コメディ

2019年12月15日

周防正行監督5年ぶりの新作『カツベン!』

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5年ぶりといっても5年前は映画断ちをしていたので『舞妓はレディ』は未見です。『終の信託』もシナリオを読んだだけで見る気が失せたので劇映画としては『それでもボクはやってない』以来でしょうか。個人的には。

そもそも周防さんの映画はそれほど好きじゃないので期待はしていませんでしたが、映画全体は特に可もなく不可もなく、といったところでした。

黒島結菜はかわいいけど「映画の顔」をしていないとか、成田凌はぎりぎり映画の顔と言えるけど、竹中直人や竹野内豊、小日向文世、高良健吾はまぎれもなく「映画の顔」。そんななか「テレビの顔」としか言えない井上真央を使っているのは解せない。

などということはほとんどどうでもよくて、私が瞠目したのは次のシーン。


弁士の説明で映画は変容する
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劇中劇として使われるサイレント映画の『椿姫』。私は当時公開された本物のフィルムを使っているのかと思ったら、この二人、城田優と草刈民代なんですってね。驚いた。製作費を安くするためでしょうか。それともフィルムが残ってない……?

とまぁ、そんな楽屋落ち的なことに瞠目したのではなく、同じ『椿姫』が弁士の説明によって悲恋物語にもなり、爆笑コメディにもなる、というところ。

コメディ的な説明をするのは主演の成田凌がふざけてそういう説明をつけるんですが、ふざけた説明をつけると、悲恋物語がコメディに変容するというのは、わが意を得たり! という気分でした。


↓過去にこんな記事を書きました。↓
町山智浩さんの『市民ケーン』解釈への反論


『市民ケーン』の解釈をめぐって私の解釈は間違いだという人がいたり、解釈を公にするには言論の倫理に則るべきだとか、意味のわからないコメントがたくさん並んでいます。

『カツベン!』における弁士の説明もひとつの「解釈」ですよね。

いや、むしろ、観客は映画そのものよりも弁士の解釈を聴くためにお金を払っている。飲んだくれの永瀬正敏に「ちゃんと説明しろ!」とヤジが飛ぶのがいい例です。

『5時に夢中!』で、周防正行監督が言っていました。

「もともとサイレントは音がない状態として作られたんだから、この映画の脚本を読ませてもらうまで、サイレントは完全に無音の状態で見ていた」

私もそうです。だけど、映画の最後に稲垣浩の言葉が出ていました。

「日本では本当の意味のサイレント映画はなかった。弁士が説明していたから」と。

周防監督は、諸外国でも生伴奏つきの上映がほとんどで完全無音の状態で見ていた観客は世界中探してもいなかったんじゃないかと言っていました。


解釈を聴きたい映画ファン
つまり、当時の観客(特に日本の)は、映画そのものを見ていたというより、弁士の説明を聴きに映画館へ行っていたわけです。

ちょいと前の映画ファンが蓮實重彦の本を読みあさったり、いまの映画ファンが町山さんの言葉を聴きに行ったりするのと同じですね。

周防監督が言うように、完全無音の状態、つまり弁士の説明がなくてもサイレント映画の物語は理解できます。でも、当時の観客はそれでは飽き足らなかった。弁士の「解釈」を聴きたかった。

だから、同じ『椿姫』を悲恋物語として楽しみ、翌日には爆笑コメディとして楽しむという見方ができたわけです。

何が言いたいかというと……

映画の解釈というのは人それぞれであってよい、というごくごく当たり前のことです。

昔の映画ファンは弁士の説明を聴きたかった。
いまの映画ファンは町山さんなど権威ある人の意見をありがたがっている。

いまも昔も一緒じゃないか、と思うかもしれませんが、私はぜんぜん違うと思う。

だって、昔の人は同じ『椿姫』をぜんぜん違う物語として楽しんでますから。違う解釈を楽しむ度量をもちあわせていた。

それがいまでは、たったひとつの解釈しか許さないという狭量な人たちが跳梁跋扈している。ぜんぜん違います。

作者がこう言っているからその解釈は誤りであるとか、ある文献にはこう書いてあるからあなたの解釈が間違っているなどといって自分の解釈を押しつけてくるのは下品きわまりない。


映画体験はきわめて個人的なもの
『椿姫』にしろ『市民ケーン』にしろ、どう解釈しようとその人の勝手。その人にとってその映画がどういう映画だったか、それが大事なわけでしょ。

映画体験はきわめて個人的なものなのだから、『椿姫』を悲恋物語として見てもドタバタコメディとして見ても、その人の自由。

私は町山さんの『市民ケーン』の見方に驚嘆し蒙を啓かれましたが、映画そのものを見ると、やはりそういう映画には思えなかった。

友人は『アイアン・ジャイアント』を見て泣いたそうです。でも同じ映画を見た私はラストシーンで爆笑しました。

それでいい。







2019年09月19日

三谷幸喜の劇場映画監督第8作の『記憶にございません!』は、例えば「映画芸術」の熱心な読者だったりする人から「こんなのはただのファンタジーだ」「政治というものを舐めている」みたいなお叱りの声がたくさん届きそうな映画でしたが、政治がメインの話じゃないから別にいいんじゃないでしょうか。

メインプロットは「悪辣だった人間が真人間に変わる」というビルドゥングス・ロマンであり、その主人公が総理大臣というだけのこと。主人公が変わらなければこの国はどうなる? という大きな問題があったほうが変わることの爽快さが倍増するという狙いでしょう。政治映画をやりたかったわけじゃないんだからこれでいいと思います。

ただ、これでいいというのは、あくまでも政治的なあれやこれやが「これでいい」のであって、シナリオには大きな問題があると思います。

この映画の題材は「政治」ではなくあくまでも人間の「変化」です。そしてそのための仕掛けが「記憶喪失」。記憶とは「情報」です。情報の扱い方に問題があるのです。(以下ネタバレあります)


主人公と観客の同化
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映画は主人公が記憶喪失になった直後から始まります。病院をさまよい出ると、道行く人たちの話から彼が総理大臣であることがわかる。幼い頃の記憶しか残っていない彼は「観客と一緒に」さまざまな情報を得ていきます。

妻と疎遠になっている
息子はグレかけている
史上最低の総理大臣である
実権は官房長官が握っている
野党第二党の党首と愛人関係にある
政治ゴロからヤバい写真を買った

などなどの情報を我々観客は主人公とともに知ります。最初めっちゃ恐いですよね。登場する人物が何者か主人公(観客)だけがわからない。いまの言葉の意味はいったいん何だろう? この人との関係は? 次に何が起こるのか? 次々に浮かぶ疑問と恐怖を主人公と共有し、彼が忘れてしまった情報を観客は彼と一緒に知り、記憶をなくす前の個人的事情からこの国の内情までを知ります。

主人公が知っていく体になってはいますが、実は作者が観客に教えてるんですよね。よく、その仕事や事情に疎い人物を出して彼/彼女に教える形で観客に細かい情報を伝える手法が取られますが、あれの最も壮大なバージョンですね。何しろ総理大臣ですから。世の中のすべての人が彼のことを知っている。でも彼自身は自分のことを知らない。主人公を総理大臣にしたのはだから炯眼とさえ思うわけです。

しかし!


戦略の分裂
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妻の石田ゆり子と首席秘書官のディーン・フジオカは愛人関係にあるんですが、それは「我らが分身」の中井貴一総理がまったくあずかり知らぬところで明かされます。息子が反抗的なのは中井貴一も知っていますが、酔っぱらって補導されたことは知りません。観客だけに明かされます。

これは端的にダメではないでしょうか?

せっかく、映画内世界のすべての情報を主人公と一緒に知っていくという、まるで観客自身が記憶喪失になったかのようなスリルと興奮に水を差しています。主人公が知っている情報量と観客が知っている情報量を常に等しくしてなければならないはず。

確かに、中井貴一が妻の不倫を知るのは最後のほうがいいでしょう。佐藤浩市がスキャンダル写真を売って新聞に載ったときに知ったほうが「そんなこと知らなかった!」となって窮地をどう脱出するか楽しみが増すし。息子の補導も草刈正雄官房長官がスキャンダルとして出したために主人公が初めて知る……

いやいや、これはまったく正確な説明ではありませんね。

中井貴一が妻と秘書官の関係を知るのは佐藤浩市から買った写真が額縁の裏に隠しているのを見つけたときです。新聞に出る前に知っている。
息子の補導のほうは、何と中井貴一は最後まで知ることがない。草刈正雄がスキャンダルとして世に出そうとしますが、佐藤浩市が拒否したため、その情報は最後まで主人公が知ることはありません。

これでいいのでしょうか? なくした「情報」を取り戻すこの物語において。その取り戻し方が「主人公と観客が一緒に」という基本戦略だったこの映画において。

これは「戦略の分裂」であるとも言えるし「主人公と観客の一体化の分裂」とも言えます。


本当のご都合主義
妻の不倫を最初のほうで知ってはまずい。総理にとってのスキャンダル、そこからの起死回生の大逆転のために最後まで知らないことにしたい。その気持ちはわかります。しかしながら、主人公と一緒にさまざまな情報を知っていく面白さを追求したこの映画において、それは基本戦略を反故にするということ、つまり観客への裏切り行為ではないでしょうか。(そして最大の裏切り行為はラストです)


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物語が始まる前に佐藤浩市に2000万払っていれば彼は登場してこない。登場しなければヤバい写真の存在を事前に売っておくことができない。それはわかります。

だけど「買ったけど金は払ってない」って完全におかしいですよね? 金を払っていたら佐藤浩市は登場しない。でも買ったことにしないと、つまり中井貴一が写真をすでに受け取っていることにしないと、序盤で佐藤浩市が不倫写真を中井貴一に見せてしまう。それを避けるために「買ったけど金を払っていない」という設定にしているんでしょうが、金をもらってないのに写真を渡すなんて金だけが目的の佐藤浩市の信条と完全に矛盾する。

こういうのを本当の「ご都合主義」というのです。日米首脳会談であんなにはっきりアメリカの要求を拒絶したらとんでもないことになる。「あれが丸く収まるなんてご都合主義だ!」と言う人も世の中にはいるのでしょうが、前述のとおり、私はそっちのご都合主義は別にいいと思います。その程度なら「人間は変わろうと思えば変われる」という青臭いテーマに合うし。

でも、妻の不倫に関する情報の錯綜はどうにもしっくりきませんでした。そうしたくなる気持ちがよくわかるだけに。


記憶はいつ回復したのか?
額縁の裏に不倫写真を隠してあるのを見つけ、新聞に出る前に妻の不倫を知ってしまうのはどうなんでしょうか? あれだけ「好きなタイプだ」と言い、党首討論の場を借りて妻に「愛してる!」と絶叫していた総理にしては、何の葛藤もなさそう。

って、もしかすると、写真を見つけたときが記憶が回復したときなんでしょうか?

最終的に記憶が元に戻るというのは大切なことです。嘘をついたために転がる物語なら必ず嘘がばれなければいけないし、失われた記憶は元に戻らないといけない。物語の鉄則です。

でも、「いつ」戻ったのかは明確にしないといけないんじゃないでしょうか。記憶喪失をめぐる物語が「いつの間にか記憶喪失は治ってました」で終わってはあまりに恰好がつかない。刑事物語において「いつの間にか犯人は逮捕されていました」というのと同じですから。

もっと言えば「実は戻ってました」ではなく、主人公と観客が一緒に記憶の回復を体験するようにしないといけない。

「アレ問題」も同じ意味でダメでしょう。閣僚の一人から「アレはアレということで」というやつ。最初は話を合わせていた中井貴一が最後のほうで「アレはやめときましょう」と言う。アレが何を指すかわからないのになぜ? と思いましたが、あのときすでに記憶が戻っていたのですね。でもそれが事後的にわかるのはやっぱり前半との整合性が取れていないと言わざるをえません。終盤の中井貴一はもはや「我らが分身」ではない。

開巻と同時に主人公に同化した観客が、最終的に主人公に裏切られる。それがこの映画の正体です。


宮澤エマ
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アメリカ大統領の通訳役として出ていたのがこの人、宮澤エマ。

最初、英語も日本語もうまいので「本物の通訳を連れてきたのか?」と思ったほど。でも大統領が木村佳乃なのになぜ? よく見ると顔に見覚えがある。誰だろう??? だいぶたってから宮澤エマと気づきました。

ハーフで英語がうまく、当然芝居もうまい。しかも映画初出演らしく変な色がついていない。いいキャスティングだと思います。いまごろオファーが殺到していることでしょう。


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三谷幸喜によれば「中井貴一主演でコメディを作りたい」ということで始まった企画らしく、なるほど、実に楽しそうに、実にうまく演じています。今年の主演男優賞は総ナメかも。

役者への演技指導が素晴らしいし、その芝居をできるだけワンカットで見せようという映像演出などはよかっただけに、脚本のご都合主義がとても残念です。







2019年09月06日

マリサ・トメイがアカデミー賞を受けた驚愕の瞬間がいまだに忘れられない『いとこのビニー』(1992)を再見しました。

四半世紀以上前の初見時は「まあまあかな」という程度でしたが、今日見直してみて「傑作!」と思いました。(以下ネタバレあります)

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脚本とキャスティング
この映画、何といっても脚本がいいですよね。正確には脚本とキャスティングのコラボレーションかな。

まず、ジョー・ペシが少しも弁護士に見えない。しかも、大学を出て6年かけて司法試験に合格し、初めての法廷、ということは、え、まだ30前後? 少しもそんなふうに見えない。ちなみにこのときのジョー・ペシの実年齢は49歳(!!!)

マリサ・トメイはこの男のどこに惚れたんだろう、と見ていると、何だかんだ言ってかなり一生懸命ですよね。嫌味な判事に借りたアラバマ州の法律についての分厚い本を深夜3時まで読んでいたり。マリサ・トメイもちゃんとそれにつきあってあげる。先に寝たりしない。

事件解決のオーラスで「あなたはこの先も誰かの力を借りないと弁護士やっていけないのよ! どうせそういう男なのよ!」とマリサ・トメイが吼えるシーンがありますが、そういう「放っておけない」ところに惚れたんですよね。だから、主人公とその恋人のキャラクター設定と描写に関して、つまり脚本に関しては文句なしにいい仕事をしていると思います。

ただ、この主人公を実年齢49歳のジョー・ペシが演じる。その時点で嘘臭い。でも、その嘘を嘘と感じさせないジョー・ペシの役者としての柄といいますか、この2年前には『ホーム・アローン』でコメディをやっていたし、『グッドフェローズ』だってギャング映画だけど彼の役どころはかなりユーモラスなものでした。恐くもあったけど。


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そんなジョー・ペシが嫌味な判事(いい顔を選んでます)にほぼ毎回、法廷侮辱罪で監獄送りにされながらも一生懸命健気に頑張る姿を見て、観客は彼のことを応援するようになります。

そして、この粗野でがさつで少しも弁護士らしくない男が難事件を解決してしまうラストに思わずこちらも「ヨッシャ!」とガッツポーズしてしまうんですね。映画が終わったときには主人公が30前後の設定とかそんなことはどうでもよくなっています。

だから、よくできた脚本と、マイナス面もあるけどプラス面のほうが大きかったジョー・ペシのキャスティングが勝因かと。

でも、もっと大きな勝因は「演出」ではないでしょうか。


演出
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ラルフ・マッチオ、いまはどこでどうしているの? と嘆きたくなりますが、それはともかく、この映画は、古典的ハリウッド映画でよくあった、画像のようなツーショット、スリーショットがとても多いのが特徴です。

判事に叱られているジョー・ペシと彼を心配げに見るラルフ・マッチオを同時に画面に収める。いまのアメリカ映画なら二人を個別に撮って編集でつないで見せる演出が多い。そうすると、ひとつの画面に焦点がひとつしかない、ということになってしまいます。


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これは最後の勝った場面ですが、手前の二人と奥の判事と合わせて3つの焦点があります。ワンショット内の情報量が多いのです。

この題材で119分は長いような気がしないでもない。でも、こういうまっとうな演出手法をとったからこそ2時間以内に収まったとも言える。

逆に言えば、いまのアメリカ映画はワンショット内の情報量が少ないから無駄にカットを重ねねばならず、自然と上映時間は長くなる。

いまの観客はおそらく映像を読む力が衰えています。上の画像の場面で言うなら、ジョー・ペシ、マリサ・トメイ、そして判事。3人の表情を数秒で捉えないといけない。それができない客が増えてしまったから情報量の少ないショットをよけいに積み重ねないといけなくなり、上映時間は長くなるばかり……という悪循環に陥っています。

というわけで、古典的ハリウッド映画の作法に則った『いとこのビニー』は正真正銘の傑作と言いたいのです。


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それにつけてもマリサ・トメイ。美しい。