聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

アメリカ映画

許せない映画④『ゴーストドッグ』

①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』

に続く「許せない映画」シリーズ第4弾はジム・ジャームッシュ監督『ゴースト・ドッグ』。

繰り返しますが、「許せない映画」とは、面白い映画なのに面白さを上回る「残念さ」をもってしまった映画のことです。だからいくら許せないといっても『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな単につまらない映画はこの範疇には入りません。

では、ヘンリー・シルヴァやクリフ・ゴーマンの登場がやたらうれしい『ゴースト・ドッグ』の何がそんなに残念だったかというと……




『葉隠』の思想にはまってしまった殺し屋という設定はとてもいいですね。まぁ私が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という冒頭の一節にいまだにしびれまくっている、ということもあるのでしょうけど。

劇中、何度も『葉隠』の一節が出てきますが、それ自体はいいんですよ。そして静かに殺しを実行していくところもいいし、ライフルのスコープにアゲハチョウが止まって……という場面なんか詩情豊かじゃないですか。

許せないのは「主人公が『葉隠』の思想に殉じてしまうところ」です。


GhostDog

何だかんだの末に、忠義をもって使えてきた男を殺さねばならなくなる。しかし、忠義を重んじる『葉隠』はそのような行為を許していない。どこまでも主君に忠実たれと謳っている。

ということで、主人公は殺すのではなく殺されることを選ぶのですが、ここがもうとにかく許せない。

かつて自作脚本を長谷川和彦監督に読んでもらったとき、
「君はファーストシーンとラストシーンを思いついたときに『できた!』と思ってしまったんだな」
と指摘されてグウの音も出なかったことがあります。

『ゴースト・ドッグ』もまさにそれでしょう。
「葉隠の思想に心酔する殺し屋がその思想に殉じていく」という物語を思いついたとき、ジャームッシュはおそらく「できた!」と思ってしまったのだと推察します。

その思いつき自体は素晴らしいですが、いったん主人公が生き始めたら作者の思惑などどうでもよく、ただただその人物がどう動きたいか、あるいはどう動くのがふさわしいか、それだけで考えていかねばなりません。

主人公はいくら『葉隠』に書いていることがすべてだと最初は思っていたとしても、殺し屋として数々の仕事を遂行していくうちに「自分の哲学」を築いているはずなんですよね。だから『葉隠』の思想に心酔していた主人公が最後の最後で『葉隠』を脱却するところを見たかったのです。

なのに書物に書いてあることを絶対視して死んでいくなんて私にはただのアホにしか見えませんでした。別に『葉隠』を否定せよと言っているわけではありません。主人公の哲学は何かを見せてほしかった。もちろん映画なのだからアクション=行動としてその哲学を描写するということです。トリュフォーが「クライマックスとは意味のあるアクションでなければならない」と言ってましたよね。

そういえば長谷川和彦監督はこうも言っていました。

「君はたぶんシナリオとは物語のことだと思ってるんだろうが違うんだ。物語と哲学なんだよ」



『ワンダー 君は太陽』(脚本構成の妙とは)

激賞する人が絶えない話題の映画『ワンダー 君は太陽』があさってで終わると知り、滑り込みで見てきました。

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顔に障碍を抱えた少年オギーとその家族の物語。と聞くと、何やら私の苦手な「人は見た目じゃない」というテーゼを打ち出す映画かと思っていました。そんな当たり前のことを聞きたくて映画館に行っているわけではないのに。と思っていたら、この映画はちょっとひねってるんですね。

いや、人は見た目じゃないというテーゼはそのままです。そこにはいささか鼻白むところがないではない。だって、少年はひどいいじめを受けるけれども「失恋」が描かれませんよね。この先の長い人生を考えるなら、顔のせいで振られるという手ひどい経験を描かないと本当のハッピーエンドではないと思いました。

しかし……

やはりこの映画にはそんな小賢しい言葉をうっちゃる魅力と奥行きがあります。


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姉ヴィアの描写の素晴らしさ
何といっても白眉はこのヴィアというお姉ちゃんの描写ですね。弟が顔のせいでいじけたりいじめられたり辛いのは痛いほどわかる。でもそのせいで両親はいつも弟の心配をしてばかり。自分のほうを見てくれない。と、こちらもだいぶいじけている。障碍者本人だけでなくその家族も間接的に被害を受けていることをちゃんと押さえています。

ヴィアの章ではヴィアのナレーションで語られ、ヴィアの友人ミランダの章ではミランダのナレーションで語られます。章ごとで語り手が違うんですね。これが面白いと思いました。オギーという主人公を中心に据えた単純な構成だと、差別はいけませんよ、障碍者にはやさしくしましょうという通俗的な映画に堕していた可能性が高い。章ごとに語り手を変えることで物語に奥行きが出ています。

ただ、ヴィアの章がすべてヴィアを主人公にした構成になっているかというとそうではなく、章の最初だけその人の語りで始まりますが、途中から誰目線なのかわからなくなるくらい語りが混乱してしまっています。そこは確かに瑕疵でしょうが、それでも私はこの映画の「構成」の工夫の仕方が気に入りました。


構成の鬼・橋本忍
先日亡くなった橋本忍さんは私の最も嫌いな脚本家でした。弟子の山田洋次監督などいろんな映画人から「構成の鬼」と評されていましたが、私の目には「構成病」にかかった人に思えます。

『砂の器』は普通にうまいと思いましたが(でも好きな映画ではありません)もっと高評価の『切腹』になるともういけません。淀川長治が「頭だけで作った映画」と批判していましたが、まさにその通りと膝を打ったものです。

時間軸をいじりすぎなのです。映画作りとは「時間と空間を組織する」ということに他ならず、脚本家の仕事は特に時間構成を担いますが(空間も少しはね)橋本さんは時間を行ったり来たりすることにこだわりすぎなのです。『生きる』なんかでも。ああいう時間をいじった映画の最たる例がクリストファー・ノーランの『メメント』でしょう。

東陽一監督の講義を受けたとき「構成の勉強をしたかったら『パルプ・フィクション』を見て」と言われました。あれも時間軸をいじっていますが、不思議と気にならない。気にならないどころかやたら面白い。おそらく時間軸をいじることによってプロットを前進させるという「計算」が働いていないからでしょう。だからやっぱりタランティーノは天才だということになりますが、それはともかく。


構成の妙
姉のヴィアをはじめ、ミランダ、ヴィアの恋人のジャスティン、オギーの友人ジャックとサマーなどの描写を通してオギーだけに焦点が当たらないようにしたこの映画の脚本構成は高く評価すべきと思います。さまざまな光が乱反射してオギーの顔を照らす工夫のように感じられました。

オギーがいわれなき迫害を受ける→周囲の手助け→一件落着、という一直線の物語にせず、直線もあれば曲線もあり、アップダウンもある物語構成。こういうのを本当の「構成の妙」というんだと思います。

ただ、それならそれで父親の章、母親の章もあってしかるべきでは? とも思いましたがね。だから結果的には失敗作なのかもしれませんが、私はこの映画の作者たちの野心を高く買いたいと思っています。

満員御礼で不特定多数の人と一緒に映画を見る醍醐味を久しぶりに満喫しましたが、あれだけ入るのなら1日1回の上映でもうしばらく続けられるんじゃないでしょうか。いい映画だし評判もいいのだから興行主にはもう少し考えもらいたいもんです。



『ブリグズビー・ベア』(誰ひとり主人公に牙をむかない)

傑作と評判の高い『ブリグズビー・ベア』を見てきましたが、着想は素晴らしいのに……と残念でなりません。

主人公ジェームスは幼い頃から定期的に届く『ブリグズビー・ベア』という教育ビデオが楽しみでしょうがない日々を送っているが、わけのわからないままに警察に保護され、やさしい両親だと思っていた夫婦が実は誘拐犯で、実の親が待っていることを知ります。
そして『ブリグズビー・ベア』という教育ビデオは誘拐犯夫婦が作った偽物の映画で、主人公が見てきた世界はすべて嘘っぱちだった。だから『ブリグズビー・ベア』はもう続きが見られない。それなら自分で作ろう!

誘拐犯夫婦が作っていたと知ったジェームスは嘆くどころか「それはすごい!」とガッツポーズをするし、続きが見られないと知っても嘆かずに自分で作る息巻く。ここらへんの感情表現や積極的な行動は素晴らしく、なるほど、これは噂にたがわぬ傑作だ。

と、思っていたんですが……


ホームドラマなのに「家族」がきちんと描かれない

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誘拐犯を逮捕した担当刑事グレッグ・キニアはジェームスが『ブリグズビー・ベア』の続きを作るというとめちゃくちゃ積極的に手伝いますが、刑事はそんなに暇じゃないだろうというツッコミ以前に、主人公にとってとても都合のよい人物になってしまっています。

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対して、クレア・デインズ演じるカウンセラーは『ブリグズビー・ベア』なんて嘘っぱちだったんだから続きを作るのなんてやめなさいと諭す。

手伝う人間と反対する人間がいるならいいじゃないかという声が聞こえてきそうですが、それは↓この人たちが担うべき役割でしょう。

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ジェームスの実の両親。
彼らが25年ぶりに帰ってきた息子に対する思いを吐露するシーンがほとんどないのはどういうわけでしょうか。
グレッグ・キニアが押収した小道具をもってきたときも「それは犯人のものだ」と怒りますが、結局それら小道具を家の中に入れることを了承してしまう。なぜ? あそこは断固として反対しなければ。

父親は猛反対するけれど、母親が「あの子にはブリグズビー・ベアしかないのよ」と言って夫婦の間に亀裂が入ったりすると面白かったんじゃないかというか、クレア・デインズの役割を父親が担い、グレッグ・キニアの役割を母親が担えばよかったのでは? 刑事とカウンセラーを絡ませるより、もっと家族の葛藤を描かないとダメでしょう。だってこの映画は「偽物の両親に育てられた男が実の両親のもとに帰って再生するまで」という物語なわけでしょう? なのに家族以外の人物が大きな役割を担いすぎなのです。


ジェームスの作る『ブルグズビー・ベア』について
父親は一度だけ「25年も待ったのに犯人が作っていた偽物の番組に熱中するなんて!」みたいなことを言って激昂しますが、いつの間にやら『ブリグズビー・ベア』作りを手伝っている。

理由は、「見てみたらとてもクールだった」

そりゃないだろうと思いました。いくら面白くても憎き犯人が作っていた作品の続編なのに。
だから、父親はラスト近くまで反対し続けるけれど、ジェームス自身や母親とのやり取りを経て「この子には『ブリグズビー・ベア』しかないんだ。悔しいけど」という悟りの境地に達したとき初めて手伝えたんじゃないでしょうか。

だから、ジェームスの作る『ブリグズビー・ベア』は面白い必要がない。むしろ、つまらないほうがよくないでしょうか? 

面白いから作る・手伝うのではなく、駄作にしかならないと最初からわかっているけど、それでもこの子にはこの作品を作ることしかないから手伝おう、というほうがよかったように思います。

妹も長らくの間、実質的に一人っ子だったはずで、それが兄の出現によってそれまでの生活が掻き乱されているはずなのに、えらくジェームスに対して好意的ですよね。パーティーに誘ったり『ブリグズビー・ベア』作りも両親と同じく熱心に手伝う。パーティーで知り合った友人たちもみんなとても協力的。

脇役の誰一人として主人公に牙をむかない。牙をむきかける瞬間は何度もあったはずなのにスルーしてしまった。もっと毒のあるホームドラマになる可能性があったのに何とも残念です。



『女と男の観覧車』(もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいのでは?)

ウディ・アレンの新作『女と男の観覧車』。

冒頭のコニーアイランドで若い女が練り歩くシーンは明らかにダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』へのオマージュでしたね。
オマージュといえば、サークの50年代メロドラマを現代に蘇らせようとしているのがトッド・ヘインズ。2002年の『エデンより彼方に』がいまだに印象深いですが、そのトッド・ヘインズがマイケル・カーティスの『ミルドレット・ピアース/深夜の銃声』を連続ドラマとしてリメイクしたことはあまり知られていない。あの連ドラに主演したのがまさに『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットでした。
この映画の舞台も50年代だし、ダグラス・サーク→トッド・ヘインズ→ケイト・ウィンスレットという感じでつながっているのですね。


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さて、そのケイト・ウィンスレットのややオーバーアクション気味の芝居が鼻につくこの映画では、前作からアレン組の一員となったヴィットリオ・ストラーロが撮影監督の任についています。巷間ではストラーロの光の捉え方が絶賛されているようですが、私はまったくいいと思いませんでした。

いや、いいと思ったショットもたくさんあったんですよ。

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↑こういうのとか。

↓こういうのも。

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暖色系のアンバーが基調となっているこの映画の良さを表すいいショットですね。

しかし……

初めてケイト・ウィンスレットとジャスティン・ティンバーレイクが愛を交わす場面で、ケイト・ウィンスレットの顔がアンバー一色になり、かと思うとサァーっと寒色系のブルー一色になったりするのがどうにも好きになれません。同じようなライティングが義理の娘ともめる最後のほうのシーンでもありましたが、とにかくダサい。原色に近いくらいの強いフィルターを使って暖色と寒色をまぜこぜにするというのが、何の意図があるのかわからないし、これ見よがしな感じがしてまったく好きになれない。
それに、ケイト・ウィンスレットが登場するシーンとラストシーンで、顔が飛んでしまうくらい強い光を当てていますが、あれもダサい。あんなのストラーロじゃなくても撮れるでしょう。

ヴィットリオ・ストラーロが撮影した映画で私のお気に入りは、

『ディック・トレイシー』
『シェルタリング・スカイ』
『地獄の黙示録』

あたりですが、『女と男の観覧車』のような何の意図も感じられないライティングはなかったですよね。『ディック・トレイシー』は原色たっぷりでしたが、あれは原作のマンガの色をそのまま表現しようという意図があった。でも『女と男の観覧車』には何の意図もありません。ただ「こういう画を撮りたい」という欲望しか感じられない。監督の要望通りに撮っただけでしょうが、しかし、アレンは何ゆえにあのようなダサい画を求めたのか。

私にとって、ウディ・アレン作品の撮影監督といえばカルロ・ディ・パルマです。アレンといえばカルロ・ディ・パルマといってもいいくらい。しかし調べてみると、カルロ・ディ・パルマと組んでいたのは『ハンナとその姉妹』(1986)から『地球は女で回ってる』(1997)までのほんの10年ちょっとだけなんですね。おそらくそこで病に倒れたのでしょう。2004年に亡くなるまで何も撮っていません。

アレンはその後、

スヴェン・ニクヴィスト
ダリウス・コンジ
ヴィルモス・ジグモンド
ハリス・サヴィデス

といった錚々たる名前と一緒に仕事をしていますが、カルロ・ディ・パルマほど相性の合う人とは巡り合えていないようです。

カルロ・ディ・パルマが撮っていた頃はほぼワンシーン・ワンカットでした。アレンは自身が役者でもあるから芝居をとても大事にする。カルロ・ディ・パルマにはワンカットで撮る技術に長けていたからアレンは彼に頼りきりだったと推察します。
ただ、ワンカットで撮るためには美術監督がそのようなセットを組んでくれないといけない。アレンはずっとサント・ロカストという美術監督と組んでいますが、同じ人と組んでいるのになぜワンカットで撮れないセットにOK出したのか、まったくわかりません。

この『女と男の観覧車』はとにかくカットバックがものすごく多かったですよね。でも、イーストウッドみたいにカットバックを自家薬籠中のものにした監督とは違い、アレンは役者の芝居を細切れで見せる監督ではありません。だから編集の呼吸が悪い。イーストウッドならここぞというところでつなぐからため息が出るほど素晴らしいカットバックになるんですが、アレンにはそのような腕がないからどうにも見苦しい。

光や色に執拗にこだわるから役者への演技指導がおろそかになっている気がしました。私はケイト・ウィンスレットの大ファンですが、この映画の彼女のオーバーアクションには辟易させられました。単純に芝居が下手な女優にしか見えませんでした。

もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいと思います。


『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(なぜあんな撮り方を)

話題の映画『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』。うーん、ちょっとよくわからない映画でしたね。


テーマの問題
もちろんメインテーマには賛同します。
だいぶ前に『町山智浩のアメリカの今を知るTV』で紹介されていたときから面白そうだと思っていたし、それに何よりあの「男女同額のギャラ」を求めたベネディクト・カンバーバッチとはぜんぜん違いますから。(そこらへんのお話については→「ベネディクト・カンバーバッチは女性差別主義者かもしれない件」 を参照してください。映画で描かれたテニスの男女間格差についても触れています)




ビリー・ジーン・キングはあくまでも男子と女子のチケットの売り上げが同じなんだから賞金も同じにせよ、と。至極まっとうな要求です。だからベネディクト・カンバーバッチにはまったく賛同できない私ですが、ビリー・ジーン・キングには100%賛同します。

しかし、ビリー・ジーンがレズビアン(というかバイセクシュアル?)なのは事実であるとしても、「性別」のメインテーマと「性的嗜好」のサブテーマがひとつの物語としてうまくリンクしていない気がしました。「男と女のどちらが上か」という問題と、「女を性愛の対象にする女」というマイノリティの問題ってぜんぜん別だと思う。

でもメインテーマそのものには賛同しているので、クライマックスのスティーブ・カレルとの決戦は手に汗握りましたね。結果は知っていても、編集でごまかすような撮り方をせず、ワンラリーをほぼワンショットに収める撮り方には好感がもてました。

しかしながら……


撮り方の問題
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私が「なぜあんな撮り方をしたんだろう」と疑問に思うのは、画像のようなショットですね。

これはエマ・ストーンのクロースアップですが、普通にカメラを寄せて撮っているのではなく、少し離れたところにカメラを置いてズームレンズで寄った撮り方です。すぐ手前の女性の後頭部がピンボケしているからわかります。ズームで寄ると被写界深度が浅くなるので必然的にすぐ手前やすぐ奥のピントがボケてしまう。

この『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』におけるクロースアップは、すべてではありませんが半分はこのようなわざわざカメラを離してズームで寄るという撮り方がされていました。でも、なぜそのような撮り方をするのか少しも理解できませんでした。

もっと普通に撮ればいいのに。ずっとそう思いながら見てましたね。
クライマックスのテニスシーンにはそのようなショットがなかったからよけいに開放感があって面白く見ました。

もしかして、そういう狙い?(笑)


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