アメリカ映画

2019年07月17日

御年83歳のロバート・レッドフォードの俳優引退作『さらば愛しきアウトロー』。これが久々に色気たっぷりで艶のある映画でした。(以下ネタバレあります。ご注意を)


TheOldManAndTheGun2

拳銃を見せない演出
10代の頃から強盗に手を染め、脱獄と強盗を繰り返した実在の人物を描いているんですが、この男は「銀行強盗」と聞いてすぐイメージされる粗野な感じとは真逆で、窓口の人間に拳銃をチラリと見せるだけで大金をかっぱらっていたとか。共通する証言は「とても紳士的」「いい人にしか見えなかった」。最後のほうで明らかにされる証言は「彼は一度も拳銃を撃ったことがない」。

だからなのか、ロマンチックな邦題とはぜんぜん違う“The Old Man And The Gun”という原題なわけですが、この重要なモチーフである拳銃をこの映画はまったくと言っていいほど見せません。

確かに、窓口でレッドフォードが拳銃を見せているんだろうな、と思わせるカットはあります。窓口係が明らかに動揺してすぐ金を用意しますからね。でも拳銃そのものは見せない。

では、いつ拳銃を見せるのか。


シシー・スペイセクの動揺シーンのみ
TheOldManAndTheGun1

逃げる途中にたまたま知り合った未亡人シシー・スペイセクと恋仲になるんですが、そのスペイセクがレッドフォードの車のグローブボックスをふと開けたときに拳銃が入っていて動揺するシーンで初めて拳銃が観客にも見せられます。

この直後、家に帰ったスペイセクがお湯を沸かそうとやかんに水を入れるんですが、そのとき「あぁ、銀行強盗と言ってたのはほんとだったのね」という感じで一点を見つめてぼんやりします。で、水があふれて慌てて蛇口を止める。

最近の普通の映画なら、水があふれる手元をアップで見せることが多いじゃないですか。でもこの映画の監督デビッド・ロウリーはそうしない。

「映画とはまず見せ、そのうえで語るものである」とは、かのアレクサンダー・マッケンドリックの名言ですが、その前段階である「何を見せて何を見せないか」という問題に非常に意識的だと思います。(とはいえ別にこれは新しいわけでも何でもない。古典的ハリウッド映画はすべてこういう作法で作られていました)

では、なぜ強盗のシーンで拳銃を見せないのか。


「ラクな人生より楽しい人生」
とは、「君なら強盗なんかしなくてももっとラクな人生が送れるだろう」と言われたときの主人公の返答です。

彼は大金を得てラクな人生を送るのが目的ではなく、強盗そのものが楽しくてやっている。

だから彼は拳銃を撃たない。撃つことで誰かが傷つくのは本意じゃない。それじゃ少しも楽しくない。盗む俺も盗まれた銀行もいい思い出しか残らない。そんな思いで強盗を重ねていたのでしょう。

窓口係に拳銃をチラ見せするのもあまり本意ではなかったのでしょう。でも見せないかぎりは盗めないからしょうがなく、ということだったのでしょうね。

ただ、映画は拳銃を見せない。拳銃などという物騒なものは楽しい人生がモットーの主人公のこの映画にはふさわしくないという適切な判断。

そして唯一見せるのは、心を許せる異性が拳銃を見て動揺するときだけ。楽しくあってはいけない場面だけ観客にも見せる。こういうのを「映像演出」というのだと思います。


脱獄ハイライト
捕まったレッドフォードを訪ねたスペイセクに、彼は「いままで幾度も脱獄してきた。今回もするつもりだ」みたいなことを言います。

そのとき、10代から直近までの脱獄ハイライトになるんですが、最終盤であのような見せ方をすることに最初はちょっと戸惑いました。

でも、スペイセクの「最後までここにいれば?」というたった一言でレッドフォードは脱獄しなかったことが明らかになり、のけぞりました。すごい作劇。こういうオチにするためのハイライトだったのか、と。

ただ、最後のオチはまだあって、レッドフォードにすれば恋仲のスペイセクの言葉が脱獄しなかった一番大きな理由なんでしょう。脱獄すれば逃げ続けなければいけない。それより満期出所したあとのスペイセクとの生活を楽しもう。どこまでも楽しい人生を追い続ける主人公に見ているこちらも心が浮き立つばかり。

なのに、最後に自分を追っていたケイシー・アフレック刑事に電話していると目の前に銀行。そしてまたやってしまった、というオチにはさらに心が浮き立ちましたね! しかもさらに4回も!!!

好きな女は大事。でも……という男のロマン。

こんな映画が引退作だなんてめちゃくちゃ素敵じゃないですか。
役者がみんなよかった。レッドフォード、スペイセクは言うに及ばず、ダニー・グローバーもトム・ウェイツも。みんな年寄りなのに色気がある。ケイシー・アフレックは相変わらず好きになれませんでしたが。

音楽もよかったですね。ジャズで押し通すのかと思ったら後半は突然キンクスがかかったり、選曲が見事でした。


さらば愛しきアウトロー
ダニエル・ハート
Rambling RECORDS
2019-06-26





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2019年07月09日

ついに今週末からロードショーされる『トイ・ストーリー4』公開に先立ち、前作『3』がテレビ放映されました。


ToyStory3-3

前回、『新聞記者』の感想(⇒こちら)で、「善と善」の対立にしないといけないという私の主張(というかおおもとはある高名な脚本家)がわからないと友人に言われまして。

言葉が足らなかったかもしれませんが「善」というのは「善人」という意味ではありません。「その人の言い分に納得できる」「その人にも同等の理がある」ということです。どうしても安倍政権を批判している映画だから政権側にも理があるというと反安倍派の人たちは「そんなものがあるか!」と感情的になってしまうみたいで。どうしても政治のことになると頭に血が上ってしまうのが人間という生き物のようです。

そんなときに『トイ・ストーリー3』の放映。劇場で見て以来の鑑賞でしたが、これがすばらしく「善と善」の対立になっていて、いい見本だと筆を執りました。


ToyStory3-2

「悪意」のないドラマ
このロッツォという名のクマのぬいぐるみがとんでもなく悪い奴なんですが、彼が悪い奴になってしまったのには理由があるんですよね。

ウディにとってのアンディのような、素敵な持ち主の女の子にかわいがってもらっていたのに、ハイキングに出かけたときその子が眠ってしまい、親が寝かせたままおもちゃを全部置いたまま帰宅してしまった。ひたすら待つが持ち主は来ない。自分たちの足で何とか帰ると、同じぬいぐるみの新しいのを買ってもらっていた。

捨てられたと思ったロッツォは一緒に捨てられた仲間たちと「捨てられたおもちゃの帝国」を作り上げ、そこの支配者として君臨している、と。

確かにウディが指摘するように、持ち主に新しい代わりができたのはロッツォだけで他のおもちゃは帰る余地があった。それを一緒にダークサイドに道連れにしたのはロッツォの悪意でしょうが、ハイキングで置き去りにされてダークサイドに堕ちたからそうなったわけで、じゃあ、置き去りにしたのはなぜかというと、女の子が寝てしまったから。両親はおもちゃのことなんて頭にないし、なくしたら新しいのを買えばいいと思っている。子どもは子どもの原理、親は親の原理で行動しているだけ。

誰にも悪意がない。悪意によって対立を生むのではなく、そういうのなしでドラマを組み立てろよ、というのがくだんの脚本家の指導でした。『新聞記者』では生物兵器という世界中を敵に回しかねない極悪を根っこに設定しているので「無理やり感」があるんですよね。『トイ・ストーリー3』は見事にそれを体現しています。


底流する「別れの予感」
ToyStory3-1

ここからは純粋に『トイ・ストーリー3』の感想ですが、アンディが大学に行く年齢になり、ウディやバズと遊ぶことがないという背景が何とも哀しいですね。「出会いは別れのはじまり」とhwvあよく言いますが、いつかはおもちゃ離れしなきゃいけないときが来る。いつかは親元を離れないといけないときがくる。いつかは親しい者との死別のときがやってくる。(飼い犬が老犬になっているのが死別の暗示になっています)

とはいえ、アンディはウディたちが慕うだけあって、用済みだと捨てたりはしません。ただウディだけは別にして他のおもちゃを屋根裏に保管しておこうと思っただけ。なのに、ひょんなことから母親がゴミとして出してしまう。ここにも悪意はありません。ロッツォの持ち主の両親と同じく「大人はおもちゃのことなどこれっぽっちも気にしていない」というのが『トイ・ストーリー』の世界観だからです。

考えてみれば、このシリーズは目的地へ向かってまっしぐら! という内容ですね。1作目から3作目まで見事に自分たちの家に帰るお話です。


「運命」に逆らうドラマ
が、この『3』が異色なのは、逃げる唯一の道が溶鉱炉へ通じるゴミ箱というところです。「おもちゃはいずれ飽きられるか壊れるかして捨てられ燃やされる運命だ」とロッツォは言いますが、ウディたちは何とかその運命に抗います。ただの物理的な脱出ではなく、「運命」という神の掌からの脱出になっていて、2作目までとは一線を画す壮大な脱出劇となっています。

では、『4』はどういう脱出劇なのでしょうか? それとも脱出劇ではなく違う趣向の物語なのか。私は『3』を超える新しい脱出劇を見せてほしいと切望しています。「運命」以上の壁はあるのか。いずれにしても予想をはるかに超えるものを見せてくれるはず。

期待してまっせ!






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2019年06月24日

サミュエル・フラー監督の1963年作品『ショック集団』を約25年ぶりに再見しました。初見時はそれほど面白いと思わなかったんですが、今回は異常なまでに面白く、若かりし頃の不明を恥じたくなるほどでした。

とはいえ、この映画は何とも奇妙なんですね。脚本構成がものすごく変というか、いや変だからダメだというんじゃなくて変だからこそ傑作になったと思うのです。(以下ネタバレあります)


ShockCorridor32

「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

これが物語のあらましですが、これは「あらすじ」ですね。「プロット」ではない。プロットというのは「運び」のことで、観客が知る情報を順に出していかねばならない。


脚本にひそむ大いなる矛盾
上記のあらすじがプロットと決定的に違うのは「ジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために」というところです。彼がなぜ精神病院に潜入するのか、素晴らしい記事を書いてピューリッツァ―賞を受賞するためと語られますが、「何を調べるのか」については伏せられています。詳細を忘れていた私は「精神病院の内情を告発する記事を書くつもりなのかな?」と思ったほど。

実際に入院してから「殺人事件があった」「スローンという人間が殺された」「目撃者がいる」という情報が小出しにされます。しかし、スローンという人間が患者なのか、看護人なのか、医者なのか、はっきり説明されません。最後に患者だとわかりますが、それまではどういう人が殺されたのかわからない。いつ(朝か昼か夜か)どこで(病室か治療室かトイレか廊下か)殺されたのかについては最後まで何の説明もありません。


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(このショットの独特の触感!)

最終的に、新聞記者をペテン師だと言って目の敵にしているロイドという看護人ではなく、いつも柔和な笑顔で人畜無害な印象を与えるウィルクスという看護人が犯人であることが判明します。「ウィルクスが殺した。あいつは知能障害の女を慰み者にしていた」という証言を得て、主人公はウィルクスに暴行し、白状させます。

これ、すごく変ですよね? 
だって、主人公自身がウィルクスが犯人と聞いたあとに記憶をなくし、「俺が犯人だ」「いや院長だ」「いやキャシーだ」と言ってわけがわからなくなる。だから「ウィルクスが犯人だ」という証言だってまったくの妄想かもしれないわけです。なのに主人公はそれを100%信じて自白を得る。


ShockCorridor1

この映画は主人公が狂っていく過程を丁寧に追っていきます。中には黒人なのに白人至上主義者だと言って他の黒人にリンチを加える患者もいる。患者の言うことは信用ならないというのを基調にしながら、こと殺人事件の証言だけは100%真実であるという立場を取っています。

もう一度言いますが、だからダメな映画だと言いたいわけではありません。このような矛盾した立場を採用した結果、『ショック集団』という映画は傑作サスペンスになったと考えます。

では、なぜサミュエル・フラーはこのような変な考え方で脚本を書いたのでしょうか?


メインプロットのネタバレ
ShockCorridor32

もう一度、上記のあらすじを記しましょう。

「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

殺人事件の真相はサブプロットであり、あくまでもメインプロットは「狂人のふりをした主人公が本当に狂ってしまう」という、典型的な「ミイラ取りがミイラになる」物語です。

恋人のキャシーは、最初からこの計画に反対します。彼がほんとに狂ったらどうするのかと。

つまり、メインプロットのオチは最初からばらされているわけですね。「最終的に主人公はほんとに狂っちゃうんですよ。この映画はミイラ取りがミイラになるお話ですよ」とファーストシーンでばらしている。

だから、メインプロットの興味は結末ではなく、過程にこそあります。その過程には何があるかと言えば、「犯人は誰か」というサブプロットです。

メインプロットのオチはばらしているからサブプロットの謎で引っ張ろうという計算なわけですね。

ただ、メインプロットの過程、つまり「どのように狂っていくか」というのをみっちり描写するためには、他の患者たちの狂っている様を入念に描かなくてはいけない。サブプロットも大事ですが、メインプロットの過程そのものを入念に描くことのほうがよっぽど大事。犯人捜しを入念にやるとメインプロットがメインプロットでなくなってしまうという危惧があったのでしょう。

だからサミュエル・フラーは「もしかすると患者の証言は妄想かもしれない」「だから裏付けを取らなければ」「でもその裏付けも妄想だったら……?」という「世界の原理」が入ってくると、映画全体が煩雑でわかりにくくなってしまうと考えたのだと思います。

「患者は嘘ばかり言っている。でも事件に関する証言だけは真実である」という「映画の原理」を採用した。この決断はすごいと思います。だって完全に矛盾してますから。でも矛盾していていいんだ、矛盾を解消しようとすれば冗長な映画になってしまうから。

この勇気ある決断のおかげで、精神病院の内実や、患者たちの生活が詳細に描写され、そんなところにいたら正常な人間も狂ってしまうというメインプロットに説得力が与えられます。一方でサブプロットの殺人事件の謎はいとも簡単に解決され、100分というちょうどいい上映時間で幕を閉じることができたわけです。

こういう「映画の原理」を勇気をもって採用できるからこそサミュエル・フラーは「B級映画の巨匠」と呼ばれるんだな、と認識を新たにした次第です。


ショック集団(字幕版)
ピーター・ブレック
2017-09-06









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