コメディ

2019年07月09日

ついに今週末からロードショーされる『トイ・ストーリー4』公開に先立ち、前作『3』がテレビ放映されました。


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前回、『新聞記者』の感想(⇒こちら)で、「善と善」の対立にしないといけないという私の主張(というかおおもとはある高名な脚本家)がわからないと友人に言われまして。

言葉が足らなかったかもしれませんが「善」というのは「善人」という意味ではありません。「その人の言い分に納得できる」「その人にも同等の理がある」ということです。どうしても安倍政権を批判している映画だから政権側にも理があるというと反安倍派の人たちは「そんなものがあるか!」と感情的になってしまうみたいで。どうしても政治のことになると頭に血が上ってしまうのが人間という生き物のようです。

そんなときに『トイ・ストーリー3』の放映。劇場で見て以来の鑑賞でしたが、これがすばらしく「善と善」の対立になっていて、いい見本だと筆を執りました。


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「悪意」のないドラマ
このロッツォという名のクマのぬいぐるみがとんでもなく悪い奴なんですが、彼が悪い奴になってしまったのには理由があるんですよね。

ウディにとってのアンディのような、素敵な持ち主の女の子にかわいがってもらっていたのに、ハイキングに出かけたときその子が眠ってしまい、親が寝かせたままおもちゃを全部置いたまま帰宅してしまった。ひたすら待つが持ち主は来ない。自分たちの足で何とか帰ると、同じぬいぐるみの新しいのを買ってもらっていた。

捨てられたと思ったロッツォは一緒に捨てられた仲間たちと「捨てられたおもちゃの帝国」を作り上げ、そこの支配者として君臨している、と。

確かにウディが指摘するように、持ち主に新しい代わりができたのはロッツォだけで他のおもちゃは帰る余地があった。それを一緒にダークサイドに道連れにしたのはロッツォの悪意でしょうが、ハイキングで置き去りにされてダークサイドに堕ちたからそうなったわけで、じゃあ、置き去りにしたのはなぜかというと、女の子が寝てしまったから。両親はおもちゃのことなんて頭にないし、なくしたら新しいのを買えばいいと思っている。子どもは子どもの原理、親は親の原理で行動しているだけ。

誰にも悪意がない。悪意によって対立を生むのではなく、そういうのなしでドラマを組み立てろよ、というのがくだんの脚本家の指導でした。『新聞記者』では生物兵器という世界中を敵に回しかねない極悪を根っこに設定しているので「無理やり感」があるんですよね。『トイ・ストーリー3』は見事にそれを体現しています。


底流する「別れの予感」
ToyStory3-1

ここからは純粋に『トイ・ストーリー3』の感想ですが、アンディが大学に行く年齢になり、ウディやバズと遊ぶことがないという背景が何とも哀しいですね。「出会いは別れのはじまり」とhwvあよく言いますが、いつかはおもちゃ離れしなきゃいけないときが来る。いつかは親元を離れないといけないときがくる。いつかは親しい者との死別のときがやってくる。(飼い犬が老犬になっているのが死別の暗示になっています)

とはいえ、アンディはウディたちが慕うだけあって、用済みだと捨てたりはしません。ただウディだけは別にして他のおもちゃを屋根裏に保管しておこうと思っただけ。なのに、ひょんなことから母親がゴミとして出してしまう。ここにも悪意はありません。ロッツォの持ち主の両親と同じく「大人はおもちゃのことなどこれっぽっちも気にしていない」というのが『トイ・ストーリー』の世界観だからです。

考えてみれば、このシリーズは目的地へ向かってまっしぐら! という内容ですね。1作目から3作目まで見事に自分たちの家に帰るお話です。


「運命」に逆らうドラマ
が、この『3』が異色なのは、逃げる唯一の道が溶鉱炉へ通じるゴミ箱というところです。「おもちゃはいずれ飽きられるか壊れるかして捨てられ燃やされる運命だ」とロッツォは言いますが、ウディたちは何とかその運命に抗います。ただの物理的な脱出ではなく、「運命」という神の掌からの脱出になっていて、2作目までとは一線を画す壮大な脱出劇となっています。

では、『4』はどういう脱出劇なのでしょうか? それとも脱出劇ではなく違う趣向の物語なのか。私は『3』を超える新しい脱出劇を見せてほしいと切望しています。「運命」以上の壁はあるのか。いずれにしても予想をはるかに超えるものを見せてくれるはず。

期待してまっせ!






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2019年05月11日

カズオ・イシグロを初めて読みました。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』。長兄から深いぞ読めと強く勧められたもので。しかしいまをときめくノーベル賞作家の代表作が150円とはちょっと異常な安値。それはともかく、この小説の「どんでん返し」には瞠目しました。


TheRemainsofTheDay

大邸宅で長らく執事を務めていた主人公スティーブンスが、新しい主人のアメリカ人から旅行を勧められ、旅先で過去を回想するのが全体のあらまし。

スティーブンスが何度も語るのが、執事にとっての「品格」とは何か、という問題で、同じく執事だった父親の雇主に対する敬意と、雇主を貶める発言をする輩にどういう態度を取ったかなどが語られます。

また、下僕と女中がデキてしまい突然書き置きだけ残していなくなってしまうというエピソードが何度も語られます。ときによっては執事と女中頭というケースもあり、スティーブンスはそのような人たちに理解を示しつつも、あまりに無責任ではないかと批判的でもあります。

雇主への敬意と同僚の女性とデキてしまうことへの嫌悪。

この二本柱で行けると作者は踏んだのでしょう。
実際、この『日の名残り』は、主人公スティーブンスがだいぶ前に辞めた女中頭ミス・ケントンとの再会がクライマックスになることが読者の誰にも明らかなように書かれています。そこでスティーブンスの胸中に何が湧き起こるか、これも誰の目にも明らかなのですが、その直前に描写されるのが、雇主であるダーリントン卿の身に起こる悲劇。

主人に対する敬意と忠誠心を「品格」の中心に据えて一生を生きてきた執事が、それゆえに主人の悲劇を止められなかった。何という皮肉。

そして、ミス・ケントンからは「ずっとあなたが好きだった」みたいなことを言われ(もちろん、そのような直截的な表現はしませんが)スティーブンスは沈みゆく夕日を眺め、日の名残りに身をゆだねながら涙を流す。

品格を何よりも重んじ、自分の心を押し殺すことを重視して生きてきた男が、結局は主人の本当の姿を見誤り、一番身近にいた女性の気持ち・女性への気持ちに対してあまりに盲目だったことを思い知らされる。

しかし、これで終わりならよくある話でしかないし、なぜ一人称で書かれているのかもわからない。

この物語には痛烈なオチがあって、自分のバカさ加減に泣いたスティーブンスは、後ろ向きになってはいけない、新しいご主人様のために前向きにならねば、と思うのはいいんですが、何とあろうことに、

「いままでの自分は真面目すぎた。もっと冗談を言うのが必要ではないか。ジョークの練習をしてご主人様をびっくりさせよう」

という意味の独白で幕を閉じるんですが、このラスト1ページで悲劇が喜劇に変わってしまうところがこの『日の名残り』の勘所でしょう。

いや、そういう問題じゃないでしょ、と突っ込みたくなるというか、これからはジョークが必要とされている、充分練習しよう。って、そういう真面目さが悲劇を生んだことにこの主人公はまったく気づいていない。
そう、彼は何も学んでいないのです。長年の執事人生のために、主人を喜ばせることしか見えていない。ジョークを蔑視していたのに、その気持ちを押し殺して主人を喜ばせるためにジョークの練習をするという。

まったくお笑い草です。というか、それまでスティーブンスの語りに感情移入し、彼と一緒になって喜怒哀楽を共にしてきた読者が、ラスト1ページで一転、スティーブンスのバカさ加減を笑うしかない、ものすごいどんでん返し。

一人称で書かれていた理由がわかりました。

谷崎潤一郎の傑作中編に『神童』があります。あれも、悲劇街道まっしぐらの主人公が一人称で語るんですが、主人公にとっては少しも悲劇ではなく、これから上昇志向だ! みたいな語りで終わるんですが、それを読んでいる読者は何もわかっていない主人公を笑うしかない構造になっていました。

この『日の名残り』も同様でしょう。いや、『神童』が悲劇でもあり同時に喜劇でもあることを匂わせながら物語を進めていたのに対し、最後の1ページでどんでん返しをやってのけた『日の名残り』のほうが一枚上手なのかもしれません。

カズオ・イシグロの主人公への冷徹きわまりない「目」に感動しました。











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2019年04月21日

見てきました。『マネー・ショート ~華麗なる大逆転~』のアダム・マッケイ監督・脚本によるアカデミー賞候補作『バイス』。(以下ネタバレあります)



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ソックリさん大会と爆笑場面
チェイニーのことは名前と子ブッシュ政権のときの副大統領だったことぐらいしか知りません。ラムズフェルドがフォード政権時に史上最年少の国防長官だったというのもこの映画で知ったくらいでして。

それにしてもソックリさん大会みたいなこの映画、ラムズフェルドだけは似てませんが、チェイニーも子ブッシュもパウエルもライスもみんな激似で笑いましたが、映画そのものに笑えたかというとそれほどではなかったかな。サム・ロックウェルによる子ブッシュはあまりに似てて素晴らしかったけど。

一元的執政府理論を弁護士から聞いてニヤける場面のストップモーションは爆笑でした。「法律の解釈次第で何でもできるぜ!」なんつーのはいまの日本にも通じるアクチュアルな問題ですね。ほんと、法律なんて悪い奴のためにある。


子煩悩な一面はカットすべき
政治か娘かの選択を迫られたときに娘を選択し、それが原因で政治から引退し、幸せに暮らしましたとさ。という架空のエンディングもよかった。突如クレジットが流れる場面はあの伝説の『シベ超』を想起したほど。

ただ、その「政治か娘か」という選択で娘を選び、子ブッシュが同性婚に反対しているけど自分はその政策には同意できないという子煩悩な一面を見せるチェイニーですが、娘に関連した「いい親父さん」のエピソードはすべてカットしたほうがよくないでしょうか。

それでは事実を歪曲したことになる? いや、でも、冒頭で「かなり忠実にしたつもり」みたいなふざけたテロップが出るから少々いいんじゃないですかね。『ビューティフル・マインド』だって主人公の同性愛とか奇行にはまったく触れてなかったし。(批判もありましたが)

viceという英単語には「副」という意味の他に「悪徳」「邪悪」という意味もあるらしいので、子煩悩な一面とか全面カットして、大統領独裁の礎を築いた「世紀の悪徳副大統領」という側面だけで押したほうがよかった気がします。


ナレーターの正体
冒頭からある人のナレーションで話が進みますが、最後のほうでナレーターの正体が明らかになります。心臓発作で倒れたチェイニーに心臓を提供したドナーだと。これ、ぜんぜん面白くないですよね。ドナーはあくまでも死後に関係性が生じるだけで逆に言えば生前は何の関係もない人。そんな人に大事なナレーションを任せるんですか? ありえない。

イラク戦争のせいで自殺した兵士にするとか、富裕層を優遇したせいで失業した貧困サラリーマンにするとか、「チェイニーのせいで不幸になった人」にするという手もありますが、それはシリアスドラマならの話。

ブラックコメディなんだから、チェイニーのおかげで大儲けした人・幸せになった人をもってくるのが最善手じゃないでしょうか。最後にハグしてジ・エンドとか。かなり笑えたと思う。


役者のアンサンブル
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『マネー・ショート』と同じく、役者のアンサンブルで魅せようという映画ですが、ちょっと散漫になってませんかね? クリスチャン・ベイルが主役なのはわかるんですが、やはりソックリさん大会の意識のほうが高いのか、芝居というより物真似になってる気がする。

一番人々が知らない奥さんをデフォルメするのがいいと思ったんですけどね。でも、マクベス夫人の出来損ないみたいな役柄で、しかもエイミー・アダムスにマクベス夫人は荷が重いのでは? ジェニファー・ローレンスならもっといろいろできたと思うんですが、それはそれでシナリオの書き直しとか大変そう。

アダム・マッケイ監督には、『俺たちニュースキャスター』『アザー・ガイズ!』みたいなハチャメチャコメディをまた撮ってほしいニャ。こういうのも悪くないけど、ちょっと肩に力が入りすぎな気がします。『マネー・ショート』はいい塩梅だったんですけどね。

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『マネー・ショート』(華麗なるアンサンブル!)






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