聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

アメリカ映画

『スリー・ビルボード』(登場人物の行動原理がわからない)

私はかつてある高名な脚本家から、

「君の脚本は意外性を求めすぎている。もっとオーソドックスに構えたほうがいい」

と叱られたことがあります。


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アカデミー賞レースを賑わせている『スリー・ビルボード』を見てきました。
何しろ監督賞にノミネートされている『ダンケルク』や『レディ・バード』より受賞の可能性が高いというのですから、そういう意味でも楽しみな映画でした。

しかし・・・

結局、この映画って何が言いたいんだろう? 作者の真意がわからない映画でした。というか、昔の自分の脚本を読んでいるような気恥しさがありました。(以下ネタバレあります)

最初の10分ぐらいはグッと乗ったんですよ。

まず最初の、主人公ミルドレットが3枚の看板を見つけるシーンがただならぬ雰囲気を醸し出していて心を鷲づかみにされました。そしてこのシーン。



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ミルドレットは、レイプのうえ殺された娘の事件の捜査がまったく進展しないことに業を煮やし、町の大きな看板3枚に文句を並べたてます。「レイプされ殺された」「逮捕はまだ」「なぜだ、ウィロビー署長」と。

そのウィロビー署長は末期がんに冒されており、ミルドレットもそれは知っています。「知ってて実名を出して広告を出したのか」とウィロビーはじっとミルドレットの横顔を見つめます。ここまでがおよそ10分ぐらいですが、傑作を予感させる出だしだったんですよね。

何がいいと言って、「悪人」が出てこなさそうだったので。ミルドレットにはミルドレットなりの言い分があり、ウィロビーはじめ警察には警察の言い分がある。どちらの気持ちもわかる。ウィロビーを末期がん患者と知っていながら「死んでから広告出しても意味ないでしょ」と少しも悪びれないミルドレットの気持ちもわかるし、「知ってて広告を出したのか」というような表情を見せるウィロビーにも、目撃者もいないし何の手がかりもない、サボっているわけではない、という彼なりの言い分があります。

つまり、「善と悪」の対立ではなく、「善と善」の対立になっていると感じたわけです。

それが・・・



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ウィロビーの部下にディクスンという差別主義者の警官がいるんですが、彼が出てきてからだんだんおかしくなる一方でした。

彼は別に犯人隠匿しているわけでもないのに警察を非難されたというだけでミルドレットを目の敵にしますが、彼の登場によって「善と善」の対立が「善と悪」の対立に変わってしまいました。

いや、もっといえば、「悪と悪」でしょうか。

ミルドレットは看板に放火されたことを恨んで警察署に放火し返します。が、この行動はあまりに常軌を逸していないでしょうか。あの時点ですでに看板に広告を出した効果は充分あるんだから、あそこまで激怒する理由がわからない。

それに何より、ミルドレットが犯人や警察にだけ憎しみを燃やしているのが少しも理解できません。

一度だけある回想シーン。おそらく娘が殺される日の朝なのでしょうが、ミルドレットと娘は喧嘩して、「レイプされたって知らないから」と怒って出ていく娘に対しミルドレットは「レイプされたらいいわ」と吐き捨てます。それが最期の別れとなってしまった。ミルドレットには自責の念もあるはずなのに、少しも自分を責めません。あの回想シーンを挿入するからには、警察も責めたいが一番責められるべきは自分自身じゃないのか、という葛藤を描かないといけなかったはず。なのに警察ばかりを攻撃するモンスターになってしまっています。

ウィロビー署長も、突然自殺する展開には驚愕しましたが、いくら末期がんといっても、町を守る警察官としてちょっと無責任すぎませんかね。遺書に書かれていた妻子への想いは理解できます。しかし、彼には父や夫としてだけでなく、警察署長という大切な務めもあるのだから、ちゃんと仕事を引き継いでから死ねばよかったんじゃないですかね。ウィロビーもミルドレットもいったいどういう行動原理で動いているの少しもわからない。

そして極めつけは先述のディクスンです。
彼は、ウィロビーが自殺したことを恨んで広告屋を屋根から突き落とします。その気持ちはわかります。が、新署長にクビと言われて潔く引き下がるのは少しも彼らしくありません。しかも彼はミルドレットの放火によって大やけどを負ったのに、心を入れ替えて真犯人究明に乗り出します。

え、何で???

ミルドレットのせいで死にかけたのだから、いくら「こいつらが犯人では?」と思える会話が聞こえてきたって、前半の彼の行動原理からしたら「奴らが犯人だな。あの女には教えないでおこう」とほくそ笑むんじゃないんでしょうかね?

さらには、彼らは犯人ではなく、戦地でいろいろあったものの軍人のため守られていることがわかります。おそらく中東でレイプなど悪行の限りを尽くしてきたのでしょう。ディクスンはミルドレットに電話を掛けて、一緒にアイダホまで彼らを殺しに行くところで終わります。

「ほんとに殺すのか」「道々考えましょ」というセリフからはどこまで本気か推し量りかねますが、アイダホまで実際に行こうとするのがまったくわからない。

ミルドレットはいったい何がしたいんでしょう? 罪悪感を感じながらも警察への敵意しか見せず、最後は犯人じゃない男たちを殺しに行く。いくらレイプ魔には違いないといっても、それは「理屈」じゃないですか?

この監督はやはり「意外性」に取りつかれすぎだと思います。意外性を優先させるから人物の行動原理が歪みまくってしまっているのです。

こんな映画より『デトロイト』のほうが傑作なのに。アカデミー賞ってほんとわからない。

『フレンチ・コネクション』(スマートな自己言及映画)

泣く子も黙る名作中の名作『フレンチ・コネクション』。

私はユング心理学を援用した比較神話学で脚本の書き方を学んだ人間なので、映画を見るときもそういう観点から見ることがあるのですが、この『フレンチ・コネクション』はその意味でも類まれな面白さをもった映画といえると思います。

ユング心理学(そのものを学んだわけじゃないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんが)では、「身体」「心理」「感情」、そしてもうひとつ「霊」というところから人間を考えるそうですが、私は「霊」に関してはそういう映画じゃないかぎりは無視しています。

「身体の物語」
「心理の物語」
「感情の物語」

この3つの側面からこの映画を眺めてみると・・・

①身体の物語
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何といってもこの映画はこのカーチェイスのシーンが有名です。麻薬密輸グループを逮捕しようと躍起になる主人公ジーン・ハックマンが相棒のロイ・シャイダーと協力して組織の頭目フェルナンド・レイを逮捕しようと奮闘するのが物語のあらましです。

カーチェイス以外にも、中盤に素晴らしい尾行のシーンがあったり、この映画は身体の物語、つまり「アクション映画」として出色の出来栄えです。



②心理の物語
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問題解決のための謎を解くのが「心理の物語」だそうで、俗っぽい言葉で言うと「サスペンス」とか「ミステリ」ということになります。
この映画では、密輸グループが車をやり取りしていることを突き止めたジーン・ハックマンがいったい車のどこに麻薬を隠しているのか、それを突き止めるのが「心理の物語」です。



③感情の物語
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だいたい映画における感情はほとんどが恋愛として描かれますが、同性同士の友情物語の場合もあります。
この映画における「感情の物語」はちょっと特殊で、ソニー・グロッソという役者が演じる財務省の役人とジーン・ハックマンとの確執がそれに当たります。ソニー・グロッソはかつて懇意だった刑事がジーン・ハックマンのせいで死に追いやられたと恨んでおり、二人は何かにつけて諍いを起こします。


④逆転!
この映画は、ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが自分たちで見つけたヤマを解決できるか否か、つまりフェルナンド・レイを逮捕できるかどうかの物語であり、そのために尾行やカーチェイスを経てラストの銃撃戦に至ります。

「心理の物語」はすでに解決されています。「感情の物語」は最初からほとんど味付け程度の意味しかもっていません。だから「身体の物語」にさえケリをつけてしまえばいい。

が、ここで驚くべきことが起こります。

ジーン・ハックマンが「フェルナンド・レイがいた!」とばかりに発砲したら、命中はしたもののその男は何とソニー・グロッソであり、即死していました。それに気づいたロイ・シャイダーは意気消沈してしまいます。でもジーン・ハックマンは少しも驚くことも慌てることもなくフェルナンド・レイを追い求めるところで物語は幕を閉じます。

フェルナンド・レイを射殺していれば「身体の物語」に首尾よく終止符を打てました。それがこの映画の眼目だったはずです。なのに、フェルナンド・レイは逃げ延びてしまうため「身体の物語」は終わりません。(だから「身体の物語」に終止符を打つべく続編が作られます)

しかし、なぜでしょうか?



⑤自己言及
フェルナンド・レイを射殺してしまえばすべて丸く収まったはずですが、しかしそれだと「目的のためには手段を選ばない刑事」に対する批判的な目がなくなってしまいます。

同年に作られた『ダーティハリー』も目的のためには手段を選ばない刑事を描いていましたが、『フレンチ・コネクション』の作者たちは、当時流行り出したそういう刑事ものへのアンチテーゼを打ち出した、というのが私の見立てです。おそらく無意識に。

「身体の物語」に終止符が打たれるはずが、アッと驚く逆転によって、味付け程度だったはずの「感情の物語」が一気に前面に出てきます。
はたして、ジーン・ハックマンは本当にソニー・グロッソとフェルナンド・レイを間違えたのか、それともソニー・グロッソだと確信してどさくさまぎれにわざと撃ち殺したのか。

真相は誰にもわかりません。しかし、それまでのジーン・ハックマンの言動から察するに「わざと」の可能性は大いにあります。ロイ・シャイダーの疑惑の目にも注目したい。(この疑惑の目も「感情の物語」ですね。一枚岩だった二人に初めて感情的な亀裂が入る)

この逆転は、「身体の物語=アクション映画」を楽しみに来た観客に対してほとんど喧嘩を売っているとさえ思えます。最後の最後で「この映画はアクション映画ではなかったんですよ~」と言っているんですから。

凶悪犯が急増した70年代初頭、「はたして目的のためには手段を選ばない刑事」は許される存在なのか、とこの映画は観客に問うてきます。おそらく、ソニー・グロッソが懇意だった刑事はジーン・ハックマンの「俺は法の執行者なのだ」という傲慢で身勝手な性格のせいで死んだのでしょう。

そして、ラストシーンに至って、ジーン・ハックマンはそれを責めたてるソニー・グロッソをももしかしたらわざと殺したかもしれない。いったい何が正義なのか。正義を標榜しすぎるから悪がより凶悪になるんじゃないのかというメッセージも読み取れます。

だから、この『フレンチ・コネクション』は「刑事映画を批評する刑事映画」なのです。ヌーヴェルヴァーグのように直截的なやり方ではなく、もっとスマートなやり方で作られた「自己言及映画」と言えるでしょう。


⑥伏線
最後に、ラストの疑惑の一発の銃弾には伏線がありますよね?


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フェルナンド・レイの手下に狙撃されそうになったジーン・ハックマンが彼を執念深く追いつめて射殺するシーン。あの有名なカーチェイスの直後です。

このエピソードは、ジーン・ハックマンと狙撃犯との「身体の物語」です。撃たれそうになった者が、逆に撃ち殺してこのエピソードは終わります。

が、このエピソードには「心理の物語」もあります。それは、列車に乗った狙撃犯をどうやって追うか、というサスペンスです。ジーン・ハックマンは迷うことなく一般市民の車を強奪して狙撃犯を追います。

「心理の物語」としての解決にはなっていますが、この「一般市民から車を強奪する」という主人公の行動=キャラクターが、映画全体の「感情の物語」を読み解くカギになっているところも素晴らしい。


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アーネスト・タイディマンの脚本、しびれます。

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『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!

『スターウォーズ』が好きになれない理由(宗教と体内時計)

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いま最新作が公開中の『スターウォーズ』シリーズ。

私は少しも好きになれないので最初の三部作しか見てないんですが(実はエピソード1と去年の7も見に行ったんですけど最初から乗れずまったく覚えていません)なぜ好きになれないのかを考えてみました。

これは「SF」じゃないんですよね。

SFとはつまり「sience fiction」。よく「空想科学小説」とかって訳されますけど、この語の要諦は「科学」にあると思います。


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最初の三部作の主人公ルーク・スカイウォーカーが生まれ育った星は、ご覧のように太陽が二つあります。

地球にはもちろん太陽がひとつしかありません。なぜジョージ・ルーカスが二つにしたのかは、おそらく、地球とは違う別の惑星であることを示したかったとか、太陽が二つあるほうが画的に面白いだろうとか、単純な理由なのでしょう。それが悪いとは少しも思いません。

が、どんな理由であれ、「太陽が二つある惑星」と設定した以上は、そこに生まれた知的生命体は地球人とは違うということを科学的に探究すべきだと思うんです。





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地球では一神教が幅を利かせています。それはおそらく太陽がひとつしかないからでしょう。だから太陽が二つある世界では「二神教」が幅を利かせている可能性が高い。

地球には多神教もありますが、この「多」というのがいくつ以上を指すのか判然としません。しかしながら、数学の世界では、三角形以上はすべて「多角形」です。

であるならば、「一神教」と「多神教」の間にある唯一の宗教が「二神教」になると思われます。

いったい二神教とはどんな宗教なのか、太陽がひとつしかない世界で生きる私たちにはまったくわかりませんが、『スターウォーズ』ではそれを探った形跡がまったくないんですね。

もうひとつ問題があります。「体内時計」です。

太陽が二つあるということは、それだけで生命体にものすごい影響を与えると思われます。

地球人の体内時計は25時間。毎朝日光を浴びるたびにリセットされるので、地球の自転周期24時間に合わせて生きていますが、太陽が二つあると厄介ですよね。朝起きてひとつ目の太陽でリセットされて、さらにまた数時間後にリセット・・・寝ようにも寝られないのでは?

太陽が二つあるというだけで自然界はかなり荒れ果てた感じになると思われます。





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ルークの星に衛星が何個あったかは憶えていません。それを示す映像があったかどうかもわかりませんが、仮に衛星が二つあったと仮定すると、これまた厄介です。

地球人は月の影響をかなり受けています。だから、「肝」「腎」「腕」「脚」など、体の部位を表す漢字には「月」が入っている。

海もそうですよね。月の引力によって干潮になったり満潮になったりしますが、月が二つ以上あったら、海は大荒れでしょう。航海なんかできないんじゃないでしょうか。

それ以上に、海の中の生物も落ち着いて棲息することができないような気がします。

ということは。

太陽が二つ、月が二つある惑星では、生命がまともに生きていくことができない。それはつまり、「地球のように水と酸素がふんだんにあっても、太陽がひとつ・月もひとつの惑星でないと生命は生まれない」ということなのかもしれません。

ただ、これはあくまでも、太陽がひとつ月もひとつの惑星に住む私たちだから「そんな星ではまともに生きられない」と思うだけであって、その星に住む宇宙人にとってみればごく普通の生活を営んでいるだけかもしれません。

でも、その「ごく普通の生活」っていったいどんなもの?

わかりません。

というか、それを探求するのが「SF」だと思うんですよ。

『スターウォーズ』では、「わからないなりにこう考えてみた」ということをまったく示してくれません。最初から何も考えていないのです。だから好きになれないのです。



『パーティで女の子に話しかけるには』(自由であること)

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話題のジョン・キャメロン・ミッチェル監督『パーティで女の子に話しかけるには』を見てきました。

見終えて思ったことは、誰の言葉か忘れたけれど、

「未完であること、劇的であること、過激であること、芸術でないこと」

という創作の極意を表した四つの言葉を思い出しました。この『パーティで女の子に話しかけるには』はまさにそのような映画でした。

とにかく斬新だし、ラストシーンのあとも永遠に物語は続いていくようになっているし、何より芸術でない。パンクが芸術であってたまるかという宣言。



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何しろ「エル・ファニングが異星人を演じる」という予備知識しかもたずに見に行ったので、開巻早々、何のバンドか忘れたけれどパンクロックがかかり、さらに主人公の部屋にセックス・ピストルズやダムドのアルバムジャケットが飾ってある時点でもっていかれてしまいました。

しかも、あまり好きではないエル・ファニングが画像のようにシャウトしてしまうのね。



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ニコール・キッドマンという当代随一の美人女優にまでパンクさせてしまうミッチェル監督のすごさ。

物語は、異星人が出てきたり、「摂食するか否かという議論」があったり、肉体の乗っ取りがあったり、いろいろ複雑に入り乱れていますが、簡単に言ってしまえば「愛し合っているが住む世界の違う男女が別離の悲しみを経験したのち、女が産み落とした子どもが男のもとを訪れる」という至って古典的かつシンプルなものです。

古典を斬新にしたのは、やはり「パンクロックを通して悲恋物語を謳い上げる」という発想でしょう。

「パンクって何?」というセリフが何度も出てきますが、私自身イギー・ポップやセックス・ピストルズ、MC5やバズコックス、スティッフ・リトル・フィンガーズなどを好んで聴いているものの、あまりその定義はよく知りません。

主人公は「自由だ」みたいな答えをします。他にもいろいろ答えてましたが忘れました。細かい定義などどうでもよろしい。一番大事な「自由」さえ憶えていれば。

古代ギリシア人は、この世界を構成するのは四つの元素であり、それは「空気」「水」「火」「土」で、それらを総称して「四大」と呼びました。

エル・ファニングの星では「6つのコロニー」というものがあるらしく、「心」か「精神」がまずあって、他は忘れましたが、ただひとつ異質だったのが「声」ですね。声がこの世界を構成する大事な要素である、という発想はまさしく異星人のものです。凡百の地球人にはそのような発想はふつう出てきません。

ただ、そういう斬新な発想を可能にする方法がひとつだけあって、それが「自由になること」です。

映画のテーマと作法が見事にリンクしています。

「未完であること~」の言葉の最後に「自由であること」を付け加えてもいいのかもしれません。



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セットや衣装、ライティングの配色も素晴らしくて目で楽しめるのも素晴らしい。

昨日の 『女神の見えざる手』の感想 では書くの忘れましたが、最近のアメリカ映画(アメリカ映画には限らないかもですが)には手持ちカメラがあまりに多い。『女神の見えざる手』もカメラが揺れすぎ。だから落ち着いて見られない。

『パーティで女の子に話しかけるには』でも手持ちカメラはあります。でも、芝居場ではちゃんと三脚にカメラを据えて撮っています。おそらく、スケジュールの関係で「絶対に三脚を使う場面」と「最悪手持ちでいい場面」とに分けたのでしょう。実際、手持ちカメラが使われているのは芝居場ではないシーンばかりでした。

しかし、「声」がこの宇宙の最も重要な要素というのはあまりに斬新な発想です。もしかしたら、「音楽」があるのはこの大宇宙の中で地球だけなのかもしれない。だからエル・ファニングたちは地球に来たんじゃないか。

そんな気にもさせてくれる「本物の音楽映画」でありました。

『女神の見えざる手』(現代アメリカ映画の深い闇)

一部で熱狂的に迎えられているジョン・マッデン監督、ジェスカ・チャステイン主演による『女神の見えざる手』を見てきました。


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うーん、、、なんというか、銃規制法案に反対する者を完全に「悪」として捉えているのが白けますね。まぁジェシカ・チャステインも相当汚い手を使っているわけだから「どっちもどっち」かもしれませんが、銃規制に賛成の人間を主人公に据えて、彼女が最終的に勝つわけだから、作者たちの政治的立場がどちらに軸足を置いているかは簡単に察しがつきます。

政治的に中立な人間なんかいないわけだから、政治信条そのものにいいも悪いもありません。が、それを映画とかフィクションに仕立てる場合には、主人公が信じていることにも弱点があり、敵対者たちの言い分にもそれなりの理がある、というふうにしないと、最近アメリカ映画に多い、アメコミ原作のヒーローものとどう違うというのでしょう。

乱射事件の被害に遭い生き延びた女性が再び銃を突きつけられるも合法的に拳銃を所持していた民間人に助けられる場面をもっと掘り下げたら面白くなったと思うんですが、主人公が勝つか負けるかというところにばかり気を取られて、挙句の果てに敵失で勝利というのは「金返せ!」と言いたくなります。

この映画は正確にはフランスとアメリカの合作ですが、フランス側はあのリュック・ベッソンが設立した「ヨーロッパ・コープ」が関わっており、その精神においてはアメリカ映画のようなものです。それも悪い意味で。



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先日、デビッド・フィンチャーがこんな発言をしました。

「いまのアメリカ映画界では『キャラクター・ドラマ』というものができない。だから活動の場を連続テレビドラマに移そうと思う」

フィンチャーといえば、『明日に向って撃て!』を200回見たことが有名ですが、『明日に向って撃て!』のようなキャラクター・ドラマは最近のアメリカ映画ではほとんど見られなくなりました。

ちょっと前に『明日に向って撃て!』と同じポール・ニューマン主演、シドニー・ポラック監督による名作『スクープ/悪意の不在』を再見したんですが、『女神の見えざる手』と同じ社会派ドラマなのに、何と手触りの違うことか。


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上の画像の、奥にメインキャラクターがいるとすると、手前の通り過ぎる人はただのエキストラで「シャッター」と呼ばれます。

最近のアメリカ映画で主人公の事務所とかが舞台になるとこのシャッターがものすごく多いと思いませんか?

『スクープ』でも、大新聞社のオフィスのシーンが何度もありますが、シャッターなんかほとんどなかったですよ。

シャッターが多いと確かに人が多いなかでスリリングな場面が演じられているという「臨場感」を出すにはもってこいの手法なんでしょうが、あまり落ち着いて見られないんですね。クライマックスみたいな場面ばかりのアメコミ映画とほとんど同じです。デビッド・フィンチャーが嫌気がさしたのもわかります。

『女神の見えざる手』では公聴会のシーンが非常に重要なカギを握っていますが、全体を捉えるマスターショットもあり、それぞれを正面から捉えたバストショットもあり、ある人物の見た目を望遠で捉えた主観ショットもあり、切り返しがあり、移動撮影があり、バラエティに富んでいますが、例えば同じ公聴会の場面のある『ゴッドファーザーPARTⅡ』のように落ち着いて見ていられるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。『ゴッドファーザーPARTⅡ』の公聴会は、ある一方からのアングルしかなかったですよね。


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昔は、テレビカメラを一方にしか置けなかったからでしょうか。最近の公聴会の様子を見ると、結構アングルがいろいろあります。

そういう事情を反映しているのならある程度しょうがありませんが、しかし、いずれにしても、最近のアメリカ映画は、シャッターが多く、かつ編集が目まぐるしい。落ち着いて見られない。

落ち着いて見られないからキャラクターのドラマとして不出来なのか、キャラクターが描けていないから目まぐるしい映像テクニックでごまかそうとしているだけなのか。

どっちにしろ、またまた「現代アメリカ映画の奥深い闇」を見てしまった思いです。

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