アメリカ映画

2019年02月23日

黒沢清監督が生涯ベストワンに挙げている、リチャード・フライシャー監督による1971年作品『ラスト・ラン/殺しの一匹狼』。

黒沢さんはフライシャーの経済効率にすぐれた映像演出を絶賛していましたが、私がこの映画で一番すごいと思うのは脚本家アラン・シャープによるセリフですね。


背景を説明しない
the_last_run_3 (1)

まずこの『ラスト・ラン』の最大の特徴は物語や登場人物の背景をほとんど説明しないことです。

舞台もどこなのか判然としない。ヨーロッパ人なら簡単にわかるのかもしれませんが、私は主人公ガームスが船を貸している懇意の漁師がミゲルという名前であることと、彼が「大西洋」と言っていること、そしてフランス税関が出てくることから、バスク地方かもっと下ってポルトガルとの国境あたりなのかな、ぐらいしかわからない。テロップでどこそこと出さないのが大変よろしい。どこで起こった物語かなんてあまり関係ないというか、この3人ならどこで出会ってもこういう展開、結末しかありえなかっただろうという普遍性があります。

ガームスは9年ぶりの仕事に際して息子の墓参りをします。3歳で死んだそうです。でもなぜ死んだか映画は教えてくれません。息子が死んだ直後、奥さんは「胸を膨らませに」と言って家を出ていき、そのまま帰ってこなかったとか。男ができたのか、それとも息子が死んだことで一緒にいたくなくなったのか。映画は最後まで明かしてくれません。

ラストでも、モニークが裏切ったのかどうかもよくわかりません。ミゲルが殺されたのはガームスの船を奪うためでしょうが、だとすると、ガームスを雇った黒幕は最初から彼らが元の町に戻ってくることを予想していたのでしょうか。というか黒幕が最後まで登場しない。

でもそれでいいのだと思います。大事なのはガームスという男が底なしの孤独を抱えていることです。ほとんど夫婦のような関係の娼婦モニークには大事な金を預けたり心を許していますが、いざ仕事に行く直前、彼が行くのは教会。そこで神父にではなく神に直接語りかけます。この告解が実に印象深い。ガームスという男の人柄が一番よく出た場面になっています。

「俺は罪びとです。でも昔とは違います。最近は何もしていません。信仰心は薄い。でも今回の仕事はやり遂げたいんです。俺には運転だけだ。金のためです。でもまっとうしたい。それだけです」


見事な演技のアンサンブル
the_last_run_4

刑務所に入っていたリカルドという男をフランスまで逃がすのがガームスの仕事なのですが、思いもよらず彼を待つ女クローディがいて、三角関係が始まります。この三角関係が実に斬新。

クローディはかつてリカルドの弟の恋人だったのに4年前にリカルドにあてがわれます。「弟は麻薬中毒だった」というセリフがあるだけでどういう事情なのか詳細には語ってくれません。大事なのはクローディが「商品」として男と男の取引に使われてきた女だということです。

ガームスはクローディに惚れるのですが、それはクローディが誘惑したからであり、背後で糸を引いているのはリカルドです。ガームスを都合よく利用するために誘惑させた。リカルドはガームスはおろか恋人のクローディも「物」として利用する悪人ですが、このリカルドの人物造形が素晴らしい。アラン・シャープによる脚本にすでに活き活きとした人物が描かれていたのでしょうが、演じるトニー・ムサンテとフライシャーの丁寧な演出(映像演出ではなく演技指導のこと)によってリカルドというキャラクターはリカルド自身の輪郭を常にはみ出す勢いがあります。

それはジョージ・C・スコット演じるガームス、トリッシュ・ヴァン・ディーバー演じるクローディも同様でしょう。3人の芝居がすこぶるうまい。うますぎるほどにうまい。「演技のアンサンブル」とはこういうのを言うのだ、と言わんばかりのフライシャーの演出ぶり。


「娼婦は心悪しき女」
the_last_run_2

ガームスは娼婦モニークに金を預けるとき、

「娼婦とは多くの男と床を共にする女のことではない。心悪しき女のことだ」

という印象的なセリフを言います。このときモニークを演じるコリーン・デューハーストがサッとガームスの手を握るんですね。この芝居のつけ方がまた素晴らしい。まるで本当に目の前で彼らが生きているかのようです。

ガームスはモニークのことを少しも疑っていない。だから金を預ける。しかしモニークは心悪しき女と言われてハッとなる。この時点で彼女は黒幕に買収されていたのでしょうか。すべては最初から仕組まれていたのか。どうか。

しかしながら、「娼婦は心悪しき女」というセリフで肝要なのは、それがクローディにも当てはまるのかどうかということです。


the_last_run_1

クローディが本気で自分に惚れていると思い込んでいるガームスは、リカルドを捨てて俺と一緒にアメリカへ逃げようと言います。しかしこの前にガームスはリカルドに「彼女を連れて逃げたら許すか」と訊いています。それを知ったクローディは「私にはいつ訊いてくれるの? 男同士で相談してから?」と言います。リカルドとその弟もそうやって男同士で相談してクローディを物としてやり取りしていた。クローディはまだ年端もいかない子どもの頃から「商品」だった。そういう意味では彼女は娼婦です。利用するためにガームスを誘惑するのも彼女が娼婦だからです。

でもガームスの娼婦の定義に彼女が当てはまるかどうかというと、私は違うと思います。

確かにクローディは最後にガームスを振ります。彼女と逃げる気満々だったガームスはショックで硬直し、そして精一杯の笑顔で「知ってたがね!」と言います。このときのクローディの哀しい表情がたまらない。心を痛めている彼女は決して心悪しき女ではない。クローディはガームスのことが少しは好きだと思う。でもそれ以上に「商品として扱われることへの嫌悪」が勝ったのでしょう。ガームスにとっては悲劇でも、クローディにとってはこれまでの自分を脱皮する大事な通過儀礼でした。


射程距離の長いセリフ
その直後、「何を話していた」とリカルドに訊かれた彼女は「彼が聞きたかったこと」と答えるんですね。このセリフの射程距離の長さ! アラン・シャープという脚本家は天才だと思います。

黒幕が誰なのか最後までわからず、なぜ追われていたのかもよくわからないままガームスは殺されます。息子に死なれ、妻には逃げられ、懇意の娼婦に裏切られ、娼婦ではない女には振られ、最後には殺される。そして結局一番得をしたのは身勝手で少しも成長しないリカルドだったという何とも理不尽な、あまりに理不尽な結末。

何とも哀しい。ここまで哀しい映画は他にちょっと思いつきません。

特異な背景を背負った3人のキャラクターという特殊性から、展開や結末の普遍性を導いたアラン・シャープの作劇とそれを実現したセリフのすごみに感服しました。


ラスト・ラン 殺しの一匹狼 [DVD]
ジョージ・C・スコット
復刻シネマライブラリー
2016-10-24





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年02月16日

まずは以下の動画を見てください。
全部で8分ちょっとありますが、私が言及したいのはちょうど3分後からです。




このダンスシーン、いいと思います? 私は少しもいいと思えないんです。

『シカゴ』でもそうだったと思うんですが(うろ憶え)このロブ・マーシャルという監督はなぜあんなにダンスシーンでカットを割るのでしょうか。もっとこのカットを見ていたいと思うと必ずそこで割られてしまうんです。ほとんど編集でごまかしてると言ってもいいほど。

昔のMGMミュージカルはフレッド・アステアやジーン・ケリーというダンサーの芸をできるだけ長く見せることに腐心してましたよね。最近のだって『ラ・ラ・ランド』みたいな良質なミュージカルではダンスシーンというミュージカルの肝になる場面ではできるだけ役者の芸を意図的に長く見せています。

なのにこの『メリー・ポピンズ・リターンズ』は何? ミュージカルをここまで愚弄されたら怒り狂うしかありません。
ミュージカル以外でも、もう10年以上前の作品ですが『ボーン・アルティメイタム』という映画では細切れの映像ばかり見せられ辟易しました。変に画的に凝らず、もっと役者の芸をちゃんと見せてほしい。


mary_poppins_returns_2 (1)

色づかいはとてもいいんですけどね。近々発表されるアカデミー賞では美術賞や衣裳デザイン賞を取ってほしいとさえ思います。

でも肝心要のダンスシーンがあれでは……


バンド・ワゴン(字幕版)
フレッド・アステア
2013-11-26




  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年01月26日

許せない映画シリーズ第6弾は『ダイ・ハード』。私はなぜこのような犯罪にも等しい映画がいまだに根強い人気を誇っているのかまったくわかりません。同じ時期に作られたアメリカのアクション映画なら『ビバリーヒルズ・コップ』『ミッドナイト・ラン』『カナディアン・エクスプレス』なんかのほうがずっと面白いと思うんですけどね。

これまでの許せない映画はこちら。
①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』
④『ゴースト・ドッグ』
⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』


等身大のヒーロー
die-hard1

さて、この『ダイ・ハード』という映画は1988年の製作。当時はスタローンやシュワルツェネッガーの「スーパーヒーロー」が主役のアクション映画が幅を利かせていて、それに対するアンチテーゼとして作られたようです。「等身大のヒーロー」「人間臭いヒーロー」ともてはやされましたね。

確かに、ブルース・ウィリス演じる主人公ジョン・マクレーンはとてもいいと思います。前半は。
刑事だから銃器の扱いには慣れてるし、人一倍正義感も強いけれど、自分一人ではいかんともしがたい、だから外に助けを呼ぶ。「等身大のヒーロー」というのもうなずけます。

が……


なぜ見殺しにするのか
die-hard2

この、自分の奥さんに横恋慕する男が交渉をもちかけてきたとき、なぜ彼は見殺しにするのでしょうか? このときアラン・リックマンは「起爆剤を返せ」と言っているだけです。返せばいいじゃないですか。確かにあの起爆剤は強盗団が最後に人質を爆死させてその隙に自分たちだけ逃げるためのものですけど、だからといって、それはまだまだ数時間先の話でしょう? いますぐ返さないと確実に一人の人間が殺されるというのになぜ返さないのか。あれのどこが「人間臭い」んでしょうか。

交渉をもちかける奴のほうが悪いという描き方がされていますが、仮にそうだとしても、刑事が民間人を見殺しにするというのが許せない。等身大のヒーローを標榜していながら少しも等身大じゃないのが許せない。

しかも、あろうことか、この直後、アラン・リックマンと遭遇したブルース・ウィリスは足の裏に大怪我を負うとはいうものの、起爆剤を残して逃げてしまい、結局それは強盗団のもとに返ってしまう。

そんな馬鹿な!!!

人ひとり犠牲にしてまで死守した起爆剤をそんな簡単に奪われていいわけがない!


作者の都合で動く映画
今年の映画初めは奇しくもこの映画と同じプロデューサーによる『ストリート・オブ・ファイヤー』でしたが、あの映画でも中盤で銃撃戦を演じたマイケル・パレを警察は逮捕すべきだと言いました。逮捕したら映画がそこで終わってしまうという計算。『ダイ・ハード」でも、あそこで起爆剤を返したらそれを出汁に投降しろとまで言われかねない。投降したら映画がそこで終わってしまうという計算なのでしょうが、そのような計算は百害あって一利なしです。作者たちは「世界の原理」より「映画の原理」を最初から優先してしまっています。

投降したら映画がそこで終わる? まさか!

だって、クライマックスでは、奥さんを人質に取られ、投降したふりをして背中に貼り付けた拳銃でアラン・リックマンを撃ってすべてを解決に導くじゃないですか。あそこであのような振る舞いができる主人公を用意しておきながら、途中の場面ではその振る舞いを封じる。作者の都合で映画が動いてしまっています。

おそらく、あの見殺しにする場面で「しょうがない」と黒人警官と同じ感想をもつ人が多いのは、殺される人質が「嫌な奴」だからでしょう。奥さんに横恋慕するばかりかセクハラ発言もするし、部屋でこっそり麻薬やってるシーンもありました。「ジョン、君が活躍すると僕らが迷惑するんだ」と我らが主人公を邪魔者扱いするキャラクターだから「排除されてもやむなし」と思ってしまうのでしょう。

同時に、「彼が人質を殺したも同然だ」と非難するのが、外の黒人警官の上司で、彼もまた「嫌な奴」として描写されています。黒人警官は「しょうがなかった」と擁護しますが、彼は頼れる主人公の味方。

つまり、主人公を非難する人間はすべて悪い奴だというのが作者たちの考えなのです。

はたしてそうでしょうか?


人質の言い分という「発明」
人質ではっきりキャラクターが描かれるのは、奥さんと社長と交渉する男だけですが、あの交渉する男と同じように「変に活躍されると逆に迷惑だ」と思っていた人は他にもいたと思う。

というか、そういう「現場の人質の思い」をきちんと提示したのはこの『ダイ・ハード』の「発明」だったはずなんです。スタローンやシュワルツェネッガーの映画へのアンチテーゼとして作るのであれば、「活躍されると迷惑だから投降してくれ」という声を嫌な奴・悪い奴の言葉として描写するのではなく、まともな人物の言葉として描写するべきだったと思います。そうすればスタローン映画やシュワ映画への絶妙な批評になったんじゃないでしょうか。

人質たちは、強盗団をテロリストと思っています。政治犯の釈放など要求が受け容れられれば解放されると信じている。でも、ブルース・ウィリスは最終的にあの起爆剤で人質が全員殺される計画だと知っている。この情報量の差をもっと活かすべきだったのではないでしょうか。

人質には人質の言い分があり、主人公には主人公の言い分がある。どちらも間違ったことは言っていない。そういうふうに葛藤を仕組んでくれればかなり乗れたと思います。


見殺しにした苦みを最後まで持続させるべき
終盤、屋上から飛び降りねばならなくなったとき「何で俺がこんな目に遭うんだ」と泣き言を言ったり、首尾よく一室に飛び込めてもホースの重みで落ちそうになったときの顔面蒼白の顔などが描写されます。あれが「等身大のヒーロー」と呼ばれる所以なのでしょうが、それが「点描」でしかないのが一番大きな問題だと思います。

人質を見殺しにせざるをえなかった。百歩譲ってそうだとしても、それならその苦みを最後まで彼は抱えていなければならないはずです。見殺しにしたときに生じたエモーションを最後まで持続させなければ。直後に簡単に起爆剤を奪われるなど絶対にあってはならない。

逆に、見殺しにしてまで死守した起爆剤なのだからと、自分や他の人質の命よりも起爆剤を守る、王より飛車をかわいがるヘボ将棋のようなぎこちない戦い方を見せてくれたら、本当の「人間臭いヒーロー」になったんじゃないかと思います。それぐらいぎりぎりまで「世界の原理」に忠実でありながら、最後の最後で「映画の原理」が勝利して大逆転! となれば大喝采だったんですがね。


関連記事
『ストリート・オブ・ファイヤー』(ご都合主義の極み)




  • このエントリーをはてなブックマークに追加