アメリカ映画

2019年10月02日

以前、↓こんな遊びをしました。↓
80年代アメリカ映画ベストテン!

『映像のカリスマ』で黒沢清監督がやっていたマニアックな「70年代アメリカ映画ベストテン」をまねてみたんですが、今度は90年代でやってみようと。

何かつい最近、キネ旬誌上で90年代日本映画・外国映画ベストテンというのがあったらしいですが、まだそんなことやってるの、と。

毎年のベストテンもそうですが、いつまで「日本」と「外国」に分けるつもりなのでしょう。映画において国籍が意味をもつとすれば「アメリカ」と「非アメリカ」だけでしょうに。

私が通っていた専門学校の校長は日本の老舗メジャー映画会社の社長さんでしたが「アメリカ映画こそ映画のスタンダード」と言っていました。黒沢さんも「すべての映画はアメリカ映画を目指して作られている」と言っていました。

だからアメリカ映画だけのベストテン。

80年代では広く人気の高い作品も何本か選んでしまったので、今回はそのような愚だけは犯すまいと自分を戒めながら選びました。

以下に当てはまる作品は最初から除外しています。

①いま現在も人気の高い監督、すなわち、イーストウッド、ウディ・アレン、バーホーベン、ジョン・カーペンター、デ・パルマ、スコセッシ、スピルバーグ、キャメロン、ゼメキス、リンチ、クローネンバーグ、アルトマン、タランティーノ、ティム・バートン、ファレリー兄弟などの全作品。

②アカデミー賞や大きな映画祭の賞に絡んだもの、または批評家からの評価が高かったもの、すなわち、『羊たちの沈黙』『JFK』『恋におちたシェイクスピア』『アウト・オブ・サイト』『ブギーナイツ』など。

③公開当時の評価や人気は高くなかったけど、いま現在は高い人気を誇っているもの、すなわち、『シリアル・ママ』『ダークマン』『ブレイド』など。

「もう誰も語らなくなった哀しいアメリカ映画たち」がコンセプトです。

だから逆に、①②に該当するけど、いまではすっかり忘れられた作品は対象にしています。まぁどこまでが対象かはかなり恣意的です。


では、10位から行きましょう。


第10位 『メン・アット・ワーク』(1990、エミリオ・エステベス監督)
Men-AT-Work (1)

エミリオ・エステベスという忘れられた名前を称揚したかったという思いはもちろんありますが、これはとにかく劇場で見てゲラゲラはらわたよじれるほど笑って実に楽しかったので。もうほとんど憶えてませんが、キース・デビッドという名前をこの映画で憶えた記憶があります。まだ映画を見始めたばかりで『ゼイリブ』すら見てませんでしたからね。実に楽しいアメリカ映画らしいアメリカ映画。



第9位 エビータ(1996、アラン・パーカー監督)
ebita (1)

やはり90年代を代表するミュージカルはこれでは? 淀川長治さんが最期のベストテンで1位に推していた『世界中がアイ・ラヴ・ユー』なんかもありますけど、こっちのほうが本格派。やはりアラン・パーカーは音楽映画の人だなと。マドンナが出ているというそれだけで、アントニオ・バンデラスがチェ・ゲバラを演じているというそれだけで不当に低く評価されたのには腹が立ちました。



第8位 デーヴ(1993、アイバン・ライトマン監督)
dave

政治家には無垢で誠実な人こそふさわしいという青臭いメッセージ。でも青臭くない人間が本当は政治なんかに携わっちゃいけないし、青臭くなければ「作品」とは言えない。ニセモノ大統領に補佐官が言う「君のためなら死ねる」という言葉が胸に沁みる現代のファンタジー。
アイバン・ライトマンへの不当に低い評価への異議申し立ての意味もこめて。息子のジェイソンより私は父親アイバン派。ボーイ・ミーツ・ガール映画としても出色の出来映え。



第7位 ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ(1997、バリー・レビンソン監督)
wagthedog

バリー・レビンソンも不当に低く評価されているように思います。『わが心のボルチモア』もよかった。でも、デビッド・マメット&ヒラリー・蜘蛛女・ヘンキンによるブラックな味わいのこちらを。いまや普通のこととなった国家権力によるフェイクニュースを扱っています。「直進する光」というありえない証明設計をした撮影監督ロバート・リチャードソンは私のお気に入り。ダスティン・ホフマンがめちゃ可笑しい。



第6位 ゲット・オン・ザ・バス(1996、スパイク・リー監督)
getonthebus (1)

やっぱりスパイク・リーの最高傑作はこれでしょう。最新作の『ブラック・クランズマン』もよかったけど。『ジャンゴ 繋がれざる者』にも出てきた「黒人を差別する黒人」をバスから追い出す場面は痛快の一語。
黒人だけでなく、ユダヤ人やゲイなど被差別民たちも多数乗り込んでいて、その人間模様がとても豊か。共和党を支持する黒人なんておかしいとか、ぜんぜん知らなかったアメリカの裏事情の勉強にもなりました。



第5位 いとこのビニー(1992、ジョナサン・リン監督)
eabac97d

これはマリサ・トメイがブレイクした作品として。いや、1本の映画としても傑作ですよ。節度のある作劇と古典的な演出が実に好もしい。
でも、やっぱりマリサ・トメイ! 彼女がいなければ90年代のアメリカ映画はとても淋しいものになっていたでしょう。ジョナサン・リンなら『ナンズ・オン・ザ・ラン/走れ! 尼さん』も楽しかった。



第4位 救命士(1999、マーティン・スコセッシ監督)
bringing-out-the-dead

これが例外の1本。スコセッシなのになぜか忘れられてる。もう誰も語る人がいない。脚本はポール・シュレイダー。監督もした『白い刻印』もよかったですが、やはり彼自身の演出によるものよりスコセシッシが撮ったもののほうが好き。
「地獄めぐりの話に新味はないが腹の据わりが違う」と週刊文春シネマチャートで芝山幹郎氏が絶賛していましたがまことにもって同感。このまま忘れさせてなるものか。これまたロバート・リチャードソンによる変テコなライティングが楽しい。(『JFK』はもっとすごいけど)


さて、ここからがベスト3!







第3位 カナディアン・エクスプレス(1990、ピーター・ハイアムズ監督)
narrowmargin1

ジーン・ハックマンの演技力に尽きる。2003年を最後に映画に出ていません。闘病生活をしていると聞いたこともあります。もうスクリーンでは見られないのか。そんな思いとともに選びました。
監督がピーター・ハイアムズで主演がジーン・ハックマンなのに忘れられてる。めちゃんこ面白いのにヒットしなかった。批評家からも無視された。これは何者かによる陰謀なんじゃないかとさえ思います。



第2位 PNDC/エル・パトレイロ(1991、アレックス・コックス監督)
el patrullero

これは正確にはメキシコ映画なんでしょうが、日本・メキシコ・アメリカの合作なので強引に入れてみました。完全に映画界から抹殺されたアレックス・コックスという名前を称揚したかったという思いとともに。
でも、あの長回し、長回し、長回し。もう内容は憶えてませんが、足を怪我した主人公が必死で走る姿を長回しでどこまでも引っ張るあの映像がいまでも鮮烈に瞳の奥に焼きついています。


そして栄えある第1位は……










第1位 ミュート・ウィットネス(1995、アンソニー・ウォラー監督)
mutewitness1

これ、めちゃくちゃ面白いんですけどね。もはや完全に忘れられてしまっています。殺人現場を目撃するも警察には信じてもらえないうえに死体も消えているという古典的な設定ですが、細かい趣向が凝らされていてエンドマークまで息つく暇がない。先日再見しましたがまったく色あせていません。
アンソニー・ウォラーはヒッチコックの再来と言われたみたいですが、あのケレン味たっぷりの演出は正確には「デ・パルマの再来」ですね。この映画のあとジュリー・デルピー主演『ファングルフ 月と心臓』という傑作を撮った以外は鳴かず飛ばず。特に今世紀に入ってからは日本未公開の作品が1本だけ。。。

90年代アメリカ映画から忘れられた最も哀しい名前はアンソニー・ウォラーだ!!!


以上極私的偏愛する90年代の10本でした。

次点として、『壁の中に誰かがいる』『L.A.ストーリー/恋が降る街』『ブレーキ・ダウン』『ディック・トレイシー』『インディアン・ランナー』などを挙げておきます。忘れられた哀しいアメリカ映画はもっと他にもあるような気がするので「これは」と思うものがある方はぜひ教えてください。


また気が向いたときに2000年代のベストテンをやりたいですね。もちろんアメリカ映画だけの。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年09月15日

1996年に製作されてから今日まで新たなファンを獲得し続ける、鬼才デビッド・クローネンバーグ監督による変態映画の決定版『クラッシュ』。めちゃんこ久しぶりに再見して、またぞろ悶絶してしまいました。


crash2

変態じゃない奴が変態である!
私はかねてから「変態じゃない奴が変態である」と唱えています。どういうことかというと、昔懐かしい岸田理論(『ものぐさ精神分析』)によると「人間は本能が壊れた動物」だから、人間の本性は変態だということ。変態こそ人間の真の姿であって「俺は/私は変態じゃない」とのたまう奴こそが真の変態だという逆説。

実は、かつてこの映画を(まだVHSの頃)親父と一緒に見たことがあって、「あー、少しも理解できない。この変態どもはいったいなんだ⁉」と言っていて、そうなんですよ、あなたみたいな人が本当の変態なんですよ、と声に出さずに言ったものです。

私のあばら骨のあたりはかなり皮膚が固くなって色が変わってるんですが、それは、そのあたりを爪でひっかくと肘にピピピと電気が走って得も言われぬ快感があるからなんです。ひっかきすぎて皮膚が固くなってしまったんですね。


crash1

そのピピピという電気はやや痛みに近いものなので、この映画の痛みに快感を覚えるというのはわかる気がするんです。いや、わからない奴こそが変態なのだ!

「そこだけ何で色変わってるんですか? え、マジで⁉ ウッソー! 信じられない。いったいどこまで変態なんですか!」

などと懇切丁寧に説明した挙げ句、嫌がられます。そういう人間にかぎって「自分は変態じゃない」ときっぱり言えるらしい。そういう人間にこの『クラッシュ』の目くるめく陶酔は永久にわからない。

だからこそ私は主張してるんですよ。「変態じゃない奴こそが変態なんだ」と。

変態人間を差別する真の変態人間も嫌いだし、変態映画を毛嫌いする人間も嫌い。そういう人間たちとの闘争が私の人生そのものと言っても過言じゃない。

しかし、事態はそう単純でもないのです。


同じ変態を描いても……
crash3

この『クラッシュ』はピーター・サシツキーの光と影を巧みに捉えた美しい映像も相俟って「芸術映画」という括りをされています。しかもジェームズ・スペイダー(まだこの頃はイケメンですね)、デボラ・カーラ・アンガー、ロザンナ・アークエット、イライアス・コーティーズなどの一癖も二癖もある役者に真面目で思わせぶりな芝居をさせているので、何だかものすごい高尚な映画の衣をまとっています。変態性欲を真面目に描くとその筋からは「芸術」というお墨つきを得られる。

だから『クラッシュ』はまだいいほうなんです。

例えば、連続殺人鬼を描いた映画なら『サイコ』とか『ヘンリー』とかは「これぞ映画芸術の粋だ!」みたいな言われ方をするのに、同じ連続殺人鬼でもジョン・ウォーターズ老師の『シリアル・ママ』みたいにコメディにしちゃうと途端に総スカンを食らっちゃう。

あの映画、私は最初から最後まで笑いどおしだったので4回も見に行ってしまいました。で、母親からオススメ映画を教えてくれと言われたので薦めたんですよ。そしたら帰ってきた母親は「あんなのをどうして薦めるの!」とものすごいお冠。「万人向けだと思ったんだけど」「あんたみたいな若者にはいいんでしょうけど、私らみたいな50代のオバサンには理解できない」と。

私は「歳の問題ではない」と思った。実際、つい最近60代の人に薦めたけど面白がってましたもん。

結局は「変態じゃない奴が変態である」というまっとうな人間精神をもった人間なら楽しめるんですよ。いくら若くても「自分は変態じゃない」と凝り固まってる人間には永久にわからない。


一番難しい人たち
しかし世の中には『クラッシュ』も『シリアル・ママ』も楽しめるけど「自分だけは変態じゃない」と豪語する輩もいて、うーん、そういう人間が一番難しいんですよね。フィクションの変態は認めるけどリアルな変態は認めない、みたいな。

変態映画をともに楽しんで「同志」だとばかり思っていたら「自分だけは変態じゃない」と言い出す。

あれよりひどい裏切り行為はこの世にない。


関連記事
『スキャナーズ』(顔と芝居に賭けたクローネンバーグ)







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年09月06日

マリサ・トメイがアカデミー賞を受けた驚愕の瞬間がいまだに忘れられない『いとこのビニー』(1992)を再見しました。

四半世紀以上前の初見時は「まあまあかな」という程度でしたが、今日見直してみて「傑作!」と思いました。(以下ネタバレあります)

04326

脚本とキャスティング
この映画、何といっても脚本がいいですよね。正確には脚本とキャスティングのコラボレーションかな。

まず、ジョー・ペシが少しも弁護士に見えない。しかも、大学を出て6年かけて司法試験に合格し、初めての法廷、ということは、え、まだ30前後? 少しもそんなふうに見えない。ちなみにこのときのジョー・ペシの実年齢は49歳(!!!)

マリサ・トメイはこの男のどこに惚れたんだろう、と見ていると、何だかんだ言ってかなり一生懸命ですよね。嫌味な判事に借りたアラバマ州の法律についての分厚い本を深夜3時まで読んでいたり。マリサ・トメイもちゃんとそれにつきあってあげる。先に寝たりしない。

事件解決のオーラスで「あなたはこの先も誰かの力を借りないと弁護士やっていけないのよ! どうせそういう男なのよ!」とマリサ・トメイが吼えるシーンがありますが、そういう「放っておけない」ところに惚れたんですよね。だから、主人公とその恋人のキャラクター設定と描写に関して、つまり脚本に関しては文句なしにいい仕事をしていると思います。

ただ、この主人公を実年齢49歳のジョー・ペシが演じる。その時点で嘘臭い。でも、その嘘を嘘と感じさせないジョー・ペシの役者としての柄といいますか、この2年前には『ホーム・アローン』でコメディをやっていたし、『グッドフェローズ』だってギャング映画だけど彼の役どころはかなりユーモラスなものでした。恐くもあったけど。


20160112184813

そんなジョー・ペシが嫌味な判事(いい顔を選んでます)にほぼ毎回、法廷侮辱罪で監獄送りにされながらも一生懸命健気に頑張る姿を見て、観客は彼のことを応援するようになります。

そして、この粗野でがさつで少しも弁護士らしくない男が難事件を解決してしまうラストに思わずこちらも「ヨッシャ!」とガッツポーズしてしまうんですね。映画が終わったときには主人公が30前後の設定とかそんなことはどうでもよくなっています。

だから、よくできた脚本と、マイナス面もあるけどプラス面のほうが大きかったジョー・ペシのキャスティングが勝因かと。

でも、もっと大きな勝因は「演出」ではないでしょうか。


演出
yjimage

ラルフ・マッチオ、いまはどこでどうしているの? と嘆きたくなりますが、それはともかく、この映画は、古典的ハリウッド映画でよくあった、画像のようなツーショット、スリーショットがとても多いのが特徴です。

判事に叱られているジョー・ペシと彼を心配げに見るラルフ・マッチオを同時に画面に収める。いまのアメリカ映画なら二人を個別に撮って編集でつないで見せる演出が多い。そうすると、ひとつの画面に焦点がひとつしかない、ということになってしまいます。


My-Cousin-Vinny

これは最後の勝った場面ですが、手前の二人と奥の判事と合わせて3つの焦点があります。ワンショット内の情報量が多いのです。

この題材で119分は長いような気がしないでもない。でも、こういうまっとうな演出手法をとったからこそ2時間以内に収まったとも言える。

逆に言えば、いまのアメリカ映画はワンショット内の情報量が少ないから無駄にカットを重ねねばならず、自然と上映時間は長くなる。

いまの観客はおそらく映像を読む力が衰えています。上の画像の場面で言うなら、ジョー・ペシ、マリサ・トメイ、そして判事。3人の表情を数秒で捉えないといけない。それができない客が増えてしまったから情報量の少ないショットをよけいに積み重ねないといけなくなり、上映時間は長くなるばかり……という悪循環に陥っています。

というわけで、古典的ハリウッド映画の作法に則った『いとこのビニー』は正真正銘の傑作と言いたいのです。


tumblr_o2xhw481CO1sec0ywo1_500

それにつけてもマリサ・トメイ。美しい。











  • このエントリーをはてなブックマークに追加