますが、非常に貧しい考え方と言えるでしょう。

もう20年以上前、『ニュースステーション』で司会の久米宏が黒柳徹子など大物文化人を招いてトークを繰り広げる「最後の晩餐」というコーナーがありました。

脚本家の倉本聰が招かれたとき、

「もちろん、与えられることはうれしいし、ありがたいんだけど、他者のために与えるということがないと人間は生きていけないんじゃないか」

と言っていたのが印象的でした。

この『逃げ恥』が描く経済学は、決して必要なものを買って必要じゃないものは買わないとか、提供された労働力を金銭に換算するとかいう無味乾燥なものではなく、まず贈与があり、返礼をする、その返礼に対してまた返礼をして……という、人が人として生きていくための、ごくごく当たり前の「常識」だと思うんですよね。

それを契約結婚という非常識な形で提示したのが斬新だったんじゃないか。

いや、そもそも契約結婚って非常識なんだろうか。結婚という制度そのものを疑おうよ、というメッセージもあったのかもしれませんが、それは来週以降に置いておきましょう。



逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX
石田ゆり子
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2017-03-29





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2020年05月11日

自粛警察が跋扈するなど、コロナのおかげでこの国の陰湿なところが顕わになっている今日この頃ですが、三密を断つ、ということで通常の映画も連ドラも撮影中断。

それにめげず、「いまだからこそ」作るべき作品を作る人たちがいることに拍手喝采、感謝感激。

といっても私が見たのは、NHK『今だから、新作ドラマ作ってみました』の第二夜「さよならMyWay!!!」と、上田慎一郎監督の新作『カメラを止めるな! リモート大作戦!』の2本だけ。(ジャ・ジャンクーの『来訪』も見たけどあれはリモート撮影ではない)

両方とも面白くなかったです。でも、ここでは作品の優劣は特に問題ではありません。面白い面白くないよりも「リモート撮影の限界」が論旨です。


「さよならMyWay!!!」
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NHKの「さよならMyWay!!!」では、主人公・小日向文世の亡妻・竹下景子がパソコン画面に突如現れるところから話が転がります。

竹下景子はあの世からというとんでもなく「リモート」な出演で、当然のことながら二人のツーショットはありません。延々とパソコンの中の連れ合いとの喋くりが描かれます。

あくまでもいまは濃厚接触を避けるためにリモート(遠隔)撮影をしましょう、というだけなのに、作品世界の設定も「遠隔」というのはいかがなものか。

映画は今日撮ったカットと100日前に撮ったカットをつないでもそれらしく見せることができるメディアなのに。もったいない。


『リモ止め』の戦略
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『リモ止め』では画像のように、それぞれ自宅に引きこもった俳優さんに自分自身を撮影してもらう。

台本上は同じ部屋にいる設定であっても、別個に撮って編集でつなぐとの監督の指示があり、自分で首筋をこちょこちょし、別個に撮ったこちょこちょする手とつなぐという手法。これを『カメ止め』の監督らしく、すべてばらしたうえで見せています。

だから「さよならMyWay!!!」とは違い、作品世界では同じ場所に二人の人物がいるわけです。

しかしながら、その二人を別個に撮るという監督の指示がばらされている。舞台裏をばらすことで逆に面白さを醸し出そうという戦略は、特に面白いものではありませんでしたが、戦略としては充分アリだと思います。

しかし……


映像リテラシーの問題
あれは阪神大震災の年だからもう25年前ですか。ハリウッド俳優が日本のCMに大挙して出ていた頃のことですが、ハリソン・フォードが筒井道隆と一人の女優(誰だったか忘れた)と共演! みたいな言われ方をしていたCMがあったんですけど、ハリソン・フォード一人と、筒井道隆と女優のツーショットがカットバックされていたんですね。

「これ共演じゃなくて別撮りじゃないか!」

と専門学校の同期生と笑ってしまいましたが、「普通の人は別々に撮ってるってわからないんだろうなぁ」と誰かが言っていました。

だから、リモート撮影であっても、「さよならMyWay!!!」のように舞台設定も別々にしないといけなかったり、『リモ止め』のように舞台設定は同じでもそれを別個で撮っているというネタばらしが必要になってくるんだな、と。

もし、別撮りの映像をうまくつないでまるで室内で仲良く団欒している(ような)シーンやスポーツに興じている(ような)シーンを見せても「どこがリモート撮影なんだ!」というクレームが出るんだろうなと思った次第。

一般の観客にそういう「映像リテラシー」を求めるのは野暮でしょう。みんなが映像リテラシーなんかもってしまったら作り手はかなり作りにくくなっちゃいますもんね。映画を作ったことのある人ならわかると思いますが、映画なんて最終的には「いかにごまかすか」ですから。

だから、「リモート撮影」という条件で一番個性を発揮できるのは、いいか悪いかは別にして、やはり『カメ止め』の上田慎一郎監督ということになるのでしょう、と思ったところで、カットカット!


マッケンドリックが教える映画の本当の作り方
アレクサンダー・マッケンドリック
フィルムアート社
2009-09-28







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2020年05月06日

ツイッターのフォロワーさんが、あの水野晴郎氏の『シベリア超特急』なみにすごい、と言っていたので非常なる興味をもって『M 愛すべき人がいて』1話から3話までを見てみました。


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いやいや、これは『シベ超』なんかと比べるのは失礼ですよ。同じく珍作ではありますが、まったく作法を知らずに作られた『シベ超』よりこの『M』のほうが断然面白い。私の大好きな金子修介監督のこれまた珍作『プライド』(満島ひかり主演)に通じるものを感じました。


しっかりした結構
鈴木おさむ氏による脚本はとても結構がしっかりしていると思います。

上京して女優を目指す女の子アユが、マサというプロデューサーとの出逢いで運命が変わっていく。

その直線上に、ライバルの女の子たちや、会社の社長(高嶋政伸怪演)、得体のしれない秘書(田中みな実)が立ちはだかる。周りの環境が彼女を締めつける。ときにはマサもアユをいじめぬく。アユはそれらに打ち勝ち、頂点へまっしぐら。でもまた困難が立ちふさがり……

というメロドラマの構成がとてもしっかりしていると思いました。しっかりしているから臭いセリフも聞いていられるのでしょう。


臭いセリフ・いいセリフ
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「俺の作った虹を渡れ!」
「あいつを選んだのは俺じゃない。俺を選んだのも俺じゃない。あいつを選んだのは、神様だ」

とかの臭すぎるほど臭いセリフのオンパレードですが、一方で、

「誰かを育てるときに大事なのは、自分も育とうとすることだ」
「未来は見えません。でも未来は作れます」

といった普通にいいセリフもありました。

いずれにしても、このドラマは「セリフを聞かせる」ことに注力しています。映画じゃなくてテレビドラマだからそれでいい。(『プライド』は映画でしたけど、あの映画の満島ひかりはヤバいほどにすごかった)

セリフを聞かせることにおいて、意識的かどうかは定かではありませんが、監督さんの編集コンセプトがかなり関わってきているように感じました。


常に喋っている人物を見せる
普通の映像作品なら、セリフのずり上げやずり下げということが行われます。

この『M』でもずり上げはあります。前のシーンの映像に次のシーンのセリフを乗せるとか。

でも、ずり下げはない。普通のずり下げは、喋っている人物のカットを割って、対面してそのセリフを聴いている人物のアップに切り替える手法ですが、この『M』ではそれがほぼありません。

常に喋っている人物が画面に映っています。そして喋り終わった途端、カットを割って聞いていた人物の無言のリアクションをしばらく見せてからその人のセリフを言わせる。ほとんどのシーンでこういう編集がなされているので意識的なのでしょう。(癖なのかもしれませんが)

編集をやっていた経験から言うと、常に喋っている人物を映すのってダサい感じがするんですよね。たまには聞いている人物にセリフを乗せたくなる。

この『M』も最初はダサさを感じました。でもここまで徹底していると、逆に、臭いセリフや大仰なセリフ回し、それらをすべてその人物の顔とともに見聞きするので、より大仰な感じがしていい意味でのケレン味が出ていると感じました。

第3話では普通にずり下げしている場面が数か所あるんですよ。監督が変わったからでしょう。でも1話と2話の木下高男監督は徹底してずり下げを行わない。

いや、1話と2話でそれぞれ一か所だけずり下げが行われたシーンがありました。

1話の、マサがアユに「女優をやめて歌手を目指せ。目の前の人間に伝わるように歌え」という場面。
2話の、天馬がアユに「目の前の人間に伝わるように歌いなさい」という場面。

あそこは聞いているアユの表情こそ大事ですからね。どちらも序盤の核心的なセリフですし。

特に1話では、田中みな実の奸計によってストーカーとして追い出されそうになったアユが、マサに伝わるように歌うことで窮地を脱しますし、2話では、伝わるように歌うことを習得したアユの成長が描かれますから。

ここぞというときだけずり下げを行った編集の勝利ではないかと。

以下は蛇足です。


田中みな実が笑える
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誰もが言うことでしょうが、マサの秘書を演じる田中みな実がすごい。臭すぎるほど臭い芝居ですが、あの役はあれぐらい臭くて大仰じゃないと成り立たないでしょう。

片目を失った背景を早く知りたい。あの眼帯の奥がどうなってるのか見たくてしょうがない。

というか、これってあの大映ドラマの名作『スチュワーデス物語』のパクリですよね。


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義手をはめた片平なぎさが風間杜夫に迫るシーンが毎回ありました。『M』でももっと田中みな実をフィーチャーすべきじゃないかなぁ。せっかく出てくるだけで笑えるおいしい役なのに。


清水美紀はもっと笑える
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アユに歌唱法を教え、根性を叩きこむ天馬先生を演じる水野美紀はもっと笑えました。

田中みな実は本業が女優じゃないからあそこまであざとい芝居をするのにも躊躇はないんでしょうが、清水美紀は曲がりなりにも女優なので、だいぶ照れがあったんじゃないですかね。でもその照れがいい。

アユを演じる安斉かれんも水野美紀の芝居に笑みをこぼしてましたよね。あれをNGにせずそのままオンエアにすることに決めたのは素晴らしい。ここまで臭くて大仰なんだからああいうのもOKにしましょうということですね。単にスケジュールの問題だけかもしれませんが。


というわけで、コロナのせいで撮影中断し、次の第4話をいつ見れるかわからないのが残念でしょうがない。

でも、『半沢直樹』や他の作品のように、最初からすべて延期にしなかったのは、途中まででもあまりに笑えて話題になるから、という計算なのでしょうね。放送再開されたら視聴率トップに躍り出たりして。





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